鼓草ノ章
第一話 蔵
――蠱毒[こどく]
容器内に百の虫を入れ、残りの一匹になるまで共食いさせる。この王者をすりつぶして毒とし、呪う相手の飲食に用いる。もしくは王者を神霊として祀り、願掛けのように用いる呪法もある。この場合どんな願いも叶うが、その願いが身の丈にあわぬものであればあるほど、いずれそれに比例した報いを必ず受ける。
* * *
昭和三十五年、東京。春。
戦後から復興した都会に、華々しい東京タワーがそびえ立つ。
続々と姿をあらわすビル群の下では、のぼり調子の景気を謳歌する者たちで賑わっていた。
桜が散りはじめたとある午後、かつては武家屋敷があったという高級住宅街で、一人の男が車をおりた。
年のころは、二十代後半。黒縁眼鏡をかけており、仕立てのよい三つ揃えのスーツ姿で、中折れ帽子をかぶっている。
人好きのする柔和な顔立ちのため、気楽な格好だと学生に見間違えられることも多い。本人にとってはそれが最大のコンプレックスで、なるべく年相応な印象を与えられるよう、身なりには人一倍気を使っている。そのせいで、必要がないのに度のない眼鏡までかける有様である。
その眼鏡の奥の瞳が、焼け残った門構えをとらえた瞬間、輝いた。と、車が少し先の路肩で停まる。運転席からおりた青年が、足早に向かってきた。
「ここさ勝手に入っていんですか、
泉貴骨董店の運転手兼雑用係の青年が、東北訛りのイントネーションで訊ねてきた。
白シャツとサスペンダー付きのズボンという出で立ちの彼は、青森の裕福な商家の末っ子。銀幕スターを連想させる美男子なのだが、よく笑うおおらかな性格と愛らしい語調のおかげで、どことなく三枚目風の立ち位置に落ち着いている。
帝国大学を二浪中。三ヶ月ほど前、スリに財布を盗まれて金欠となり、本屋でお腹を空かせて倒れたところに出くわしてしまった。免許を持っているとのことだったので、うっかり拾って雇ったのがきっかけだ。
「近所の子らの冒険遊戯に使われているくらいだ。蔵の鍵を持っている
泉貴はそう言って、焦げ跡が痛々しい門扉をくぐった。
立派だったであろう日本家屋はおろか、庭園や池すら跡形もない。
「……うわあ。やっぱりほとんど焼けちゃってますねえ」
火の不始末による火事のことは、ラジオと新聞で知っている。女と賭博で遊べる非合法の店や、貸金業を手広く営んでいた七十代の当主と親族を筆頭に、屋敷に住まう者全員が犠牲になったらしい。
ただし、不自然に焼け残っている場所があった。
屋敷の跡地に隣接している、石造りの蔵である。
「あすこだけずいぶんきれいですね」
「きっと風向きで救われたんだろう」
とはいえ、うっすらとした焦げ跡すら見られないのはどうだろう? 泉貴はかすかに眉を寄せる。すると、三好が言った。
「週刊誌を立ち読みしたとき、火事の前に全員が殺しあったんじゃないかって噂の記事がありました。ほんとかはわからないですけど、その……金銭がらみとかなんとか」
「知人の新聞記者も似たようなことを話していたよ。もちろん、きみの言うとおり噂にすぎないらしいけれどね」
真実は闇の中だが、その可能性は否定できないと泉貴は思う。
当主自身、戦後の闇市から成り上がったヤクザ者。血筋で真っ当な者たちは離縁、失踪しているというから、残った者らの終焉となれば納得もいく。
「ここの当主、すげえ運のいい人だったみたいですよ?」
「うん。そうらしいね」
数年前から突然頭角をあらわした男の運は、まわりから見てもあからさまにつきまくっていたらしい。博打から投資まで、やることなすことのすべてがうまくまわり、財産も資産も、そして手下も面白いように増えていったそうだ。
それに比例するように、戦前から界隈を仕切っていた敵対する同業者たちは事故死、突然死と不慮の死を遂げて数を減らし、あれよという間に裏社会の王者となったことは、顔見知りの警察からも聞いていた。
(その最期が、火事での全滅か)
勝手な憶測にすぎないが、おそらくはささいなことでの内部分裂が発端だろう。
不謹慎ながら、どうしても思ってしまう。
(身の丈にあわない運のツケが、とうとうまわったってことかもしれないな)
泉貴は息をつく。
「噂は噂にすぎないけれど、火のないところに煙は立たないからね。まあ、僕たちには関係のないことだ。とにかく、仕事を終わらせよう」
「はい。けど……もしも家ん中でみんなで殺しあったってのがほんとなら、その……まるで
泉貴は足を止め、三好を見る。
「古い呪法だ。きみ、よく知ってるね」
三好は頭をかいて苦笑する。
「ガキのころに悪さをすると、俺のばーさんによく脅されたんです。蠱毒の中に押し込むぞって」
「それは恐怖だ」
「恐怖なんてもんじゃないですよ!」
泉貴は笑い、素直に感心する。
