第六章:描く軌跡が実を結ぶ
秋晴れの空の下、ラグジェ丘陵の基地の外れに夥しい枚数の
見渡す限りの白、白、白。重石が置かれた隣同士の布を縫い合わせ、大きな布を更に大きい布へと変えていく。
「っつ、いったあ!」
今日は非番にも関わらず、リィリアの手伝いをしていたイリーゼは悲鳴を上げた。指先には小さな赤色の珠が浮いている。
彼女の双子の姉であるメリーゼは、布と布を手元も見ずに針で器用に縫い合わせながら、呆れたような表情を見せる。
「まったく。イリーゼは本当に不器用なんだから。傷口の縫合とか、いっつも私に押し付けてるから、縫い物が一向に上達しないんだよ」
「傷口の縫合って……」
ただの縫い物と外科手術を一緒にされてもなあと思いながら、リィリアは苦笑した。
そんなことないもん、などとイリーゼが姉に言い返すのを聞きながら、リィリアは布の上に絵の具を乗せていく。リィリアによる
絵を描くことに徹しなければならないリィリアには、布の縫合作業に携わっている時間などない。そのため、非番の兵士たちが変わる変わるその役目を負ってくれていた。
「それにしても、イリーゼがこんなんじゃ、私ほぼ一人で縫ってるようなものじゃない。フレーネさんとシェスカさんも今日は抜けられないし、どうしたものか……」
メリーゼがぶつぶつ言いながら手を動かしていると、すっと彼女の背後に人影が立った。
「メリーゼ伍長、っすよね? よければ俺がイリーゼ伍長と代わるっすよ」
青年の声に話しかけられ、メリーゼは布を縫い合わせる手を止めることなく、胡乱げな水色の目で彼を振り返った。
「申し出はありがたいけれど……誰?」
一万も人がいる集団ともなれば、すべての人間が顔見知り同士というわけにはいかない。ヴァレットが数少ない女性陣であるメリーゼたちの顔と名前を知っているのは不自然でなくとも、メリーゼが彼のことを知らないのも無理はなかった。
青年は気分を害したふうもなく、メリーゼへと爽やかに名乗った。
「俺はヴァレット・ドルーグ少尉っす。そういった作業であれば、実家が仕立て屋なので役に立てると思うっすよ」
ヴァレットが格上の尉官であることを知り、メリーゼの口調が丁寧なものへと変わる。
「そういうことならお願いしてもいいですか? この子、まだ三針も縫えていないのに、既に十回は指刺してて」
「それはなかなかっすね……いいっすよ、交代するっす」
ヴァレットは手近な布の上に腕に抱えていた重石を置くと、イリーゼから裁縫道具を受け取る。
「イリーゼ伍長、重石はあっちの柵の辺りに積まれてるっす。あれを持ってきて、縫い合わせる前の布が飛ばないように置いていってほしいっす」
了解、とイリーゼは形ばかりの敬礼をすると、重石の山の方へと走っていった。
ヴァレットは慣れた手つきで糸を針穴に二重に通すと先端に結び目を作った。実家が仕立て屋だというのは嘘ではないようで、ここまでで三秒とかかっていない。
「どうやって縫いますかね……メリーゼ伍長と同じように本返し縫いでいいっすかね?」
それでお願いします、とメリーゼが頷くと、ヴァレットは布の裏から針を通した。表から裏へと針を刺し、再び裏から表へと針を出す。そんな単調な動きもヴァレットの手にかかれば神業のように洗練され、滑らかで早い。「すご……」メリーゼが呆気に取られている間にヴァレットは一メートルほどの長さを縫い上げていた。その縫い目はまったく乱れておらず、布と布を引っ張ってもびくともしないくらい頑丈だった。
「それじゃあ、俺がこの布は終わらせておくっすから、メリーゼ伍長はあっちを縫っておいてほしいっす」
「は……はい、了解しました」
メリーゼはその場で敬礼すると、布の縫合へと没頭していく。時折、ズズッという布を糸が抜ける音を聞きながら、リィリアは布の上に兵士の絵を描き続けていた。
辺りが秋宵の薄闇に包まれて始めても、リィリアは手を止めなかった。
ぺと。ぺた。リィリアは一心不乱に巨大な真っ白なキャンバスに向き合い、絵筆を手に兵士の姿を描き続ける。
「リィリア、夕飯持ってきたよ。だから、一回休憩を……」
シェスカに頼まれたスープの椀が乗った盆を持って、作業を続けるリィリアへと近づいてきたオーウェルはそう言いかけて言葉を止める。
邪魔をしてはいけない、そう感じるほどに筆致を布の上に刻み続けるリィリアには鬼気迫るものがあった。既に長時間作業を続けているはずなのに、その手はブレることも迷うこともなく、的確に広大なキャンパスの上に色を置き続けている。
(これは……シェスカに言って、作業しながらでも片手で食べられるものを用意してあげたほうがいいかな)
