狐の嫁入り
「儂が手を貸しただけあって、随分と盛り返したようじゃなぁ永徳。」
「ははぁ....八重様の手をお借りして、何も出来ずに没落するようでは私の手腕が疑われますからなぁ~。いやはや頭が上がりません!」
手腕は疑われとるじゃろ...魔である儂の手を態々契約で借りたんじゃから。
目の前で儂のことをおだてる草臥れた卑賎な男を眺めながら、儂は溜息を吐く。
正直、そういうのもういらんのじゃ。
儂は本題に入りたくてここでこうやって話をしておるんじゃからな。
「それじゃ契約通り、儂が出雲家に手を貸しただけ儂に返してもらおうか。そうじゃのう....お前が儂のつがいとなるという形で間違いないか?」
正直、気が進まない。
目の前にいる男は間違いなく小物じゃ。
それなら、以前奴との話の流れで卜占で見た儂が手を貸して上向きになった出雲家の最盛の代の当主が良い。
可愛らしい童....可愛い系は個人的に好みじゃ。
乳繰り合いたいものじゃのぉ~!
とはいえ、別に目の前の男でも問題はない。
こうして霊格を堕として人に寄り添うと決めて、奴の言う事に付き合ってやったのじゃ。
乗り掛かった舟という奴かのぅ、このしょうもない男を支えてやるかの。
儂ら狐は嫁に行く際に目指す姿は良妻賢母じゃからなぁ~!
かかっ、儂ってば優しすぎじゃろ~~~~。
それに人と結びつけば伏見から頻りに自慢してくる姉上を見返せるのじゃ。
行き遅れなどと、不名誉な呼び名は撤回させる!
人との異類婚は狐の伝統じゃからな!
儂もするのじゃ!
とはいえ、今の時代のはいからな結納も悪くはないがのぉ。
確かよそ様の国から来たうえでいんぐどれす?だったか?
白鳥のように白く洗練された物であると小耳に挟んだからのぉ~。
「その話なのですが、お狐様には大層お世話になりました。故に、今の上向きになったとはいえ所詮微々たる物である出雲家に縛り付けるのは忍びないのです....。だからこそ!子孫代々貴方様の事を口伝していき、貴方様が卜占して見た最も繁栄した五代先の当主を貴女様の婿としようと思っているのですが...。」
「そ、それは真か!?」
「えぇ...光源氏ではありませんが、貴女様のつがいとして手習いを施す貴女様の許嫁でございます。きっと私の子孫もお美しきお狐様が嫁になることに喜ぶことでしょう。...それまでは、眠りについて英気を養うのは如何でしょう?」
「そ、そうする!そうするのじゃ!なんじゃ!永徳、貴様話が分かるではないか!その心遣い痛み入るぞ!儂は初めてお前に感心した!」
なんじゃコイツ~!
いつもいつもおどおどと儂の太鼓持ちばかりしている無能かと思えば、良い気遣いが出来るのじゃ!
こういういざとなった時に適切な判断が出来るから当主としてやっていけとるのやも知れんのぉ~!
まさか、儂の好みの男が許嫁となるなんて....棚から牡丹餅とはこのことじゃ!
奴が帰った後、眼を閉じる。
そして眠りにつかんとする。
ちゃんと...五代先の当主が居るであろう時に起きられるようにして.....。
かかかっ、楽しみじゃの~~~~~!
「ふんっ、獣分際で私の事を見下しおって....獣風情が人間様に勝っているなどと思い上がりも甚だしいなぁ!あんなにすっかり騙されおって...くくく.....誰が獣と契るか馬鹿者め、少しは考えよ女狐~!知恵比べは私の勝ちだなぁ!!?」
暗い和室の中、卑賎な男が勝利を宣言するかのように悪態を吐きながら嘲笑を浮かべる。
そんな彼の隣に侍る侍女が彼に対して口を開く。
「...本当に、子孫をあの魔に差し出すのですか?」
そんな侍女に対して、はぁ~?と馬鹿にしくさった笑みを浮かべる男。
そして吐き捨てるかのように言葉を紡いだ。
「んなわけないだろ?誰があんな魔との約束真面目に聞いてやるかよ。こちらに契約を用意させたのは相手。年増らしく書類に弱くて助かったぜ。あれだけ私を下に見ていた女にこうもしてやれるとは愉快愉快!あのまま奴は無駄な時間を過ごし、かなりの歳月が過ぎた末に自らが良いように働かされて何も得ることが出来ないことに気づくのだ。これほど、あの狐相手に効くことはあるまい。後の事は子孫に任せるとしよう...最盛期の当主というのであれば、この不出来な私なんかよりもうまく立ち回れるだろう。」
高笑いを上げる主。
そんな無責任な発言を繰り返す主を見て、侍女は眉を顰めながらも何も言わない。
それは彼がこの鎮守の長にして、出雲家の当主。
十一代当主、出雲永徳その人だからである。
◇
「時が来たのじゃ....。」
蒼く晴れ渡る空。
されど、雨はしとしとと小雨であるが振っていて森の中の緑を淡く濡らす。
