喫茶オールド・ベル

鐘古こよみ

ワイングラスの謎【三題噺 #13】「爪」「ワイン」「インク」


 喫茶オールド・ベル。

 大都会のビルの谷間にふと、煉瓦壁に蔦の這った間口の狭い建物を見つけたら、それがうちの店かもしれません。

 レトロガラスの嵌った黒い玄関ドアを、真鍮の笠を被ったマリンランプが、昼でもお構いなしに照らしていますか? その光が当たる場所に、ノートルダム大聖堂の最古の鐘“エマニュエル”を模したレリーフが刻まれていたら、間違いありません。


 店内は狭くて、二人掛けの丸テーブルが二つと、四人掛けのカウンター席のみ。

 残りのスペースで自家焙煎のコーヒー豆と、アンティーク小物や駆け出し画家の小品なんかを販売しています。

 壁や窓枠や天井には、世界各地の大聖堂の鐘のミニチュアや、デザインの凝ったカウベルや卓上ベルなんかが、所狭しと飾られています。


 今は私一人で切り盛りしているお店だから、メニューは簡単。

 「本日のコーヒー」「本日のおやつ」「本日の謎」

 これだけです。


 メニュー表には小さく手書きで、「店主のことはママではなく、マスターとお呼びください」というお願いが添えられています。まだ結婚もしていないのにママやマダムと呼ばれるのは気恥ずかしい、というのは、同業の独身女性あるあるでして。


 え? 「本日の謎」が何かって?

 良かったら、注文してみてください。こちら、お代は頂きません。ただし注文したからには、謎を解こうと頑張ってみてくださいね。


 あ、お客さんがいらっしゃいました。常連さんです。きっと謎を頼むから、ご興味があるなら、聞き耳を立てていてください。


「やあマスター、今日も濃いめのコーヒーを頼むよ。それと、軽めの謎もね」

「いらっしゃい、小倉さん。本日のおやつはココアチーズケーキですよ」

「いやあ、ちょっとお腹周りがね。甘いものは遠慮しておくよ」


 そう言ってカウンター席に座った小倉さんは、近くのビルに入っている清掃会社の社長さんです。昔からコーヒーと謎解きが大好きなのだとか。


 本日のコーヒーは“エマニュエル”。

 創業者の祖母の代から人気の、うちの看板メニューです。

 濃いめがご所望だったから、コーヒーミルの調整ネジを少し細かめに設定します。

 準備をしながらさっそく、「本日の謎」を始めましょう。


「この間、海の近くにあるワインバーで、学生時代の友達と久しぶりに会ってきたんです。全部で六人、女ばっかりの女子会です」


「いいねえ。ワインバーなんて、お洒落だなあ」


「同じメンバーで会う時は大体そこなんですけど、お洒落だけど落ち着いていて、どこか家庭的な雰囲気があるお店なんですよ。

 六人掛けのカウンター席にみんなで座って、お酒とお喋りが大分進んできた頃、マスターが、黒葡萄の自家製ワインを作ったから試してみないかって、聞いてくれたんです。意外と自分でも簡単に作れちゃうみたいですね、ワインって」


「そう、そう。確かアルコール度数1%未満なら、違法じゃないんだよ」


「ぜひって返事をしたら、まだラベルのインクも乾いていないほど出来立てホヤホヤだよ、なんて言いながら、赤白両方のボトルを出してきてくれたんです。

 びっくりしました。黒葡萄からでも両方作れるそうですね。白ワインは白葡萄しか使わないのかと思っていました」


「うん。確か赤ワインの色は葡萄の皮の色だから、皮を剥いて使えば良かったんじゃないっけね」


「さすが小倉さん、よくご存知ですね。そうなんです。先に皮や種を取っちゃえばいいんだとか。グラスを一人に二脚ずつ用意して、それぞれに注いでもらいました」


「赤と白、両方の自家製が飲めるなんて、実に贅沢だねえ」


「本当に。右側に白、左側に赤のグラスを置いて、まずは白で乾杯しようということになったんです。みんながほとんど同じタイミングで、白のグラスに手を伸ばしました。そしたら、友達の一人と手がぶつかっちゃって」


「おや。せっかくのグラスを倒したりしなかったかい?」


「それは大丈夫でした。相手の爪が当たる程度でしたし、お互い軽く謝って、そのままグラスを手にしたんです。さて、これが本日の軽めの謎です」


 私はアンティークカップに注いだ“エマニュエル”を小倉さんに差し出しました。


「掲げられたグラスを持つ手は、全員が右手でした。みんなが右手で右側のグラスを取ろうとしたはずなのに、手がぶつかってしまった。これって一体、どういう状況だと思いますか?」

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