作業に集中しているのか、リィリアがオーウェルに気づく様子はない。自分に気づいてくれない想い人に、ほんの少し寂しげに彼は肩をすくめると、スープの盆を手に踵を返した。
ふっとリィリアが気がつくと、空に登った月が西に傾きかけていた。東の空がほんのりと朝の色を帯び始めており、夜明けが近いのだとリィリアは思った。
薄闇の中、目を凝らすと
バスケットの中には塩漬け肉と卵のペーストが使われたサンドウィッチが入っていた。一緒に添えられた山羊革の水筒には柑橘のしぼり汁が入っていた。
くう、とリィリアの腹が小さく鳴った。今日は気がつけば作業に没頭するあまり、朝食の後から何も食べていなかったし、空腹なのも無理はなかった。
いただきます、と両手を合わせると、リィリアはサンドウィッチを手に取った。塩漬け肉にかけられた甘辛いソースとたまごのまろやかさが、食欲を刺激する。リィリアは皆が寝静まっている時間帯なのをいいことに、貪るようにサンドウィッチを頬張った。
腹がくちくなると、リィリアはバスケットの底に一枚のカードが入っていることに気づいた。
『リィリアへ。我が軍のために遅くまで作業お疲れ様。とても集中しているようだったので、軽食を用意させてもらいました。無理なお願いをしているのは重々承知しているけれど、あまり根を詰めすぎないで頑張ってください』
カードの文章の末尾には、オーウェルによるサインが為されていた。オーウェルがこうして自分のことを気遣ってくれたということに胸がじんわりと熱くなる。リィリアはパレットの上に置いていた筆を手に取ると、カードの裏側に文章を認めた。
『オーウェル様へ。お気遣いいただきありがとうございました。皆様のお役に立てるよう、引き続き頑張らせていただく所存ですので、今後ともよろしくお願いいたします。愛を込めて、リィリア・ユーティス』
堅苦しすぎるだろうか。しかし、自分とオーウェルの関係性は恋人というわけではない。馴れ馴れしすぎるのも違う気がするし、第一に他の人に見られたときのことを考えると何だか気まずい。
ふわふわとした気分をかぶりを振って追い払うと、リィリアは筆先で灰色の絵の具をしごいた。
秋暁の冷たい風が、リィリアの長い黒髪をふわりと靡かせる。東の地平線を振り返ると、金色の太陽が顔を覗かせ始めていた。
(今日を入れてあと四日。――頑張らないと)
リィリアは気合いを入れ直すと、布に向き直り絵の具のついた筆先で兵士の兜を描き始める。
師団の他の人々に手伝ってもらって縫い合わせた布にはまだまだ空白が多い。絶対に間に合わせるのだと誓いを新たにしながら、リィリアは手を動かし続けた。
それからもリィリアは寝食を惜しんで絵を描き続けた。二日目の途中から、手が痛みを訴え始め、三日目には幹部は熱を持ち、腫れが見られるようになっていた。
「これは腱鞘炎ね。無理をするから」
フレーネは氷嚢でリィリアの手首を冷やしながら、溜め息をついた。彼女の蜂蜜色の双眸には、やれやれとでも言いたげな呆れの色が浮かんでいる。
「どうしてこんなふうになってしまうまで頑張るのよ……」
「これが、今のわたしに与えられた役目だからです。わたしの頑張りで今後の趨勢が左右されるのなら、頑張らないわけにいかないじゃないですか」
毅然としてそう言い放ったリィリアに、あのねえ、とフレーネは噛んで含めるように言い聞かせる。
「だからといって、こんなふうになっていたら元も子もないでしょう? 見たところ、手首の炎症以前にろくに食事も睡眠も摂っていないでしょう? そういう無茶はかえって物事の効率を下げるだけよ。きちんと休息は取らないとだめよ」
リィリアは首を横に振る。フレーネの言い分は理解できるが、そんなことをしている暇も今は惜しい。
「わかっています。たとえ非効率だとわかっていても、それでも今はどうしても一分一秒が惜しいんです。わたしは……この絵を絶対に完成させないといけないんです」
責任感があるのはいいことだけれどね、と苦笑しながら、フレーネは自分の軍服のポケットを漁る。棒状の紙包を彼女は無理矢理リィリアに握らせると、
「チョコレートバーよ。どうしても休めないというのなら、今のうちにこれだけでも食べておくといいわ」
ありがとうございます、とリィリアはおとなしくチョコレートバーを受け取って金茶の軍服のスカートの上に置くと、片手で包み紙を剥がしていく。包み紙を半分剥がすと、リィリアはチョコレートバーを掴み、歯を立てて小さく齧った。とろけるような甘苦い味わいが舌の上を伝播し、口の中を満たしていく。体の中に染み渡っていく糖分に、自分は思っていた以上に疲弊していたらしいとリィリアは悟る。
リィリアがチョコレートバーを握っているのとは反対の手からフレーネは氷嚢を外すと、ハーブの滲出液で作った湿布を患部へと貼り付ける。そして、フレーネは手首を起点に包帯を巻き始めると、絵筆ごと彼女の手を固定した。
