第五話 クランSSSR

※ 今回の話に含まれるネットゲーム用語が分からない人は以下の用語解説を参照してください。

https://kakuyomu.jp/users/tekitokun/news/16817330657662930126



         §      §      §



 良い出会いでも悪い出会いでも、それはいつも突然に訪れるものだ。コミュニケーション能力ゼロの僕は、それが心底おっかない。

 相手が得体の知れない人物であるのなら、尚更そうだ。

 こいつは臆病で変化を恐れる僕の悪癖なのだが、異世界に行っても治りはしまい。今まで続けてきた自分の日常に、異物が混入される瞬間である事には変わりないのだから。


 ~消えゆきし世界とそこに住まう数多のアバター達に捧ぐ~



         §      §      §



「まずはこれを」


 村の寄合の席に着いたデニムは、ブライ村長にゴブリンの鼻を詰めた袋を差し出す。


「ゴブリンがこんなに居たのか……これでは少し足らんかもしれんが……」


 ブライ村長は袋の中身を確認し、代わりに報酬の入った袋をそれと交換するかのように俺達に差し出す。が、デニムは差し出された袋を掌で拒んだ。デニムの右手に押し返された革袋は、ジャラリと中で硬貨がぶつかる音を立てる。


「少し相談させてください」


 袋から机の上にこぼれたゴブリンの鼻を見てどよめく声を平然と受け流し、デニムは俺とルルへ視線を向ける。


「ここで報酬を受け取って少しでも緊張の糸を緩めたくない。

 報酬は全てが終わってから受け取るという事でどうだろうか?」


「もぅ、いいわよデニムがそういうなら……」


 俺はすぐにうなずいたが、この口ぶりから察するにルルは報酬のコインに少々未練がある様子だ。


「という訳ですので、報酬は後でまとめてという事にしましょう」


「後で?……大猿退治の報酬を十分に出せるほどの余裕はないが、いいのか?」


 少し困ったような顔で村長は問うが、デニムは落ち着き払っている。


「お互い報酬の事は後で考えましょう。今は目の前の事に集中しないと」


「そうだな……ありがとう」


 額の汗を拭いながら村長はテーブルを囲む村民を見渡し、話を再開した。


「先ほども言った通り、まずは目撃者の話が聞きたい。なにが起こっているのか皆の見た事を教えてくれ」


 だが村人達の話をいくら集めてみても、大猿の活動時間が夕方から夜である事が知れた以外に特に新しい情報はなかった。

 俺達と同様に遠くから西の森が光った事を目撃した者なら何人もいた。だが、かといって大猿の縄張りに近づいて確かめるわけにもいかず、誰一人それ以上の事を知らない。森が光った事、光った場所が大猿の縄張りのすぐ近くであった事、その光の正体は不明である事……俺達が知っているのと同じ事をただただ何度も何度も繰り返し聞かされただけだった。

 そして最悪だったのが何もわからぬ事がかえって不安を呼び、村人達を軽いパニック状態にしてしまった事だ。口々に恐怖を吐露しだした村人達をブライ村長も鎮める事ができず、すぐに寄合どころか話し合いの体すら保てなくなってしまった。なかでも特に酷かったのが宿屋の主人のバンカーさんだ。


「もう駄目だ……すぐにここから逃げよう! は……早く逃げないとあの大猿が……ぁぁ……」


 バンカーさんはそのゴツい身体に似合わぬ甲高い声で喚いて皆の注目を集めた。集まった村人達によって蒸された部屋に響く彼の声は、それを聞く者全てを苛立たせたに違いない。


(まるで俺の親父みたいだ……)


