第4話 1人目の死者

 僕、中津アキトと3人の女子高生は、閉ざされた空間に囚われている。


 東雲しののめあい南条なんじょうキサラ、西川めぐみ

 全員が、同じ年齢の高校生だ。


 頭と両足に外せない器具が取り付けられていて不快だ。

 僕らはガスマスクを着けた何者かに襲撃され、薬品を嗅がされて気を失い、窓のない部屋で目覚めた。


 手元に残った持ち物はスマホだけ。

 それも普段使っているアプリや、外部への通信手段がすべて削除された状態。


 たった1つ、新たにインストールされたアプリの名前は『ミノタウロスの迷宮』……。


 アプリをスタートすると、カメラが起動し、現実にはない筈の物がAR上に映し出された。

 まずは『ドアノブ』だ。

 現実のドアには潰されたのか、ドアノブ部分が存在しない。


 しかしAR上のドアノブをひねると電子音が鳴り、連動して鋼鉄のドアが開く仕組みだった。

 スマホがなければドアさえ開けない、そんな空間らしい。


 確認できるのは、僕達が最初に居た部屋。

 剥き出しのコンクリートで作られた殺風景な廊下。

 廊下の先は前後に、それぞれ大きな扉があり、通路を挟んで向かいには、トイレがある。


 ご丁寧にドアに付けられたネームプレートもAR上だけだ。

 スマホ越しじゃなきゃ部屋の用途も分からないってワケ。



「……私達が居た部屋は何なのかしら?」


 西川さんが後ろを振り返り、ドアを半開きのままネームプレートを確かめた。

 僕も気になって彼女に習ってスマホを翳す。


CAGEケージ……檻、ね」

「僕達は檻に閉じ込められてたって事?」

「そうらしいわ」


 どこまでもバカにした連中だ。


「……とにかく他の場所を調べてみましょう。今のところ、連中の気配もないし」

「そうだね」


 僕らは頷き合うと、一緒に行動しながら手を伸ばせる範囲を探索していく。

 まずレストルーム、トイレと書かれた場所は普通にトイレだった。

 水道もあるし、洗面台も。

 概ねが電子制御なのが気になるけれど、それぐらい。


 廊下や部屋がコンクリート剥き出しだっていうのにトイレには清潔感があった。

 少なくとも何年も放置されてそのままって雰囲気は、この場所にはない。


 廊下やその他の灯りもLEDの壁埋め込み式で、蛍光灯式じゃないんだ。

 古臭い建物じゃあないって事か。


 そもそもドア類の全てが電子ロックでスマホのアプリと連動しているみたいだし。

 トイレのドアだけ主導のロック式なのが笑えるぐらいだ。

 幸い、今は誰もそういう気分じゃない。


「問題なのは2つの扉か」


 伸びた廊下の前後にそれぞれ大きな扉がある。

 それらの扉にもAR上でネームプレートが張られていた。


『LABYRINTH』

『EXIT』



「LAB……、何?」

「ラビュリンス。……ミノタウロスの迷宮、ラビュリントスへの入口って事じゃない?」

「ああ。それで向こうは」

「『出口』だね!」


 と元気に藍が答えた。


「えっと。出て行っていいって事かな?」

「……こんな事をしておいて?」

「そうだけど」


 迷宮と出口。そのどちらかに進めと問われたら、余程の冒険野郎じゃない限り、出口だろう。

 考えるまでもない二択。だからこそ悩ましい。


「この場に留まっても事態が好転するとは思えないわよね、恵ちゃん」

「……まぁ、そうね」

「じゃあ2つの扉のどちらかに進むしかない」

「そう」


 大きな扉の2つは、ドアノブとは違い、扉の横にハンドルがある。

 船の総舵輪のような輪だった。

 これもAR上に再現されている。おそらく回せば開く仕組みなのだろう。


「脱出ゲームみたいだな」

「みたいじゃなくて、そのものじゃないかな?」


 と。南条さんが、首を傾げながら言う。


「やっぱり?」

「うん。何かをさせたいって言うなら、たぶん」

「だけど理由は? なんで僕らなんだ」


 そりゃあ確かにここに居る3人は、なんていうか美少女だ。

 何かしらの企画に巻き込みたいって言うんなら十分に映えるだろう。

 けど、僕はどうなんだ?