「私の立場としては、無理にでも言うことを聞かせるべきなんだけど、リィリア、思いの外頑固だから。こうしておけば、あなたの手首への負担も少しは減るはずよ」
ありがとうございます、とリィリアは座ったまま低頭した。いいのよ、とフレーネは立ち上がる。
「ここには無茶なことをいう連中ばかりだもの、慣れているわ。腕がもげかかっているのに戦場に戻りたがる奴とか、腹に風穴開けられてるのにまだやれるって言い張る奴とかね。
だからって無茶することを私たちが許しているわけじゃないのよ。リィリアには頑張ってほしいけれど、倒れない程度にね。リィリアが今回の
「心しておきます」
「わかってくれればそれでいいのよ」
それじゃあね、とフレーネは救急箱を腕に抱えると去っていった。
リィリアは包帯で固定された筆を握る。まだやれる、そう言い聞かせると、筆先に鈍色の絵の具を取った。
それから更に二日間、リィリアは絵を描き続けた。
時折、体が限界を訴え、ふっと意識が遠のきそうになることもあった。睡眠不足で目元は黒々としたクマができて落ち窪み、食事をろくにとっていないことも相まって頬がげっそりとこけていった。包帯の巻かれた手は、手の甲から肘にかけてずきずきとした痛みを訴えていた。それでも、リィリアは充血した紫の双眸で真摯に巨大なキャンバスに向き合い続け、筆を離すことはなかった。
絵を描き始めて五日目の夜半、遂に最後の兵士を描き終えたリィリアはその場に突っ伏した。昼にメリーゼが変えてくれた包帯を解くと、手に固定されていた筆を外して
虫たちが奏でる子守唄の音が心地よい。夜露に濡れた草の感触が冷たくて気持ちよかった。夜風がリィリアの乱れた髪をさわさわとかき混ぜながら通り過ぎる。
(あ……だめ……)
画材の片付けもしないといけないし、絵が完成した旨の報告にもいかないといけない。
少しずつ瞼が落ちていく。しばらくは疲労と眠気にリィリアは抗っていたが、やがて、視界が暗闇に包まれた。
(少しだけ……少しだけ休んだら……)
そう思ったのを最後にリィリアの思考はぷつりと途切れ、眠りの闇の中へと落ちていった。
オーウェルは、軽食の入ったバスケットを手に、リィリアのいる基地の外れを目指していた。
バスケットの中身はオーウェルが手ずから作った、チーズと塩漬け肉のホットサンドである。
「しかし、殿下。御身自ら、ユーティス二等兵の様子を見に行かずとも、俺に命じてくださればよいものを……」
オーウェルの横で渋面で何事かぶつぶつと言っているのはディエスである。彼はイハーヴ
立ち並ぶテントの群れの中を抜け、開けた空間に出ると、びっしりと兵士の絵が描かれた巨大な白い布が地面に広げられていた。
パレットや絵の具のチューブが入った紙箱、
「殿下、お召し物が汚れます」
バスケットを拾い上げて追いついてきたディエスが呆れたように苦言を呈する。しかし、そんなことどうでもいいと言わんばかりにオーウェルはリィリアの華奢な体を抱き起こす。
抱き起こした細い体からは脈動が感じられ、口元から小さく吐息が漏れていることから、眠っているだけだと察せられた。そのことにオーウェルはわずかな安堵を覚える。
「どうやら、これを完成させて力尽きたように見えます。無理をしたせいで手が腫れているように見えますし、ルミエリア少佐をお呼びになられては?」
ディエスの進言にオーウェルはそうだね、と頷いた。オーウェルは意識のないリィリアの背と膝の裏に手を回して立ち上がると、
「彼女は私のテントに運ぶ。ディエスはルミエリア少佐を呼んできてほしい。あとは無事にリィリアがやり遂げたと、シェスカに伝えてほしい。彼女もリィリアのことは心配していたから」
「御意に」
敬礼すると、ディエスは救護所のテントへと向かって去っていった。その背を見送ると、オーウェルは腕の中のリィリアへと顔を寄せた。
「リィリア……すごいね、やり遂げたんだね。本当に、お疲れ様」
そう呟くとオーウェルは絵の具で汚れたリィリアの額へと口づけを落とした。
白く弧を描く月の舟が遠い果てから二人を見下ろしている。彼女と一緒なら、この
◆◆◆
リィリアが意識を取り戻すと、背中の下がふかふかと柔らかかった。眠気の波間でたゆたう意識の中で、従軍することになってからのことはすべて夢で、ここは王都の叔父の家のベッドなのではないかという思考が脳裏を掠めたが、たとえそうだとしても何だか寝心地が良すぎる。
ここはどこなんだろう、と思いながら目を開けると、視界に映り込んできたのは金属の骨組みが見えるテントの天井だった。
(いつもの、女性兵士用のテントじゃない……!?)
