兄嫁の妹は、ある店で俺が指名していた嬢だった

春風秋雄

兄貴が結婚することになった

兄の正彦がやっと結婚することになった。公務員で地味な兄は俺より6つ上の34歳。今まで彼女がいたという話はまったく聞かなかった。ところが、半年前に彼女が出来たと嬉しそうに話してくれた。俺は「これを逃したら一生結婚できないぞ!頑張れ!」とエールを送っていた。それが、やっと結婚にたどり着いたと聞いて、俺もうれしかった。


今日は両家顔合わせの日だが、相手の女性は両親が他界しており、家族は妹だけなので、気楽な食事会にしようということになり、俺も出席することになった。うちは兄と両親と俺の4人で、相手側は姉妹と親代わりをしてくれている叔父夫妻が来るということだ。俺は実家から出て一人暮らしをしているので、会場へは直行すると言っておいた。兄の彼女には会ったことがなかったので、どんな人か楽しみだった。

会場へ着き、案内された部屋に入ると、まだ予定の10分前だというのに、他のメンバーはすでに着席していた。兄が声に出さず「遅いぞ!」と口を動かした。入り口側に相手側のメンバーが座っているので、奥に回り、ひとつ空席になっていた下座の席に座った。そして向かい側の中央に座っている兄の嫁さんになる人を見た。素朴な優しそうな女性だった。第一印象で、この人ならうちの親ともうまくやっていけそうな気がした。視線に気づき、俺は正面に座る妹さんに目をやると、妹さんはジッと俺を睨みつけるように見ていた。その顔に見覚えがあると思った瞬間に、それが誰なのか思い出して俺は固まった。もう会うこともないと思っていたのに、まさか、こんなところで会うとは、しかも兄嫁の妹さんだったとは。

やおら親父が口を開き、自己紹介が始まった。まず、うちの面々が自己紹介をし、そのあと相手側の面々が自己紹介をした。兄の嫁さんになる人は小百合さんというらしい。年は29歳ということだ。そして妹さんは久美と名乗った。年は26歳ということだ。そうか、本名は久美さんというのか。堅苦しい挨拶が終わり、気軽な会食が始まった。俺は車で来ていたのでお酒は遠慮した。途中トイレに立ち、トイレから出ると、久美さんが俺を待ち受けていた。

「後でちょっとお話したいのだけど、携帯の連絡先を教えてくれる?」

「前と変わってないよ」

「そんなのとっくに消したわよ。改めて教えて」

俺はスマホを取り出し、登録したままだった久美さんの番号にワン切りした。登録してある名前は“ミクちゃん”になっていた。


俺の名前は藤岡智也、現在28歳の独身だ。中堅の私立大学を卒業して、中堅の食品加工会社の営業をしている、ごく平凡なサラリーマンだ。営業をしていると、取引先の担当者と接待や付き合いでキャバクラやクラブに飲みにいくこともあるが、同年代の担当者と仲良くなると、たまに風俗にも行くことがある。さすがに風俗の領収書を経費で落とすわけにはいかないので、自腹なのだが、会社の同僚はみな既婚者で、風俗には行かないまじめな人ばかりだったので、そういうところへ行く機会がなく、俺としては、取引先担当者との親睦を言い訳にして結構通った。風俗といっても本番なしのファッションヘルスなのだが、何件か通った末に、俺たちのお気に入りの店ができた。“青い麦”という、かなりリーズナブルな店で、それでいて清潔感があり、女の子も可愛かった。俺はその店でミクちゃんという娘が気に入り、毎回指名していた。最初は取引先の担当者と一緒のときしか行かなかったので月に1回くらいのペースで通っていたのだが、3か月くらいしてからは、一人でも行くようになり、ミクちゃんとは月に2回か3回会うようになった。半年もした頃には気心が知れて、個室の中で様々な世間話もするようになった。両親はいなく、お姉さんと二人で暮らしており、今お姉さんが病気で仕事を休んでいるので、昼間の仕事だけでは生活できないから週に3回か4回、風俗で働いていると言っていた。連絡先も交換して、行くときは事前に出勤確認もしていた。こんど外で食事でもしようという話までしていた。ところが、通い始めて10か月くらいした頃に突然ミクちゃんは店を辞めた。連絡しても電話には出てくれず、LINEも既読すらつかなくなった。それが1年ちょっと前の話だ。そのミクちゃんが、兄嫁の妹だったとは。