「きみのおばあさんも、よく知ってたね」
「昔はそういうことをする
「へえ、興味深いな」
全員で殺しあうとは、たしかに蠱毒のようだ。もっとも、ここの王者は不在だが。
「さて、仕事だ」
泉貴は上着の内ポケットから鍵を出し、三好とともに蔵に入った。
大金を手にした無知な成金を騙す一番の方法は、適当な絵画や骨董を高く売りつけることだ。ごくまれに本物が紛れている場合もあるが、ほとんどは二束三文のガラクタであることが多い。
泉貴はあまり期待せず、扉を開放したまま、埃っぽい蔵内をざっと値踏みした。
火事から
屋敷と土地の名義は、いつかなにかがあったときのためと、弁護士が内密で所持していた遺言のとおり、当主の若い愛人に渡った。しかし、縁起が悪いと迷惑がった愛人は、蔵の中身すら見ず不動産屋に押し付けたのである。
その不動産屋からの依頼で、泉貴はいま蔵にいる。
いわく付きになったとはいえ、値下げすれば売れるであろう一等地。焼け残りに運良く金目のものがあれば、蔵をほどく手数料に含めたいというのが不動産屋の目論見だ。
蔵におさまっている物の数は、意外に少なかった。お気に入りは屋敷に飾るか、使っていたと思われる。ということは、ここにあるのは残り物。ますますガラクタ色が濃厚になってきた。
「なんだか手つかずみたいですね。警察、ここは調べなかったんですかね?」
「全員が炎にのまれて、誰が被害者で誰が加害者かも調べようがないからね。ざっと見聞して終えたんだろう」
漆塗りの家具、木箱に入った骨董類、掛け軸、壺。立派な額縁の油絵に、彫像、置物。迷うほど精密な品に出会えないまま、あっけなく査定が済んでいく。
「漆塗りの家具はひとまず全部残そう。三好くん、リストにしてくれるかい?」
「わかりました」
「ほかは……まいったな。どれも粗雑な安物らしい」
泉貴はため息をつきつつ、三好とともに奥に向かう。丸められた絨毯類が積んである。
「本物のペルシャ絨毯が、せめてこの中にあることを祈ろう」
二人がかりで絨毯類の小山を崩す。そうして一番下を持ち上げた、そのときだ。
不自然に色の違う正方形の床板が、その下に隠れていた。しかも、二箇所の金具で固定され、鉄製のアオリ止めまで付いている。三好も気づいた。
「うわ、なんですかねこりゃ」
「ほう? 隠し戸だね」
もしやここに、極上のお宝を仕舞っている?
(……と思い込んでいるガラクタの可能性も、なくはないか)
泉貴は苦く笑み、アオリ止めに手をかけた。
板床を持ち上げた瞬間、隙間から薄暗い冷気が走った気がしてゾッとする。無数の虫が身体を駆け抜けたような錯覚におちいり、震え、思わず板床を戻してしまった。
三好も同じらしい。青ざめた顔で泉貴を見た。
「な、なんですかね、いまの。なんだか気味の悪りい寒気が……」
「うん」
禍々しい悪寒に躊躇する。が、恐怖よりも好奇心が勝った。
(――見てみたい。いや、見なくては)
「不可思議なことは言いたくないけれど、事実、物にはいろんな念が宿る。とくに古い物には歴史と
「念の棲家、ですか?」
「そう。善き念が物に宿れば、お守りに。悪しき念が宿れば、それは魔となり呪物となる。そうしてときに、持ち主の運命をも左右する。信じがたいかもしれないけれど、僕は何度もそういった場面に遭遇している。きっときみも、これから出くわすかもしれない。それも骨董の面白さだし、魅力の一つだ。しかし……」
「しかし?」
「この中にあるものは、かなり禍々しい予感がする。こんな感覚は、僕もさすがにお初だよ」
顔を見合わせ、意を決するように目配せする。
「よし、開けよう」
同時にうなずき、板床を持ち開ける。二人は驚いた。
「――か、階段!?」
三好が声を上げた。
「てっきり、ただの物入れだと思ったのに」
「僕もだ」
「地下室……ですよね? お、俺……見てきましょうか?」
声が震えている。泉貴は若いアルバイトを思いやった。いや、それよりもこの目で見たい衝動が強い。
「僕が行くよ。三好くん、そこのランタンを取ってくれるかい」
「は、はい」
泉貴がマッチでランタンを灯す。
「きみはここで待っててくれ」
「わかりました。なんかあったら大声で呼んでくださいよ?」
「もちろんそうするよ」
不安げな三好を残し、石造りの階段をおりた。
鼻につくカビと湿気の匂い。それと、なぜか白檀の香を鼻腔に感じる。
石床の地下におり立った直後、またもあの感覚が全身に走る。
虫、蟲――いや、これは蛇か、大蛇の気配か。
息を殺し、目に見えないなにかに、禍々しいそれに値踏みされているような予感を必死に振り払う。
鼓動が早まり、恐れと好奇心が交互に襲ってくる。ランタンを持つ手が震えた。
(なんだ。この先に、なにがある?)
