第五章:瑠璃に色づく祈りの蕾

 イハーヴ川畔かはんからラグジェ丘陵に基地が移され、十日余りが経った。基地移転による慌ただしさがようやく去り始め、新しい基地は通常時の様相に包まれるようになっていた。

 秋澄む空はどこまでも青く高い。爽涼な風は一日の始まりであるこの時間にはまだ肌寒い。この基地から見渡せる、エディタント城砦を擁するラナトメラの森は赤や黄に色づき始めている。それに合わせるかのように、リィリアたちもこの基地に移ってきてから、夏服から冬服へと軍服の装いを変えていた。

「おはよう、リィリア」

 リィリアが朝食のミルク粥を食べていると、盆を片手にシェスカがやってきて声をかけた。リィリアは匙を動かす手を止めると、軽く会釈をする。

「シェスカさん、おはようございます」

 失礼するね、とシェスカはリィリアの隣に腰を下ろすと、朝食を食べ始める。

「リィリア、この基地にはもう慣れた? イハーヴ川畔かはんのときと造りが違うから、迷ったりしない?」

「そうですね……食糧の貯蔵用のテントだと思ってたら、騎兵部隊の方たちのテントで気まずい思いをしたことはありますね……」

 あのときはうっかり彼らの着替えを覗いてしまうことになってしまい居た堪れなかった。戦場ではよくあることなのか、彼らは意に介したふうもなかったが、男性の裸体など見慣れていないリィリアからすれば非常にどぎまぎする経験だった。その話を衛生兵のイリーゼにしたら、うぶだなあと笑われたが。

「それはそうと、シェスカさん。わたし、この後、オーウェル様を訪ねようと思うんです」

「オーウェル様のところに?」

 やる気に満ちたリィリアの様子に、シェスカは少し意外そうな顔をした。ええ、とリィリアは匙を手に頷くと、

「わたし、これまではルーヴァさんの指示に従って、実験を繰り返してるだけでした。だけど、ルーヴァさんと整理した情報を元に、この戦争を終わらせるためにできることを一緒に考えていこうって殿下と決めたんです」

「なるほどね」

 シェスカの目にはリィリアが少し眩しく見えた。彼女がこんなに前のめりな姿勢を見せるのは、着任以来初めてだとシェスカは思った。

「それにしてもすごいね。愛の力っていうのは」

 シェスカはリィリアの変化を濃厚な粥と一緒に噛み締めながらそう言った。萌黄色の目には面白がるような光が浮かんでいる。

「な、なんで、それを……」

 リィリアはたじろいだ。あのときは真夜中で、シェスカたちは眠っていたはずだ。同様のあまり、手の中からスプーンがすり抜けていった。「よっと」シェスカはスプーンが地面につく前に、片手を伸ばしてそれを難なく受け止めると、

「寧ろ、何でテントの前でロマンス小説の見本みたいなことやらかしておいて、誰にも気づかれていないと思ってたの? あたしは夜中にリィリアが起きだしたときから気づいてたし、フレーネもたぶんそう。オーウェル様といちゃついてたくだりについてはメリーゼたちだって知ってるからね」

「え、えええ、えええええええ!?」

 リィリアは手で顔を覆った。オーウェルと抱き合っていたことを、キスを交わしたことを、囁かれた言葉のすべてをシェスカたちが把握しているのかと思うと顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。

「ちなみにオーウェル様とリィリアが好き合ってるのは、以前にオーウェル様が怪我をされた件のころから、あたしたち女子は全員知ってたからね? それがこの前の告白騒ぎでこの師団のほぼ全員に知れ渡ったってわけ」

