第三話 鼓草[一]

 ――この世はね、不条理で不平等なんです。

 そう教えてくれたのは、誰だっただろう?


 昔のことは頭から消えかかりはじめているけれど、たしか母親の好きだったたんぽぽ――鼓草ツヅミグサから名付けられて、ツツミと呼ばれていた気がする。

 物心のついたころから、北陸の港町にある大きな屋敷の片隅にいた。

 終戦間近で招集された父親は、終戦後、帽子と靴になって戻ってきた。

 幼いツツミを連れた母親は必死に仕事を求め、点々と場所を変えた。使用人としてやっと落ち着けたのが、桐嶋きりしま家というもとは領主筋の名家であった。

 当主は七十歳を超えた老婆だったが、白髪をきっちりと結い、常に着物姿だった。

 厳格な当主で他人に厳しく、小屋のような平屋に住まう使用人たちは、この女当主をいつも恐れていた。

 子連れで住み込んでいたのはツツミの母親だけだったので、どこか肩身の狭い思いをしていたようだ。母親はことあるごとに、ツツミに強く言い聞かせた。


 ――いい子だから、母屋に入ったり敷地をうろうろしてはいけないよ。

 ――大きな声を出したり、泣いてもいけない。奥様に嫌われたら、母さんもツツミもお腹を空かせることになってしまうから。いいね?


 うん。わかった。その言いつけを、ツツミはちゃんと守った。

 ものわかりのいいおとなしい子だとわかると、ほかの使用人たちもかわいがってくれるようになる。いつしかツツミ自身、学校に通うことのないまま、自然に使用人の仲間入りを果たすようになっていた。

 学校は義務となっていたものの、当時は事情によって通えない子どもも多かった。ツツミもそんな子どもの一人だったのである。


 九歳のとき、ツツミの母親は肺炎にかかり、数日の高熱ののちに他界した。行くあてのなくなったツツミは、大人たちの中でさらに一生懸命働いた。


 ――嫌われないように。好かれるように。ここから追い出されないように。


 そのころから、使用人をはじめ屋敷に出入りする血縁者も、食材や雑貨類を売りにくる御用聞きや庭師さえ、全員が女性であることにツツミは気づいた。でも、お金持ちとはそういうものなのだろうと思って、たいして気にはしなかった。

 いつも笑顔で言いつけを守り、重いものもがんばって持った。明るくけなげに働くツツミを、大人たちはいっそうかわいがってくれた。

 ずっと、そんな日々が続くと思っていた。こうして屋敷に奉公し、いつか静かに老いていく。ほかの世界を知らなかったから、ツツミにとってはそれが当たり前の運命だったのだ。

 けれど、ツツミが十歳になった小春日和の午後。小さな変化が訪れる。

 庭の草むしりをしていたツツミは、門から入ってきた女当主に気づき、ほっかむりをしていた手ぬぐいを取って立ち、頭を下げた。

 そんなツツミを無視するように、当主は屋敷に向かっていく。そのうしろに続き、着物姿の壮年の女性――当主の侍女と、彼女に手を引かれた少女が姿を見せた。

(……わ。動くお人形さんだ)

 ツツミは上目遣いで盗み見て、自分よりも少しお姉さんの少女に見とれた。おかっぱ髪に藤下がりの髪飾りをつけており、歩くたびにそれが揺れる。淡い藤色の着物がよく似合っていて、とにかくきれいだ。ツツミはまばたきも忘れてしまった。

 そんなツツミの視線に気づいたらしく、少女がこちらを向く。

 長いまつげに、大きな目。ツツミは驚き、とっさにうつむいた。

 その夜、使用人たちのおしゃべりによって、女当主の遠縁の子だと知った。生まれつき身体が弱く、大きな病院のあるこちらに越してきたのだそうだ。

(あのきれいな子、今日からここに暮らすんだ)