目の前の、一歩先ほどしか見えない灯り。それを、泉貴は思いきって覚悟し、かかげた。
「――!」
視界に入ったそれに、息をのむ。心臓が止まりそうになり、思考が消えた。
「先生、どうです? なんかありましたか? 大丈夫ですか?」
遠く頭上から響く三好の声も、泉貴には届かない。
狭い石床の通路の奥に、真っ赤な着物姿の大きな人形が正座していたからである。
泉貴はごくりとつばを飲み、おそるおそる近づく。
(……大きい)
十五歳前後の体格。陶器のような肌の人形は、長いまつげを伏せていた。なぜか僧侶のような剃髪姿のため、少女のようにも少年のようにも見える。
泉貴はゆっくりと近づき、精気のない頬に指先を伸ばす。思わず触れそうになった、矢先――。
「――触れてはいけない」
驚愕し、ランタンを落とした。その火種が、石床でくすぶる。
「先生!?」
落とした音に気づいた三好の声がする。けれど、泉貴には返事をする余裕もない。呼吸も忘れて固まっていると、人形はまぶたを開くことなく顔を上げた。
「わたしに触れてはいけません。あなたやあなたの大事な人に、
泉貴は戸惑う。
「き、きみは……」
人形ではない、人だったのだ!
「ど……どうして――」
――なぜ、ここに? そう訊ねるより早く、剃髪の少女は言った。
「わたしは、呪物。ここの主に買われて飼われました」
(なんだって!?)
「……呪、物?」
少女は小さくうなずいた。
「わたしを棲家とする呪いの蛇が、わたしの視界と髪を奪いました。その代わり、なにも食べずなにも飲まなくても、わたしはこうして生きてしまいます」
少女をおおう、禍々しき気配。目には見えなくても、感じることはできた。そういった信じがたい奇妙な世界が、この世と隣合わせであることはわかっている。
望まずとも、何度も目にしてきたからだ。
(ああ、そうか。なんてことだ)
なぜ、ここの主の運がついていたのか。なぜ、地獄のような最期を遂げたのか。
なぜ、この蔵だけがきれいなまま残っているのか。
すべての理由が、ここにあったのだ。
「きみの……いや、きみを棲家とするものが、主に運をもたらしていたのか」
その運の大きさに、主の最期が比例しただけ。呪物とは、そういうものだ。
少女はこくりと、小さくうなずく。
「誰も、わたしに関わってはいけないんです」
鈴のような声で、少女は続ける。
「どうか見なかったことにして、わたしをここに捨て置いてください。飲まず食わずで平気でも、さすがに近く、限界を感じています。わたしは朽ちるそのときを待ちたい。そのほうが、きっとこの世界のためです」
泉貴は心底驚き、瞠目した。
涙ながらに助けてと懇願するでなく、捨て置けと笑顔で言いきられたからだ。
その表情には狂気のかけらもない。穏やかで柔らかく、すべてを悟りきった清々しささえ感じられた。
それはおそらく――死こそが唯一の希望だから。
その絶望とは、いかほどか。想像さえも辛すぎる。
「きみは……」
誰が、いったいなんのためにおこなった所業か。少女の経緯はわからないが、尋常ではない経験を乗り越えてきたことはたしかだ。もしも自分が同じ立場なら、間違いなく乱心している。
それなのにこの少女は、他人を思いやれる正気を残していた。
(……なぜ?)
泉貴の疑問を察したかのように、少女はにこりと口角を上げた。
「わたしはずっと、わたしに棲む友達と――三日月と一緒でした。だから、なにがあってもどこへ行っても、さびしくなかった。怖くもありませんでした」
「三日月?」
少女はうなずく。
「わたしを棲家とする、呪いの蛇の名です。わたしがつけてあげたんです」
――だから。
三日月とともに、朽ち果てたい。
どうかここで、わたしを見たことは忘れてください。
そう言って顔を下ろすと、人形のように口を閉ざした。
泉貴はしばし呆然とし、暗がりにたたずむ少女をただ見つめる。
(……いや、いけない。そんなことはけっしてできない)
「たしかに」
やっとの思いで、声にする。
「たしかに僕には、きみをどうすることもできない。でも、どうにかできるかもしれない奴なら知っている。だから、自分で自分のことを〝捨て置け〟などと、言ってはいけないよ。きみは〝物〟じゃない、〝人〟なのだから」
はっとした少女のまつげが、かすかに震えたように思う。泉貴はすぐさま振り返り、頭上を向く。
「――三好くん!」
「は、はい!?」
泉貴は大きく息を吸う。
「どこかで電話を借りて、いますぐに紙屋の三代目を――
力のかぎり、叫んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます