Ⅳ 『えめらるど・たぶれっと1984』(うろぼろ・ルフラン)
「翠子ちゃん、小説かいてるんだって?」
学校からの帰り道、神くんに後ろから声をかけられた。筑波大生の神くんはこのあたりじゃ一番の秀才だ。文武両道、中学高校と生徒会長で目立ってた。あたしも成績では負けてないと思ってきたのだけど、実のところその差は大きい。つまり、オール5と、それ以外はすごく違う。体育で3を取ってしまうともうダメなのだ。先生たちに、何年も前に卒業した神くんと比較されると頤のすぐしたあたりがヒリヒリして、あさってには手にするだろうそれを思うと憂鬱になった。学年トップでも嬉しくないって、あたし、ものすごい不幸だ。
それに、今でこそ、翠子ちゃん、だなんて年上のお兄さんらしくしてるけど、昔はミジンコだとかヘドロだとか酷いこと言われて髪をひっぱられていじめられた。もちろん、守ってもらったこともちゃんとある。でも、年上だから当たり前。そこはカウントしないの。
すぐ横に並ばれて、シャツからのぞいた腕に熱気を感じた。男の子って体温高い。この蒸し暑い空気より熱が高くて苦しくないかと斜めにみると、あごのラインにひげが皮膚表面から伸びる直前のぷつぷつが散らばっているのが目に入る。パパので見慣れてるはずなのに、他の人のは珍しいから眺めてしまう。同学年の子で、こういうのは見なかった気がする。神くんは、あたしの視線をさえぎるような声でいった。
「今度、読ませてよ」
「やだ」
「教室で回し読みしてるって聞いたけど、ぼくには読ませられないの?」
嫌味ったらしく微笑まれた。中学生相手でも手加減せずに貶す気満々でいる。パパはあたしが小説かいてるなんて知らないから、犯人は神家のお隣の綾乃しかいない。クラスの女子には受けたけど、彼には通用しないだろう。夢見がちとか、もっと突っ込んで書けとか散々なこと言われそう。
「翠子ちゃん?」
神くんとあたしは誕生日が一日違いで、彼の家で大勢の人にお祝いしてもらうのはうれしかった。けど、あたしを迎えにきたパパが神くんのお母さんに何度も頭をさげておべっかを使うのは見たくなかった。卑屈で格好悪くて、パパらしくない。それに、そう感じたあたしを、神くんに見られてしまったこともいただけない。そして、あのとき気に障ったのは父親なのに、あたしは神くんのほうを恨んだ。翌日わざわざうちに来てくれた彼を追い払い、次の年、お誕生日会はなくなった。神くんのお母さんが働き始めたせいもあるし彼の年齢的なこともあるだろうけど、たぶん違う。おばさんはあたしのために開きたいって言ってくれたことがあったから、やめさせたのは神くんだ。
「あたしの母親のこと教えてくれたら、読ましてあげる」
神くんの足がとまった。あたしはそれを無視して先を歩いた。
「お母さんが出てったとき、神くん六才じゃん。ご近所の噂話くらい記憶あるでしょ?」
「覚えてない。それに、もし覚えてたとしても、ぼくがこたえると思う? まずはお父さんに聞くべきことだ」
「あの人、まともに取り合わないんだもん」
「あのひとって呼んでるの?」
大人の顔で見おろされた。じっさい二十歳こえてるから大人だけどね。そしてあたしも、十二分にませた娘だし、そこらへんの大人より世の中が見えていると自惚れても許される程度には「おとな」だ。生理さえきてないけれど、あたしはもうコドモじゃない。それでなお、神くんには、ミドリコは甘やかされすぎてるって言われてきた。それはわかる。パパはあたしに甘いから。でもね、それはあたしのせいじゃない。パパの負い目だ。
「学校の先生や他の人の前なら『父』っていうくらいの分別はあるよ」
「じゃあそう言いなよ」
「そうだね」