テントの中に置かれた荷物は明らかに一人分のもので、持ち物の一つ一つがやけに洗練されていた。視線を下ろすと、今自分が横たわっている寝台も、鉄パイプに布を被せただけの粗末なものではなく、しっかりとした造りの高級そうなものだった。
リィリアは上体を起こすと、恐る恐る毛布を捲った。今の自分の格好を認識すると、リィリアは声にならない悲鳴を上げた。
「……ッ!?」
意識を失う前は、絵の具まみれになった軍服を着ていたはずだった。しかし、今のリィリアは肌着の上に男物のシャツを一枚羽織っただけのあられもない姿だった。だぼついて肩を滑り落ちていきそうになる胸元が、何も履いていない脚がいっそ破廉恥なくらいに露出された裾が、心許なくて仕方がない。
テントの中を見回しても、自分のものらしき衣服はどこにも見当たらない。代わりに、きちんと誰かが手入れしてくれたらしい自分の画材たちが寝台の脇に置かれていた。
どうしよう、とリィリアがシャツの前を申し訳程度にかき合わせていると、入り口の布が揺れ、誰かが入ってきた。
「リィリア? 目が覚め……」
「きゃっ……きゃああああ!!」
テントの中に入ってきたのがオーウェルだと気づくや否や、リィリアは今度は声に出して悲鳴を上げた。記憶が正しければ、自分は絵を完成させて力尽きてあの場で眠ってしまったはずだ。なのに、オーウェルのテントでこんなあられもない格好をしているということは、意識のないうちに彼と一線を越える何かをしてしまったという意味にほかならない。
羞恥のあまり、顔が真っ赤になっていくのを感じる。リィリアが何かを勘違いしているらしいことを悟ったオーウェルは、自分の黒い軍服のジャケットをリィリアに脱いで羽織らせてやると、静かに、と口の前で人差し指を立てた。
「騒ぐと何かあったのかと他の人が入ってきてしまうよ。リィリアも今の姿を誰かに見られたくはないだろう?」
私も見せたくはないし、と何食わぬ顔で言い添えたオーウェルの横顔をリィリアはじっとりとした目で見た。違うよ、とオーウェルは首を横に振ると、弁解を始めた。
「私は倒れていたリィリアをここまで運んできただけで、リィリアが誤解しているようなことは何一つとしてしていないよ。絵の具まみれだったリィリアの体を清めて着替えさせたのも、腱鞘炎の痛み止めの注射をしたのもルミエリア少佐だよ」
「フレーネさんが……」
言われてみれば、あんなにも腫れ上がり、痺れていた左腕が少し楽になっている。配給の仕事をどれだけ手伝えるかはわからないが、普通の生活をする分には問題なさそうだった。
「そういえば、わたしの画材を回収して、手入れしてくださったのはどなたなんですか?」
「それなら私だよ。前に多少絵の心得があると話しただろう?」
「ありがとう、ございます……それと、叫んでしまって申し訳ありませんでした」
王子であるオーウェルにそんなことをさせてしまった申し訳なさと、先ほどの自分の言動の失礼さで小さくなりながらリィリアは詫びる。「気にしないで」オーウェルはさして気にしたふうもなく笑った。
「私はリィリアが目覚めたことをルミエリア少佐とシェスカに知らせに行ってくるよ。丸一日も眠っていたのだから、早く知らせて安心させてあげないと。
それと、着替えと食事も彼女たちに持ってきてもらえるように頼んでおくから、リィリアはそれまでここで休んでいて」
そう言って踵を返しかけたオーウェルは腰を捻りかけたまま、動きを止める。そして、リィリアに向き直ると、黒いジャケットを羽織った彼女の体をそっと抱きしめた。
「私たちの……この国のために、頑張ってくれてありがとう。リィリアにこれ以上負担を強いるのは私の本意ではないのだけれど……それでも、このまま一緒にこの作戦の行方を、戦いの趨勢を見届けてくれる?」
リィリアは薄着になったオーウェルの背に手を回すと頷いた。
「もちろんです。わたしたちが思い描いた未来がどう結実するのか、一緒に見届けましょう」
そうだね、と囁くとオーウェルの体がリィリアから離れていった。オーウェルは離れざまにリィリアの髪を一房捕まえると唇を這わせる。
「決行は明後日の夜明け前だ。それまでにリィリアには少しでも体力を戻してもらわないとね。何といってもこの
