解答編🍷ワイングラスの謎
小倉さんは「うーん」と唸ったきり、“エマニュエル”を少しずつ味わいながら、じっと考え込んでいる様子でした。
いつもにこやかで人の好いおじさんなのですが、こうして謎解きをしている間は、ローマ帝国の五賢帝のような雰囲気を漂わせます。
私は洗い物をしながら、静かに待ちました。
やがて、「わかった!」と嬉しそうな声が聞こえてきました。
葡萄茶色のエプロンで手を拭きながら、私は小倉さんの前に戻ります。
「解けましたか」
「うん、たぶん正解だと思う」
「では、お答えは?」
「恐らくカウンター席の形と、座り方が問題だったんじゃないかな。
この店のようにカウンターが横長になっていて、座った全員がマスターと対面する形じゃなくて、カウンターの短い辺がマスターのいるキッチンと繋がる形状だったんじゃないかな?
長方形のテーブルのようなものだから、六人は横に並んでいたんじゃなくて、三人ずつ対面して座っていた。でもカウンターと言うくらいだから、幅がそんなになくて、右側のグラスを取ろうと手を差し出した時に、斜め右前に座っている相手の右手とぶつかってしまったんだ。
どうだろう? これ、正解じゃないかい?」
私は拍手をしてにっこり微笑みました。
「さすが小倉さん。ほとんど正解です!」
「えっ、ほ、ほとんど? 完全に正解じゃないのかい?」
「はい。実は、カウンターはそんなに変わった形ではなくて、このお店と同じ、ごく普通の横長タイプでした。座れる人数が六人なので、もう少し長いですけど」
「えーっ、でもそれじゃ、そちら側に誰かが座らないといけなくなる……」
「はい、その通り。それで正解です」
私は天使の羽の持ち手がついた金色のベルを持ち上げ、チリンと鳴らしました。
「実は六人の中で一人だけ、カウンターの内側に座っている人がいたんです。
それは、ワインバーのマスターをやっている、私の友達です。
私たちは、マスターを含めて六人で、女子会をやっていたんです。
よくそうやって自分の店に友達を呼んで、お喋りがてら新メニューの試食をさせてくれるんですよ。今回は自家製ワインも、でしたけど」
小倉さんがポカンと口を開けている間に、私は自分の店のカウンターテーブルを眺めました。友達の店には、厨房から
下ろしておけばカウンターの一部として使えるその部分に、彼女は自分の席を設けました。カウンターの内側にはシンクや調理台があるため、料理やお酒を提供しながら自分も楽しもうと思ったら、その場所に座るのが一番なのです。
私はすぐ隣の、フロア側に座っていました。
お客さん用の六席は、跳ね上げ戸ではない部分に設定されているので、フロアから見ればカウンター席は、六席のうち一席が余っている状態だったわけです。
休業日を利用したその集まりで、私たちは誰に気兼ねすることもなく、楽しいひと時を過ごしました。自家製ワインは白も赤も、とっても美味しかったですよ。
「いや、驚いたな。僕はてっきり、マスターは男性とばかり……」
「そこがこの謎のポイントだったんです。私をマスターと呼んでくださっている小倉さんなら、もしかしたら簡単にわかっちゃうかなと思いましたよ」
カウンター席がある類の飲食店の、女性店主をどう呼ぶか問題。
ママやマダムと呼ばれるのが気恥ずかしいのは、同業の独身女性あるあるなのです。私たちはいろいろと相談し合った結果、自分のことをマスターと呼んでもらえるよう、予めお客さんにお願いすることにしたのでした。
マスターという言葉の女性形はミストレスですが、こちらは日本人にはあまり馴染みがありませんし、語感的にもちょっと呼びづらいですよね。「おーい、ミストレス!」なんて。やっぱり、マスターと呼ばれるのが一番しっくりきます。
「最近ね、若い女子社員に言われたんだよ。求人広告の原稿に、女性リーダーが活躍していますって書いたら、そもそもうち女性リーダーしかいないじゃないですかって。別に批判する調子でもなく、素朴な疑問って感じでね」
コーヒーを見つめながら、小倉さんはしみじみとした口調で話し始めました。
「言われてハッとしたよ。うちの会社、女性のほうが多くて、確かにリーダーは女性しかいないんだ。これが男女逆だったら、わざわざ求人広告に書いたかな。それで試しに書きかえてみたんだ。男性も活躍していますってね。そしたら、うちの会社の現状にぴったりくるのはこっちだなあって」
小倉さんは目を瞑ってうんうん頷くと、残りのコーヒーをひと息にあおりました。
「いつも女性の店主をマスターと呼びながら、気付かないものだねえ。つい、男を主体と考えちゃうんだなあ。次はもっと、頭を柔らかくして挑戦するよ。
今日のコーヒーと謎も美味しかった。ごちそうさま」
腕時計を見て小倉さんは、ローマ帝国の賢帝から忙しい社長の顔に戻りました。
ドアベルを涼やかに鳴らしてお仕事へ戻る背中に、私は深々と一礼します。
「ありがとうございました。お仕事、頑張ってください」
いかがでしたか?
これが喫茶オールド・ベルの「本日の謎」です。
コーヒーだけを飲みに来られるのも、おやつだけを食べに来られるのも構いません。そのどちらかをオーダーしてくださったお客様には、ご希望があれば、ちょっとした頭の体操をご提供させていただきます。
気になる方はどうぞ、ビルの谷間を覗いてみてくださいね。
マリンランプに照らされた鐘のレリーフが、見つかるかもしれませんから。
<了>
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