「……ディー・バンク。そのイベントが目的で、人気ひとけのないあの場所へ移動したのよね?」

「あっ」


 藍が息を呑む声が聞こえた。僕も同じ反応をしたかもしれない。


「D・バンクの運営か何かが黒幕って事!?」

「可能性は高いんじゃないかしら。あれ、個人情報の登録が必要って聞いた事があるわ」


 そうだ。そうだよ。

 D・バンクは利用する際に個人情報の登録が必須だ。生徒手帳までも。

 ポイントは実質、タダに近い。

 AR上の宝箱を探してポイントをゲットするだけ。

 それで買い物まで出来ていた。


 利用すれば利用する程、個人のあらゆる情報がデータとして集積されていっただろう。

 もしも、そんな情報を悪用する目的で企業が動いていたとしたなら。


 冷や汗がダラダラと背中を伝った。

 これは大人からの警告なんだろうか。あんな都合のいいアプリなんてない、なんて。


 だけどD・バンクを使っていたのは僕らだけじゃない! なのに!


「くそっ!」

「最悪……。アキトぉ……」


 藍が泣きそうな顔で僕に縋って来る。僕だって泣きたいくらいだ。

 なんでこんな事に。

 収集されたデータから目を付けられてしまった?

 いや。僕がターゲットじゃないのかもしれない。


 だって、これが何かの悪しき企画で、連中はこの光景を見ているって言うのなら。

 南条キサラ、西川恵、それに藍だって。最高の見た目だろう。映え重視ってヤツだ。


 僕は、この3人が揃う場にただ一緒に居合わせてしまっただけのモブ……なのかもしれない。


 だったら僕だけでも家に帰して欲しいと思った。

 そんなの、ただのアンラッキーじゃないか。



「恵ちゃんってD・バンクやってなかったんだ?」

「……うん。流行ってるのは知ってたけど」

「誰からも教えて貰わなかったの?」

「そういうのとも……。前の学校でも流行ってたから」

「そう? じゃあ恵ちゃん個人が手を出さなかっただけなんだね」

「うん」


 西川恵は転校生だ。1週間前に転校してきたばかり。

 南条キサラは、僕の学校にD・バンクを広めた張本人。


 ……彼女の真似なら誰もがしたがった。

 だって南条さんは、僕らのアイドル的存在だったから。

 女子達だって、こぞって彼女に追従していった。


 藍もそんな女子達の1人に過ぎない。



「今更だけど、南条さんと西川さんて知り合いなの?」

「うん? どうして?」

「恵ちゃんって親し気に名前を呼んでるから」

「……知り合いじゃないわ。彼女が親し気なだけ」


 西川さんは、そう答えた。そうなのか?