 今朝の飄々とした態度とは一変したバンカーさんを見て、俺は内弁慶のクソ親父の事を思い出す。


 あいつ、家族には偉そうな癖に……いや、やめよう。気分が悪くなるだけだ。


 それにしても、ここにララさんとメルルちゃんがいなくて本当に良かった。今のバンカーさんの姿を見たのなら、彼の父としての威厳は完全に失われていただろう。


 「逃げるって……いったいどこへ?」


 紫がかった髪を短く切り揃えた女性が遠慮気味にバンカーさんに尋ねた。門番をしていたクリスの母親だろうか? 顔つきといい、髪の色といい、よく似ている。


 「ぅ……ぁ……」


 彼女の一言でバンカーさんは言葉に詰まって呻く。落ち延びる先に心当たりがあったなら、彼は真っ先にこの村から逃げ出していたに違いない。

 ともあれ、呆れるほど取り乱したバンカーさんの姿を見た村人達は次々と冷静さを取り戻し、部屋の空気がだいぶ落ち着いてきた。こういうのを怪我の功名というのだろうか。


 「ほら!でかい図体をして情けないね!シャッキっとおしよ!」


 バンカーさんの隣に座ってた老婆がペシッと彼の頭をはたいたのを合図に、部屋は完全に静まりかえった。

 俺はこの機を逃さず手を上げて、村長に発言の許可を乞う。


「なにか意見があるかね、カイルさん」


 俺は机に両手を付いたまま、椅子から腰を持ち上げた。


「状況を整理させてください。

 森の光の正体は不明で、その光の影響により今後大猿がどんな行動をするかも不明。

 だから、まずは誰かが……いや、俺達が森に行って状況を確認するしかないと思います。

 村から逃げるかどうかは、その後でないと判断ができないんじゃないですか? 今はまだ大猿がどんな状態になっているのかも、なんとか大猿を村から遠ざける事ができるのかも分かりませんから」


「な……なら、いつ森に行ってくれるんだい?

 少なくとも大猿の行動が活発になる夕方前には結論を出して貰わないと、今夜にでも大猿に村が襲われる!!」


 まだ動揺が収まらないバンカーさんが震える声でそう俺に問いかける。ルルの隣で腕組みしていたデニムは、俺に目くばせで合図をよこしてからバンカーさんの方を向いた。


「森に行くのは明日以降でないと無理です。

 ゴブリン退治で俺達は消耗してますしカイルの魔力も残り少ない。この状態で森に入って大猿にでくわしても俺達はなにもできません。逃げる事すら難しいでしょう」


 デニムの話を聞き、再度ざわつき出す村人達。だが、再びパニックが発生する前に村長がコホンと大きく咳ばらいをして皆の沈黙を促した。村人達は今しがた開いた口を紡ぎ、村長はそれを確認してからゆっくりと俺達に尋ねる。


「では、君等が万全の体制を整えるまでの間に村に大猿が来たらどうすればいい? なにか案はあるか?」


「罠を仕掛けるっていうのはどうかしら? みんなで大きな落とし穴を掘るの」


 ルルが勢いよく立ち上がって村長に向かって答える。


「今なら、大猿が活動時間に入る夕方までに完成させる事ができる筈よ」


 それを聞くや否や、またも村人達から次々と疑問の声が上がる。

 罠を作ったとしてそれに大猿がうまく掛かるのか?そもそも罠のある場所に確実に大猿を誘い出せるのか?村人達はルルの提案に不安を隠せない。


「あたしのとこで飼ってる鶏を大猿をおびき出す囮にしたらどうかね。

 三羽くらいいれば、なんとかなりそうかいルルちゃん?」


 村人達の不安げな空気を打ち消すように、バンカーさんの隣に座る老婆が提案する。村の危機だというのにこの老人は動揺する様子もなく、不敵な眼差しを俺達冒険者の方に向けている。


「ありがとう、マーガレットさん。それで十分よ。

 あと人間の臭いが付いていると罠がバレてしまうから、臭いを消す必要があるわ。そのために必要な物がいくつかあるんだけど、今から言う物を用意できるかしら?」


 ルルは村人達の不安をその知識をもって一つずつ打ち消していった。



         *      *      *



 寄合の結果、俺とデニムは宿で仮眠をとり、ルルはその間に落とし穴製作の指揮を執る事になった。大猿の相手は新しい長剣を振るうデニムとそれを援護する俺の魔法が頼りであるため、活動時間の夕刻まで仮眠を取り疲労と魔力を回復して大猿の万が一の襲来に備える。一方落とし穴の製作にはレンジャーとしての経験豊かなルルが不可欠だったし、大猿と戦うにはルルの武器(ショートソード)では不向きだったという訳だ。