手の中から掴んだリィリアの髪を逃すと、じゃあね、と気安い調子でオーウェルはテントを出ていった。
オーウェルの唇が触れた髪の先を手に取ると、リィリアは自分の唇を触れさせた。そうすることで間接的に彼の感触を感じられるような気がした。
(わたし、何……やってるんだろう)
恥ずかしいことをしている自覚はあった。それでも、彼を体のどこかで感じていたくて、リィリアはオーウェルの軍服のジャケットに顔を埋めた。今この瞬間にも消えていってしまう彼の温もりとベルガモットの残り香が愛おしくて、リィリアは自分の体を掻き抱いた。
(それでも……わたしは、オーウェル様のために、この戦争を必ず終わらせてみせる……!)
そのために自分は今ここにいる。そのことを改めて自分に言い聞かせると、リィリアは作戦成功のために全力を注ぐことを心の中で誓った。
◆◆◆
空を渡る月は夜毎に痩せ細っていき、新月の夜を迎えた。天から降り注ぐのはささやかな星のきらめきのみで辺りの闇は濃く、作戦決行には打って付けの夜だった。
日付が変わるころ、集合の声がかけられ、リィリアは基地の入り口へと赴いた。近くには背に鞍を乗せた十数頭の馬がおり、手綱が柵へと結び付けられている。
リィリアの他には、総司令官であるオーウェルと副官のディエス、ディエスの指揮下にある兵たちの一部が集められていた。殿下と一夜を共にしたらしいだの、殿下のテントから睦言が漏れ聞こえてくるのを耳にしただの、嘘とも本当とも言えない好奇に満ちた兵たちの言葉と視線がオーウェルのそばに控えるリィリアには浴びせられ、居心地が悪いことの上ない。オーウェルはそんな兵たちの様子にも怯むことも気負うこともなく、声を張る。
「皆、よく集まってくれた。此度の作戦、必ずや成功するものだと私は信じている。
さて、それでは作戦の開始前に、概要をもう一度浚っておきたいと思う」
オーウェルは百人近い兵たちに向かって演説をしながら、ディエスへと目配せをする。わかったと言わんばかりに頷き返すと、ディエスはオーウェルの言葉の後を継ぐ。
「作戦の概要については俺から説明させてもらおう。この作戦に従事するのは殿下と俺、ユーティス二等兵に俺の麾下にある第一特務中隊だ。
まず、第一特務中隊を三つの小隊に分ける。第一小隊をドルーグ少尉、第二小隊をセルフィード准尉、第三小隊をスティルズ准尉に預ける。
第二小隊と第三小隊は俺とともに先に出発し、南側からラナトメラの森に入った後に、第二小隊は西から、第三小隊は東からエディタント城砦を目指す。その後、第一小隊は殿下とユーティス二等兵を守りながら、西廻りで森の外縁を北上し、極力国境に近い位置から森へと入る。
森に入った後、第一小隊は更に分隊単位に分割する。ドルーグ少尉の指揮する隊は正面で欺瞞作戦のために動く殿下とユーティス二等兵の警護、残りは森の外を迂回し、北側からエディタント城砦の裏手へと向かう」
ディエスはそこで言葉を切ると、ここまではいいか、と兵たちを見回す。特に疑問の声が上がらないのを確認すると、彼は話を続けていく。
「ユーティス二等兵による
こちらの欺瞞作戦によって、相手が混乱したところを見計らってエディタント城砦に突入する。俺が合図をしたら、第一特務中隊はドルーグ少尉の分隊を除いて全員、所定の位置から突入を開始しろ」
ディエスの説明の後を拾い、オーウェルは兵たちに注意を呼びかけていく。
「なるべく交戦は避けて行動してほしい。本作戦の主戦力はあくまで一個中隊にすぎない以上、まともに戦えば勝ち目はない。私たちの目的は、あくまであの砦を占領しているヘイフォード将軍とこの戦争について協定を結び、彼らをこの国から追い出すことだ」
オーウェルのアイスブルーの視線がリィリアへと合図を送った。リィリアは彼の目に促されるまま、一歩前へと踏み出した。オーウェルは手でリィリアを示すと、こう宣言した。
「私たちには神の御業をもたらす戦乙女の加護がある。どうか皆、私と彼女を信じ、この戦いを終わらせ、この国に平和をもたらすべく協力してほしい」
オーウェルの言葉に応え、兵たちが一斉に唱和した。オーウェルを見つめる兵たちの目は希望と奮起に満ちていた。
「それでは、総員配置につけ! ――これより
ディエスが宙に片手を翳し、号令を発した。「はっ」兵たちはそれぞれの隊の待機場所へと移動していく。