 いわゆる公然の秘密ってやつ、とシェスカは片目を瞑る。あまりの事実にリィリアの脳味噌は沸騰直前だった。

「そんなにたくさんの人に知られてるなんて思わなかったです……わたし、もうお嫁に行けません……」

「オーウェル様に責任とってもらってもらいなさい」

 そんな無責任なことを宣うと、シェスカは食事を平らげていく。先にいたリィリアよりもシェスカは先に粥を食べ終えると、空になった食器を手に席を立つ。

「それじゃあ、あたしはもう行くからね。あ、そうそう、オーウェル様のところにいくのはいいけど、あんまり目立たないようにね。もうリィリアのことをウィザルの内通者だなんて言う奴はいないけど、代わりに朝だろうが昼だろうが関係なく、リィリアのことをオーウェル様の情婦だなんて口さがないことを言っている奴らもいるから」

「え、ええええええええー!?」

 オーウェルとリィリアは想いを通わせこそしたが、そういった関係を持つ仲というわけではない。キスくらいはしたが、恋人同士というわけでもなく、情婦だなんてとんでもない話である。

「まあ、そういう奴らに捕まると、下世話なことを根掘り葉掘り聞かれて大変だろうから気をつけて」

 萌黄の双眸をにやつかせながら、シェスカは狼狽するリィリアを見やると、それじゃ頑張ってねとなおざりなエールを残して去っていった。

 リィリアの思考が平穏を取り戻し始めるころには、粥はすっかり冷め切っていた。リィリアはのろのろと匙を動かしながら、虚ろな目で秋意の漂う空を眺めていた。


   ◆◆◆


 朝食の後、話がしたいと言って一方的に押しかけていったリィリアをオーウェルは好意的に迎え入れてくれた。

「この前、お話したように、わたしの力をどう使うか考えたいんです。どうすれば、わたしの力をオーウェル様のために最大限に活かすことができるかを。どうすれば、今の戦局を変え、この戦争を終わらせることができるかを」

 リィリアの真摯な訴えに、もちろんだよと頷くと書類を確認していた手を止め、オーウェルはリィリアへと向き直った。

「オーウェル様。わたしはルーヴァさんの指示で今まで色々な実験を重ねてきました。わたしに何ができて、何ができないのかということもだんだんとわかってきたように思います。

 ルーヴァさんとの実験で得た情報を活かして、この戦争を終わらせるために、わたしに何かできることはないでしょうか。わたしの力に、まだ誰も思いついていない使い方があったとすれば、ルーヴァさんやディエスさんの仮説の通り、戦況を覆せる一手になるやもしれません」

「そうだね」

 その前に一ついいかな、とオーウェルはリィリアを見据えた。そして、彼はリィリアの石を確認するべく問いかけた。

「最後にもう一度確認するよ。これから先はもう引き返せない。リィリア自身、また危険な目に遭うかも知れないし、理由はともあれ、また誰かを殺すことになるかもしれない。それでも本当にいいんだね?」

 リィリアはオーウェルの瞳を見返した。そして、はい、と彼女は躊躇うことなく首を縦に振った。

 殺されることも殺すことも怖いことには依然として変わりはない。それでも、今のリィリアにはそれらを跳ね除け、力を揮うために、手を伸ばす理由があった。

 座って、とオーウェルはリィリアに椅子を勧めると、処理状況別に分けられた箱の中から書類の束を探して引っ張り出してきた。表紙にはルーヴァのものらしき筆跡で調査報告書とタイトルが綴られている。

「これは先日、ルーヴァが私に提出してきた、リィリアとの実験に関する報告書だ」

 オーウェルはリィリアにも見えるようにしながら、デスクの上に書類を広げていく。細かな文字がびっしりと書き綴られた紙の上に指を走らせながら、オーウェルは現状でわかっていることを改めて口にしていく。

「まず、リィリアの能力はリィリア自身が描いたものにしか反応しない。使う画材も描く場所も特に問わないが、色や形状が限りなく実物に近い状態である必要がある。そして、何が描かれていたとしても、描いた大きさのまま『具現化』リアライゼーションされる」