 宿に着き、早めの昼食をとった俺とデニムは仮眠のため昨晩と同じ客室に入る。


「なぁ、アタックアローってのはどのくらいの効果が期待できる?」


 鎧のままベットに横たわったデニムが話しかけてきた。


「あれは筋肉の運動を助ける魔法です。

 力の使い方がうまい人ほど効果が増すので一概には言えませんが、今の俺の実力だとせいぜい2割増しくらいかな」


「スピードが上がるっていうのも筋肉がよく動くようになるから?」


「ですね。

 でもデニムの腕前なら、アタックアローの効果は最大限に活かせるよ」


「だといいな。

 実を言うと、新しいこの剣でもカイルの魔法なしで大猿を退治できる自信はないんだ。頼りにしている」


 デニムはそう言うと目を閉じた。魔力を消費したせいか、まだ日が高いのに横になると俺もすぐ眠りに着くことができそうだった。窓から迷い込んだそよ風に頬を撫でられながら眠りに落ちる感触が、とても心地いい……。



         *      *      *



「大猿だ!大猿の化け物が来たぞぉぉ!

 起きてくれーーっ!」


 宿屋のバンカーの喉も枯れんばかりの必死な声で俺は飛び起きた。デニムが大急ぎで部屋の戸を開け放つ姿が、俺の寝ぼけ眼に写る。


「先に行くぞ! すぐ追い付いてくれ!」


 急いでベットから飛び降りて、既に駆け出したデニムを追う。

 外はまだ明るい。夜行性の大猿が昼間に行動しているのは、俺達の想定する最悪の事態の一つだ。

 それに一般的に魔力の完全回復には最低四時間以上の睡眠が必要とされるが、日の高さからみて三時間も寝れてはいない。寝る事が出来たのは一時間か、二時間か……寝る前よりかはマシではあるが、魔力が充実している感覚にはまだ遠い。

 いや、それよりも未完成の落とし穴が襲われたのなら、落とし穴を制作していた村人から犠牲者が出ていても不思議ではない。


 あれこれ考えを巡らすうちに俺はデニムに追い付いていた。思ったより早く追いつけたのは、デニムの新しい鎧が以前の物より重いのが原因だろうか?


「どうやら、犠牲者は出ていないようだな……」


 デニムが呟く。前方を見るとダニーがにこやかに手を振っているのが見えた。大猿が現れたというのに、なぜだろう?


「凄かったっすよデニムさん。

 堀りかけの落とし穴に大猿が落っこちたんで、みんなでボコボコにしてやったんですよ。

 落とし穴が未完成だったから、すぐ逃げられちゃったんですけどね。はははははっ。  もうこれに懲りて村へは来ないっしょ」


 能天気に興奮するダニーと違い、続いて俺達に駆け寄って来たルルは表情が重い。


「まずい事になったわ……」


 ルルの話によると大猿に追いかけられたイノシシが作りかけの落とし穴にはまり、それを追って落とし穴に飛び込んだ大猿に村人達が農具や石を投げつけたり、狩猟用の弓で矢を射かけたのだそうだ。

 ただ落とし穴は未完成で深さが足らなかったため、あっという間に逃げられてしまい、手傷は負わせたものの致命傷を与えるまでには至っていない。


 つまり今の大猿は活動時間も縄張りの範囲も当てにならず、手負いで興奮状態にあるため狂暴化しており、落とし穴は既に警戒されているためもう通用する見込みがなく、獲物であるイノシシを落とし穴の中に残して逃げた事から今なお空腹である可能性が高い。

 もし、夕刻を過ぎ活動時間に突入した大猿が怒り狂って村に戻って来るような事があれば、夜目が効く大猿と戦っても勝ち目がない。村を守るため大猿を仕留めるのなら、まだ村人達のつけた傷が塞がらぬ今の内に追撃をかけて殺すしかないのだ。