そんな雨の中、和傘を差して歩いている一人の女性。
鬱蒼とした森の中でも、目立つような白銀の髪。
切れ長の目に整った容貌、足元にスリットの入った白無垢を気崩して肩を出している。
その風貌は絶世の美女という他ないが、頭の上にちょこんと二つある獣耳や八つある尻尾が彼女が普通の人間ではないということを物語っていた。
「直接顔を合わせるのは初めてじゃからのう...おめかししたんじゃが、大丈夫かのう...?今日が初めてのお披露目、...初対面での印象は大事じゃ。これまで婚儀の準備の合間に人里に降りて当世風の化粧...めいく?じゃったかな。その勉強もしたからのう~。」
和傘の中、その女性は愉快そうに言葉を口にする。
尻尾はフリフリと横に揺れており、まるでこれから起こることへの期待感を露わにしているようだった。
「婿殿、旦那様、つがい、だぁりん....か。...かかかっ、この儂にもつがいが出来るとはな。永徳との契約じゃ....5代目先の当主と言われてその時が来るまで寝ておったが、それも今日この日の為....。神格を犠牲にしてでも手を貸し、契約前に卜占を行なって目を掛けてやりつつ褥で永い眠りの中待ちわびた儂のつがい。」
その女性はそう呟くと、手を虚空に翳す。
すると、周囲から細かな水滴が集まって行って薄い円状の板のようになる。
その宙に浮いている水の塊を女性がツンと指で突くと先ほどまで水面に写っていた彼女の顔が波紋が広がることで乱れて、また別の光景を映し出す。
水面に写るのは邸宅。
まるで何かに妨害されているかのように、水面に写る像は時々ピンボケする。
されど、そこに写し出された目当ての人物を見やると、彼女は口元に笑みを浮かべた。
「くふふ~...今はまだ顔を合わせたことはないが、永徳との契約から儂の話は聞いておるだろう!驚くじゃろうな~こんなぼんきゅぼんでせくしぃなお姉さんとの婚約などと先祖に感謝するに決まっておるのじゃ!...そうじゃ、年増じゃない...まだ手遅れじゃないのじゃ....これで九つ尾に出涸らしと呼ばれるのも終わり!儂の春が来たのじゃ!」
そう言うと少し早歩きで森の中を歩く。
雨が降っていることもあって足場が悪いにも関わらず、下駄を履いたまま少しも汚れることなく器用にカランコロンと早歩きで森の中を歩いていく。
街が見えてきた途端、不意に彼女は足を止めた。
虚空を見つめる。
「この結界も懐かしいのぉ~、当世になって少し変えたようじゃが....結構なお手前じゃ。術師はきっと良い腕をしておるに違いない。もっぱら約束の時になっても儂を締め出しておることは玉に瑕じゃが...式が終われば指導してやろう。つがいを得る以上、家は大切にせんとなぁ!」
そう言うと、もくもくと唐突に発生した煙が彼女を包み込む。
そして煙が晴れた頃には彼女が立っていた場所には和傘しか残っておらず、一匹の綺麗な毛並みをした狐が街の方向へと駆け出していた。
◇
爽やかな風が吹き込む朝。
柔らかな日差しが差し込んで部屋を照らす。
柔らかな布団の上は、酷い有様だった。
雨が降った後の桜の木の下のように使い終わったピンク色のアレが花びらのようにへばりついており、布団の脇のクシャクシャになったティッシュと布団の真ん中に付いた黒っぽいシミがコントラストになっている。
密着している3人の体温も相まって、窓を開けるまで部屋の中を息が上がる程の熱気が立ち込めていた。
毛布が剥がされていることや身体の力が入らないことから、起き上がるまで打ち上げられて岩壁の上で放置され干からびていく魚ってこんな気持ちなのかなとか思った程である。
そして今はそんな布団からせっせと一糸まとわぬ姿でピンクのアレやティッシュを摘まみ上げてゴミ箱へと入れていく陽貴をただただ同じ布団に座り込んで眺めていた。
夜のことで、身体はへとへとで思考もぼんやりとしている。
身体は自分と他人の汗でぺとぺとで、下半身辺りはずっとじっとりとした感覚。
太もも辺りはカピカピで、どこかむず痒い。
それでいて腰は少し痛むのだから、陽貴にゆったりと休んでいるように言われてしまったのだ。
結衣や久遠は既に部屋には居ない。
僕の様子を見て、すぐにお風呂の用意に行ったのだ。
「あら....どういたしました、御屋形様?」
「あ、いや.....僕は.....。」
不意に陽貴と目が合う。
その瞬間、昨日の夜のことが頭を巡った。
熱い息遣いに、汗の立ち込める匂い。
全身で感じた感触と不意に来た虚脱感。
そしてなによりも頭に焼き付いているのは、横たわって腕をこちらに広げた彼女達の長い髪が広がって布団を覆ったあの光景。