「そうですね。ヴァレットさんの剣を書いたときも、スケッチブックの大きさに合わせて、『具現化』リアライゼーションされたものは少し小ぶりでした」

 ロングソードを『具現化』リアライゼーションしたときについての記述をリィリアは指さしながらそう言った。そして、リィリアは文章の続きを読み上げていく。

「描かれる対象は自分の意志を持たない”物”である必要があります。その”物”も目に見えない内部までは再現しきれないという制約があります。そして、架空のものは力が反応しませんし、知能を持つ動物の場合、魂までは再現できません。

 だから、ヴァレットさんを描いたときは生きながら死んでいるような状態でしたし、先日の獅子のときは暴走してしまったんだと思います」

 自分が『具現化』リアライゼーションさせた獅子がウィザルの斥候兵を襲って殺してしまったあの事件のことは、口にするだけで心にざわりと波が立つ。リィリアはさり気なく自分の肩を抱いた。そして、とリィリアは自分の感情の揺らぎを見ないようにしながら、言葉を続けていく。

「同時にいくつもの絵を『具現化』リアライゼーションさせておくことできますが、『具現化』リアライゼーションしたものが実体を保っていられるのは、わたしのの視界に入る範囲だけです。わたしの視界から外れた途端、『具現化』リアライゼーションしたものたちは消失します」

 これの検証のために夥しい枚数のツユクサの絵を描かされたことはまだ記憶に新しい。あまりにも際限なくリィリアが『具現化』リアライゼーションし続けたことから、百本目を最後にさすがのルーヴァも根負けした形であの実験は終わっていた。

 『具現化』リアライゼーションの力について、認識合わせが終わると、オーウェルは溜息を付いた。

「これらを踏まえ、先日の軍議でルーヴァやディエスからリィリアの能力の活用方法についての案が出た。けれど……私はどちらも却下させてもらったよ」

「却下……ですか? どうしてですか?」

 リィリアがそう聞くと、オーウェルは眉間に皺を寄せた。

「ルーヴァの案はリィリアにネズミを大量に『具現化』リアライゼーションさせ、爆薬をつけた上でエディタント城砦へと向かって放つというものだった。ただ、ネズミに魂がなく、制御ができない以上、その案は危険だ。ネズミがちゃんとエディタント城砦のほうへ向かってくれればいいけれど、私たちの方へ向かってこないとは限らないからね。

 ディエスはリィリアに爆弾を無限に『具現化』リアライゼーションさせ、投石機でエディタント城砦に投げ込むという案を出してきたけれど、それも却下したよ。リィリアの力では、爆弾の”中身”までは再現できないようだったからね」

 なるほど、とリィリアは相槌を打つ。自分の能力の制約の多さがもどかしくて仕方なかった。

 何かこの戦争を終わらせるための方法はないだろうか。リィリアは必死で頭を働かせる。この力をどう活かせば、今の戦況を覆すことができるのだろうか。

(あれ……?)

 よく考えれば、リィリアはこの戦争を終わらせるための条件を知らなかった。あの、とリィリアはおずおずと口を開く。

「今って、ウィザル帝国にエディタント城砦を占拠されている状態なんですよね? どうしたら、相手に負けを認めさせることができるんですか? 相手をエディタント城砦から追い出せばいいんですか?」

 それはもちろんなんだんだけど、とオーウェルは頷くと、ウィザル帝国に勝利するためのもう一つの条件を口にしていく。

「戦力で大きくウィザル帝国を上回ってみせて、もう勝てないと思わせることが必要かな」

「どうすれば、ウィザル帝国よりこちらが強いって思ってもらえるんでしょう?」

「そうだね……向こうに比べて著しくこちらが人数で上回るというのが、やはり単純だけど効果的かな。とはいっても、そう簡単に戦闘に投入する人員を増やせるわけじゃないんだけれどね。終わらない戦争で国が疲弊している以上、どこの貴族もなかなか兵士を追加で差し出そうとはならないから」