「こちらも万全の体制とはいかないが、仕方ないか……」


 デニムが歯ぎしりする。落とし穴から点々と森に続く大猿の血の跡と、足を引きずったような跡が地面についている事からも、今なら十分に勝ち目があるように思える。


「そんなにやばいのかよ!」


 そう言うや否や、血相を変えて駆け出そうとするダニーを俺とデニムが慌てて羽交い絞めにする。


「状況は今から俺が村長に報告するからお前は黙っててくれ。下手に騒ぐとみんながパニックになるぞ」


「わ、わかったよデニム」


 ダニーを開放したデニムは早足で落とし穴のすぐ脇に向かい、俺とルルもそれに続く。そこにはブライ村長が森の方を向いたまま立ち尽くしていた。


「それにしても、よくそんな状況で怪我人がでませんでしたね。穴を掘ってる最中だったんでしょう」


 デニムが村長と相談している間に、俺はルルさんにそう尋ねた。


「遠くからイノシシがこっちに走って来るのが見えた時点で嫌な予感がしたから、皆を避難させといたのよ。一歩間違ってたら大変な事になっていたわ」


 ルルの言葉が終わらぬ内に、大急ぎでデニムが俺達の前に戻って来た。ブライ村長は難しい表情で森を睨んだまま顎に手を当てている。


「今から俺達は森に入り大猿を追跡して仕留める。

 ただし、暗くなってからでは勝ち目がないから日が陰って来たらもう諦めるしかない。もし、時間までに大猿を殺せなかった場合は……」


 デニムは一瞬言葉を詰まらせた。


「……村を棄てて逃げる事を提案したよ」


「きっと大丈夫よ。今までだってこんな事いくらでもあったじゃない。

 カイルもそう思うでしょ」


 俺は正直なところ不安で一杯だったが、それを隠すように胸を張って頷いてみせた。傍から見れば少しわざとらしい仕草だったかもしれない。


「必ず退治しましょう! 俺達で!」


 デニムは笑顔で握りこぶしを作り、俺も拳を握ってデニムの拳に合わせる。


「さ、大猿狩りに出発よ」


 ルルを先頭に俺達は森へと入っていった。



         *      *      *



「もう、なんなのよこの森は!」


 ルルがまた悲鳴をあげる。大猿の縄張り周辺の森は、ハッキリ言って滅茶苦茶になっていた。

 生えている木や草にこの辺りでは見かけないような物がたくさん混ざり、地形も荒々しい凸凹とした岩地のような起伏があるかと思えば、草が深く生い茂る湿地のような地形すらも見かけられる。

 まるで、異なる二つ以上の地形が出鱈目に混ざったような、そんな森だった。


「なんでこんな森の中に、崖があるんだ……」


 俺は目の前に現れた高いゴツゴツとした土手に手をついて呟いた。掌の感触から露出した岩だけではなく、土も随分と固い事がわかる。草木が根を張る事すら拒絶するような、冷たい土だった。


「ねぇ、気づいてる?