会食が終わり、自分のマンションに帰ろうと車を運転していると電話が鳴った。ハンズフリーで電話に出ると久美さんだった。

「今どこ?」

「もう帰ろうと運転しているところ」

「あと5分で駅に着くから、迎えにきてよ」

「お姉さんや叔父さんたちはどうしたの?」

「お姉ちゃんは結婚式の打ち合わせがあるからと、正彦さんと一緒に式場に行ったよ。叔父さん達はタクシーで帰った」


久美さんを駅前で拾い、郊外のファミレスで向かいあって座った。正面からミクちゃんの顔を見ると、あの頃を思い出してしまう。今でもこの服の下の胸の形や触り心地などが、鮮明に思い出される。俺は視線をずらし、運ばれてきたコーヒーカップを見ながら言った。

「驚いたよ。ミクちゃんが兄貴の彼女の妹さんだったとは」

「こっちこそ驚いたよ。あの当時のお客さんとは全て連絡を絶って、もう会うこともないと思っていたから。それより、ミクと呼ぶのはやめてよ。私は久美です。」

「わかった。それで、話とは?」

「私が風俗で働いていたことは、絶対に内緒にして」

俺はジッと久美さんの顔を見た。

「お姉ちゃんも知らないことなの。私があんなところで働いていたという理由でお姉ちゃんの結婚が破談になったら、私は償いようがないから」

俺は何も返事をせず、黙っていた。

「ダメ?何なら口止め料として60分コース、サービスしようか?」

「何言ってるんだよ。もう風俗は辞めたんだろ?」

「うん」

「だったら、そんなことは言うなよ。俺は何も言わないよ」

「本当?」

「俺は風俗という仕事に偏見は持ってない。そういう仕事をしていたからと言って見下すこともない。ただ、そうは思わない人もいる。兄貴はそういう人ではないから、別に言っても問題ないと思うけど、あえて言う必要もないだろ?それにお姉さんが知ったら、自分が病気で仕事をしてなかったので妹に苦労かけたと、負い目を感じてしまうだろうし、言わない方がいい。そもそも結婚するのは久美さんではない。兄貴と小百合さんなんだから、久美さんがどういう仕事をしていたかなんて、あの二人には関係ないだろ?」

「ありがとう。そう言ってもらえると助かる」

「それでお姉さんの病気はもう大丈夫なの?俺は、そっちの方が心配なんだけど」

「うん、それは大丈夫。仕事のストレスでうつ病になったんだけど、ちゃんと薬を飲んで、1年休業したらなんとか治癒した」

「でも仕事に復帰したら、また再発するんじゃないの?」

「仕事は辞めた。正彦さんには事情は話していて、正彦さんも働かなくていいって言ってくれたみたい」

「そうか、それなら良かった。ところで、兄貴達が結婚したら、今のところに一人で住むの?」

「今のマンションは一人では広いし、私の給料では家賃が厳しいから、ワンルームマンションに引っ越す予定」

「引っ越しに人手がいるときは言ってくれ。手伝いに行くから」

「ありがとう。引っ越し業者に頼むから人手は大丈夫だと思う。それより、本当に60分コース、サービスしなくていいの?」

俺は一瞬迷ったが、心を鬼にして断った。


兄貴達は、無事に結婚式を終えた。久美さんは小百合さんの花嫁姿を見て泣いていた。それを見て、俺も思わず涙ぐんでしまい、兄貴から「智也がそんなに喜んでくれるとは思わなかった」と誤解されてしまった。久美さんは独り暮らしを始めたようで、結局俺は引っ越しの手伝いには呼ばれなかった。


兄貴達が新生活を始めて3か月くらい経った頃、俺は用事があり実家を訪れた。早々に用事を済まし、帰ろうとすると兄貴が呼び止めた。

「智也、小百合がおでんをたくさん作ったので夕飯食べていったらどうだ」

「いや、遠慮しておくよ」

「そうか、じゃあせっかくだから、おでんを持って帰って家で食べろよ」

兄貴は俺の返事を待たずに小百合さんにおでんをタッパーに詰めるように指示している。少し待っていると、小百合さんがタッパーを入れた袋を2つ持ってきた。

「悪いけど、久美にも1つ持っていってくれないかな」

久美さんのマンションにはまだ行ったことはないが、場所は知っている。実家から車で15分くらいのところで、俺が自分のマンションに帰る通り道だった。


久美さんのマンションの斜向かいにあるコインパーキングに車を入れ、おでんの袋を持ってインターフォンを鳴らした。

「あれ?智也さん?どうしたの?」

「義姉さんから、おでんを持って行くように頼まれた」

俺はそう言ってカメラにおでんが映るように持ち上げた。

「じゃあ、あがって」

ロックが解錠されドアが開いた。エレベーターで3階にあがる。部屋の前でピンポーンと呼び鈴を鳴らすと、すぐにドアが開いた。

「わざわざありがとう」

「うん、じゃあこれ」

俺はそう言っておでんを渡した。

「智也さんは実家で食べてきたの?」

「いや、俺にも家で食べろと、おでんをもらったから、家に帰ってから食べようと思っている」

「だったら、これから一緒に食べようよ」

「俺の分は車に置いてきたから」

「とってきなよ。その間に準備しておくから」

久美さんと二人きりで食事をするという魅力に勝てず、俺は車におでんを取りに行った。

部屋に戻ると、久美さんはローテーブルの上にカセットコンロを置き、土鍋でおでんを温めていた。そこに俺がとってきたおでんも追加で入れる。

部屋は6畳のダイニングと6畳の洋間の1DKだった。ダイニングと洋間は仕切られているが、戸が明け放たれており、ベッドがまる見えだった。俺は少しドキッとした。そんな気持ちを悟られないように、「たまにはお姉さんに会いに行っている?」とか、「通勤時間はどれくらい?」といった、どうでも良い話をしているうちに、おでんが煮えてきた。

「もうそろそろいいかな、じゃあ、ちょっと待っててね」

久美さんはそう言って、冷蔵庫からビールを持ってきた。

「俺、車だからビールは飲めないよ」

「明日は休みでしょ?運転代行を呼べばいいじゃない。なんならここに泊まってもいいし」

泊まってもいいの?それはどういう意味?どこに寝るの?同じベッドで?俺が頭の中で考えている数秒の間に久美さんは俺のグラスにビールを注いだ。こうなったら、なるようにしかならない。俺は1杯目のビールをグイッと飲みほした。


おでんをつつきながら、俺たちは共通の話題である兄夫婦のことを話した。俺は兄貴の人柄について説明し、久美さんは小百合さんの人柄などを話してくれた。兄夫婦の話題が尽きたころ、500のロング缶のビールは4本空いていた。久美さんが5本目のビールをプシュと開け、俺のグラスに注ぎながら言った。