「なる、ほど……?」

 リィリアは何かが頭の中を掠めていくのを感じた。一体今のオーウェルの言葉の何が引っかかったのだろう。

「あ……!」

 先ほどのオーウェルの説明と、ルーヴァが出したという案がリィリアの頭の中で一つに結びついた。リィリアは瞠目する。

「たくさんの兵を描きましょう! エディタント城砦の前に……!」

「兵を描いたところで使い物にならないんじゃないかな? 『具現化』リアライゼーションされた兵士には魂がないから、何かをさせることはできないんだよね?」

 首をかしげるオーウェルに、それでいいんです、とリィリアは言葉を重ねた。

「たとえ戦えなかったとしても、兵士の形をしたものがそこにたくさんいればよくのではないでしょうか? こちらが数で向こうを上回れればいいんですよね?」

 あ、とオーウェルは声を上げた。アイスブルーの双眸に浮かんでいた疑問の色が溶けていく。

「欺瞞作戦か……! 確かに、そうやってこちらの人数が大きく上回っているように見せかけることができれば、ウィザル軍の戦意を喪失させることもできるかもしれない……!」

 すごいよ、とオーウェルはリィリアの両手を握った。

「この話を昼の軍議で皆にしてみよう。そのときはリィリアも同席してもらっていいかな?」

「はいっ! ――ありがとうございます!」

 リィリアはがばっと勢いよく頭を下げた。長い黒髪がわずかに遅れて彼女の頭へと追随する。

「それじゃあ、悪いんだけれど昼の配給の後で参謀総本部のテントまで来てくれるかな? ――二人で考えたこの案、絶対に皆の賛成を勝ち取ろうね」

 それじゃあまた後で、というオーウェルの言葉を受け、リィリアは椅子から立ち上がった。失礼します、と一礼するとオーウェルのテントを出た。

 基地の喧騒と秋声を聞きながら、長いこと自分の心を覆っていた靄が綺麗に晴れ渡っていくのをリィリアは感じた。自分がオーウェルの役に立てるかもしれないということに、胸が高鳴っていく。太陽が高く登った秋麗の空には、透き通った淡白色の雲の筋が爽籟そうらいとともにたなびいていた。


 参謀総本部のテントの中、長机を挟むようにして、軍人たちが席についていた。入り口から遠いほどどうやら序列が高いらしく、最奥に総司令官であるオーウェル、そのすぐ隣に大佐であるディエス、リィリアがあまり関わりのない隊の将軍たちと続いている。真ん中のあたりにフレーネやルーヴァ、シェスカの席があり、入り口に近い手前の方にはヴァレットやティストル、アドリックの姿もあった。本来ならば尉官以上の階級の人々が参加するこの軍議の場に例外的に呼ばれた一介の二等兵に過ぎないリィリアの席は、最奥のオーウェルと対角線上で向かい合うようにして、一番手前に用意されていた。

「――此度の基地移転に伴い、王都方面の守りが薄くなってしまっている。一日でも早く、ウィザルの者どもをエディタント城砦から追い出さねばならない」

 シュッと引き締まった面立ちの男が発言した。あれは確か第三騎兵大隊の指揮官であったはずだ。彼の顔は険しい。

「しかし、焦って下手を打っては、それこそ、ウィザルの思う壷のはず。次こそ必ずエディタント城砦から連中を叩き出してやるべく、今は耐え忍び、策を練るべきときです」

 まだ若い佐官の男はそう主張する。四十をいくつか過ぎていると思われるディエスと同格の男は声と表情と渋らせながら、

「そもそも、イハーヴ川畔かはんを離れたのが失策だったのではないか? あの近くには王都へ続く街道がある。あの場所の守りを剥がすことが連中の目論見だったのなら、我々は見事に連中に乗せられたことになる」