 ここの地面も色が少しおかしいわよ。粘り気もあるし明らかにこの森の土じゃないわ……どうやったらこんな事に」


 地べたを覗き込むルルの言葉には疲れがにじみ出ていた。俺やデニムと違ってルルは早朝から働き詰めで休憩をとっていない。

 ?……そういえば、デニムの口数がさっきから少なくなっているような……。


「大丈夫ですか!」


 デニムの方を振り返った俺は自分のうかつさを呪った。


「すまない、ペース配分を間違えたようだ」


 肩で息をしながら汗だくのデニムが答える。

 デニムは慣れない重い鎧でこの滅茶苦茶な地形を大急ぎで進んできたのだ、負担は相当な物だったろう。


 なぜ俺はこんな当たり前の事に気が付かなかったのか……。


「少し休みましょうデニム。そんな状態じゃ大猿に追い付いても何もできないわ」


 ルルがデニムに寄り添い、やさしく傍の大木の根元に座らせた。


「すいません、俺ももっと早くに気づくべきでした……」


「カイルが気にする必要はないさ。

 ゼペックさんに注意されていたのに迂闊だったのは俺だ。それに、今は反省するよりこれからどうするかを考えないとな」


 その時、そよ風と共にデニムの頭の上からピンクの花びらが降り注ぎ、思わず俺は天を仰いだ。

 いったいそれはなんという木なのだろうか? 俺達の頭上は辺り一面ピンクの花で覆われていた。ルルは花に見とれ降ってきた花びらを掌で受け止めていたが、俺はとてもそんな気にはなれなかった。正体の分からぬこの花は、綺麗な分だけむしろ不気味にすら感じられたからだ。


「ねぇ、ガードアローの魔法には疲労回復の効果はないの?」


 数秒の間を空けて、我に返ったルルは手に乗せた花びらを捨てながら俺に聞いた。


「あの魔法はダメージと疲労の蓄積を抑える魔法なんです。疲労を回復する効果はありません」


「そうか。

 なら、ここで暫く休んでいくしかないか……」


 花を見上げながら、デニムが呟くように言った。

 確かに休息が必要だが、ここで立ち止まって大猿に距離を離される訳にもいかない。休息後に急いで追いかけるにしても平坦な土地ならばともかく、こんな出鱈目な土地を進むにはデニムの重い鎧は向いていない。またすぐに疲れて動けなくなってしまうだろう。


(デニムを連れたままこれ以上追跡するのが難しいのなら、誰かが先行し大猿の居場所を突き止め、最短距離を案内して貰うしかない。

 探索には俺が行くよりレンジャーとして優れているルルに先行して貰った方がいいな。ルルなら大猿に出会っても一人で逃げおおせる事ができるだろうし、万が一重い鎧で逃げるのが難しいデニムの方に大猿が来たとしても、俺が一緒なら魔法で援護して戦えば勝ち目がある筈だ)


 そう考えをまとめて振り返ると、ピンクの花びらが積もった地面の上でルルがデニムに抱き着いていた。


(こんな時にバカップルモード発動かよ……)


 心の中で二人に毒づいてる間に、デニムが俺より先に口を開く。


「カイル、悪いが先行して大猿の居場所を突き止められないか?」


 そのデニムの一言が、俺には信じられなかった。


「え……?

 でも俺はレンジャーは研修を受けただけで……。ルルの方が良くないですか?」


「ごめんねカイル。

 朝から動きっぱなしであたしも疲れちゃった。少し休みたいの」


 ルルの言う事はもっともだ。疲れているのもよく分かる。

 けれどその言葉の裏に、ルルの本音を隠すための誤魔化しが混ざっていると俺には思えた。いくら疲労があるとはいえ、レンジャー初心者の俺とルルとでは探索の精度にも探索に掛かる時間にも雲泥の差がある。

 恐らくは、疲れて動けないデニムが心配なので彼の傍を離れたくないのだろう。その気持ちはわかる。だが、この状況でその気持ちを優先しては命取りになるのではないだろうか。


「頼むよカイル」


 俺が迷っている事に気が付いたのだろう、デニムがもう一押しをかけてくる。俺は観念して首を垂れた。


「……正直、自信はないけどやってみるよ」


 結局デニムもこの土壇場でルルの気持ちを優先させた。もしかすると疲労が彼の思考を鈍らせたのかもしれない。

 俺は一人で大猿の追跡を再開した。恐らくは近くに潜んでいるであろう奴の影に怯えながら、どんどん薄くなっていく血の跡を追って奇妙な森を進み続けた。



         *      *      *



(くそっ!

 いったいここはどこなんだっ!)


 俺は心の中で叫んでいた。

 大猿の血の跡は既に見失い、帰り道さえハッキリとはわからなくなってきていた。

 光があまり差し込まない森の中ではあるが、葉の隙間から見える日差しは既に弱まり始めている。見知った樹木の姿は既に周辺になく、どこの地方の物だがもわからぬ木々の中に俺はいた。


(くそっ! 俺はどれだけの時間この森で迷っているんだっ?! ……いや、焦るな……焦っても無駄だ。

 タイムリミットも近いし、もうそろそろデニム達の所へ戻った方がいいか?)


