山姥
塚本ハリ
第1話
「おや、アンタ、山登りかね?」
しわがれた声に振り向くと、そこには一人の老婆がいた。
長年の野良仕事で日焼けしたらしい、シミだらけの皺くちゃの顔。絣の野良着に地下足袋。手には小さい鎌を持ち、丸まった背中には籠を背負い、手ぬぐいを姉さんかぶりにしている。
「ええ、こんにちは。地元の方で?」
登山やソロキャンプをしていると、往々にして地元民に出会うことがある。だから出会ったときにはにこやかに挨拶をするように心がけている。時には、登山客を目の敵にするような輩もいる。ゴミを捨てたり山野草を根こそぎ抜き取ったりする悪質な登山客やキャンパーもいるからだ。だからこそ敦は、きちんと挨拶をして自分が善人であることを強調するのだ。三十代でアウトドアに目覚め、もう二十年近くのキャリアを持つ自分は、登山やキャンプもベテランの域に達している。だからこその、この振る舞いなのだ。
「はぁ、そうかいそうかい。こんなさびれたところまで……お疲れさんなこったねぇ」
老婆が歯の抜けた口で笑う。
「そちらさんも、野良仕事ですか? いやぁ、お元気ですねぇ」
「ああ、害獣用の罠を仕掛けたんでね。この先、気を付けんさいよ」
「ええ、分かりました。それじゃ……」
「ちょっと待ちんさい。これ、持っていけ」
老婆は背負い籠の中から、アケビの実を一つ、敦に手渡した。
「おお、こりゃ旨そうだ。いいんですか?」
「ああ、小腹が空いたら食えばいいべ」
「ありがとうございます。ごちそう様です」
敦は採れたてらしいアケビを手に、礼を述べる。ほら、こうやって人当たりを良くしておくと、こういう嬉しい出来事も多いのだ。
「ああ、それから。山姥には気を付けんしゃいよ。食われてまうでな」
「……へ?」
不穏な言葉を述べた老婆は、そのまま振り返りもせずに山道を下りて行った。
山姥みたいな老婆が「山姥に気を付けろ」とは、何の皮肉だろうか。敦はちょっとだけ笑った。
誰もいない山道を黙々と上る。九月下旬、彼岸を過ぎたとはいえ、まだまだ日中は暑い。敦は汗が目に入るのを拭いながらその道を進んだ。登山道の右側に、苔むした地蔵が鎮座している。地蔵の前にはカップ酒の空き瓶に花がいけられてある。先ほどの老婆のような地元民が供えているのだろう。その地蔵から右折して、小道を少しばかり進んだ。
ざぁっと一陣の風を感じた。ともすれば下ばかり向いていた視線を上げると、眼下に絶景が広がっていた。山の中腹だが、そこからの景色はなかなかのものだ。
「ほぉ……」
背負った荷物の重さも、くたびれた足腰も、この瞬間があればこそ報われる。上を見れば澄み切った秋の青空。眼下にはのどかな田園風景。左手側にはさらに頂上に向かう細い山道と湧き水があり、右手側にはいつ朽ちてもおかしくない廃屋と、もはや手入れもされず草ぼうぼうになったままの畑地。昔はここで農家を営む人がいたのだろう。離農して後を継ぐ者もおらず、土地も家も放置されたまま荒れ果てたことが想像できる。
敦はまず、湧き水で喉を潤した。そして背中の荷をほどき、テントを張り始めた。今日はここでソロキャンプである。お楽しみはこれからだ。
先ほどの老婆からもらったアケビは、ほんのりと甘くそれなりに美味だ。とはいえ種が多いのには閉口した。口の中に残った種をぷっと吐き出していた時、背後に人の気配を感じた。敦は、さりげなさを装って声をかける。
「やぁ、お先にお邪魔していますよ。あ、そこに湧き水があるんで、良かったらどうぞ」
「……あ、どうも、こんにちは」
やってきたのは二十代半ばくらいの小柄な女性。日に焼けた肌が上気している。額にかかった前髪も、汗でぺたりと張り付いていた。女性はニコッとほほ笑むと、ボトルを取り出して水を汲み始めた。彼女も一人でここまで登ってきたのだろう。鮮やかなピンクのウェアとリュックは同じブランドだろうか。まだほとんど汚れておらず、使い込んだ様子もない。靴もまだおろして間もなさそうだ。十中八九、アウトドア初心者だろう。ラッキーだ、今日は「当たり」だ。
案の定、テントを張る様子がどうにもぎこちない。敦は声をかけ、設営を手伝ってやった。真面目で控えめな性格なのだろう、何度も遠慮する様子が可愛くて好感が持てた。設営の合間にそれとなく聞いてみると、やはりアウトドア歴はまだ一年ちょっとだという。敦はここぞとばかり、アウトドアのノウハウやおすすめのギアについて教えてやった。
気が付けば日没の時刻になっている。敦と女性はコーヒーを飲みながら、沈みゆく夕陽を堪能した。
「――そう言えば、ここに登ってくる途中で、変なお婆さんに会いませんでしたか?」
湧き水で冷やしたビールを飲みながら彼女が聞いてきたのは、とっぷりと日が暮れた頃だった。
「あれだろ? 山姥に気を付けろって言った婆さんな。俺も会ったよ」
「そう、それ!」
「まったく、変なこと言うよなぁ。まぁ、昔の人の山に関する風習からくるものかもしれないけどね」
敦は焚き火で炙ったソーセージを頬張りながら、昼間の老婆を思い出した。
「私、学生時代に民俗学を学んでいたんですよ。山姥って悪いのもいれば、良いのもいるって知ってましたか?」
「へー、そうなの?」
