第二話 紙屋の三代目

 東京、下町。

 写真館や劇場が建ち並ぶ賑やかな通りから路地に入れば、瓦屋根の平屋がぎゅうぎゅうしく密集する。

 そのなかの一件、くすのき染工せんこうは、和紙を千代紙に染める小さな染工場そめこうばだ。

 明治時代から続くこの工場は、一時期は十数人の職人を抱えていたが、震災で倒壊した後、乱立した大手に仕事を取られて事業縮小を余儀なくされた。戦争もありいったんは閉鎖の憂き目にあったのだが、戦後、先代の二代目が尽力して盛り返した。

 母屋に隣接した作業場で千代紙を仕上げ、長年懇意にしている土産屋や文具屋に卸すほかは、軒先の小さな店で売る。優美で繊細、加えてモダンな柄の千代紙は評判がよく、大手百貨店からの注文もあるのだが断っていた。

 なにしろ従業員が、三代目の青年と高齢の職人の二人しかいないからである。

 大量の注文を受けたとて、追いつかないのだ。

「いやあ。わざわざ来ていただいてすまんのですが、うちの三代目は大手さんからの注文をすべて断っておりますからなあ」

 今日も今日とて、作業場の戸口に生真面目そうな若い営業マンが立ち、名刺を差し出しながら「そこをなんとか」と頭を下げる。その名刺を、高齢の職人は困り果てた笑みで受け取った。

 小柄な六十代後半。じょうという名なので、ジョーと海外風に呼ばれている。

 半袖シャツにズボンという軽装で、顔料のついた前掛けをつけている。丸眼鏡を鼻にひっかけており、笑うといっきに目尻が下がった。彫りの深い顔立ちで、若かりしころのハンサムぶりがうかがえる。

 歩くとき、右足を少し引きずる。先代のときから使用人兼職人として住み込んでいるが、それ以前はダンスホールのジャズバンドでドラムを叩いていたらしい。

「どうした、ジョーさん?」

 黒い作務衣姿の青年が、作業場の奥から姿を見せた。

 襟足と耳周りをすっきりと刈った黒髪で、長い前髪は頭に巻いた手ぬぐいにおさまっている。きりりとした眉と瞳が印象的な絶世の美青年で、常に右端があがり気味の唇がどことなく色っぽい。

 彼が、この楠染工――通称、紙屋の三代目。

 この三代目見たさに、軒先に通う女性陣は途切れることがなかった。

 遊び上手のたおやかな歌舞伎役者といったたたずまいも、乙女心をくすぐるらしい。けれどひとたび口を開けば、その趣は気さくで粋な下町の職人に様変わりする。その温度差もまた、女性たちにはたまらないのである。

 ようするに、女性たちの人気者。そんな人気者の三代目である霧衣に、ジョーが言った。

「おお、三代目。吉野百貨店さんがいらしております」

 霧衣に名刺を差し出しつつ、作業場の外に突っ立っている男性をしめす。名刺を見た霧衣は、戸口に向かった。

「外もなんですから、どうぞ中へ」

 一応、礼儀は心得ている。いつもの語調ではなく、都会らしい言葉遣いにすぐさま変えた。

「えっ……と、い、いえ……僕はここで」

 営業マンが躊躇する。新品らしい靴と鞄とスーツ姿で、顔料を扱う作業場に足を踏み入れるのが怖いのだ。霧衣とジョーは、いまだかつて作業場に入った営業マンを見たことがなかった。

 霧衣は戸口に立ち、営業マンに言った。

「すみません。大きなところからの注文は全部断ってるんです。見てのとおり、俺と彼だけでなんとかまわしてる状態なので」

「で、ですが……たとえば今後、人を増やすとか、いっそ機械などを導入するご予定はないのですか? ほかの工場ではちらほらと出回っていますが……」

「ないですね。うちはこのままでなくちゃいけないんで。名刺をいただいて恐縮ですが、もったいないんでお返しします」

 即答して名刺を返す。


 ――このままでなくちゃいけない。


 その返答にきょとんとした営業マンは、返された自分の名刺と、それを差し出す霧衣の手を見てぎょっとした。両手の甲から手首、腕と、袖口からのぞく部位のすべてに彫りがあったからである。