「リィリア、私たちも出発の用意をしよう」
軍服の上から茶色い外套を纏ったオーウェルに、彼が着ているものと同じものをリィリアは手渡された。暗い森の中で保護色となる色の外套をリィリアも軍服の上から羽織った。
「こっちに来て」
オーウェルに手招きされ、リィリアは柵に繋がれていた青鹿毛の馬に近づいた。ヴァレットが近づいてきて、馬の左側にリィリアのために踏み台を置いてくれた。彼は軍服のポケットから角砂糖を取り出して、馬に食べさせると去っていった。
オーウェルは柵に結んだ手綱を手早く解きながら、リィリアへ馬への乗り方を説明する。
「リィリア、手綱とたてがみを左手でまとめて持ったら、左側の
リィリアは馬になど乗ったことはない。少しどきどきしながらも、踏み台に登るとオーウェルに言われた通り、手綱とたてがみを掴むと、
「リィリア、鞍の前にある持ち手を掴んでいてね」
そう言うとオーウェルはいかにも慣れたふうに、リィリアの後ろに跨り、彼女の体を抱きかかえるようにして手綱を持った。胴に回された、男性らしく引き締まった腕の感触にリィリアは少しどきりとする。
鞍上から見渡せば、ともに出発する第一小隊の面々は各々の馬に騎乗し終え、いつでも出発できる状態になっていた。
徒歩で出発する第二小隊と第三小隊も今か今かと出発の合図を待っていた。自身も馬に跨ったディエスが部下の青年に何事か耳打ちすると、青年は喇叭を取り出し、出陣を知らせた。
ディエスが鹿毛の馬の腹を脹脛で圧迫すると、馬はゆったりとした常歩で歩き出した。蹴られないように充分な距離をとった上で、馬の後ろを第二小隊と第三小隊が隊列を組んで出発していく。
「彼らが出発次第、私たちも出発する。先ほどの説明にもあった通り、私たちは彼らとは異なり、北の国境付近から森へと入る。ルートを間違えないように注意してほしい」
オーウェルは馬上から背後を振り返ると、兵たちへと告げた。応、と兵たちが返事をした。
先に出発した第二小隊と第三小隊の隊列が闇の中へと消えていく。彼らの背が完全に見えなくなったことを確認すると、オーウェルは声を張り上げた。
「私たちも出発する! 皆、私に続いてくれ!」
オーウェルは脚で馬に合図を送ると、前へと進み始める。だんだんと馬の頭の動きと揺れが激しくなり、別々に地面を蹴っていた四節の動きが左前肢と右後肢、左後肢と右前肢という二節の動きへと変わっていった。
「きゃっ……」
走り出した馬の速度に驚いてリィリアは鞍の前の持ち手にしがみつく。前屈みになったリィリアを安心させるように、オーウェルは彼女の耳元でささやく。
「大丈夫。私に体を預けて」
リィリアは躊躇いながらも、思い切って背を伸ばし、言われた通りにすぐ後ろにいるオーウェルの胸に自分の背を凭せかけた。背中に伝わる熱が、確かに彼がそこにいるのだと安心をくれる。
気づけば、暗い夜空に瞬く星座がほんの少し西へと角度を変えている。リィリアとオーウェルを乗せた馬を先頭とする隊列は、決して動くことのない北天の星を目印に、エディタント城砦を目指して進み始めた。
リィリアとオーウェルを乗せた馬は鬱蒼と茂った森の外周を西廻りで進んでいた。
ウィザル帝国と北東の国境を接するラナトメラの森は広大だ。どこまで進んでも木立が絶える様子がない。
右手に見える空の果てが薄らと朝の朱色を帯び始めていた。先に出発した第二小隊と第三小隊は今ごろは無事に森の南側からエディタント城砦を目指しているところだろうか。
ちらり、と森の木々の間から城のような建物のシルエットが見えた。あれがエディタント城砦だろうか、とリィリアが思っていると、背後からオーウェルの声がした。
「そろそろ森の中に入る。道が悪くなるから、舌を噛まないように気をつけていて」
わかりました、とリィリアは頷いた。オーウェルは手綱を捌いて馬の進路を変え、木々の枝が無節操に飛び出す獣道へと分け入っていく。
「それでは、ドルーグ少尉の分隊は私たちと一緒に来てくれ。残りの者は裏手からエディタント城砦を目指し、モーフェルト大佐の指示があるまで現地待機してくれ」
幸運を祈る、とオーウェルはわずかな手勢と共に隊列を離れる。「自分たちには戦乙女の加護があるらしいですから」残りの分隊を取りまとめることになった軍曹の青年はリィリアを見てにっと笑ってみせた。