 でも南条さんは誰に対しても人当たりがいいもんな。


「それより、どうするの? 大人しく『EXIT出口』に向かうの?」


 西川さんが再度、僕達に問題を投げかけた。


「そりゃあ……」


 迷宮と出口の二択。やはり考えるまでもないように思う。

 でも、この状況を仕組んだ連中がすんなりと帰してくれるとは思えなかった。


「……とりあえず開けてみたら良いんじゃない? ちゃんと開けれるのかも分からないし」

「たしかに」


 実は出口の扉を開くのに何かの条件を満たす必要がある。

 なんて、ありえそうな話だ。


「……」

「恵ちゃんは何かある?」


 南条さんが、西川さんに意見を求める。


「……制限がないなら、あっちのラビュリントスへの扉も同時に開いてみるべきかなって」

「ええ? それで出口が開かなくなっちゃうとかない?」

「どっちも開けないとかは最悪だけど。でも迷宮の中がどうなっているのか興味はあるな。僕が迷宮の方を開こうか?」


 どちらの扉を開くのが危険か。

 出口に危険な響きはないけれど、状況が胡散臭すぎる。


「恵ちゃんは出口が罠だと思うの?」

「……うん。私は、そう思う。でも、そう思う事も連中は想定しているかも」

「考えたって分からないじゃない?」

「そうね。悩むだけ無駄な事でもあるの。今ある情報だけで正解を選べるワケがないわ」

「うーん」


 仮に出口側が罠だったとしても、迷宮側が正解とも思えないんだよな。

 だって、きっと連中は僕らを迷宮の中に誘い込みたいんだ。


「……私がラビュリントスの扉を開くわ。中津くんは出口の扉を開けてくれる?」

「いいの?」

「うん。どっちも危険度は同じだと思うし」

「たしかに」


 考えて答えが出る問題じゃない。

 僕は西川さんの答えに身を委ねる事にした。


「じゃあ、私はアキトと一緒に」

「藍は相変わらずだなぁ」

「えへへ」


 僕の傍には、いつも藍が居た。今もだ。

 ずっと、これが当たり前だったよな。


「じゃあ私は恵ちゃんと一緒だね」


 と、南条さんは好意的に西川さんの腕を取って廊下の向こうへ進んだ。

 ウチの高校、ナンバーワンとツーの美少女コンビだ。


 その2人が仲良く手を繋いで歩いている。

 あの姿こそ写真に収めておけば、あとで自慢になりそうだよな。


「……南条さんが西川さんと一緒に行きたがったんだよね」

「え? うん」

「やっぱり2人って意識し合ってるのかな?」

「してるのは片方じゃない?」

「……まぁ」


 僕は藍と内緒話をする。彼女の顔がすぐ近くにあるけど、もう慣れた距離感だ。


 誘ったのは南条さんの方。

 西川さんはD・バンクさえ登録していなかったと言う。

 じゃあ、僕以上に西川恵は今回の件、とばっちりだったんじゃないかな。


 僕達を誘拐した人間の思惑は分からない。

 ここを出たら……とりあえず警察か。

 皆が無事に帰れると良いな、と思う。それが一番大事な事だろう。


「……開くよ!」

「ええ!」


 少し声を大きめにして廊下の端と端でやり取りをする。


 僕は、スマホを掲げてARハンドルを映し出し、そして回し始めた。

 ご丁寧にキィキィという音が鳴り始める。


「音……。スマホ以外から鳴ってる?」

「随分な作りだな」


 この場所は一体何なんだろう。

 ARと建物の中のギミックが完全に連動している。


 しっかりと目的が統一されて建てられた建造物だった。


(D・バンクは、この施設に誘い込む高校生を選定する為のアプリだった?)


