第五十話 イルス祭5

「がががぁぁぁあああ――!」という恐ろしい男の奇声がテラの耳に入り、テラを強引に現実へと引き戻した。

人間が発するとは思えない狂気じみた声。

その男の周囲からは人々の悲鳴が響き渡ったかと思うと、潮が引くように男の周囲から人がいなくなる。

男は血まみれになってはいるが王国兵の鎧を纏っているのが分かる。その王国兵は倒れている民衆にとどめの一撃を振り下ろす。

「民衆はみな、王国に仇なす敵だ。駆逐してやる……!!」

狂気じみた眼を光らせて辺りを見回し、次の標的を探す。

「あああああああぁぁああ――!」

その王国兵は剣を誰もいない左右に振り回しながら、テラのいる方へと走り出してきた。

「わぁ――」と周囲の人々が恐怖の悲鳴を上げ、我先へと逃げようとして押し合い圧し合いになる。その中で一人の老女が足を取られ転倒した。

狂った王国兵は老女が倒れているところに来ると剣を振り上げる。

「や、やめておくれ……」

老女は両手を頭の上にかざしながら弱々しく叫んだ。

狂った王国兵の剣先がピクリと震え振り下ろす手が止まった。王国兵は一瞬躊躇いの表情を浮かべた。

その時、王国兵に急接近する民衆の一人がいた。その手には棍棒を持っている。しかしその王国兵は老女を見下ろしており、その者は死角となっている。棍棒の強打が王国兵の腹部を直撃し、王国兵はひっくり返った。その隙に倒れていた老女は一目散にその場を離れた。棍棒を持っていたものはすぐにどこかへと消え失せていた――。

襲われた王国兵はゆっくりと立ち上がる。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ――」

王国兵は狂ったように叫び声を上げ再び走り出した。黒目は完全に裏側に回ってしまい血走った白目を剥き出し、口角からは泡を吹き出している。

王国兵は押し合い圧し合いをして逃げられない民衆を容赦なく切り捨てた。狂った王国兵が剣を振るうごとに深緋の血煙が沸き上がる。

王国兵は見えない敵からの襲撃によって精神に異常をきたしてしまい、目の前にいる者たちを誰彼となくを手にかけ続けている。すでに狂った王国兵がテラたちのすぐそばまで迫っていた――。

「二人とも、先に行くんだ!」

アヴァンはそう言うと二人を先へと押しやった。エルサは後ろ髪引かれるような表情でアヴァンを見つめるがテラを引っ張って先を急いだ。

ついに王国兵がアヴァンの眼前に現れた。その鎧と剣は返り血を浴びて深紅に染まっており、返り血の匂いでむせ返りそうだ。

「やるしかないんだ!!」

アヴァンは拳を強く握りしめて王国兵に立ち向かう。体の震えが少し治まったようだ。力み過ぎたのか爪が食い込み、握り拳からは一筋の血が滴り落ちた。

「がががが……」と王国兵は人間とは思えない咆哮を上げ、剣を大上段から思いきり振りかぶる。

しかし、その動きには無駄が多い。

アヴァンはその剣筋を見極め右に躱す。

王国兵は怒りの声を上げて次は鋭い突きを繰り出す。

避けて体勢を崩していたアヴァンにこの突きは避けられない。

ああ、おれはここで終わりか……二人とも無事でいてくれ……。

キーンと金属音が鳴り響く。

アヴァンが目を開くと、王国兵の剣が天高く舞っていた。

目の前に突然現れた者が剣を収める。その者が王国兵の剣を弾き飛ばしてくれたのだ。

「危ないところでした……」

その者がフードを取ると亜麻色の長髪が零れ落ちる。アヴァンを救ってくれたのは女性の騎士だった。

「ありがとうございます。なんとお礼を申したらいいのか。あなたは命の恩人です」

アヴァンは深く頭を下げた。

「娘と妻が先に逃げているんです……わたしも追いかけないと」

アヴァンは再度お辞儀をすると、急いで二人の元へと駆けて行く。

「そちらには私の師匠が行ったので、安心ですよ……」と女性騎士は言ったが、

どうやらアヴァンには届いていなかった。


テラ、エルサ……どこにいるんだ……。

アヴァンは多くの群衆の中から必死で二人の影を探す。

「王国兵が民を虐殺しているぞ!!どうやら王の命らしい!!」「俺たちも武器を取れ!!」

そのような声が悲鳴の合間に飛び交っている。

そんな、なんてことだ……。早く二人を見つけないと……。

アヴァンの気持ちは急くばかりだ。


ドンという轟音と共に石畳の破片が飛び散り砂煙が上がる。

砂煙の中から現れたのは……、怪力のアイザックだ!アイザックが振り下ろした巨大な青銅の槍が王宮の石畳を砕いたのだ。

アイザックは巨大な槍をブンっと一振りした。その一振りで王国兵と民衆の数名が一瞬にして血霧と化した。

一体、何がどうなっているんだ!?

アヴァンは混乱した。アルテマ旅団が王国兵と民衆に襲いかかっているのだ。

まだ燻っている砂煙の合間に、二つの赤髪がチラリと目に入った。一人は肩まで下ろしており、もう一人は腰の辺りまでお下げが伸びている。

「テラ、エルサ!」

アヴァンは声が嗄れんばかりに叫んだ。

やっと二人を見つけた……。

アヴァンの声は周りの悲鳴に掻き消されてしまい二人の耳には届かない。

アイザックが再び槍を振り回そうと構えた。二人はアイザックが現れたことに気がついていない。あの距離だと巻き添えになってしまう可能性がある……

「やめろ!!!!」

アヴァンは心の底から叫んだ。

アイザックの槍はまるで時間が引き延ばされたようにゆっくりと円周状に振り回される。次第に周囲の騒音は凪いでいき、自らの心の臓の音だけが聞こえるような気がする。

必死で足を前へ前へと出して二人の元へ行こうとするが、体は遅々として進まない。

エルサがアイザックの槍に気がつき、テラを護ろうとテラに覆い被さる。

このままでは間に合わない……。槍の一薙は確実に二人へ迫っていく……。

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