紅玉果と乳酪の焼き菓子

 ふわりと温かく甘い香りがする。小さなふつふつという音に耳を澄ませて、彼女は──メルリーゼは、薄く切った紅い果物を甘く煮ていた。

「ねえ、イェソド」

 振り返らないまま背後へ声を掛ける。硬い銀色の髪の男性が無表情にたたずんでいた。彼はイェソド、貴族の令嬢であるメルリーゼの護衛にして、召喚魔術師でもある彼女に仕える異界の英霊だ。

「いかがなさいましたか」

「そんなところで黙って立っていないで、もっと近くで見たら?」

 メルリーゼは果物を火から下ろし、今度はイェソドを振り返る。彼が動くのを見て調理台に向き直り、温かい部屋で柔らかくした乳脂バターを滑らかに混ぜ、砂糖を加えてなじませる。それから、別の小さな壺を手に取った。

あるじ様、それは塩です」

 イェソドが声を上げる。メルリーゼは驚き、彼の意図に気づいて笑う。

「大丈夫。入れるのは少しだけよ」

 そう言って塩をひとつまみだけ加え、さらに穀物粉と膨らし粉をふるい入れた。一塊になるまで混ぜて平らに延ばし円形の金枠で抜く。窯に入れ焼き始めると、やがて香ばしい匂いが辺りに漂い出した。焼けた穀物と飴化した砂糖ととろけた乳脂の匂い。途中で一度向きを変え、焼き切らずに窯から出した。冷ましている間にもう一つの生地を作っていく。

 白く柔らかな乳酪チーズに砂糖をすり混ぜて緩め、卵黄、続いて卵白、生乳の順になじませ伸ばしていく。続いて硬い乳酪チーズと削り器を取ったメルリーゼは、ふと隣のイェソドを見上げて微笑んだ。

「そうだわ。せっかくだからこれ、削ってくれない? 細かくね」

 彼女の微笑に一瞬、わずかに目を見張ったイェソドは、いぶかしまれるより先に削り器を受け取って乳酪チーズを削り入れる。長く熟成されたらしく黄みの強いそれはかんばしく、削るといっそう香り高い。

「その辺りで良いわ。ありがとう」

 メルリーゼは全体を軽く混ぜると酸味の強い柑橘を絞る。酸で締まった生地はもったりと固く、混ぜる木べらが重い。最後に穀物粉をふるい入れて混ぜた。焼いておいた生地の上に半分を流し込み、薄甘く煮た紅玉果を並べて、その上にもう半分を流した。表面を整え、再び窯に入れ焼いていく。

「お父様と……サラは、喜んでくれるかしら?」

 窯の中に揺れる火を眺めて、メルリーゼはふと目を伏せる。彼女がサラと呼ぶのは弟であるサラファスのこと。彼女の密かな想い人のことでもあると知っているのは、この屋敷ではイェソドだけだ。

「私にはわかりません。──この世界の者の味覚と、感情は」

「そうだったわね。でも味見は付き合ってもらうわ。貴方がいるのに一人で味見していると、何だかむなしいもの」

 臣下の嘘に気づかない主は、窯から菓子を出し苦笑する。

 差し出された一切れの焼き菓子は、つややかな黄金色に紅玉果が映えて美しい。密に詰まった生地は滑らかで濃厚で華やかな芳香をまとい、硬く焼いた台の香ばしさと、さくさくと食感の残った紅玉果の爽やかさによく引き立てられている。美味しい。これから他の者の口に入るのが惜しいほどに──分かるというのは幸せで、なおかつ切ないことなのだ。

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後日談の食卓 白沢悠 @yushrsw

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