無言で睨み合うようになって後悔した。どうせここまで晒すなら、あたしはここで、どうして自分だけそれが許されないのか聞けばいいんだと思う。神くんは、綾乃にはこんな言い方をしないよね? あたしだから、そう言う。そうやって特別視されるのに慣れてきて、あたしはきっと勘違いした。けど、小説を書いて、わかった。神くんがあたしに期待したのは、このうっとうしい自意識のみっともなくない鏡像だ。あたし達は似すぎている。反対のところがないと、恋愛にはなれない。あたしはそれがわかる。それくらいのことは範疇だ。じゃなきゃ恋愛小説なんて書かない。だから、口を閉じたままの相手へと、肩をすくめて聞いてみた。
「神くん、大学に彼女いないの?」
「いるよ」
綾乃に聞いてた通りのこたえだというのに、用意してたからかい言葉が鎖骨あたりで立ち止まる。それをじっくりとおびき寄せようと、何かをきゅうに思い出したみたいに鳴き出したひぐらしの声に全身をあずけて目を閉じた。この間は、さっきの沈黙よりいくらかやわらかく、だいぶ過ごしやすかった。ほんとは逆のほうが、よかったな。そう意識した瞬間、さすような痛みが鼻の奥に襲いきた。自分の身体に裏切られた気がして、予想もしない反応にとまどったあたしが下を向くと、頭のうえに声がおりてきた。
「翠子ちゃん、じゃあ次のを読ましてよ」
「……次、書けるか、わか、……ない」
あたしは顔をあげられず、片手で口を覆った。とりまく空気を何倍にも濃縮した熱の篭った吐息がてのひらに触れて、自分のからだの何処にこんな煩わしさがあったのかと不思議になった。ポケットからハンカチを出すのはわざとらしくてみっともない。頬に濡れた感触があって、くすぐったいのは我慢する。もう絶対、泣いているのは気がつかれてる。でも、神くんの声はすこしも乱れず、まるであわてた様子もなく、ことさらにゆっくりと続いた。
「一作書きあげられたなら、二作目も書けるよ。十でも百でも、たくさん書ける」
それは、あたしへの応援ではなくて、パパへのものだ。あたしはずっと、ママが帰ってこない限りパパはもう書けないんじゃないかと思ってきた。パパの小説はママとの恋愛話で、あたしがもうすぐ生まれるっていうシーンで終わっている。あたしとパパは、あの家で、ママの幻影を大事にだいじに抱えて守って暮らしてる。あたしはもう、それを壊したい。パパのために「ママ」が必要だと思ってたから、あたしは「パパの妻であるママ」を守ってきた。パパの想像力と、現実のママと、どちらが確かなものかって聞かれたら、パパのつくったものだから。でも、あたしは、あたしの「ママ」が欲しい。そしてママは、たぶん、そのどちらでもない自分だけの自分が欲しいはずだ。
ひとは、どんなふうにでも現実を作り変えられる。あれを読んだママは、パパと一緒には暮らせなくなってしまったんじゃないかと思う。美化して書かれていたわけでもない。ありのままの赤裸々さとも違う。パパの作品はそんなたんじゅんなものじゃなかった。それでも、そこに描かれたのは創作物、幻想、つまりママ「本人」ではないから違うって思い切れもしなかったんじゃないかな。パパがあれを書いたのは、ママとの宝石みたいな日々をタイムカプセルみたに閉じ込めてしまいたかったからだと、ママはきっと気がついた。
ときは、流れる。ひとは変わる。そして、死ぬ。さらには忘れられてしまう。なかったことに、なる。
パパはそれを止めたくて、どうにかしてそれに抗おうとして、書いた。でも、ママは。
ママは……わからない。
ホントウニ、ワカラナイ。
あたしは、ママの気持ちを想像するだけだ。パパの気持ちにしても同じ。あたしは小説を書き出したら何もかもがわからなくなった。この、想像力ってなんだろう。正しいかどうか確認しようとして尋ねて、そうやって得たこたえってあたしが思ってた当初の「こたえ」で合ってるのかしら? たぶん、違う気がする。そうやってなにかを固定して同定することって意味があるのかどうかもわからない。考えれば考えるほど、遠く、どこまでも遠く離れていきそうで、でも、考えるのをやめることもできない。
