電車内のプチハプニング

三咲みき

電車内のプチハプニング

 車内を見渡すと、ほぼ全員がスマホを触っている。かく言う私もその一人。


 特に何かを見ているわけではない。ただ、目的の駅に着くまでの二十分間、何もしないということが耐えられない。ボーっとしている時間が何だかもったいない気がして、何かしなきゃという思いに駆られる。

 かといって電車内でできることは限られており、そうなるともうスマホを触るしかない。


 スマホが流通する前は、電車の中で一体何をしていたんだろうか。おそらく、何もしていなかった。あのときはだた景色を見ているだけでも苦痛じゃなかった。

 スマホが出てきてからだ。何もしていないことに落ち着かなくなったのは。


 左手でスマホを操作し、右手は吊り革を握っている。いや、握っているというよりもという方が正確だろうか。吊り革に触れているのは右手の中指だけ。感染症が世界的に大流行する前からずっとこの持ち方だ。


 吊り革が汚いとは思わないけど、しっかり握り込むことに何だか抵抗がある。


 揺れが激しい沿線。私は転ばないようにお腹に力を入れた。電車内でこんな、お腹を鍛えるようなことをしなくても、しっかりと吊り革を持てばいい…………、だけどこれはもう仕方がない。


 何を見るでもなくスマホを操作していると、視界の隅に何かが見えた。スマホの左上。サワサワと何か動いている。じっと見ていると、それは正体を現した。


 虫だ。


 しかも、なんか緑色をした蚊っぽいもの。


 スマホから目を離して、一旦、目の前の景色を見る。そしてもう一度、スマホに目を落とす。虫は確かにそこにいる。見間違いなどではない。


 家ならば間違いなく騒ぎまくっていただろう。しかしギリギリ平静を保っていられるのは、周りに人がいるからだ。それだけで、態度だけでなく思考も冷静になる。

 「あ、虫ね。うん、オッケー」みたいな。


 まあでも、追い払いたいことには変わりはないのだが。


 スマホを軽く揺すってみる。


 ………ダメか。


 虫の近くをタップしてみる。


 ………ダメか。


 どうするか。本当は、フーっと息を吹きかけて、虫を追払いたい。それが一番こちらに害なく追い払える方法だろう。でも私の前の座席には、若い女の人が頭をカクンカクンさせながら、夢の世界へ片足を突っ込んでいる。フーっとやること、それはすなわち、このお姉さんに虫を吹きかけるということ。寝ていて無防備の状態のお姉さんに。そんなこと絶対にできない。自分が彼女の立場だったら、絶対に許さないだろう。


 さあさあ、これだけ思考しているうちに虫はどこかへ行ったか?


 ちらっとスマホを見る。


 いや、まだいる!!


 もう潰すか? いや、それも嫌だ。私はもとより無駄な殺生はしたくない派だ。家にいるときも、できるだけ外へ逃してやる。それに、スマホや指に蚊のいろんなものがつくのも嫌だ。


 わかった、こうしよう。勢いよくスマホを振り下ろす。その衝撃にびっくりした虫は、もしかしたら飛んでいくかもしれない。

 よし、その作戦で行こう。それが最適解な気がする。


 行くぞ。せーの!


 勢いよくスマホを振り下ろした。


 三秒待って恐る恐るスマホを見た――。


 いるぅぅぅぅー!


 もういい加減にしてくれ! なんだって私のスマホに居座るんだ。離れられない何かがあるのか。


 もう潰すしかないか、そう思ったとき、電車が大きく揺れた。

 

「……っ!」


 右手の中指一本でしか支えていなかった私の身体は、とっさにバランスをとることができず、そのまま無様にすっ転んでしまった。


 打ち付けたおしりが痛いが、それよりもみんなの視線の方が痛い。


「あの、大丈夫ですか」


 いつの間にか目を覚ました目の前のお姉さんが、声をかけてくれた。


「大丈夫です………」


 スマホを見ると、すっ転んだ衝撃で虫はどこかへ飛んでしまっていた。


 私もここから飛んでいきたい。

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電車内のプチハプニング 三咲みき @misakimaru

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