「しかしながら、オーウェル殿下の御身が狙われたとなっては、あの場に居続けるわけにはいかないでしょう……! ラセット殿下に続き、王族を二人も戦死させたともなれば、我がゲーニウス師団の名誉と信頼は地に落ちてしまいます!」

「殿下をお守りしながら、イハーヴ川畔かはんに残り続けるという選択だってあったはずだろう」

「だが、イハーヴ川畔かはんで殿下をお守りするとなれば、通常に比べ、どれだけの戦力が割かれることになるのか考えたことがあるか? それでは我が師団の戦力も十全に発揮できるとは言えますまい」

 主張が割れ始め、この場に会した将たちの間にぴりぴりとした空気が漂い始める。オーウェルはまあまあと睨み合う将たちをいなすと口を開いた。

「何にせよエディタント城砦を取り戻さねばならないというのはこの場にいる全員の共通認識であるはず。エディタント城塞の奪還に関して、一つ案があるのだが、皆に聞いてはもらえないだろうか?」

 戦には消極的であるはずの総司令官殿が珍しいとでも言いたげな将たちの視線がちらちらとオーウェルに向けられる。オーウェルは彼らの目などまったく気にしたふうもなく、リィリアへ水を向けた。

「ここからは当事者に話させよう。ユーティス二等兵」

 はい、と返事をすると、リィリアは椅子から立ち上がる。オーウェルに向けられていた視線が一転してすべてリィリアに向けられる。リィリアは気持ちが萎縮していくのを感じた。

 ふいに長机の遥か先に座るオーウェルのアイスブルーの瞳と視線が交錯した。オーウェルはリィリアを見て小さく頷いた。オーウェルがすぐそこにいる、ただそれだけのことで勇気づけられた気がしてリィリアは頷き返した。

 周りを見回すと、シェスカが、フレーネが、ヴァレットが、ティストルが、アドリックが自分のことを見ていた。彼らの目はあくまで好意的なもので、リィリアのことを応援してくれているように見えた。退屈そうに会議の行く末を見守っていたルーヴァやオーウェルのそばに座るディエスにしても、その態度はリィリアに対して否定的なものではなく、これから彼女が話そうとしている内容に興味を示しているようだった。

「わたしの持つ『具現化』リアライゼーションの力については、以前の会議でアヴェルス少佐から皆様に共有がなされているかと思います」

 このテントの中に点在する親しい人たちの存在を、何よりも対角線上に座るオーウェルの存在に心強さを感じながら、リィリアは話し始めた。

「この戦争をゼレンディア側に有利な形で終わらせるためには、先ほどから話題に上っているようにエディタント城砦を取り戻すことと、戦力でウィザル帝国を大きく上回る必要があると殿下から伺っています」

 少なくとも聞くに値すると思ったのか、ただの小娘と侮るような視線を向けていた将たちが、居住いを正し始める。

「たとえ見せかけの上であっても、こちらに利があるように見せるために、大勢の兵士の絵を描き、エディタント城砦の前に『具現化』リアライゼーションさせることをわたしは提案します」

 失礼、と歩兵連隊の将軍がリィリアの言葉に口を挟んだ。

「ユーティス二等兵の能力を人間のような知能ある動物に使用しても、生きながらにして死んでいるような役に立たないものしか『具現化』リアライゼーションされないと聞いている。そのような策に何の意味もないのではないか?」

 所詮は戦を知らない小娘の考えだと言わんばかりに、場の空気が白け始める。それでもリィリアは周りを見回すと、言葉を続けていく。

「その疑問はもっともですが、この作戦に、魂ある兵士はいりません。たとえ、役に立たずとも、そこにいてくれるだけでよいのです。こちらが圧倒的に数で勝っていることさえ、相手に見せつけられればいいのですから」