 そう考えていた俺の視界の端に奇妙な建物の姿が写った。遠くてまだ全容はわからないが、木々の間からレンガで作った壁と、その壁の向こうにある尖った屋根が見える。


(こんな森の中にどうしてこんな大きな建物があるんだ?)


 とはいえ建物があるという事は、そこに住んでいる者がいるという事だ。もしかするとその人物に助けを求められるかもしれない。

 あるいは森が光った原因がこの建物にある可能性も考えられるが、それも実際に行って調べてみなくてはわからない。


(とにかくあの建物を調査しなくては……)


 俺は周囲を警戒しながら謎の建物を目指す。

 ここから建物までは平坦で特に障害物もなく、容易に進む事ができそうだ。いやそれどころか、ところどころ道の跡らしき物まであり、まるで建物の方に誘導されているようですらある。

 近づいてみると建物の壁の大きさが自分の想像より大きかった事に気づく。壁の高さだけでも五メートルはあるだろうか。門にはプレートが掛かっていて、何か書いてあるのだが、その文字を読む事ができなかった。

 この辺の国では見かける事すらない文字だ、いったいどこの文字なのだろう?


(鍵は開いててくれよ……)


 中に人がいないか大声で呼んで確認をしたいところだが、近くに大猿が潜んでいるこの状況でそれはできない。

 俺は門の戸を押そうとした。


(結界?)


 だが俺は門の戸を押すどころか、門に触れる事すらできなかった。見えない壁のような物が俺の手を押し返して門に触れる事を拒絶していた。


ポタリ……


 俺のすぐ近くの地面になにか大粒の液体が落ちる。

 驚いて見上げるとそこには大木によじ登った大猿の姿があった。

 大猿は木をつたって壁の上を乗り越えようとしているのだが、先ほどの俺と同様に見えない壁に押し戻されて侵入を拒まれていた。


(まずいぞ! ここにいたら見つかってしまう)


 俺は音を立てぬように建物から後ずさったが、既に遅かった。

 大猿は数回鼻をヒクヒク動かしてからこちらに顔をむける。その顔には、つい先ほど付けられたのであろう大きな刀傷があった。


グガアァァァッ!


 俺が逃げようとするより早く大猿は飛びかかっていた。


(ッ間に合わない!)


 一瞬の出来事で身体はまるで反応できないのに頭の中だけはなぜかよく動いて、今までの人生で経験した事が高速で思い出される。


(冒険者になってクソ親父達と、ギャレットの奴を見返してやる筈だったのに! こんなところで俺はっ!)


 なぜか嫌な記憶ばかりが脳裏をよぎっていく中で、俺は咄嗟に右腕を前に突き出して頭を庇う。大猿の鋭い牙は既に目前まで迫っていた。


パンッ!


 だがその牙が俺に触れる前に大猿の横から飛び出した何かが交差し、乾いた音と共に俺の視界が真っ赤に染まる。それが飛び散った大猿の血である事に俺が気づいたのは、一瞬後の事だった。


ズドッ……ォ


※ 挿絵

https://kakuyomu.jp/users/tekitokun/news/16817330657662874701


 俺は大猿の頭が消し飛んでいる事にようやく気づいた。バランスを崩した大猿の身体は鈍い音をたてて地面と衝突し、酷い臭いのする血を更にまき散らしている。


「うわっ、血のりの表現がエグくなってる。

 それに新モンスターだと思って気合入れてたのに、たった一撃で終わりかよ~」


 その場にへたり込んだ俺がその声を頼りに首を動かすと、すっかり赤く染まった地面の向こうで見慣れない女が血まみれのメイスを片手に何かを呟いていた。


(半裸の女? こいつがあの大猿の化け物を倒したのか?)


