解答編☕コーヒーの謎
樋口さんはテリーヌを食べ、「マリー」を味わっては、腕を組んで唸りました。
それから、あの有名なロダンの彫刻「考える人」のようなポーズをとって、しばらくあれこれ考えこんでいましたが、不意に顔を上げました。
「まっ……たく、わからないんだけど」
棄てられた子犬のような顔つきです。本当にお手上げのようです。
「では、一緒に情報を整理しましょうか。
まず、この謎をお出ししたのは、樋口さんの失恋の話を聞いたのがきっかけです。
お相手の女性は、いつもアンティーク風のワンピースを着ていて、可愛らしいなと、樋口さんは前から気になっていました。
ある日その彼女が、大量のインスタントコーヒーを買いに来られました。
樋口さんは、彼女もコーヒーが好きなのだと思いました。
それなのに、喫茶店へ誘ったら、コーヒーは飲めないと断られてしまった。
樋口さんは、自分は振られたのだと考えました」
「ぐう……その通りです」
「次に、本日の謎についてです。
私が大学時代の友人に、男女の双子がいました。
二人ともヴィンテージ風のファッションが好きで、着るものをシェアするほど仲が良くそっくりなのに、兄はコーヒー嫌いで、妹はコーヒー好きでした。
ある時、私は、兄がインスタントコーヒーを買っている場面に遭遇しました。妹に頼まれたのか聞くと、彼は違うと答え、『これで生まれ変わるんだ』と不思議なことを言いました。
別の日、妹と一緒に喫茶店へ行くと、彼女は珍しくコーヒーを頼みませんでした。そして、飲めなくなったのだと言いました。
ここまで、大丈夫ですか?」
「はい……やっぱり、何がなんだか」
少々込み入った謎になってしまったので、心が弱っている樋口さんに解けないのも、無理はありません。私はヒントをお出しすることにしました。
「双子の妹の方から
まず、それまでコーヒーが好きだった人が、急に飲めなくなる理由って、どんなことがあると思いますか?」
「うーん……嗜好が変わったとか、アレルギーになった、体質が変わった、とか」
樋口さんは男性ですし、まだ学生さんです。私はもう一歩踏み込むことにしました。
「コーヒーにはカフェインが含まれていますね。カフェインは、小さなお子さんが摂るのは控えた方が良い成分です。それを踏まえて考えてみてください。
女性特有の、カフェイン摂取を控えた方が良い時期、というものがあります」
「小さな子供……女性特有……?」
ややあってから樋口さんは、顔を強張らせました。
「まさか、妊娠……!」
「はい、本日の謎、半分正解です」
私はにっこり微笑みましたが、樋口さんはみるみるうちに青ざめていきます。
「つ、つまり彼女は妊娠していて、それでコーヒーを飲めないと……」
「落ち着いてください。これは『本日の謎』の話です。樋口さんの想い人の女性はまだ関係ありませんよ。
双子の妹がコーヒーを飲めない理由、それは、妊娠がわかったからなんです」
一度浮かんだ思い付きがなかなか頭から離れないのでしょう。樋口さんはうるんだ目を何度か擦りながら、「大学生で、妊娠?」と呟きました。
「驚いたな。学生結婚してる人だったの?」
「ふふ。学生は学生でも、社会人入学の、なんですよ。
実は同じ学部と言っても、兄の方は博士課程で、妹の方は学部生でした。
妹は高校卒業後、美容系の専門学校に入り、二年で卒業して、社会人として働いていたんです。その間に結婚していました。
兄の研究に興味を持って、結婚後に大学に入り直したのだそうです。旦那さんがかなり年上で、裕福な方だったみたいで。
この妹の謎の答えは、兄の謎を解く鍵になるんですけれども……」
私の視線を受けて樋口さんは、ふるふると顔を横に振っています。
もうちょっとお手伝いして差し上げた方が良さそうです。
「ここで一度、視点を変えてみましょう。
私は最初に、この『本日の謎』が、樋口さんの身に起きた出来事のヒントになるかもしれない、と言いました」
「覚えてるよ。だから妊娠がヒントなのかと……」
「ポイントは、兄の謎の方なんです。
コーヒーが飲めないはずの兄が、なぜインスタントコーヒーを買っていたのか」
樋口さんは、ふと真剣な顔になりました。
「そういえば、そこだけ抜き出してみると、彼女と状況がよく似ているな」
「いい傾向です。そのまま共通点を他にも探してみてはいかがでしょう。樋口さんもさっき、仰っていましたよね。共通点が大事だって」
「兄と彼女に、共通点……?」
空になったプレートを下げて、洗い物をしながら、私はしばらく待ちました。
教会の形をしたカラフルな壁掛け時計が、カチカチと遠慮がちに音を立てます。
やがて樋口さんは、頭を搔きながら口を開きました。
「間違っているかもしれないんだけど……」
「はい」
葡萄茶色のエプロンで手を拭いて、私は耳を傾けます。
「話を聞いていて、ちょっと引っかかることがあったんだ。その双子が仲が良くて、ヴィンテージ風のファッションをシェアしているってところ。
性別の違う兄妹でそれなら、確かに仲の良さがよく伝わってくる話なんだけど、そんなに必要な情報かなあって。
で、思ったんだ。そういえば俺も彼女の可愛さを伝えるために、アンティーク風のワンピースをいつも着てるって、いらん情報喋ったなって……」
その調子です。私は期待を込めた眼差しで頷きました。
「ヴィンテージとアンティークってさ、なんかちょっと、似てない?