「なるほど、見せかけの兵でウィザル軍を欺くというわけか。ユーティス二等兵、この作戦のために必要なものと時間は?」

 ディエスは冷静な口調でリィリアへと問うた。リィリアは毅然としてディエスを見返すと、必要なものを滔々と述べていく。

「船の帆に使うような大きさの布を百枚と、大量の絵の具を。そうすれば、一個師団に近い人数をご用意できるかと思います。

 時間は一週間……いえ、五日ほどいただければ」

「いいだろう。細かな作戦や必要な物資の調達など、考慮すべき点はあるが、これといった打開策がない今、試す価値はあるだろう。

 ここで決を採る。この策に賛同する者は挙手を」

 会議の参加者たちは互いに顔を見合わせた。しばらくは近くの席のもの同士で何やら言葉を交わし合っている様子が散見されたが、やがてぱらぱらと手が上がり始めた。

「この案は可決とする」

 いつの間にか挙手をしている者が過半数を超えていた。オーウェルの力を借りながら考えたリィリアの策が実行に移されることとなったことをディエスの声が告げていた。リィリアの胸はじわじわと熱くなっていく。

「さて、実際の絵の準備はユーティス二等兵に任せるしかないとして、まずは資材の準備だ。輸送部隊、何日で対応できる?」

「ええと……二週間ほどあれば……」

「遅い。十日で対応しろ。次に決行日の体制についてだが……」

 着々とディエスは作戦の決行に必要な話を詰めていく。俎上に乗せられているのは自らの案であるにもかかわらず、怒涛のスピードで進んでいく会議にリィリアが置いていけぼりになっていると、長机の対角線上から視線を感じた。

 オーウェルがリィリアを見て微笑んでいた。よかったね。ありがとう。声に出さずにオーウェルは口の動きだけでそんな言葉をリィリアに伝えてきた。リィリアはオーウェルへとはにかんだ微笑を返す。

 そうしている間にも会議は進んでいく。リィリアの力が要となることから『戦乙女作戦』オペレーション・ヴァルキュリアと名付けられたこの作戦の詳細を詰め終わる頃には、一日の終わりが東の地平線から訪れようとしていた。


   ◆◆◆


 軍議の日の夜、遅めの夕飯を終えたリィリアは、画材を携えて、誰もいない練兵場を訪れていた。イハーヴ川畔かはんに比べて高度のあるこの基地は冷え込みが激しく、夜闇に吐き出される息がほのかに白い。

 地面に置いたランプのそばでは、秋冷の風にリンドウの花が連なって咲いている。しばらくすれば、単なる趣味として絵を描く時間など取れなくなってしまうからこそ、今のうちに日常の中にさりげなく存在するものたちを描き留めておきたかった。

「リィリア?」

 地面に座り込んで筆を走らせる彼女の背後から、柔らかな青年の声がかけられた。彼女は手を止めて振り返ると、彼の名を呼んだ。

「オーウェル様! ……と、ディエスさん」

 ディエスを連れたオーウェルが、ちらちらと熾火の揺れる練兵場の柵の外に立っていた。

「こんなところで何をしている?」

 オーウェルは目を細め、嬉しそうな笑みをリィリアへ向けているが、ディエスは訝しげにリィリアとスケッチブックを見比べている。

「趣味で絵を描けるうちに何かを描いておきたいと思って」

「もう少ししたら嫌というくらい描けるというのにか?」

「それとこれとは別ですから」

 わからん、とでも言いたげにディエスは黒い軍服の肩をすくめた。

「ディエス、そろそろいいかな? 私が彼女と話したいのだけれど」

 オーウェルはディエスを押し除け、先に戻るようにと促した。しかし、ディエスは否やと首を横に振る。

「殿下を残して俺だけ戻るわけにはいかない。殿下はこの北東方面軍において、最も大切な方ですので」

「その最も大切な方の機嫌を損ねないのも重要なことだとは思わない? 私は大切な女性ひととの逢瀬を邪魔される趣味はないのだけれど」

 大切な女性ひと。逢瀬。さらりとオーウェルが口にした単語にリィリアは顔を真っ赤にする。そんなリィリアの様子など眼中にないのか、「……失礼しました」オーウェルからにこやかに放たれる圧に押し負けたディエスは低頭すると、主君の元を去っていった。

