情熱を受け止めてくれる唯一の

惟風

情熱を受け止めてくれる唯一の

 地獄、という言葉がある。

 ざっくり言うと、悪い行いをした者が死後に落とされる、めちゃくちゃ苦しい思いをさせられる場所のことだ。何かすごく痛かったり熱かったり、とにかく酷い目に合わされるらしい。絶対に行きたくない。数分ネットで調べるだけで「悪いことってしちゃいけないな、真面目に慎ましく生きよう」という気持ちになる。本当にあるかどうか知らないし知りたくもないのだが。


 さて、この“地獄”という単語。この現代日本において、何と軽い扱いだろう。ちょっとしんどい、辛い、くらいの感覚であっても使われる。

 全く嘆かわしいことだと思う。そんなに気軽に連発していたら、いざ本当に地獄行きになってしまった時に現世での生易しいイメージとのギャップにもう一度死んでしまうのではないか。

 言葉は慎重に扱った方が良い、と僕は思っている。


「地獄だ」

 そう、たとえ内心でそういう固い決意みたいなものを抱えていても尚、自然と口をついて出る状況というものが、生きているとどうしたって訪れる、なんてことはよわい二十一にして知りたくなかったことである。

「地獄じゃん」

 間髪をいれず、また呟いてしまった。そうさせるものが、目の前にあった。


 である。一戸建ての我が家の玄関の前に。


 ただの全裸中年男性ではない。

 先ず、小太りだ。手足はそこまで豊満さを感じさせないものの、腹部が貫禄のビール腹。その上でやや丸く膨らむ胸部は、男が何やら叫ぶ度に豊かに波打つ。

 そう、男は叫んでいるのである。

 具体的に何と言っているのか、確かに聞いたことのある単語を連呼しているように感じるのに、耳が、脳が、それを聞き取ることを拒んでいるのでさっぱりわからない。男を理解しようとすることを僕の全身が拒絶している。

 そして、男は泣いている。この場面で泣きたいのはこちらの方であるということを差し引いても異常にとめどなく涙を流して嗚咽している。

「地獄」

 母との外出から帰ってきて、玄関の前で泣き叫ぶ全裸中年男性を見つけてしまった時の心持ちを表せる言葉を、僕は他に知らなかった。語彙だとか言葉の綾だとか、もはやどうでも良いではないか。

「どうして」

 ヘルな気持ちの吐露に続いて発した言葉は、素直な戸惑いの表現だった。

 何故なら、全裸中年男性の異常さの極めつけは、それがということだからだ。

 実の父親のこんな醜態、死んでも――この比喩も本来なら手垢がつきすぎて使いたくはない、でも使わざるを得ないほどに僕は動揺しているのだ――見たくなかった。

 どうしてこんな姿になって、こんな奇矯な行動を取るようになってしまったのか。

 僕や母のせいか。それとも会社での出来事か。とにかく、この男をここまで追い詰めた何かがあったのだろう。

 小学生の頃に逆上がりの練習に根気良く付き合ってくれた姿が、不意に脳裏に浮かんだ。よーし父さんが手本を見せてやる、なんて勢いよくブン回って、勢い良すぎて眼鏡が飛んでいってしまって、そこそこ新品だったのにそれで壊れて泣いていた。大人でも、パパでも泣くんだなんて薄っすら思った記憶がある。

 その頃はまだもう少しすらりとしていて、参観日や運動会でクラスメイト達に格好良いお父さんだねなんて言われてはにかんで指で鼻の下を擦ったものだ。在りし日の輝かしい思い出が走馬灯のように駆け巡る。僕もう死ぬのかな。

 愛妻家で子煩悩で、優しくて頼りになる自慢の父だった。生きているうちにその認識が過去形になるなんて。

 春とは名ばかりの寒風吹きすさぶ夕暮れの日曜に、一糸まとわぬ姿で震えながら玄関扉に追い縋って雄叫びを上げている。

 せめてこれが家の中であれば。屋外なせいでご近所さん達が続々と顔を覗かせ、事態を察するやいなや光の速さで引っ込む、がそこかしこで起きている。

 この世の終わりみたいな現状に気が遠くなりかけた時、不意に僕の隣にいた母がコートを脱ぎながら声を出した。

「あらあらお父さん、風邪引いちゃうわよ」

 耳を疑った。何を言い出すのかこの女。つい今しがたまで共にスーパーで買物をしていた母と同一人物とは思えない。知らぬうちに人格転移でも起こしたというのか。それを言うなら父もだが。