「一緒に食事に行こうって言っていたのに、実現できなかったから心残りだったんだけど、こんな形で一緒に食事することになったね」

「これからちゃんとした形で実現すればいいじゃない」

久美さんは怪訝な顔をして俺をみた。

「俺は、久美さんと再会して、あの約束は消滅せずにすんだと思っているんだけど」

「もうそんな約束は忘れてくれていいのに」

「俺が、久美さんと一緒に食事したいんだよ」

「だったら、またここに食べに来ればいいじゃない。言ってくれれば、何か作るよ」

「そうじゃないよ。俺は、久美さんとデートしたいんだよ」

「智也さんは、私なんかより、ちゃんとした彼女を作った方がいいから、もう私とは親戚として付き合ってくれればいいよ」

「俺が月に2回も3回もミクちゃんに会いに通っていたのは、ミクちゃんが好きだったからだよ」

「あら、私はてっきり、私のテクニックが気に入ってもらえたのかと思ってた」

俺は思わず「茶化すなよ」と言って、久美さんを睨みつけた。さすがに久美さんも気まずかったのか、「ゴメン」と素直にあやまった。

「ねえ久美さん、俺たち、ちゃんと付き合わないか?」

「どうしてそうなるの?智也さんの気持ちは嬉しいけど、私の気持ちは無視なの?」

「久美さんも俺のこと、それなりに好意をもってくれてたんじゃないの?」

久美さんは、やっと真剣な顔をして俺を見た。

「確かに、智也さんに対しては、他のお客さんと違って、特別な感情をもっていたよ。でも、それはあくまでも、あのお店の中での話。お店を離れて、お客さんではなくて、一人の男性として向かい合った場合は、私は智也さんとは付き合えないよ」

「どうして?俺では役不足ということ?」

「そうじゃない。智也さんは私にはもったいないくらい魅力的な人だよ。これは私の問題です」

「久美さんの問題?」

「私は風俗で働いていた女なんだよ。それを知っている人とは付き合えないよ」

「じゃあ、将来久美さんが過去を知らない人と付き合ったとして、その人には風俗で働いていたことは一生話さず、隠し続けるということ?」

「それは・・・」

「一生隠し続けて、隠し事をしていることに引け目を負いながら暮らしていくより、すべてを承知のうえで、それを認めてくれる人と一緒になる方が幸せなんじゃない?」

「そりゃあ、そうなるのが一番だけど、そんな人はいないでしょ?」

「前にも言ったけど、俺は風俗という仕事に偏見は持ってないよ」

「仕事に対する偏見云々より、何人もの男が私の裸を見ているのよ。そんな女、嫌でしょ?」

「もし、俺と付き合ってもらえるのなら、それ以降は他の男に久美さんの裸を見られるのは嫌だ。でも、俺と付き合う以前のことに関しては、俺にはどうしようもないことだから、気にしても仕方ないことでしょ?」

「知らなければ気にしないでしょうけど、智也さんはその事実を知っているわけだから、気にしないわけないでしょ?」

「そんなこと言ったら、V6の森田剛はどうするの?」

「森田剛?」

「彼の奥さん、宮沢りえは、18歳のときに出した『Santa Fe』というヌード写真集が165万部も売れて、165万人以上の男が彼女の裸を見ているんだよ。でも森田剛はそんなこと気にせず宮沢りえと結婚している。確かに、そういうことを気にする男もいると思うけど、少なくとも俺は気にしない。そんな理由で久美さんを失いたくない。それより俺が気にするのは、久美さんの俺に対する気持ちだ。俺と付き合うのは嫌ですか?」

「嫌じゃない。出来ることなら、智也さんと付き合いたいと、ずっと思っていた。でも私にはその資格がないと思ってた」

「付き合うのに、資格なんて必要ないよ。お互いが付き合いたいとおもっているかどうかだけだよ」

「本当に私なんかでいいの?」

「俺には、久美さんしか考えられない」

久美さんは、返事の代わりに俺に抱きつきキスしてきた。お店では数えきれないほどキスしてきたが、これほど愛を感じるキスは初めてだった。これが俺たちのファーストキスだと思った。

ベッドに横たわったとき、久美さんは仔犬のような目をして俺を見た。

再会したとき、久美さんは「口止め料として60分コース、サービスしようか?」と言った。確かに、俺も男なので、久美さんを抱きしめたい、久美さんの肌に触りたいという気持ちはあったが、断った。久美さんがお店を辞めた以上、俺は久美さんとは、そういう形で肌を合わせたくなかった。久美さんが心から俺に身をゆだねて、心震える愛の行為として抱き合いたかったからだ。

俺たちは初めてのように、ぎこちなく抱き合った。

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