エピローグ:赤い薔薇が笑む冬に

 ウィザル帝国との間に休戦協定が結ばれた日から、季節は巡り、秋から冬へと移り変わっていた。木々を彩っていた赤や黄色の葉は乾いて色を失い、寒風に吹かれている。

 エディタント城砦の制圧に伴い、スヴェン・ヘイフォード少将率いる一個旅団にも及ぶウィザル兵たちは、国境の向こうの帝国本土へと強制送還された。その後、基地がラグジェ丘陵からエディタント城砦に再び戻されることになったのを機に、リィリアは北東方面軍ゲーニウス師団から除籍されることとなった。

 現場の指揮をディエスに委ね、終戦に向けた各種処理のために王都へ帰還するというオーウェルと共に、輸送部隊に随伴する形でリィリアは基地を去った。

 帰りは着任時とは異なり、荷車ではなく、オーウェルの馬に同乗させてもらう形での旅となった。オーウェルに寄り添う形で旅ができるのは嬉しかったが、少しずつ王都が近づき、こうして彼のそばにいられるのとあとわずかだと意識するほどに、リィリアはだんだんと言葉少なになっていった。

 いくらお互いに好き合っていても、理由もなくそばにいられない。それが王族と平民という二人の身分差というものだった。

 オーウェルは王都の銀匙亭の前までリィリアのことを送ってくれた後、馬上から彼女の左手を取ると、指先にキスを落とした。

「リィリア、いままでありがとう。以前に約束していた通り、近いうちにきっと城に招待する。――だから、待っていてくれ」

 そう告げると、オーウェルは馬を歩かせて去っていった。

 リィリアはオーウェルの背を見送ると、その場で蹲って泣いた。オーウェルはああは言ったものの、そんな日が来るわけがないことはリィリアが一番理解していた。恋が終わっていくのが辛くて、悲しくて、切なかった。もう会えないと思うと、あの声に名前を呼ばれることもないと思うと嫌で仕方なかった。それでも困らせてしまうことがわかっていたから、遠ざかっていく背中を呼び止めることなどできなかった。


   ◆◆◆


 ある日の昼下がり、店の掃除をしていたリィリアは、カウンターの隅に無造作に新聞が置かれているのを見つけた。新聞の一面にはオーウェル王子がウィザル帝国との終戦協定を調印しただとか、次の式典で正式に王太子となるらしいだとかという話が色のない彼の肖像とともに載せられていた。

(オーウェル様……ちゃんと前に進んでいらっしゃるんだ……)

 オーウェルの活躍を遠い出来事のように過去日付の新聞を眺めると、リィリアはそれをダイナーエプロンのポケットへとしまった。

 王都での元の暮らしに戻ってきてしばらく経った今も、最後の瞬間の苦い記憶がリィリアの心に影を落としていた。普段は気持ちに蓋をしていても、ふとした瞬間にあのときの感情がこぼれ落ちそうになる。

「……っ」

 心の中を込み上げてきたものを歯を食いしばってやり過ごすと、リィリアは掃除を再開した。行き場のない感情をぶつけるようにリィリアはモップで店の床を徹底的に磨き上げていく。

 親の仇か何かのようにリィリアが一心にモップを床のシミに擦り付けていると、夜の仕込みをしていた叔父のフィーゴが厨房から顔を出した。鬼気迫る顔で床を睨みつけている姪の異様さにフィーゴはひっそりと溜息をつくと、彼女へと声をかけた。

「リィリア。掃除はもういいよ。夜の開店時間まで休んでいなさい」

「でも、フィーゴ叔父さん……仕込みの手伝いが……」

「今日は私一人でどうにかなりそうだからいいよ。だから、リィリアは休んでいなさい」

「……うん」

 小さく頷くとリィリアはモップを店の隅に片付ける。ありがと、と呟くとリィリアは居住部である二階へと続く階段を駆け上がる。自分の部屋に飛び込むと、ばたん、とリィリアは扉を閉めた。

(駄目だな……わたし……)