 ツツミは布団に潜りながら、心が浮き立つのを感じていた。

 たとえ、もうお目にかかれる機会などなくても、同じ敷地内にいられることが嬉しかったから。



 * * *



 朝早く起きて水を汲み、井戸と勝手口を何度も往復する。

 食事の支度を手伝ったのち、洗濯にとりかかる。裏庭に洗濯物を干し終えたら、休む間もなく昼食の準備だ。

 その日もいつものように、慌ただしく勝手口に行こうとした、そのときだった。

「――あっ」

 干された洗濯物の奥から、か細い声がした。誰だろうとツツミが向かうと、そこにいたのは女当主の遠縁の少女である。

 ツツミを見ると、気まずそうに眉を下げた。

「き……きれいな蝶がいたものだから、ここまで追いかけてしまった。そうしたら、なにかを……踏んでしまったみたいな感じがして」

 震えている。ツツミはとっさに、使用人らしく告げた。

「わ、わたしが見てみます」

 そう言ってしゃがみ、少女に右足を上げてもらった――直後。

「――わっ」

 少女があとずさる。草履の底から、大きな蜘蛛が這い出たからだ。柔らかい土にめりこんで助かったらしい。とはいえ、気持ちのいいものではない。少女は固まり、苦い顔つきで蜘蛛を見る。

「蜘蛛は嫌い」

 古い使用人部屋で暮らしているツツミは、どんな虫にも慣れていた。

「すぐに追い払います。さ、蜘蛛さん、こっちにお行き。ほら、そっちじゃなくてこっち、こっちよ?」

 ツツミがつんつんと指で行き先をしめすと、蜘蛛はおずおずとその場から去っていった。

「……ありがとう。あなた、優しいんだね」

 ツツミの頬が赤くなる。

「蜘蛛、嫌いじゃないの? 気味が悪くない?」

 ツツミは微笑んだ。

「昔からよく見てるから、平気です」

 それに、みんなに嫌われてかわいそう。そちらが本音だが、なんとなく言わないでおく。と、どこからともなく「お嬢さま」と呼ぶ声がする。少女を探しているらしい。

美津和みつわ……おばあさまの侍女だ。お勉強の時間だから、行かなくちゃ」

 見送るため、ツツミが頭を下げようとした、矢先。

「わたしは青湖せいこ。あなたは?」

「ツツミです」

 答えると、青湖は帯に指を入れ、小さな折り鶴を取り出した。

「これ、さっき折ったの。いつもより上手にできたから持っていたのだけれど、蜘蛛を追い払ってくれたお礼に、ツツミにあげる」

「え?」

「手を出して」

 おずおずと差し出した小さな両手に、青湖は千代紙の折り鶴をのせてくれた。

 愛らしい紅白梅柄の鶴が、ツツミの手の中におさまる。

「――ツツミにたくさん、いいことがありますように」

 青湖はふわりと微笑み、そう言い残して立ち去った。

 残されたツツミは、まるで夢みたいな気持ちで鶴を見つめる。青湖が見せてくれた笑顔と美しい言葉を、胸いっぱいにかみしめた。

 嬉しくて嬉しくて、ぎゅっと両手でそれを包む。

(青湖様にも、どうかいいことがたくさんありますように――)

 お守りのように帯に差し入れて、大切に仕舞ったのだった。


 それからも、ツツミはときおり青湖を見かけた。

 近づくことも話すこともなかったけれど、目があえば必ず微笑みあった。たったそれだけの交流で、季節はどんどん過ぎていく。

 けれど、いつからか青湖の姿が、敷地内からはたと消える。

 母屋の掃除を許されている使用人も、最近見かけないと話す。きっと自分たちの知らぬ間に、療養を終えて帰ったのだろうとのことだ。

 残念だったけれど、ツツミにはどうすることもできない。少し色あせてきた折り鶴を慰めにして、ツツミは自分に言い聞かせた。

(誰もいなかった、前みたいに戻るだけ)

 そう。だから、なんでもない。母さんを亡くしたときみたいに、いつか慣れるもの。そのことを、わたしは知ってる。


 知ってる。大丈夫。知ってるもの――。


「――おまえ」

 ツツミが洗濯物を干していた、真夏の午後。突然呼ばれて振り返ると、日傘をさした女当主が立っていた。

「いくつになった?」

 はじめて話しかけられた。びっくりしながらツツミは答える。

「十二歳です」

 庭先にはひまわりが咲き誇り、空は明るく真っ青で、蝉の声がしていた。それなのに、女当主の顔は日傘に隠れて影になっており、どこか寒々しくて怖かった。

「おいで。新しい仕事をやろう」

「は、はい。ただいままいります」

 ツツミは女当主のうしろを歩き、はじめて母屋にあがった。

 庭園の見える縁側を歩き、廊下を渡る。突きあたりに洋風のドアがあり、当主はそこに鍵を差し入れた。

(どこに行くんだろう)

