3、湖の湖

ヒラユは、病に侵され続けていた。3日経っても、1週間経っても、その病は、治る兆しどころか、一向に回復へと向かう兆候はなかった。


ナーシャは、泣いて戸惑った。カトルは、そんなナーシャをなだめるのに、毎日ナーシャの森を訪れ、精神を視た。その精神は、ヒラユにも負けず劣らず乱れていた。森が………静かな森が、ざわざわと、葉を揺らす。ナーシャの精神の弱さを、カトルはナーシャが森の妖精になったひと月前程から、分かってはいた。


「ナーシャ…、ヒラユの心を読まなければ、ヒラユは本当に黒崖へと導かれてしまう。泣いていないで、ヒラユの傍に行くのだ」


「でも…今の私には…きっと何も視えない…きっと何も感じない…きっと、きっと………」


森はざわめき、湖は水嵩が減り、空だけが、カトルの力が安定しているおかげで、涼やかに晴れ渡っている。ナーシャ、ヒラユ、2人そろって、それぞれをつかさどる妖精の使命を、今、2人して忘れている。カトルは、そう感じていた。


しかし、このまま、放って置いたら、愛の湖は完全に枯れ果て、波紋の出来なくなった湖は、を行えなくなり、妖精たちは、天国に栄転出来なくなり、どんどん白楽に閉じ込められ、そのうち、自己を主張する者が現れ始め、森、空、湖を奪い合う妖精たちのいまだかつてない、争いが起きるかも知れない。しかし、そんな邪念を持った妖精たちが、神聖な森や空、湖を守れるとは到底思えない。そのうち、妖精の世界は、遠くない未来、破綻するだろう。


その上、湖が枯れたとなれば、愛は、妖精たちの間で消えてしまうことになる。枯れた湖に、悲しみを携えた妖精たちが集まり、涙で溢れ返させれば、皆、黒崖へと堕ちてしまうだろう。





すなわち、白楽のだ―――…。




メティは、それを一番、恐れている。美しい妖精たちの世界が崩壊すれば、天国も、人間界も、良いそれとはいかなくなるだろう。天国には、新しい妖精が来ない。人間が亡くなって、天国に来ても、幸せを運ぶ天使がいない。それは、総ての世界の終末を示していることになる。




「ナーシャよ…辛いのは察しよう。しかし、ナーシャの森まで、枯らす気なのか?このまま、ヒラユの心を読まなければ、ナーシャ、お前の命…いわば、黒崖への追放もあり得るのだぞ?」


「……そう…ですね…。私には…やらなければならないことがございます。ヒラユの心を…視たいと思います。…………それが出来なければ、湖が澱み、枯れ果てます。そうなれば、私は、ヒラユを連れ、黒崖へと身を投じます」


「そっ、そこまでしなくとも…!」


カトルは、顔が一気に青ざめた。


「カトル、お前に出来ることは無いのか?」


メティが、カトルに尋ねる。空は青く、時々白い雲が流れてくる。それは、人間界で言う太陽ではないけれど、白楽に差し込む光の束を強すぎると感じた時、空を雲で覆うのが、カトルの仕事の一つだ。しかし、カトルもまた、何処か不安定なのだろう。光が眩しすぎる…と、妖精たちは森に隠れてしまっている。


森は森で、眩しすぎる光の束から逃げるのにはちょうどいいが、ナーシャの力が弱まっているせいか、涼しくなり過ぎだ。幼い妖精たちは、その3つをつかさどるヒラユ、カトル、ナーシャに、悲しそうな視線を送ってくる。



