一作品目「きさらぎ方面から都心へ」
連坂唯音
きさらぎ方面から都心へ
「おかあさん、だっこしてー」
「駅降りたらしてあげるから、ちょっと待ちましょうねー」
母子が中村の目の前にいる。中村は瞼が再び落ちそうになるの堪え、眼前の子供をみつめた。
中村は、垂れ下がった首を持ち上げ周囲を見回す。
最初に目に入ってきたのは、つり革だ。
次に、路線図。そして白いドア。ドアに窓がある。窓に高層ビル群の景色が流れていた。夕日に反射したビルは、もう一つの夕日を作っている。夕日の半身は都市に浸っていた。
遠くへ行ってしまった焦点を車内に戻し、左右を見る。銀色の手すりがすぐそばにあった。『優先席』のシールが手すりに貼られている。中村は背を後ろに少し傾け、自分が座っていることを認識した。
顔を左に向けると、黒髪があった。顔は見えない。艶めかしい漆色をした髪は、その人の肩まで伸びいていた。
「………人がいる………」
中村はそう呟いた。
すると黒髪が回転し、女の顔が現れた。整った顔立ちの人だ。薄化粧だが、桃色の口紅が象徴的に見える。
「大丈夫ですか? ………その手」女が目線を下げながら言った。
中村は自分の両手を見た。手の甲に墨字が刻まれていた。字と言っても、何と書いてあるか読めない。『二月』という字だけはかろうじて分かる。しかしおそらく、女はこの印字のような字面に対して、中村に心遣いをしたわけではないのだろう。なぜなら、中村の手が異常に震えることにより指から滴り落ちる汗が小さなたまり場を広げているのを彼女は凝視しているからだ。
中村は改めて目の前の親子を見た。中村の座高ほどもない背の小さな女の子は、中村の手から流れ出る汗の洪水から必死に足を遠ざけていた。母親らしい女は携帯電話の画面をいじることに夢中で、女の子が剥き出す嫌悪の表情に気づいていない。
「生きてたんだ………僕………」
中村は涙を頬に這わせた。
「何言ってるんですか? あの中村先輩、大丈夫ですか」
黒髪の女が中村の顔を覗き込んできた。中村は女の顔を数秒見詰め、そして目を見開いた。
「お前は………。由里、なぜおまえが………」中村は言った。
「もしかして、私のことを忘れてました? え、記憶喪失ですか? ほんと大丈夫ですか?」
中村は再び正面の親子を見た。母親がいじっている携帯電話は『ガラケー』だった。
「ねえ、中村先輩。夕日が地平線に触れてから完全に沈むまでの時間知っていますか? この季節だと2分40秒ってとこですね」
中村は視線を自分の足元に落とす。ローファーを履いている。中村は学生服を身に着けていた。
「………なあ、僕は立派な社会人になれたのか?」中村は虚ろな表情で口を動かした。
「先輩まだ学生じゃないですかー でも社会人にはなれないと思いますよ」
中村は車窓に視線を向けた。太陽の位置は全く変わっていない。
「僕は死んだのか? 生き返ったのか?」
「そんなこともうどうだっていいじゃないですか。先輩はあの駅に向かうために、線路に飛び込んだんでしょ。他人と関わりを持つ自分を拒絶したくて。この電車に乗れてよかったじゃないですか。先輩が一番好きな瞬間を永遠に手に入れられたからもういいでしょ。」
中村は笑った。
一作品目「きさらぎ方面から都心へ」 連坂唯音 @renzaka2023yuine
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