 ドアの奥も、廊下だった。その奥へ奥へと、当主は歩く。ここはきっと、母屋の掃除をする使用人たちも知らないところだ。そう直感する。

 小窓だけの薄暗い廊下を曲がった瞬間、外の樹木が日差しを遮る涼し気な縁側に出た。どうやら囲いで目隠しをされた、中庭付きの離れに着いたらしい。

 障子扉でふさがれた部屋の前で、女当主は立ち止まる。その骨ばった手が扉を開けた瞬間、ツツミは目を見張って息をのんだ。

(――あっ!)

 和室の真ん中に敷かれた布団。そこに、目を閉じた青湖が横たわっていたからだ。

(帰ったんじゃなくて、ここにいたの……?)

 髪が伸びている。頬は痩せこけ、愛らしかった面影も消えかかっていた。

 驚くツツミに、当主は言った。

「十四歳の誕生日を過ぎてすぐ、ああして目覚めなくなった。おまえの新しい仕事は、あの子の代わりにご飯を食べることだ」

「えっ?」

 困惑のあまり聞き返す。それにもかまわず、当主は続ける。

「朝、昼、おやつ、夕餉ゆうげ。それらの食事を、あの子のそばで食べる。それが、おまえの新しい仕事だよ」

 ツツミは戸惑う。いくら無学でも、それがおかしなことくらいわかるからだ。

「お、奥様。わたしが食べても、青湖様のお腹はいっぱいにならないと思います……」

 当主は顔色ひとつ変えなかった。

「いいや。あの子のお腹はそれでいっぱいになる。いつかあの子が目覚めて起き上がり、元気に庭を駆けまわれるようになるまで、おまえはそれを続けるんだ」

 わけがわからなかったが、ツツミに断る権利などない。

「……わ、わかりました」

「ほかの使用人には、おまえを別のところに奉公に行かせたと言っておく。子連れで迷ったけれど、おまえの母親を雇って正解だった。そのおかげで、身寄りのない子を探す手間がはぶけたからね」

 当主はあっさりとそう言い捨て、それきり口を閉ざしたのだった。



 * * *



 ツツミの部屋が、小綺麗な離れの屋根裏に移った。

 広さは四帖ほどで南向きの小窓もあり、新しい布団と文机まであった。

 決められた時間に下におりると、眠っている青湖の横に、美津和が膳を置く。ツツミはそれを前にして座り、美津和に見張られながら最後まで食べた。

 食事を作っているのは、ツツミもよく知っている使用人だ。だから、どれもおいしかった。自分たちのまかない飯は野菜だらけの雑炊だったけれど、ふっくらとした白米に具材たっぷりの味噌汁。漬物に魚やお肉なんて、ツツミにとっては信じられないほどのごちそうだ。おやつだって、おだんごにおしるこ、いももち、ときには外国製のものも登場した。だから、ツツミはいつもきれいに平らげた。

 ただし、なぜかいつも鉄のような残り香と、砂のような違和感が舌に残ったので、必ず白湯を二杯いただいて流し込んだ。

 食事をする以外、ほかの仕事は免除された。その代わり、食事以外はけっして部屋を出てはいけないと命じられた。

 自由に動けないのは辛かったけれど、逃げようとは思わなかった。

 どういう道理なのかは知らないけれど、自分のしていることは青湖のためになるのだと、心の底から信じたからだ。

 食べては屋根裏に戻り、することもないのでごろごろする。

 そんな暮らしなのだから、太って当然である。けれど、日を追うごとになぜかツツミは痩せていった。それとともに髪が抜け、いつからか恐ろしい夢を見るようになった。

 それは、真っ暗闇の穴蔵にいる夢である。

 見上げれば冴え冴えとした三日月が浮かんでいて、ツツミは必死に手をのばす。すると、有象無象の蟲が降り落ちてくる。びっくりしたツツミが頭を抱えてしゃがみ込むと、どこからともなく声がした。


 ――呪ってやる。


 目覚めると、大きな大蛇の顔が間近だ。


 ――呪ってやる。


 そこで目が覚める。必ず、髪がまた一束抜けている。

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