 フィーゴは深いことは追及してこなかったが、王都に帰ってきてからのリィリアの様子がおかしいことに彼は気づいている。けれど、リィリアが話さない以上、時間が解決してくれるのを待って見守っていてくれているのだということも彼女自身わかっていた。唯一の身内にこうして気を使わせてしまっていることが心苦しかった。

 なんとはなしに机の上に目をやると、絵の具やパレット、絵筆やスケッチブックなどといった画材たちがオーウェルに手入れしてもらったときの姿のままで、無造作に置かれていた。それを見て、リィリアはそういえばしばらく絵を描いていないな、とぼんやりと思った。

(絵……久しぶりに描いてみようかな……。もしかしたら、気分転換になるかもしれないし)

 リィリアは机の前に座ると、引き出しから封筒と同じくらいの大きさのカードを何枚か取り出した。今はあまり大きな絵を描く気にもなれないし、このくらいがちょうどいい。

 赤。黄。緑。青。紫。茶。白。リィリアはパレットに絵の具を絞り出す。机の上に転がったままだった絵筆を手に取ると、パレットの上の絵の具を筆先でしごいていく。すう、と小さく息を吸うと、リィリアはカードの上に筆を走らせ始めた。

 変わらぬ愛を示す、冬の終わりに数多の小さな花をつける青のヒヤシンス。あどけない恋を小さな体で目一杯表現しながら、春先に咲く可憐な白いスミレの花。想い人を眩しく見つめ、真夏の太陽を浴びて咲き誇るヒマワリ。の人へ愛情を告げるように、晩秋に蕾を綻ばせる深い紅の薔薇。リィリアはの手は思うままに季節の花々の絵を描いていく。

 とんとんとん、と急ぎ足で階段を登ってくる足音が響く。間髪をあけずに部屋の扉を激しくノックされ、リィリアは筆を動かす手を止める。

「フィーゴ叔父さん? どうかしたの?」

 扉の向こうへとリィリアが訝しげな声を投げかけると、慌てたようなフィーゴの声が返ってきた。

「リィリア! お前に軍の大佐だとかいう方が訪ねてきている! 火急の用件だそうだ、すぐに来てくれ!」

 わかったわ、とリィリアは返事をすると、つけたままだったダイナーエプロンのポケットに描き上げたばかりの赤い薔薇の絵をなんとはなしに突っ込みながら立ち上がった。急ぎ足で階段を下っていく叔父の足跡を追いかけて、リィリアも階下へと向かった。

「ディエスさん!?」

 旅装に身を包んだ見覚えのある茶褐色の髪の青年の姿を店の入り口に認めると、リィリアは彼の名を呼んだ。ディエスは相変わらずの愛想のない顔で、しばらくぶりだなとリィリアに味気もそっけもない挨拶をした。

「ユーティス二等兵。いや、リィリア・ユーティス。今すぐ俺とともに王城に来い。今から始まる式典にお前も出席するんだ」

「え、今すぐって、そんな」

 今日はオーウェルの立太子の儀が執り行われると先ほど見た新聞に書いてあった。しかし、今はただの一平民に過ぎないリィリアはもうオーウェルとは何の関係もないはずだ。こうやって式典の場にいきなり呼び出されなければならない理由がわからない。

「いいから行くぞ。時間がない」

 リィリアは追い立てられるようにして、店の前に止まっていた鹿毛の馬に乗るようにディエスに促された。戸惑いながらもリィリアは馬の手綱とたてがみを一緒くたに持つと、左足をあぶみにかけて鞍上へと跨った。間髪を容れずにディエスがひらりとリィリアの後ろへと飛び乗る。

「行くぞ」

 ディエスが脹脛で合図を送ると、王城へと向かって馬が動き出した。

 半ば連れ去られるようにして強引に連れ出された姪が乗せられた馬が遠ざかっていくのをフィーゴはぽかんと口を開けたまま見送った。まるで嵐のような一連の出来事に今のは一体なんだったのだと呆気にとられることしか彼にはできなかった。