 頭に赤いハチマキを巻いて、首から肩にかけて大きな羽の飾りを付け、皮のブーツと手袋をしている。そして、身に着けている着衣は大きなベルトに下着ほどの面積しかない赤いパンツと胸に巻かれた布だけだった。露わな筋肉質の引き締まった体からも、先ほどの大猿への桁外れの一撃からも歴戦の戦士であるようなのだが、とても冒険に出かけるような出で立ちではないし、女は戦士とは思えない程に背が低い。年齢は俺と同じくらいだろうか。

 なにはともあれ、まずは礼を言うべきだったのだろうが俺の脳はあまりの出来事に混乱するばかりという有様で、座り込んだまま動けずにいた。


「〇□×@$△¥◇&%#」


 突然後ろから低い声がしたので振り返ると三メートル近い大男が立っていた。

 気配がまるで感じられなかったのだが、いつの間に近づいたのであろうか。黒と濃い緑の服を身に着け顔には覆面を被っている。

 だが目を引くのはむしろその男の体系で、かなりの肥満体であるにも関わらず筋肉質の異様に太い腕は薄い布地の服の上からでも容易に確認できる。まるで、でかいオークのような男だ。腰から下げた包丁のようにすら見える太いナイフが鈍い光を放っていた。


「おい東風。また翻訳用のアクセサリを装備し忘れてるぜ」


 東風と呼ばれた男は、慌てて覆面の脱ぎ捨て懐から出した耳飾りのような物を付ける。

 分厚い唇にギョロリとした目、ゲジゲジ眉毛で髪を後ろ頭で結わえている。愛嬌のある顔だが、特徴的過ぎて美男子とは程遠い。


「すいません忘れてました。

 しかし、前から思ってたんですが新大陸に最初に行った時はこのアイテムを付けないとNPCと会話できないって仕様はどうなんでしょう? リアル志向なのかもしれませんが、余計な手間を増やすだけだと思うんですが……」


「だよなー、そういう小さな不親切の積み重ねがユーザーを減らすっていうし。こんなだから”運営はわかってない”って批判されてるのかもな。

 まー、少しの間だけ我慢して着けてれば自然と言葉を覚えられるし、慣れればどうって事ないんだけどさ」


 二人の言葉は理解できる。

 先ほどと違って、東風という大男が何を言っているのかも理解できる。

 だが、この二人が何について会話しているのかがまるで分からない。


「さ、先ほどは助けて頂いておりがとうございます。

 あの、あなた達は何者なんですか?」


 顔に付いた大猿の血をふき取りながら、俺は思い切って二人に声をかけた。


「なんだ、NPCじゃなかったのか。俺達はここのクランの者だよ」


 女がそっけなく答える。


「イザ姐(ねえ)、この人はたぶん初心者ですよ。

 先ほど私の会話に反応しなかったのは、言葉がわからなかったのではなくチャット機能に不慣れだったのですね」


 大男の東風がこちらを向く。


「NPCと勘違いしてすいませんでした。

 なにしろ頭上にプレイヤーネームも表示されてませんし、ステータス画面もなぜか開かないものですからプロフィールも確認できなかったんですよ」


 失礼を詫びている事以外なに一つ理解できない。


「明らかに不具合だよな。そもそもマスター達がログインしてないのに俺達が自由に動けるのがおかしいんだ。

 この分だとすぐにメンテが入るぜ。こいつも、いつまで経ってもドロップアイテムに変わらないしよ」


 女が大猿の死体を軽く蹴り上げる。


「まぁまぁ、シーズン5でサービス終了って噂もあったんですし、シーズン6が来ただけ でもありがたいと思わないと……」


 東風はなだめるようにイザ姐に答えてから、あっけに取られていた俺に顔を向ける。


「ところで我々のクラン拠点の前にいたという事は、もしかしてあなたはクランへの入団希望者なのですか?」


 会話には全くついて行けなかったが、とりあえずこの建物の正体は突き止めておかなければならない。


「クラン拠点? この建物は”クラン拠点”というのですか?」


「もしかしてクランについてのチュートリアルをスキップしてしまったのですか? ここは我々”クランSSSR(トリプルエス・アール)”のクラン拠点ですよ」


 俺の精一杯の問いにキョトンとした表情で東風が答えた。

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