「ええ、悪い方で有名なのは安達ケ原の鬼女ですね。能の『黒塚』の題材にもなっているやつで、妊婦の腹を切り裂いて生き胆を奪う……っていう」
「うへぇ、怖いなぁ」
「一方で、宝物を授けたり、家に福をもたらしたりする良い山姥もいるんです。見た目も二十歳前後の若くて美人な山姥もいるって」
「ふーん、君みたいな?」
「やだぁ~」
若い女性の笑い声はいいものだ。焚き火を前に、彼女はすっかり敦に打ち解けているようだ。
「あ、良かったらもう一杯飲みません? 私、赤ワインあるんですよ」
「いいのかい?」
「ええ。テントの張り方とか、いろいろ教えてもらったお礼です」
彼女は自分のテントからワインのハーフボトルを持ってきた。
「せっかくだから、グリューワイン作りましょう。はちみつとシナモン持ってきたんで。あと、ここに来る途中に採ってきた野生の柚。これを搾って入れるとおいしいんですよ」
「へー、柚なんてあったんだ」
「ここの農家さんのでしょう。誰も採らないから、そのまま放置されていたみたい」
彼女はてきぱきと作業を進め、十分もしないうちに湯気が立つグリューワインができあがった。夜風が涼しいこの季節は、こういう温かい酒も悪くない。
「それにしても今日は最高だなぁ。こんな可愛い子と、山でキャンプができるなんてさぁ。ねぇねぇ、後でLINE交換しようよ」
酔いが回ったようだ。つい無遠慮なことも平気で口にしてしまう。それでも彼女は嫌な顔一つしない。と、彼女が敦の顔を覗き込むように近づいてきた。おっと、近い近い。これはもしかしてワンチャンあるか……?
「ねぇ、さっき山姥の話をしたでしょ?」
「……? あ、ああ」
「実は、私が山姥なの」
敦の意識は、そこでぷっつりと途切れた。
「お祖母ちゃん、こっちこっち~」
孫娘の声に、祖母は足を進める。早朝の山は、冷涼な空気が心地よい。周囲には真っ赤な彼岸花が咲いている。もうそんな季節か。ここの山にはふさわしい花だ。
声の主はテントの前でのんびりコーヒーを飲んでいた。バーナーの上にはスキレットが置かれ、香ばしい匂いがここまで漂ってくる。
「ありゃ、また旨そうなモン作っているんだねぇ」
「うん、なんかリュックの中に高そうなベーコンと卵があったんで一緒に焼いているの。お祖母ちゃんも食べる?」
「そうかそうか、もらおうかね」
「OK、じゃあ半分こね。あ、あとパンもあるんだよ。こっちもなんか高級品みたい。口が奢っているよな~」
孫娘は、リュックの中をごそごそとかき回していた。そのリュックは、昨日に山道ですれ違った男が背負っていたものだ。
「……で、どうだったかぇ?」
「結構あったよ。山の中だとカードとか電子マネーが使えないじゃん? だから現金を多めに持っている人多いし」
孫娘はポケットから万札の詰まった財布を取り出した。
「そうかそうか、金だけは持っていたか。お前さんも、よくやったな」
祖母は孫娘の頭を撫でてやる。とうに二十歳を過ぎたとはいえ、彼女からすればやはり可愛い孫娘だ。
「で、アレはどうした?」
孫娘は口をもぐもぐさせながら、廃屋を指さした。
「とりあえず血抜きは済ませたよ」
「そうかそうか、じゃあ後で解体するべぇ」
孫娘が指さした廃屋は、実はまだ現役だ。昔は男衆たちが猪の解体などに使用していた狩猟小屋なのだ。電気も通っていて、大型の冷凍庫も設置している。さすがに水道はないが、沢の水を引いているので不便はない。今はこうやって、山にやって来る馬鹿どもを捕まえて殺し、死体をバラすのに使っている。
「この山は私有地だって言うのに、遠慮も無しにズカズカ入って来るし、注意すりゃあ逆に突っかかって文句を抜かしよるからの。勝手にキノコや山菜は採っていくわ、山野草を根こそぎ持っていくわだし、まったくけしからん輩だで」
「そうそう、それに知っている? お祖母ちゃん。『教えたがりおじさん』って」
「昨日のアレのことか?」
「そうなの。若い女性が一人でキャンプしていると、アドバイスする口実でやたらとまとわりついてくるんだよ。いい歳したオッサンが何を期待しているんだか。キモいっつーの!」
「まぁ、そのおかげでワシらみたいなのが稼がせてもらっているからの。お前さんという罠にホイホイ引っかかる方が悪いんだで」
祖母が歯抜けの口で面白そうに笑う。厚かましい男どもに愛想を振りまき、いい気にさせて一服盛れば、次の瞬間にはこと切れている。山の中には有毒な植物やキノコ類も豊富に揃っているから、お手の物だ。金目のものは全て奪い、身元が分かりそうなものは全て壊して焼くか捨てるか。死体はバラバラに解体し、同じ山中にある炭焼き小屋で焼却してしまう。死体の灰は、畑の良い肥やしになるだろう。
「山姥と言うのはなぁ、もともとは山の神様に使える巫女さんだったんだと。だから、山を馬鹿にする輩には罰を与えねばならねぇんだよ」
祖母は食事を終えると、よっこらしょと立ち上がり、背負ってきた籠の中から大ぶりの鉈を取り出した。
「んだば、やるべかねぇ……」
山姥 塚本ハリ @hari-tsukamoto
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