 だったら、もう二度とあのアプリは使わない。

 もしかしたらスマホ内の全てのアプリを削除してしまったのも、あのD・バンクだったのかも。

 そう考えると、理不尽さに僕は腹を立てた。


「……開くわ! ラビュリントスへの扉が!」

「こっちもいけそう! 出口が開くよ!」


 両極端。光と闇、白と黒ぐらいに違う2つの道。


 電子制御で開いていく出口の扉の先に広がっていたのは……広い空間だ。

 だけど、外じゃない。


「どこが出口……?」

「フェイクかよ」


 そこは初めの部屋『ケージ』の部屋とサイズ感こそ違うけれど、似たような部屋だった。


 大きめの立方体の中のような空間。

 扉らしき物さえも見えない。


「くそっ。騙しやがって!」

「何なのよぉ!」


 考えてみれば、それはそうかもしれない。

 だって人間4人をわざわざ誘拐して、押し込めたような犯人なんだ。


 それなのに最初の一手で『出口』があって、その先が外なんて簡単な話のワケがなかった。

 ……黒幕は、期待を裏切られる僕らの姿をどこかで見て笑っているんだ。


 くそっ。



「……こっちは、また部屋があるわ! 四角い部屋。ケージの部屋と同じような部屋だけど、ドアがさらに2つあるわ!」


 西川さんは、廊下の先からでも聞こえるように声を上げた。


「じゃあ、あっちが正解か」

「結局、迷宮に足を踏み入れないといけないんだね……」

「そうらしい」


 なんて悪趣味な二択だったんだろう。じゃあ、こっちの扉は無意味だったって事じゃないか。


「……そっちはどう!?」

「こっちは何もないよ! 大きな四角い部屋があるだけ! ドアも大きな扉も見当たらない! 行き止まりだ!」


 僕の答えに西川さんと南条さんが目を見合わせる。

 あっちの道を探索していくしかないらしい。


「……ARは!? スマホの画面は確認した!?」

「AR?」


 あ、そうか。肉眼で、現実に何もなかったとしても。

 この空間ではAR上に何かがあるのかもしれない。


「ずっとここに居たら、すぐにバッテリーが切れそうだな」

「たしかにね!」


 僕と藍は、なんだか笑い合いながら再び『出口』の扉の先にあった空間に目を向けた。


 現実には何もない。誰も居ないだけの広い空間。


 スマホを通して見るセカイには……。



「…………え?」

「ん?」

「誰か、居るよ。アキト」

「え」


 藍は、逸早くそれを見つけた。

 僕は現実の藍の視線を追い、スマホをその方向へと向ける。



 ──暗がりに人影があった。


 全身が影に覆われて見えないのは、現実世界とスマホの世界で微妙に光量が違うからだと気付く。

 AR上の人物は、影だけで描写され、現実の光の下には姿を現さない。


 スマホの向こうのセカイは薄暗く、ほとんど光が差していなかった。

 まるで本物の迷宮のように。


 人影以外に怪しいモノは見当たらない。

 扉らしきモノもない。やはり、ここは『出口』なんかじゃなかったんだ。


 或いは、やっぱり何かの『条件』を満たす必要があるのか。

 その条件を満たす事で初めて迷宮の外へと続く扉が現れるのかもしれない。



「ねぇ、あの人に聞いてみればいいのかな? 出口はどうやって開くんですかって」

「そんな簡単な話?」

「何事も対話ありなのが令和の人間だよ、アキト」


 そういう問題かなぁ。

 だけど、他にヒントもなさそうだし。

 あっちはあっちでまたドアが2つだ。


「でも話し掛けるって普通にすればいいの? 現実には誰も居ないんだけど。スマホに話し掛けるのかな」

「うーん。音声認識とかされてたり?」


 どうかな。扉の電子制御とはちょっと違うだろう。