 つい先ほど昼を過ぎたばかりだというのに早い夕暮れのおとないを告げ始めた太陽が、銀匙亭の前に彼の影を長く伸ばしていた。


   ◆◆◆


「――この者、オーウェル・ゼレナートを我が国の王太子とすることに異論がある者はおるか?」

 絶対的な威厳とともに、飾り立てられた大広間に居並ぶ人々へ問いかける男の声が響いた。ウィザル帝国のとの戦争を終結に導いたという功も手伝ってか、オーウェルの王太子としての資質に意を唱えるものは誰一人としていない。大広間はしんと静まり返り、厳かな空気を湛えたまま物音ひとつしなかった。

「オーウェル・ゼレナート。汝に王太子となり、この国を正しく導き、永き繁栄を民へともたらす意志はあるか?」

 鋭く存在感のある男の声が、今度は隣に立つオーウェル王子へと向けられる。オーウェルに王太子として立つ意志の有無を問うた、頭に王冠をいただいた壮年の男――ゼレンディア国王のジョセールの横に、すっと亜麻色の髪をうなじで結えた青年が歩み出た。盛装のジュストコールに身を包んだオーウェルだった。

 彼は落ち着いた面持ちで招待客たちを見回すと、口を開いた。

「はい。私は愛するこの国を守り育て、千年先の未来へと繋いでいくため、この国の王太子となることを望みます。

 先の戦いでは、我が国は決して少なくない被害を被りました。皆様の中にも、愛する人を亡くされた方もいるでしょう。

 私はこの国に、そして世界に平和が訪れ、共に永く栄えていくことを切に願っています。いかなるときも、私は隣人との交流に剣を用いず、対話を持って、永遠の友好を築いていくことをこの場にいる皆にお約束しましょう」

 ほう、と招待客たちが息を呑む音が響いた。この場に招待されている貴族たちの中には、嵩む戦費などを理由に、ジョセールが周辺国へ戦を仕掛け続けることを苦々しく思う者も多い。オーウェルの宣言は、彼らの期待と関心を惹きつけるには充分なものだった。

 ジョセールは緑の目を苦々しげに息子に向ける。しかし、オーウェルの言葉がジョセールの意に沿わないものだからといって、儀式を中止すれば、この国を支えているこの場の貴族たちの反感を買う。いたしかたないと、彼は側に控える侍従長に合図を送ると、柄に獅子を模した細工が施された宝剣を持って来させる。

 ジョセールは、歴代の王太子たちに受け継がれている宝剣を鞘から抜き放つと、宙へと掲げた。

「――我、ジョセール・ゼレナートは、オーウェル・ゼレナートを次代の王太子とすることをここに宣言する!」

 大広間中に響き渡る大音声でそう告げると、ジョセールは宝剣を鞘へと納める。そして、ジョセールは横に立つオーウェルへと宝剣を差し出した。オーウェルが宝剣を受け取ると、大広間が歓声と拍手に包まれた。

 そのとき、大広間の扉が開いた。「きゃっ」何者かに乱暴に背を押され、黒髪の少女がよろけながら大広間に入ってくる。少女の姿を視界に認め、オーウェルの口元に笑みが浮かんでいく。

(彼女は、間に合った。ディエスが間に合わせてくれた。おかげで私は……今日、この場でもう一つの目的を遂げられる)

 オーウェルは剣を手にしたまま、大広間を縦断するように敷かれた赤いビロードの絨毯の上を進み、少女へと近づいていく。黒いカマーベストにダイナーエプロンというこの場にはおよそ相応しくない出立ちの闖入者に、人々はさざめき立つ。

 オーウェルは少女に寄り添うと、腕を回して華奢な背を抱いた。リィリアは戸惑いながらオーウェルの顔を見上げる。

「オーウェル様……どうして……?」

「約束しただろう? 近いうちに、きっと城に招待すると」

 ふっと、オーウェルは微笑んだ。そして、彼は招待客たちを見渡すと、朗々と宣言する。

「この佳き日に私は、生涯の伴侶となるこの女性を皆様にご紹介させていただきたい。

 彼女はリィリア・ユーティス。此度のウィザル帝国との戦において、我が軍に勝利を導いた女神フリティラリアに祝福されし戦乙女である!