「よっと」

 オーウェルは練兵場の柵を乗り越えると、リィリアの横に腰を下ろす。顔を真っ赤にしたままのリィリアをオーウェルはどうしたの、と笑いながら覗き込む。

「お、オーウェル様のせいですよ……! オーウェル様が、その……」

「私が、何?」

「大切な女性ひとだとか、仰るから……だから、わたし、どきどきしてしまって……」

「そのくらいでどきどきするだなんて、リィリアはやっぱりかわいいね」

「……からかってます?」

 リィリアは上目遣いでオーウェルを見やりながら、不満げに頬を膨らませた。

「ただ、本心を言ったまでだよ。だけど、そういう可愛らしい顔が見られるのなら、たまにはリィリアをからかってみるのも面白そうだね」

 もう、とリィリアは溜息をつくと、再び筆を手に取った。早くなった心臓の鼓動を落ち着かせると、濃淡の異なる青い絵の具で釣鐘状の花を描きながら、リィリアは先刻の会議について触れていく。

「オーウェル様、今日の会議、本当にお疲れさまでした。

 それにしても、先程のあれはやりすぎですよ。この軍の総司令官にして王子ともあろう方が直々にわたしの護衛をなさるなんて」

「そうかな?」

「そうですよ。オーウェル様のお立場なら、わたしの護衛なんて他の方に任せて、作戦の指揮に専念するべきです。状況に応じて、要となるわたしに臨機応変な指示を出せるようにだなんてそれらしいことを言ってゴリ押してらっしゃいましたけど、ディエスさんたちも困っていらっしゃったじゃないですか」

 仕方がないじゃないか、とオーウェルの双眸に拗ねたような表情が浮かぶ。

「愛する人のことは私は自分の手で守りたい」

「まったくもう……」

 性懲りもないオーウェルの甘い言い訳に嬉しさと恥ずかしさを覚えながらも、リィリアは胡乱げな目を彼へと向ける。そんなことより、と隣からオーウェルがスケッチブックを覗き込むと、

「今は何を描いていたの?」

「……話を逸しましたね? そこの花――リンドウを描いていたんです」

 そうだ、とリィリアは思いついたことがあって、オーウェルを見た。息が触れ合うほどの距離で見つめ合うことになり、リィリアはたじろいだ。

 一秒、二秒、三秒。先に視線を逸らしたのはリィリアのほうだった。顔を少し引き、頬を染めながら、リィリアはお願いがあるんです、と話を切り出した。

「オーウェル様さえ良ければ……この絵を描き上げたらもらっていただけませんか? その……お守り代わりに」

 リンドウの花言葉は、その愛らしい容貌に反して、”勝利”や”正義”というなかなかに勇ましいものだ。しかし、エディタント城砦の攻城戦を控えた今、総司令官であるオーウェルに贈るには最適なモチーフであるとも言えた。

 ありがとう、とオーウェルは相好を崩すと、こう付け加えた。

「リィリアがくれるものなら何だって嬉しいんだけれどね」

「また、そんなことを……」

 恥じらいながらもリィリアはオーウェルを慕う気持ちを込めて、画用紙の上に筆を乗せていく。絵を描きながら、他愛のない言葉をかわしていると、いつしか話題は再び今日の会議のことへと戻っていった。

「それにしても、リィリアも今日は本当に疲れたでしょう? リィリアの立場であの人数の前で話すことになるなんて、緊張したんじゃない?」

「そうですね……」

 青や紫の絵の具を重ねながら、リィリアは相槌を打つ。あれだけの人数の偉い人の前で話す機会など、もう二度と来ないで欲しいと心底思う。

「ベルナール大佐にもきっちり反論して、本当に格好良かった。見ていて惚れ惚れしたよ」

「皆さんがいたからですよ。シェスカさんにフレーネさん、ディエスさんにルーヴァさん、ヴァレットさんにティストルさんにアドリックさん。そして、オーウェル様。わたしなんかがいるには分不相応な場所だけれど、敵ばかりじゃない、応援してくれる人だっているんだって思えたから、頑張れたんです」