 だって僕達が立っている場所は、その都度変化してしまう。


 となるとスマホに話し掛けるのが一番だろうか。


「AR上の人物って。AIか何かで作られてるのかな? 音声認識が前提ならさ」


 リアルタイムで誰かが受け答えしているのなら、それはそれで間抜けだ。

 僕は、腕を取ってくっ付いてくる藍と一緒に、人影へと近付いていく。


「あのー。もしもし、ハロー?」

「英語圏の人なの?」

「いや、ネームプレートがだいたい英語だし」


 人影は呼び掛けても反応しなかった。

 音声認識機能は備わってないのかもしれない。


 ……おそるおそる近付いているけれど、よく考えてみたら所詮はAR上に描写されたCGに過ぎない存在。


 何も怯える必要なんてないじゃないか。


 スマホの・・・・向こう・・・にあるのは、ただの絵だ。



「アキト。何かがあっても私をちゃんと守ってね」

「藍は甘えん坊だなぁ」

「こういう状況なんだから仕方ないでしょ。……格好いいところ見せてくれたら。……私、アキトに言いたい事とか、あるし」

「えっ」


 藍の雰囲気はいつになく、女性的だった。

 女の子らしい可愛さ。そこには、ただの幼馴染の友人は居なくて。


 ゴクリと唾を呑み込んだ。

 この事件が無事に解決したなら、僕達は……正式に関係を変えるのかもしれない。



「あ、近付くと姿が見えるようになるみたい」

「本当だ」


 AR上の人物は離れている場所では、ただの黒い影に過ぎなかった。

 けれど、近付く程にその姿が鮮明に描写されていく。


 足元から……。どうやら体格からして男のキャラクターのようだ。


 酷く原始的に見える服装で腰から下を覆っている。

 上半身は、裸? かなりの筋肉質な男だ。


「ムキムキなキャラだね」

「そうだな。羨ましい」


 彼は、どうやら何かを食べている様子だ。


「あ、音」


 すると、またARと連動した音声が響く。


 クチャ、クチャ、バキィ。



 ……咀嚼音。骨付き肉でも食べていて、骨ごと噛み砕いたようなワイルドさ。

 随分と野性的なキャラクターのようだった。


「きゃっ! 何!?」

「なんだよ、藍」

「……このキャラが食べてるの」

「ん」


 僕はスマホの画面を地面側に向ける。そして男が食べている肉が何かを突き止めた。


「うわっ。まさか人骨? こいつ、人間を食べてる設定なのかよ!」


 不気味だな。


「現実に居たらチビりそうだ」

「ホント。悪趣味ぃ……」


 だけど、男が居る場所はARに過ぎなかった。現実には人間を食べる怪物なんていない。


 試しにスマホをどけて見ても、ほら。

 現実世界では、ただの広い空間に過ぎなかった。


 だったら何も怖い事なんてない。


「もしかして、この脱出ゲーム」

「うん」

「こういう『敵キャラ』を倒してレベルを上げていくロールプレイングゲームなんじゃないか?」

「え、そういう系?」


 スマホ上に再現するだけなら何でもアリだ。

 各個人のスマホにレベル設定とかがあって、モンスターを倒す度にレベルが上がる仕様かもしれない。


 丁度、僕らの人数も4人。ははは。なら、僕は『勇者』かな?


「ちょっと楽しくなってきたな。本当にただのお遊びなら楽しんだ分だけ黒幕を赦してやらなくもないけど」

「なんか抜けてるよねー」


 僕と藍はそんな軽口を叩いた。


「……ねぇ。何かあったの?」


 向こう側から様子を見に来た西川さん達が、この部屋の入口まで戻って来た。


「こっちにモンスターが居たよ」

「え、モンスター?」


 あれかな。もしかしてAR上に向かって殴りかかれば倒せたり?