 私は死が二人を別つその瞬間まで、彼女を愛し、共に生きることをここに誓おう!」

 ぎゅ、と背を抱くオーウェルの手に力が籠る。リィリアは何が起こっているのか理解できずに、紫の目を白黒させた。

 順番が逆になってしまってごめんね、とオーウェルの顔がリィリアの顔へと近づけてきた。彼は真摯な目でリィリアを見つめると、こう告げた。

「リィリア・ユーティス嬢。あなたを愛している。この先の未来を私と共に歩んでもらえないだろうか?」

 それはリィリアのことを望む、まっすぐな愛の言葉だった。

「わたしは――」

 自分は、オーウェルの愛情にどれだけのものを返せるだろう。ただの平民として生まれ育った自分は、彼の隣でこの国のために何を為せるのだろう。

 リィリアはふと、出がけにエプロンのポケットに入れてきた、赤い薔薇のカードの存在を思い出した。

 赤い薔薇の花言葉は『あなたを愛しています』である。今の自分にはただそれだけでいいのだとリィリアは気付かされる。

(自分が何を為せるかなんて、あのときと同じように、これから、オーウェル様と一緒に考えていけばいいの。わたしは一人じゃない。

 わたしにはオーウェル様を愛している、今はその事実だけで充分だから……!)

 確たる思いに突き動かされ、リィリアはライラックの瞳でしっかりとオーウェルを見つめ返す。すう、と小さく息を吸うと、リィリアは口を開いた。

「オーウェル様。わたしは何も持たない、あなたとは違う場所で生きてきた人間です」

 リィリアは右手をエプロンのポケットに突っ込むと、赤い薔薇が描かれたカードを引っ張り出した。リィリアの動きを不審げに注視する招待客たちにも見えるように彼女はカードを掲げると、左手を這わせた。

 リィリアの左手が金色の光を帯び始める。光の粒子がカードに描かれた花の輪郭が彼女の手が纏う光と同じ色を帯びて輝き始めた。

「女神の御業だ……」

 その神々しい光景に、招待客の誰かが呟いた。

 花の絵を取り巻く金色の光がパァンと眩く弾けた。ぽとり、とリィリアの右手から真っ白なカードがすり抜け、ビロードの絨毯の上に落ちる。次の瞬間、リィリアの手の中ではカードに描かれていたものにそっくりな赤い薔薇の花があった。「おお……!」「一体何が起きたんだ……!?」人々から驚嘆の声が上がる。

「――それでも、隣で明日を迎えることをあなたは許してくださいますか? わたしは――あなたを愛しています」

 リィリアはオーウェルへとそう言葉を返すと、手の中で笑む赤い薔薇を彼へと差し出した。

「もちろんだよ。リィリア――私の愛しい人」

 オーウェルはそう言って、薔薇を受け取った。そして、彼は茎で輪っかを作ると、左手を出して、とリィリアに囁いた。

「左手……?」

 リィリアは聞き返しながらも、オーウェルの前へと左手を差し出した。オーウェルはリィリアの左手の薬指に何もないことに嬉しそうに目を細める。

「よかった。あのときの約束、守ってくれたんだね」

「約束……?」

「こっちの指はいつかのために、私のために取っておいて欲しいって約束。覚えていない?」

 あ、とリィリアは声を漏らした。軍議で自分の力を活かした作戦を提案した日の夜、確かにオーウェルとそんな会話を交わしていた。

 オーウェルはリィリアの左の薬指に薔薇の生花で作った指輪を潜らせると、その手の甲へキスをした。

「今度、きちんとしたものを改めて贈らせてもらうよ。だけど、今はどうか――これで」

 リィリアはくすりと笑うと、その行為と手作りの誓いの指輪を受け入れた。オーウェルも照れたように笑い返すと、リィリアの唇に自分のそれを重ねた。リィリアは幸せな気持ちで目を閉じた。

 大広間に式典の招待客たちの拍手が響き始めた。祝福の言葉の数々が二人の頭上を飛び交っている。

 リィリアの指に嵌められた指輪が金色の粒子となって解けていく。それでも拍手は鳴り止むことなく、いつまでも二人を祝福し続けていた。

 

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戦乙女は絵筆を執る 七森香歌 @miyama_sayuki

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