あたしは、ただ、両親が愛し合っていたのに仕方なく別れたっていうセンチメンタルな「物語」が欲しいだけ。真実はもしかすると、ただたんにママの浮気かもしれない。パパに愛想尽かししたのかもしれない。パパの小説なんて全然ちっとも関係なくて、性格の不一致とかそういう理由のほうがきっと正しいと頭では、わかってる。
ただ、あたしは、おはなしってそんなふうにできているものなんじゃないかと思うことがある。なんかちょっとさびしいけど、いじましいというか、もしかするとさもしい欲望かもしれないけど、でも、そんな気がする。目の前で女の子が泣いているっていうのに、困った顔をしない神くんがやっぱり好きだと思う、この報われない気持ちがあたしにものを書かせてくれる。小説のなかで、神くんはあたしの彼氏にだってなれる。申し訳ないようだけど、そんなふうにしか、あたしにはできない。それに、ここで好きって言うくらいなら、神くんが主役の「やおい小説」を書くよ。そのほうがずっとまし。なんかおかしいかもしれないけど、今は、そんなふうにしかできないから。
「……あのね、次回作はね」
あたしは鼻をすすりあげて、どうにか声が震えないように気をつけながら口にした。
「岩波少年文庫にあるみたいな冒険物なの」
「『トム・ソーヤの冒険』みたいな?」
「ううん。どっちかっていうと、『ハックルベリー・フィンの冒険』のほう」
神くんは、ああ、とほとんど息だけで頷いた。その音を聞いて、もしかしたら彼も少しは緊張していたのかもしれないと感じた。でも、もうそんなことはどうでもよかった。あたしには語らなければいけないおはなしがあった。
「でもね、主役は絶対に女の子なの。それは、決まってるの。冒険物に女の子が足りなさ過ぎてつまんないんだもん」
「それもそうだね」
苦笑にまぎれた同意の声はそのまま、でもさ、ハックは岩波少年文庫に入ってなかったよ(今はあるよ!)、という生真面目な教えになって返った。この、大雑把には程遠い、細部にこだわるところが神くんだった。そう思ったら笑えて、あたしはやっと顔をあげることができた。目が合うと、彼は尋問するような顔つきで見おろしてきた。
「それで、タイトルは決まってるの?」
「うん。でも秘密」
涙をふるって笑顔で言うと、神くんはすこしさびしそうな顔をした。それが、なんだかすごくパパと似ていて衝撃だった。そっか、あたしってやっぱりファザコンなんだ。やだな、こんなことに気がついちゃって。失恋よりショックだ。
今さら教えてもしょうがないので、書いたら必ず渡すと約束した。神くんはそれで納得したらしく、蛙の子は蛙だねと笑った。あたしはすかさず、「トンビ、タカを生む」だから! と宣言しておいた。もちろんすぐさま、筒井康隆の『バブリング創世記』かとつっこみが入り、ふたりがいつもの調子に戻ったとほっとした。バイバイと手をふったあと、今日はポニーテールをひっぱられなかったと気がついた。
わっかりやすいなあ。
同じようにわかりやすかった自分は横におく。それくらい、許してもらう。
家に帰ると、パパは出かけていなかった。あたしは麦茶をいれたグラスをもって二階の自室にこもり、机にむかって大学ノートをひらいた。一頁目に、おっきくタイトルが書いてある。
『えめらるど・たぶれっと1984』。
お宝がただの金銀財宝じゃつまらない。失われた都市や島が描かれたぼろぼろの地図もいいけれど、謎に満ちた魅力があって、なによりもわざわざ危険を冒して手に入れる価値があるほど美しいほうがいい。「エメラルド碑文」なら完璧だ。「1984」は、ちょっと暗号っぽいと思ってつけたした。
冒険は、いろんな町を通り過ぎる川下りがいい。あたしは何故か、川が好きだ。海も大好きだけど、書くには茫洋としすぎてる。ハックとジムのように、いろいろな土地を抜けて旅をする。はじめから仲のいい友達でもなくて、家族じゃないひとと……。
「翠子」
パパの呼ぶ声がした。せっかく乗ってきたところなのに。そう思うと返事をしたくない。
「翠子、いないのか?」
ああもうっ。無視むし!