僅か十騎となったオーウェルたちは、森の北部から獣道を伝って南東へと進んだ。入り組んだ細い道は大人数での行軍に向いているとは言い難く、北東方面軍がこれまでエディタント城砦を取り戻せずにいた理由がわかるような気がするとリィリアは思った。森を焼けばエディタント城砦を占領するウィザル軍を追い出すことができたかもしれないが、オーウェルはそのような非道な手段は好まないし、何よりそのようなことをすれば国土に甚大な被害を残してしまう。
「そろそろだ。仕込みの準備をしてくれ」
北の方角にはっきりと城壁が見え始めると、背後を走る分隊の兵士たちにオーウェルは指示を出した。彼らは応と返事をすると、オーウェルの馬とヴァレットの馬だけを残して、隊列を外れていく。
城門の西端に近い位置に背の高い針葉樹を見つけると、一人の兵士が馬を降りた。馬の背に積んでいた大きな荷物を解くと、それは一枚の巨大な布へと姿を変えた。兵士は釘と槌を取り出すと、布の右下を木の根へと打ちつけた。そのまま彼は、木を登りながら、布に釘を打ち、木の幹へと固定していった。他の兵たちも馬を降りて木に登り、布が弛まないように幹へと釘を打ちつけていく。
しばらくすると、正面の城壁と対峙するように、夥しい兵士の姿が描かれた横長の垂れ幕が現れた。布に描かれた兵士の姿はひどく写実的で、今にも動き出しそうだった。
森の東の方から、鳥の声にもよく似た笛の名が響いた。それに応じるように西や北からもピュイーと音が響く。全ての小隊が予定していた地点にに到達したという合図だった。
「頃合いだね。リィリア、行ける?」
そう問われて、リィリアは背後のオーウェルの顔を振り仰いだ。
「大丈夫です。いつでも行けます」
アイスブルーとライラックの視線が絡み合う。二人は互いを鼓舞するように頷き合った。
オーウェルは馬体を挟む脚に力を込め、馬を歩かせ始めた。いい、とオーウェルはリィリアに改めてこれからの段取りを言い聞かせる。
「
「わかっています。大丈夫です」
何があっても目を背けてはいけない。目を閉じてはいけない。これから起きることを見届ける覚悟はとうにできていた。
一歩一歩、二人を乗せた馬は森の木々に固定された巨大な絵画へと向かって進んでいく。オーウェルは左側が絵に接するように馬を近づけていく。
リィリアは鞍の前から左手を離すと、絵の方へと伸ばした。指先が絵に触れると、手が黄金の粒子に包まれていく。
リィリアの手を伝って、金色の光があの全体へと伝播していく。光を纏った絵は森の外を染める朝陽より眩く、辺りを照らし出した。
「リィリア! 離れるよ!」
オーウェルは手綱を引き、上体を反らした。二人を乗せた馬はどんどん後退していき、リィリアの視界に一個師団分の兵士が描かれた絵の全貌が収まった。
ズドーン、と森の中を地響きが抜けていった。振動で木々が、城砦の建物が揺れる。異常を察知したらしい森の生き物たちが急速に目覚め、騒ぎ始める。
得体の知れない謎の光と地響き。そして、どこからともなく現れた、一個師団はいようかというゼレンディア王国軍の装備に身に包んだ兵士たち。
エディタント城砦はにわかに蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれた。「もう駄目だ……」「こんなの勝てるわけがない……」ウィザル兵の誰かの口をついて出た弱音が敷地内を伝播するのはあっという間のことだった。
森の西方から喇叭の音が響いた。ディエスによる突入の合図だった。
リィリアたちにできるのは、魂のない数多の兵たちをその場に留め、城砦が制圧されるのを待つことだけだった。背後で歩兵たちの軍靴の音と敵の情けない悲鳴が聞こえ続けているが、リィリアには何が起きているか見ることは叶わなかった。
しばらくののち、エディタント城砦の中から野太い勝鬨の声が上がった。味方がウィザルの将軍の身柄を押さえ、城内を制圧したのだと、見えなくてもわかった。
「リィリア、見て」
オーウェルは城砦の屋上を指差す。彼が示す先にリィリアが視線を移すと、巨人と大槌の旗が下げられ、代わりに獅子と剣があしらわれたゼレンディア王国の国旗が掲げられるところだった。