要するに年代物ってことだよな。どちらも、そういう古い感じが好きだとしたら、それが共通点になる……かもしれないなあ、って」
「素晴らしいです。もう一息です」
私は拳を握って応援しましたが、あと一歩のところで考えが及ばない様子。
こうなったら、伝家の宝刀を出すしかありません。
「樋口さん。このカウンター、素敵な色合いでしょう?」
私は彼が肘をついているカウンターテーブルを指差しました。少し明るい焦げ茶色といった趣で、色ムラがあり、それこそアンティーク感を出しています。
それから、先ほどまでプレートの下に敷いていたランチョンマットを見せました。
「これも落ち着いた、いい色合いだと思いませんか? ベージュっぽい、薄いセピア色。もしかして、彼女が着ていたアンティーク風ワンピースも、こんな色ではありませんでしたか?」
そう言われて樋口さんは、まじまじとランチョンマットを見つめて、大きく頷きました。
「そういえば、そうだ。彼女はまさにこんな感じの、セピア色の写真みたいなワンピースをいつも着ていたよ。フリルとかボタンとかリボンがたくさんついてる、昔の西洋貴族っぽい感じの。だからアンティーク風だなと思ってたんだ」
「やっぱり、そうでしたか。実はこれ、カウンターもランチョンマットも、コーヒー染めというやり方で色を染めているんです。ドリップ後に残ったコーヒーの粉でも、インスタントコーヒーでも、どちらでもできます」
「コーヒー染め?」
樋口さんは途端に、ハッとした顔つきになりました。
「まさか……わかったぞ! 彼女は、自分でコーヒー染めをした服を着るのが好きだった。だからコーヒーを飲めないのに、インスタントコーヒーが大量に必要だったんだ!」
「ええっと……そちらは本日の謎ではないのですが、もう正解にしちゃいますね」
私は天使の羽の持ち手がついた金色のベルを持ち上げ、チリンと鳴らしました。
「双子の兄の謎も、同じなんです。
彼らはヴィンテージ風の衣服や小物が好きで、よくコーヒー染めを使って服やテーブルをアレンジしていました。妹がコーヒーをよく飲んでいた頃は、大量の出がらしを集めておいて、それを使っていたそうです。
でも妹が妊娠して、コーヒーを飲めなくなってしまった。
手元に出がらしがなくなった兄は、スーパーで見かけたあの日、コーヒー染めをするために、仕方なくインスタントコーヒーを購入しに行ったんです。
私に『生まれ変わる』と不思議なことを言ったのは……もうおわかりですね。
自分ではなくて服やテーブルが、コーヒー染めによってヴィンテージの風合いに生まれ変わると、そういう意味だったんです」
樋口さんはぽかんと口を開け、しばらくしてから呟きました。
「つまり彼女は、妊娠していない。俺の誘いを断るためにコーヒーが飲めないと言ったわけでもない。本当に飲むのは苦手だっただけ……」
「断言はできません。でも、可能性は高いかと」
私が提供できる解答は「本日の謎」に限ります。でも、それがヒントになると思ったのは確かなことです。それに、私の勘が正しければ、彼女の方も。
「これは私の、ただの想像なのですが。
彼女は、樋口さんに行きつけのコーヒー店があると聞いて、後ろめたくなったのではないでしょうか。
本来は飲むためのコーヒーを、服を染めるために使っている。
コーヒー好きの樋口さんがそれを聞いたら、どう思うかって。
そんなふうに相手の気持ちを気にするのは、その相手が特別な人だからではないでしょうか。
一般的な女性は、好きでもない相手に、彼氏の有無を教えないと思いますよ」
それに、言い訳をしながら総菜を買っていったのは、料理ができないと思われるのが嫌だったからではないでしょうか。
そもそも、気のない相手のレジを選び続けるとは思えません。
ここは一つ、樋口さんの背中を押して差し上げましょう。
「その女性と再会したら、今度は、こうお伝えしてみてはいかがでしょう。
行きつけのコーヒー店は、コーヒーが飲めない方には、ショコラショーなどの特別メニューで対応することもできる。
その店のカウンターやランチョンマットは、マスター手ずからコーヒーで染めたんだって」
例の双子に教えてもらって、お店を継いだ時に、自分でやったのです。
樋口さんの顔が、徐々に明るく輝き始めました。
「マスター……ありがとう。なんだか俺、また希望が湧いてきた」
「それは良かったです。本日の謎をお勧めした甲斐がありました」
「次こそは、彼女と一緒に来るからね!」
高らかに宣言をしてお会計を済ませ、樋口さんは、意気揚々と出発しました。
ドアベルを涼やかに鳴らして秋の日差しへ戻る背中に、私は深々と一礼します。
「ありがとうございました。お誘い、頑張ってください」
アンティーク風ワンピースをお召しになった女性が、樋口さんと並んで喫茶オールド・ベルの扉を開けたのは、その二週間後のことでしたよ。
<了>
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