あたしは意地になってノートに集中しようとして、呼び声に癇がたつ。パパに、小説をかいてるって知られたくない。ただ、それだけの気持ちなのに、なんでこんなにイライラするんだろう。
ノックの音が四つ響く。こんなことで感情を昂ぶらせる自分が情けなくなったあたしはノートを伏せた。隠すのもかっこわるいけど、でも、いいや。そう思って振り返ると、そこに、いつもとちがう緊張した面持ちの伶おじさんが立っていた。
「おじさん? どうしたの」
おじさんは口の前に指をたてた。それから一階を示して、声をだすなという仕種をした。あたしはうんと頷いて、その顔をじっと見た。眼鏡の奥の両目には、子供がなにかを期待するときのあのひかりが宿っていた。だから、特別に面白い悪戯をパパにしかけるつもりなのかとあたしは次のことばを待った。
「翠子ちゃん、お母さんのところに行こう」
息が止まりそうになった。そりゃ、パパに秘密なわけだ。あたしはなんどかこのおじさんにママのことを尋ねたことがある。そのたびにはぐらかされて代わりに盛大な法螺話をたくさん聞かされてきたのだけれど、今回はちがうみたい。うなずくのが精一杯のあたしに、おじさんはすこし心配そうに目を細め、語りだした。
「いままで秘密にしていたが、わたしの一族は或る世界の『かたり部』なんだ。わたしは翠子ちゃんの準備が整うのをずっと見守ってきた」
これはいつもの法螺話だ。ちいさいころは何度もだまされた。じゃなきゃ、あのノートを見たのかもしれない。おじさんがそんなことするわけはないけど、尋常じゃないくらい勘のいいところがあって、あたしの思ってることなんて幾らでも当てることができた。これだけ本を読んでれば、自分がよその世界の子供だっていうファンタジーをもっても不思議じゃない。それとも、おじさんはこんなふうにしか、夫と子供を置いて出ていった人を語れないのかもしれない。なんかさびしいけど、おじさんらしいやり方に思えた。だからあたしも『騙り部』らしく返すことにした。
「ある世界ってどんな?」
そのとき、階段のきしむ音がした。パパの足音がちかづいてくる。あたしとおじさんはふたりして同時にドアを見た。
「その説明はあとだ。とにかく、ここを出よう」
「待っておじさん。お母さんはどこにいるの?」
「姉さんは、きみを産んで力を失い、川を流れ、物語の沈む海へ還ってしまった」
「おじさん?」
「いいかい、翠子ちゃん、そこは表と裏の分かち目のないところ、昼と夜のあわい、高いものと低いものの出逢う場所……」
首をかしげてその目をみると、おじさんはジーンズの後ろポケットから何かを取り出してみせた。それを見たときのあたしの驚きったら、ことばでなんて言い尽くせない。だって、それは、本物の《エメラルド・タブレット》だったんだもの!
光り輝く魔法の石をさしだされ、あたしはそこに刻まれた有名なことばを目にしようと屈みこみ――……
【間違わないように、これはただ見せかけだけの
おわり】
というわけで、ここで唐突に夢の記述は終わるのである。
だって、ほんとにこういう夢を見たんだもん!
※文中【】内の文章は、それぞれの作家の著書からお借りしました。
・ジーン・ウルフ『拷問者の影』[新しい太陽の書①](ハヤカワ文庫)
・トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』(ちくま文庫)
・マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』(彩流社)
・R・A・ラファティ『宇宙舟歌』(国書刊行会)
Emerald Tablet 1984 磯崎愛 @karakusaginga
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