「あ……」
リィリアの口から声が漏れた。国防の要であるこの城砦を自分たちの力で取り戻せたのだと思うと感慨深かった。
「リィリア、私たちも行こう。最後の大仕事が待っている。この戦争を終わらせるために、ウィザルの将軍――ヘイフォード少将と協定を結ぶ、というね」
オーウェルは手綱を操って、城門へと馬の頭を向ける。リィリアの視界を外れたことにより、一万近い兵士たちの群れはほろほろと光の粒子となって崩れ始めていた。奇跡の残滓は木々の間から差し込み始めた朝陽の中へと溶けていこうとしていた。
◆◆◆
澄み渡った秋天に太陽が高く浮かぶころ、エディタント城砦の一室でオーウェルはウィザル帝国の将軍であるスヴェン・ヘイフォード少将と向かい合っていた。オーウェルの右にはディエスが、左にはリィリアが控えている。リィリアは己の場違いさにどぎまぎとしながら、事の成り行きを見守っていた。こうしてエディタント城砦を制圧した以上、リィリアにはもうできることはないし、後はオーウェルの手腕に任せるほかない。
「――只今を以て、我が国の領内における貴国の軍事行動を一切停止する。また、平和的解決が為されるまで、貴国は我が国の国境を侵さない。なお、二国間における平和的解決の方策については、別途定めることとする。これでいかがだろうか」
オーウェルはテーブルを挟んで向かい側に座る壮年の将軍へと向けて協定書の内容を読み上げていた。この文書は終戦に先駆け、まずは二国の間に休戦協定を結ぶためにあらかじめオーウェルが用意してきたものだった。
「オーウェル王子殿下といったか。敗国の立場でこのようなことを申し上げるのもどうかと思うのだが……あなたは随分と手ぬるいのですな」
スヴェンはざらついた声でそう言った。その言葉にはオーウェルを侮るような響きはなく、あくまで彼自身の単なる感想といったふうだった。
「あなたのお父君が我が国に攻め込んだのは、ヴェガエニス公国との講和条約に口を挟んだ我が国から、更なる賠償金を得ることを狙ってのことだったはず。それを鑑みれば、休戦協定には我が国に対する賠償金の請求といった内容を盛り込んで来るものだと思っていたのだが」
そうですね、とオーウェルは苦笑すると、透明感のあるアイスブルーの瞳で敵将の男を見据えた。
「父であればそうするでしょう。それどころか、貴国に領土の割譲を求めるくらいのことはするかもしれません。
ですが……私は父ではありません。それに、一方的に攻め込んだこちらに言えた義理はありませんが、私は我々二国の未来に無闇に禍根を残すような真似はしたくありませんから」
二人の将の視線が交錯する。オーウェルの目のまっすぐさが眩しくて、若いなとスヴェンは呟いた。この先を思うオーウェルの純粋で未熟な青さがスヴェンは羨ましかった。このような為政者がその信念を見失うことなく今後も進んでいけたのなら、この先に待つ時代は幸せなものになるに違いないと思えた。
「失礼ながら、あなたはお父君とは違い、話のわかる方のようだ。私とて、あなたが相手であれば、今後のことを考えるのもやぶさかではない」
「それでは……こちらの文書にサインをいただけるということでよろしいだろうか?」
いいだろう、とスヴェンは藍色の目を細める。オーウェルがペンを差し出すと、スヴェンはそれを受け取った。彼は実直な武人らしいやや右上がりの文字で、今日の日付と名前を二通の文書へと記していった。
「ここに二国間の休戦協定は結ばれました。終戦に向けた会談の場は、また改めて設けさせていただくということでいいだろうか」
オーウェルはゼレンディア王国分の控えの文書を引き寄せながら、スヴェンへと問うた。異存はない、とスヴェンは首を縦に振った。
オーウェルはリィリアをちらりと振り返ると、頬に柔らかな微笑を浮かべた。リィリアもオーウェルへと笑顔を返した。
オーウェルが思い描いた平和への一歩は、たった今踏み出されたばかりだ。けれど、今ならば夢物語かと思われたそんな未来も、オーウェルであれば絶対に叶えられるとリィリアは信じられた。
ふと、リィリアが窓辺に視線をやると、白い鳩が佇んでいた。鳩は
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