 何度か攻撃しないとダメだろうか。


 スマホを掲げながらだと微妙にしんどいな。



「何か居るわね、恵ちゃん」

「……ラビュリントスに居る、モンスター。そんなの」


 南条さんと西川さんの声が耳に届く。


「やっつけちゃうの? アキト」

「そうだな」


 ここで女子達よりも先にレベルアップしたら、なし崩し的に僕が彼女達を導く存在になるかもしれない。


 僕らが生きている場所は、あくまで現実だけど。

 レベルアップしてチートな存在、ってヤツを疑似体験だ。


 お誂え向きに美少女が3人、傍に居てくれる。


「よし。こいつを倒してやる」


 僕は、3人の前でいい格好をして見せようとした。

 モンスターを倒す雄々しさなんて、現実世界では中々アピールできることじゃない。


 あわよくば南条さんに好意を抱いて貰えるかもだし。

 美人でクールだけど、意外と優しい西川さんにデレっとした態度を取られる未来もあるかも。


 僕にはやらない理由がなかった。ここは、まるで異世界だ。

 僕は物語の主人公になった気分でAR上の男を思い切り殴りつけた。



「ま、待って! ダメ!」

「え?」


 僕の拳が空を切る。当たり前だ。

 怪物が居るのは、所詮は空想の世界。現実にまでこいつは手を伸ばす事が出来ない。



『──オ』


 と。怪物は食べていた餌……人骨を放り出し、振り向いた。

 影のヴェールが晴れていく。


 現れた男は人間の身体。そして。


「牛?」


 牛の頭をしていた。ああ、こいつの名前は。



『ォオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!』


 凄まじい音量の咆哮。

 僕らの居た部屋全体から響き渡った。ビリビリと空気が震える程に。


 まるで本物のモンスターが目の前に居るかのような臨場感。


「怖っ……何なの、ビックリさせないでよ」

「は、はは。効かないぞ、モンスターめ!」


 僕は藍の手を振りほどいて、なんちゃってボクサースタイルで拳を握り締める。

 でも、それだとスマホ画面が見えないから敵も見えなくて、なんだか間抜けだ。


「なんかパッとしないな」


 どうせなら3Dメガネみたいな物を頭に着けてくれたら良かったのに。

 メガネ越しにモンスターが見えた方が動き易い。


 僕らの頭にこんな変な器具を着けるぐらいなら、その方が。



「……器具?」


 僕は、ひとつ。失念していた事があった。

 今、僕らの頭部には謎の器具が取り付けられている。

 両足にも足枷が。


 これらは一体、何の為にある?



『ォオオオオオオオッ!!』


「だめっ! 逃げて、2人共!」


 逃げるって。なんで


 ──バヅン!


「あぎっ!?」


 瞬間。僕の身体を何か強烈な刺激が駆け抜けた。


 あっと言う間もなく、全身が硬直し、脱力する。



「え、あっ、今の、何。なんかビリッとした」

「か……は、」


 ビリッと。隣に居た藍の言葉に違和感を覚えた。

 そんな程度の衝撃じゃなかった。今のは。


「逃げて! 逃げなさい! 2人共、こっちへ! 早く!」

「え、あ……うん?」


 西川さんの必死の声に促されて引く藍。

 僕もそれを追いかけようとした。だけど身体が動かない。


「アキト?」

「うあ、ぅ、ア……」


 動けない。駄目だ。足が動かない。

 辛うじて動くのは……手だけ。


 僕は、ほぼ無意識にスマホを掲げた。目の前に居たのはモンスター。


 牛頭、人身の怪物。ミノタウロス。

 ここは、こいつの名前が付けられた迷宮だ。



『ォオオオオオオオオオオオオッ!!!』


 再びの咆哮。そしてミノタウロスは僕に喰いつくように迫ってきて。


(やめ、逃げ、)


 動かない。



「あぶばばばばべびゃぎがぎゃ……ッ!!」


 スパークする。

 すべてが。視界も。思考も。


「────!?」


 藍が何か叫んだ。聞こえない。認識の途中で脳が焼かれ、思考が中断される。



「ぎゃばぶげ、ひぎがあだばががぎゃ!!」


 臭いがする。焼ける臭い。嫌な臭い。肉を焼く臭い。

 その臭いは自分の身体から。



「がぎあがががギャブびぎッ!」


 自分が焼ける臭い。身体の動きを制御できずに、地べたを這い、のたうち回る。


 痛い。痛い。痛い。熱い。熱い。苦しい。痛い。痛い。


「ぎぐばべぼびぎゃ!!」


 自分が焼ける臭い。焼けていく。崩れていく。

 すべてが。


 人間としての機能が内臓から焼かれ、消失していく。

 耐え切れず、糞尿を垂れ流した気がした。


 羞恥。苦痛。地獄。


「あぎぎぎぐぎゃべだ、やが、ぎゃ」



 痛、ダメ、お母さん、痛、助、死にたくない。

 やだ、彼女、まだ何も、お母さん、お母さん、助け

 女子、藍、セックス、夕飯、父さん、痛い、やめ



「がげがぶっあ、あがっ、あぎッ」


 視界の端に【彼女】が見えた。

 助ける。僕、彼女、死、で。


 やだ、助け、助けて、痛い、痛い、苦しい、お母さん、お母さん、僕、死にたくな



「──あ」


 そして見た。


【彼女】は、にやりと僕を見て。そして……笑ったんだ。


 最期に、その光景を、確かに見て。



 ──僕は死んだ。

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