第3話 台湾で会った中国人女性(京劇の演奏をする女性)
台湾の屏東近郊にある「ねいぷ」という田舎町にある(看護師養成のための)短期大学で、中国から来た「京劇歌劇団(と呼ぶのだろうか?)」の公演がありました(2015年頃?)。
ウィークデイの昼間、しかも、大学構内にも街の中にもポスターが貼ってあるわけでもありません。大学のキャンパスにあるコンサートホール前に、小さな立て看板があるだけです。たまたま通りがかった私が中に入ると、300人くらい入る客席にもかかわらず、観客はまばら(20人くらい)です。
歌劇団員たちはわざわざ海の向こうから、金にならない親善で来てくれているのでしょうが、さすが真面目な中国人、そんな環境でも高い品質の演舞(演武)を見せてくれました。
一方「来てもらっている側」の大学は、そんな中国の厚意に対して、彼らを冷遇しているという印象を、第三者の外国人である私は受けました。この大学は客家の教職員が飯を食う為の大学ですから、どうしても、中国人に対しそういう扱い方をするのでしょう。
しかし、ほんらい大学というものは、イデオロギーを超えた(地元の)文化興隆(交流)という責務があるはずなのですから、地元の人々(小中高生)や大学の職員等々、大勢の人たちに(自分たちのルーツである)中国文化を見せてあげるべきなのです。中国も「台湾」も関係なしに、民族としての根っこは同じなのだ、という基本線を理解しなければ、真の中台交流などできるはずがないのですから。
わずか70年前にできた「台湾」という存在をベースに考えてしまっては、かつて大日本帝国がでっち上げた「満州国」と同じになってしまう。
だが、そんなに簡単に民族や国家というものが作れるのであれば、いっそ、何万年も昔から台湾に棲みついている原住民15部族の自治共和国にしよう、という話もあり、ということになるのではないか。
脱線してしまいますが、私たち日本人(縄文人)からすれば、原始日本人の化石が発見された10万年という視点に立ち、その延長線上にいるという位の目線で考えなければ、300万年なんていう、とてつもない規模の歴史を持つ中国とは(真に)付き合うことはできない。
日本における在日韓国人政治家たちは、軽々しく「中国と戦争」なんていう子供じみた言葉を口にしますが、それは彼らが「台湾」と同じく70年前にできた「韓国」という歴史観でしか物事を見ることができないからなのです。
いつまでも「中国(文化)を毛嫌いして、昨日今日できた、くだらない西洋文化に日本人の目を向けさせる」なんていう、子供じみたパフォーマンス・チャチなお芝居をやっていては、日本にしても「台湾」にしても、正しい道を歩むことはできないだろう。
閑話休題。
さて、肝心の京劇なのですが、「西遊記」の一場面、牛馬大王との戦いだったか?を、小一時間くらいの芝居や歌や曲芸仕立てで楽しませてくれました。
京劇というのは、例えその規模が小さくても、長い歴史に揉まれて鍛え上げられてきた中国人スピリッツが見られる芝居・曲芸・パフォーマンスといえるでしょう。
私が着目したのは、舞台の脇で演奏をする(観客側を向いて座る)数人の楽器演奏者たち(の一人)でした。
中国式琴(?)を演奏する女性なのですが、楽曲がない時には目を閉じていますが、演奏が開始される10秒くらい前になると静かに目を開き、楽器に手をかけ、演奏開始と共に皆と合わせて演奏します。そして、演奏が終わると、楽器から手を放し背筋を伸ばしたまま目を閉じます。
演奏が始まる直前に楽器に手をかけ、終わると再び瞑目する。この動作を何回も繰り返していましたが、私は次第に、舞台中央で繰り広げられる芝居や曲芸よりも、彼女の清楚なたたずまい(姿形とその雰囲気)の方にばかり、目を取られていきました。
彼女はただ、目を閉じたままじっと座っているだけです。そして、「その時」になると、静かに楽器の上に手を置き・演奏する。単にその繰り返しなのですが、座ったままでの「静と動」という、洗練された身のこなしはまさに「プロフェッショナルか神業」という趣(おもむき)であり、なんとなく「太極拳のよう」に見えたのです。(私の知る太極拳とは、幾つかの国際大会における各国女性選手たちの演武をYouTubeで見た、と言う程度ですが。)
私の座る席から20メートルくらい離れているので、彼女たち演奏者の顔はハッキリと認識できず、単なる点(記号)でしかないのですが、非常に大きな存在感を感じました。
舞台はフィナーレとなり、演者・演奏者たち全員が並んで観客の拍手に応えていましたが、すぐに次の公演地へ向けて出立するようで、そそくさと出口へ歩いて行きます。
私は、ホールの前に並ぶ何台かの観光バスの前で、彼女たちが出てくるのをカメラを手に待っていましたが、いい歳をして、なんだか胸が時めいていました。
しばらくすると「お目当ての」彼女が出てきて、バスに乗り込もうとするところを呼び止め「写真を撮らせて下さい」と英語で言ったのですが、通じない。そこで「写真」と中国語で一言言い、手にしたカメラを見せると、彼女は「なんで?」みたいな戸惑いを見せながらもOK。
すると、横からがっしりとした体格で、彼女の姉貴分みたいな御姐(おねえ)さんが出てきて、彼女と肩を組んで並びます。まあ、そのままシャッターを切りましたが・・・。
日本人や台湾人女性にも、あるにはあるのだが見えない「芯の強さ」が、中国人女性の場合は、身体からにじみ出るが如く、ごく自然に発散されている。その人間としての存在感(という美しさ)に、私はすっかり惚れてしまったというわけです。
(日本人女性の場合は、彼女たちの内なる強さを引き出すような「お稽古事」をする女性に「日本女性らしい強さの表出」を見ることができます。
「日本女性らしい強さの表出」といい、空手をやる女性のexplosion(爆発)というスタイルと異なり、大学日本拳法の女性にはimplosion(内破)という強さの表出が見られます。
寸止めであるからこそ、強さ激しさを強調しなければならない空手における「形」とは異なり、現実に思いっきりぶん殴る日本拳法の形演舞においては、逆にその強い攻撃精神を内に向かって表出しようとするのです。
その意味で、太極拳と大学日本拳法とは、共にimplosion(内破)という形而上的強さ(の鍛錬)でありながら、形而下におけると形やスピードや迫力においては、全くの静と動の対極にある、と言えるでしょう。)
あの時の気持ちとしては、「彼女」のメルアドでも聞いて、次の台湾での公演地に追っかけをしたいくらいだったのですが、如何せん、言葉が通じない。
この時くらい、「ああ、中国語がしゃべれたらなぁ」と思ったことはありません。
でも、元々勉強が嫌いな質(たち)ですから、すぐに中国語学習のことなんか忘れてしまいましたが。
若以色見我
以音聲求我
是人行邪道
不能見如来
女性としての容姿ではなく・音や聲でもなく、ただただ遠くから「記号として見た彼女の姿形」にこそ、私にとっての如来(形而上的なる美しさ)があったのです。
「黄鶴一去不復返 白雲千載空悠悠」
(黃鶴ひとたび去って復(ま)た返(かえ)らず 白雲千載空(むな)しく悠々たり)
白雲に乗じて去っていった仙人ならず、観光バスに乗り美しきあの方はいずこへか去っていきました。
2023年5月9日
V.2.1
平栗雅人
「出会い」の大切さ V.2.1 @MasatoHiraguri
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