死についての緒言

東 哲信

死についての緒言

 人はなぜ死ぬのだろうと考える。だが、その答えはいつも変わらず不変で、とやかく死ぬのだから死ぬというものである。なにも答えにはなっていない。

 理屈を言うなら、物理学や生物学を引き合いに出せば語れる。だが、そうした答えを求めておらず、とはいえ、一神教などといった莫迦げたその場しのぎをするつもりもなく、にも関わらず形而上の答えを問うからこそ、答えにならぬという答えが得られるのだろう。

 死、自己の死に限り、この肉体の機能はなぜと問うに値しないという人もある。なぜというに、死は、自らの死は主観の外の問題で、論理的に意味がないからだそうだ。しかしながら、論理的に意味がないことを考えることに意味がないとすれば、それは人間そのものの思考に意味がないとさえ至言できてしまう。私は、そんなことを言えるほど偉くはない。

 さて、人はなぜ死ぬというのだろう。坂口安吾は、恋愛論において、孤独という悪魔、なる言葉を使っている。同時に、せつなさ、苦しみ、これらでさえ人生が満たされないとして、人生を満たすのは何かと自問し、やはり孤独という答えに行き着きそうになるが、寸手で、孤独は魂のふるさとであるとし、恋愛が人生の花であると結論付けているのである。また、彼は文学のふるさとにおいて、ふるさとに帰るのは大人の仕事ではないと言い払ってしまっている。

 恋愛論を私なりに解釈するなら、快-不快で人生を値打ちづける人間は、人間として生まれてさえおらず、不快の中に情緒を見出し、意味づけをし、それで人生を満たしはじめたとき、ここに初めて人間の誕生が認められるのだと考える。そうして、不快と一くくりにされる状態にすら人生が満たされなくなったとき、人は孤独になる。その孤独は、あらゆることを知りすぎた青年には悪魔的存在といえるのである。

 だが、わからない。なぜ、安吾が孤独を魂のふるさとなどと言ってのけ、大人の帰る場所ではないと美化しているのか。私は、その孤独を、単なる魂の老化、すなわち、快-不快の二元論の崩壊により誕生した人間が、不快ですら満たされなくなりつつある老化としか思えないのだ。尤も、私はその老化を悪しきものとは言わない。孤独、私の言葉で言えば魂の老化に、血肉を駆けて争う姿勢の中で満たされる人生もあるのだろうから、安吾が孤独を美化し、恋愛論の中で、優れた者ほどおおいなる悪魔を見、闘わねばならぬとするのも少しは分かる。だが、それでもなお、孤独がふるさと、などとメルヘンに言ってしまうになお性急であったように思われる。安吾は、孤独というものが、魂の死への過程にすぎぬことを見落としているのではないかとさえ思うのだ。

 これは、苦しい論だ、詭弁のみならず、その詭弁ゆえに、私は尊敬する安吾への批判を投じなければならなくなった。だが、それでも、孤独はふるさとではなく、死への過程なのだと信じる。同時に、本当のふるさとは、魂が生まれる以前の場所であり、魂の死にゆく先でもある、無、という孤独よりもさみしい場所であるとするのがまっとうな考えと思うのだ。

 もし、私の言うように、魂の死を、本当のふるさととするのなら、魂の孤独と闘いもせず、やすやすと死へ向かうのは確かに大人の仕事ではあるまい。究極的な退行である。

 こう語っているうちに、少し死の理由がわかったように思う。老化は死の臭いだ、それに抗う時、自らのみならず、同朋の人生を満たしうる価値を発見できる。それは、死への序曲である。音高らかに奏でれば奏でるほど、それを聞いた人々の人生の糧となるのだ。人類のさらなる文化の発展への糧となるのだ。いわんや、そも死への序曲たるや、死を与件とする以上、そこに死の存在理由が認められるのだろう。


 だが、残念、私は人類の発展などと殊勝な夢を語るほど、人間が上手くできていない。これまでに述べてきたことにどうも私自身が了解できないのはそのせいだろう。どうも、ありきたりな答えになっていやになる。

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死についての緒言 東 哲信 @haradatoshiki

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