 リィリア、とオーウェルが彼女の名を呼んだ。アイスブルーの目はじっとりと彼女の頬に向けられ、何だか拗ねたような空気を醸し出している。

「え、ええと……オーウェル様、どうかされましたか?」

「そこは一番に私の名を出して欲しかったな。他の男の名を呼んだその口で私の名を呼ぶなんて、妬けてしまうよ」

 そう言うと、オーウェルはリィリアの耳朶じだをかぷ、と軽く噛んだ。ざわりとした感触がリィリアの背筋を駆け抜けていく。

「あ……っん」

 自分の口をついて出たはしたない声にリィリアは俯いた。しかし、耳朶じだに残る甘い余韻に唆され、その先を知りたいような気がしている自分がいて、その想いをリィリアは慌てて頭の中から打ち消した。

「リィリア、お仕置きだよ。私をあんまり妬かせると、どうなっちゃうかわからないよ?」

「お手柔らかにお願いします……」

 蚊の鳴くような声でそう言うのがリィリアの今の精一杯だった。

 そんなふうに戯れ合ううちに、リンドウの絵が描き上がった。リィリアはスケッチブックから絵を丁寧に切り離すと、オーウェルへと手渡した。

「どうか、この絵がオーウェル様とこの国に勝利をもたらしてくれますように」

 リィリアは祈るように呟くと、リンドウの絵から手を離した。

「ありがとう、リィリア。大事にする。戦争が終わって城に帰ったら、回廊の一番いい位置にこの絵を飾らせてもらうよ」

 それはちょっと、とリィリアは遠慮の意を示した。国宝の名画たちの中に自分が手遊びに描いた絵が混ざるのは御免被りたい。

「それはそうと、リィリア。私からもあなたに絵のお礼をさせてほしい」

 オーウェルは自分の右手の小指からラピスラズリの指輪を抜いた。それをリィリアの右手の小指に嵌めようとして、「……この指だと少し大きいかな」ひとりごちると、隣の薬指にそれを通した。

「オーウェル様、これは……?」

「王家に伝わる魔除けの指輪だよ。リィリアが私に勝利を祈ってくれたように、私からもリィリアの無事を願わせてほしい。今回の作戦、要となるのはリィリアだからね」

「そ、そのお言葉だけでわたしは充分です……! こんな高価なものいただけません!」

 指輪を抜いて返そうとするリィリアを、いいんだとオーウェルは押し留め、

「私がリィリアに持っていて欲しいんだ。それではだめかな?」

 ずるいです、とリィリアがむくれると、ふふ、とオーウェルは楽しげに含み笑いをする。

「リィリア。男というのはね、好きな女の子のためならいくらでもずるくなれるものなんだよ。覚えておいてね。……それと一つ約束して欲しい」

 オーウェルはリィリアの右の薬指にラピスラズリの指輪を嵌め直すと、左の薬指へと触れた。

「こちらはいつかのために……私のために取っておいて欲しい」

「わかり……ました。約束、ですからね」

 甘い台詞に赤面しながらも、リィリアは左の薬指をオーウェルのそれに絡めた。恥ずかしさで潤んだ瞳でオーウェルを見つめると、彼はほの甘く整った顔を寄せてきた。

「リィリア、愛しているよ」

 星影の下、いつもと違う熱っぽい声で囁くと、オーウェルはリィリアの唇を奪う。リィリアは三度目のそれを受け入れ、幸せの感触に瞼を閉じる。

 口づけを交わし合う二人の頭上を星の欠片が放射状の筋を描きながら流れていった。

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