 いくら駆け落ち同然で結婚して二十数年連れ添った酸いも甘いも分かち合った夫婦とはいえ、このシチュエーションで発する第一声は絶対にそれじゃないだろう。

 ……いや、違うのか。この異常事態に直面し、狼狽えるどころか自分の上着をかけて暖を分け与えようとする胆力と常軌を逸脱した情の深さ。これこそが、おしどり夫婦の真骨頂、破れ鍋に綴じ蓋、蓼食う虫も何とやら。

「フッ……」

 思わず笑みが溢れた。やれやれ。何て奴等の元に生まれてしまったんだ僕は。

 取り乱す夫を労る妻。見た目はあまりにもいびつだけれど、紛れもなく愛のある家庭じゃないか。

 愛。

 愛があれば、まだやり直せる。

 母を制し、僕は父の諸肌にライトダウンをかけてやる。肩がびくりと跳ねる。恐る恐るこちらを向いた。

 よく見ずとも、肥満で突っ張る中にも寄る年波で肌はたるみシワも増え、毛穴はギラついて紛うことなき中高年のトップをひた走る男の顔がそこにはあった。そんな潤んだ瞳でこっちを見るな。ごめんやっぱこんな親、無理かも。

 とりあえず母と二人で宥めながら、家の中に入れてやる。

 暖房の効いたリビングで温かい緑茶を出してやると、湯呑みを両手で包みながら彼は訥々と話しだした。ちなみにまだ服は着ていない。さすがに靴下は履いた。

 曰く、愛読しているお気に入りの漫画の最新話の展開が意に添わなかった、湧き上がる激情に耐えかね気がつくと服を脱いで外に飛び出していたと。

 気温の低さにすぐに我に返ったが時すでに遅く、無情にも先日玄関扉に設置したばかりのオートロック機能に締め出され為す術もなく途方に暮れていたと。何故か指紋認証も効かず、この世界の全てから自分の存在が否定されたように感じて我を失ってしまったと。

 頭がおかしい。馬鹿だ。気狂いである――軽はずみに強い言葉を使いたくないと常々思っていた僕のモットーは今や跡形もない。

 血を分けたこの男に対して、ビタイチ共感できない。その昔、僕が「何となくガッコー行きたくない」と一時的に登校拒否になった時に「そういう時もあるよな」と寄り添ってくれたことは心の底から感謝しているけれど、その恩は今は返せない。

 たかが漫画、などとは言いたくない。生き方や考え方に深く影響を及ぼした作品は僕にだって沢山覚えがあるのだから。だからって、だからってこんな。

「へえ、どんな展開だったの」

 余計なことを饅頭かじりながら問いかけるな女。黙って食え。また全裸の発作を起こしたらどうするつもりだ。全裸は継続中だけど。

 父はカッと目を見張った。そらみたことか。そしてその口に運ぼうとしていた饅頭を握り潰した。ひよこの悲鳴が聞こえた気がした。

 父は、男が、と絞り出すような声を出した。百合の間に、とも。


 そこで、僕は頭の芯がスッと冷えた。


 父はその後、思い出し怒りでヒートアップし支離滅裂な語りになっていった。

 だが、それだけ聞けば十分だった。

 そうか。

 そうだったのか。

 僕と父との共通点。嗜好は似たところにあった。

 僕はやっと、彼への理解と共感を手に入れた。

 母に全然安心できない父を任せ、裏の倉庫の前に立った。

 ガタついた扉を開け放つ。

 目に飛び込んでくるのはハンドガンやアサルトライフル、機関銃に手榴弾などの銃火器。


「それは、戦争しかないね」


 僕も、やはりあの父の子なのだ。愛を、尊い世界を汚そうとする者達に激しい怒りを燃やさずにいられない。

 全てを破壊しなければならない。

 徐ろに、シャツのボタンに手をかけた。






「そういうワケだから、力を貸して欲しい」


 身も心も剥き出しになった僕は事の経緯を語り終えると、和田島イサキにサブマシンガンを差し出した。

 生まれたままの姿でこちらを見つめ返す友人の瞳には、頼もしい光が宿っていた。






 <情熱を受け止めてくれる唯一の 了>

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