「カトル、ナーシャ、お前たちで、ヒラユを救いなさい。良いな」


「「はい」」


















「ヒラユ…」


「………」


「ヒラユ…」


「………」


「ヒラユ、気付いてよ…」


ナーシャが、悲しげな声で、ヒラユの名前を連呼した。


ヒラユは、病になった後も、眠りもせず、ただただ、美しい花々の咲いた湖のへりに足を抱え、佇んでいる。その瞳からは、やっぱり、涙が零れているのだ…。




「ヒラユ!!」


どうしようか…と迷ったが、ナーシャは、思い切って、ヒラユの意識をナーシャに移させた。


「…ナーシャ…」


やっと、ヒラユがナーシャの方を向き、ナーシャは、久しぶりに、ヒラユの声を聴くことが出来た。


「ヒラユ…一体、どうしちゃって言うの?ヒラユ、あなた、前に私に聴いたわよね?『湖は枯れないか?』って。どうしてそんな風に思ったの?」


「……あの時、ナーシャはそれを否定したね……でも、やっぱり……枯れてしまうんだね……」


「枯れはしないわ!ヒラユ…あなたの心を視るために、あなたの手に触れてもいい?」


「………それは出来ない………」


「どうして?」


「ナーシャを…巻き込みたくはないんだ…」


「巻き込む?どういう意味?」


「何でもないさ………」


「何でもないって…そんなことないでしょう?湖の状態を視れば、心が視えなくたって、ヒラユに何かあったんだってすぐにわかるわ…」


「……僕は…黒崖へ行くつもりだ」


「!!」


その言葉は、余りに衝撃的だった。


「何を言うの?ヒラユ!そんなこと、例えメティ様が赦しても、私が赦さない!!お願い…話を聞かせて。そして、心を視せて…」


いつの間にか、ナーシャの瞳からも涙が流れていた。


森がざわめく。空が光る。



そして………湖に大きな波紋が広がった。


そこに映し出されたのは、綺麗な白い階段だった。花々を型取り、階段の一段一段、見事に装飾が違う。こんな湖は見たことがない。こ湖に映し出された階段は、一体何なのだろう?


「ヒラユ…これは?」


「………1000年に1度、現れると言うだよ…」


?」


ナーシャは、聴いたことがなかった。


「これは…一体何を示しているの?」


「………言っても、怒ったり、悲しんだり、………後悔したりは……しないか?」


ごくん…。


ナーシャは、唾を呑み込んだ。


涙を拭いて、立ち上がり、ナーシャに視線を合わせ、今まで病でフラフラしていた足元も、今だけは、しっかり震えることすらなくナーシャに向いている。


「…分かったわ。私と…」


『黒崖へと2人で堕ちましょう』


ナーシャが、そう言いかけた時、


「ナーシャ、この階段を…降りて行ってくれないか」


「え?湖の階段を…どうやって…」


「出来るんだ。君なら…。思いっきりだぞ?」


「……分かった」







ナーシャは、一目散に、湖の中の白く奇麗な階段を駆け下りた。しかし、水の抵抗は感じられない。何故だろう。楽しくて、嬉しくてたまらない。降りるスピードが上がる。


そして、階段を降り切った湖の底だと思われる場所には、また奇麗な湖が広がり、美しい草花の生い茂る草原に風邪が気持ちよく吹いていた。


「ナーシャ……」


その声に振り返ると、ヒラユもそこに来ていた。


「ナーシャ、その湖に、僕と映り込む勇気はあるかい?」


「え…?」


「あるかい?」


ヒラユが繰り返した。


「…うん」


コクリと、ナーシャは頷いた。そして、2人は、湖を覗き込んだ。すると―――…。



「あ………」


大きな、大きな、それはそれは大きな波紋が、水面に現れたではないか。


「僕が恋をしていたのは…ナーシャ、君だよ…」


「え!?」


ナーシャは、とても驚いた。


「……でも、僕らはを受けることは出来ないんだ」


「どういうこと?」


「この階段を降りて、僕たち2人が、湖を覗き込み、この大きな波紋が出来た…と言うことは、もう、妖精の森にも、湖にも、天国への栄転も出来ない。この湖の奥深くに眠り、この湖の神となるんだ」


「そうなのね…」


「悲しまないのかい?今、この瞬間から、ナーシャは僕としか一緒にいられない。もう、カトルやメティ様、可愛い妖精たちにも、もう逢えないんだぞ?」


「ねぇ…もう一度、覗き込んでもいいかしら?」


ニコニコの笑顔で、ナーシャは言った。


「い、良いけど…」


そして、ナーシャはもう一度、ヒラユと湖を覗き込んだ。









「ふふふ…。私、とっても、可愛い」


ナーシャとヒラユは、湖の神となり、静かに、その湖を守り続ける―――…。

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白楽の湖~妖精の恋~ @m-amiya

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