「しょ……承知しました。た、大変失礼いたしました!」

 自分の名刺を受け取って一礼し、逃げるように去った。

「おやおや、ずいぶん根性がありませんなあ」

 ジョーの言葉に、霧衣は笑った。

「いままでの中で一番早く帰っちまったな」

 外に出た霧衣は、ズボンのポケットから煙草を出してくわえる。

 マッチで火をつけて煙をくゆらしながら、顔料に染まった自分の指先を眺めた。そうして、視線を両の手の甲へと落としていく。

 入れたくて入れたわけではない、勝手に身体に入ってしまった〝双子の龍神〟の左右の尾を、しみじみと見つめる。たしかに、見れは見るほど和彫りっぽい。

 もちろん、違うのだが。

「しかし、近ごろはあっちもこっちも機械ですなあ」

 ジョーが隣に立ち、言った。

「そうだな。便利なのはいいがその新しいもののおかげで、時代から取り残される〝さびしいものども〟も増えそうだ」

「また、お忙しくなりそうですな」

 霧衣は苦笑する。

「久しく平和だ。いまさらそいつは避けたいね」

 冗談交じりで息をついたとき、母屋の電話が鳴り響く。「私が出ます」とジョーが向かったそのすぐあと、低い囲いから二人組の女性が顔を見せた。

「あら、三代目! 今日もいい男ねえ!」

「ほんと、ほんと! ねえ、千代紙ちょうだいな」

 派手な化粧とワンピース姿の二人は、夜の店で働いているお得意様だ。千代紙を封筒にして手紙やメモを仕舞ったり、ちょっとした贈り物を包んだりと、客への心遣いに使ってくれている。

 しゃがんだ霧衣は、地面に置いてある灰皿に吸い殻を捨てつつ、女性たちに頭を下げた。

ねえさんがた、毎度どうも。いま軒先にまわるよ」

「ねえ、三代目。一度でいいからお店にいらっしゃいな。ほんと、おまえさんならなにもかも全部タダにしてあげるからさ」

「そうよそうよ、いらっしゃいよ! しこたまお酒を飲ませてあげるから!」

 霧衣は苦い笑みを見せた。

「お誘いはありがたいが、もうずっと酒は飲んでないんだ」

「あら、そうなの?」

「どうしてよ?」

「腕と勘が鈍るといけないんでね」

 職人ねえ! と、女性たちはうっとりした。そういう意味でもあるし、違う意味でもあるのだが、霧衣は黙って微笑むだけにとどめておく。

「じゃあ、お茶でいいからさ、女はどう?」

「申し訳ないが、そいつもこりごりだ」

 人ならざるもので――とは、言わないでおく。

「いけずなこと言っちゃって、やあねえ!」

「まったく、誰の口説きにも落ちないんだもの。おまえさんを射止められる女がいたら、お目にかかりたいわ!」

「そうだよな。実は俺もだ」

「のらりくらりと、なに言っちゃってんだか!」

 女性の鋭い突っ込みに、霧衣は目を細めて笑った。直後、息をきらせたジョーが戻る。

「三代目。お電話、三好くんからでございました」

「泉貴んとこの坊ちゃんバイト?」

 うなずいたジョーが耳打ちしてくる。それを聞いた霧衣は眉を寄せ、笑みを消した。

「姉さんがた、千代紙はジョーさんから買ってくれ」

 えー? という女性陣の声に背を向けて、慌ただしく作業場に戻る。

 下駄を脱いで廊下にあがり、母屋に向かう。

 頭に巻いた手ぬぐいを取ると、前髪がはらりと揺れた。

 神棚に手を合わせ、龍を模した家紋の法被を羽織る。そして、手のひらにのるほどの小さな千代紙の束を、腰帯にくくりつけた。小さな鈴が、チリンと鳴る。

 正方形の束の図版は、花鳥風月さまざまだ。それらすべての裏には、霧衣の血を朱肉とした龍の家紋が刻印されていた。


 これは、〝この世ならざるもの〟を包み、天に贈るためのもの。

 息を吹きかけて大きくし、風呂敷に変えて使う――霧衣だけの特別な千代紙である。

 

 中庭に立った霧衣は、左手の陽龍と右手の陰龍を呼び出すため、両手を握りあわせた。

「とうとう出番だ。まだまだ眠っていたいだろうが、すまないな。起きてくれ」

 彫りが浮き上がり、肌から離れる。背中で眠っていた双子の龍が、霧衣のうなじから顔を出す。

 襟元から音もなくすり抜けると、どこか楽しげに霧衣の周囲を舞った。

「――〝包み〟の時間だ。一緒に行こう」

 霧衣の言葉に、双子の龍はのびのびと身体をうねらせる。霧衣の足先から頭頂へと渦を巻くようにのぼっていくと、やがて霧のように空気にとけた。

 そこに、霧衣の姿もすでにない。

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