それが想起されて、恥ずかしさから思わず目を逸らしてしまった。
「ふふっ...大丈夫。大丈夫ですよ御屋形様.....昨夜のことはお気になさらないでくださいませ。」
「いや気にするなって言ったって.....。」
17歳の健康的な男子にそれは無理な相談だろう。
あんな....忘れるわけない。
というか、そもそも生前でも経験ないのにいきなり三人の....それも母娘だなんて....。
すると陽貴は片付けの手を止めて、僕の頭を撫でる。
髪を手が細くしなやかな指が掻き分けたかと思えば、顔を伝って頬を撫でてくる。
目を細めて、じっ~~~と僕を見つめていた。
まるで昨夜のように。
「行為というのは偏に子を為す為の物....このような薄皮に隔てられた物ではありません。...だからこそ昨夜のことは一夜の夢。...もっとも、御屋形様がお声掛けなされば...いつでも夢の続きを見ることが叶いますが。」
そう言うと目を細めて薄く笑みを浮かべたまま、内に液体が入ってたぷっとしたピンクのソレを摘まみ上げて長く口づけをした。
...気にするなって言う人の仕草じゃないと思う、それ。
そうは思うが口に出せぬまま、艶やかな仕草を見せる陽貴からまた目を逸らす。
頬が熱い、どうしても意識してしまう。
すると、背後で襖が開く。
振り返れば久遠と結衣が立っていた。
「お、御屋形様...そ、その...お風呂、溜まったぞ。」
「一緒に...入ろ。」
二人は頬を少し染めながらも僕に風呂が溜まったことを告げる。
すると、陽貴も先ほどとは違ったいつも見せる柔らかな笑みを僕に見せた。
「わたくしはこちらの片付けを済ませてからすぐに追いかけますから。先にあの子たちと一緒に入っててくださいませ。汗に塗れてそのままでは御屋形様も気分が良くないでしょう?」
「あ、あぁ...そうだね...わわっ...!」
勧められるままに僕は布団から立ち上がる。
その瞬間、足腰に力が入らずにこけそうになる。
しかし、直ぐに背後から支えられる。
振り返ると、二人が手を伸ばして僕の両腕を取って支えてくれていた。
「あ、ありがとう。」
「ふふんっ、御屋形様の腹心としていつ如何なる時も目を離さないっ!忍びとして当たり前だぞ!」
「まぁ私の方が...0.2秒手を伸ばすのが速かった、けど。」
自慢げに胸を張る結衣とそんな結衣に対してボソリと呟く久遠。
そんな二人に連れられて、部屋を出て行く。
背後を振り返ればにこやかにこちらを見ながらも、片付けを続けている陽貴。
いつもの日常風景。
なんだか昨夜の事が夢みたいだ。
そう思うも、両側から腕を組まれたことで感じる柔らかさが昨夜の情景を想起させる。
まるで夢じゃないと声高に主張しているようだった。
時計の針が3時を指している昼下がり。
依然、縁側から見える空は青い。
されど、辺りはしとしとと雨粒が地表を叩く音が響いていた。
結構な雨だな....晴れているのにめちゃ雨降ってる。
こういうのは別段珍しい自然現象でもないんだろうけど、それでも曇り一つない空から雨が滴り落ちるのは不思議な物である。
にしても激しく降ってるなぁ....。
そう思いながらも冷蔵庫から取り出した羊羹を自分で切って皿に載せる。
真ん中には求肥が入っている....この羊羹、高いんだろうなってなんとなくに分かった。
そしてそんな皿の傍らには急須に淹れたほうじ茶。
それを湯呑に注ぐと、リモコンを手に取って大して見たい番組があるわけでもないがなんとはなしにテレビを点けた。
何か飲食店に取材に行っている昼の情報番組をボケ―ッと眺めながら、羊羹を齧ってお茶で流し込む。
この世界に生れ落ちて色々と変わったこともあるが、こういうゆったりとした時間は生前とあまり変わらないなって思う。
....まぁ、使っている茶器や食っている羊羹とかそういう文化レベルみたいな物は間違いなく向上しているわけだが。
陽貴や結衣、久遠は今この屋敷には居ない。
なんでも急にかなりの数の魔が出現したらしくて、その対処に行っているからである。
僕も行こうとしたのだが、数が多い上にこの雨の中連れ回せないと3人のみならず澪までもが満場一致で僕にこの家で待つようにと決めたのである。
それでいてその澪も今度“鎮守”に来賓の方が来るらしくてその段取りやら何やらで忙しいらしい。
要するに僕は今母屋に一人。
テレビを点けるまでは自分が立てる物音以外何一つ音のない静寂。
普段周りにみんなが居てくれるだけあって、正直少し寂しさを覚えていたのも事実だ。
あとで蔵書院に籠り切りの和の所に顔出しに行こうかな。
和の業務は通常通りだろうし、会いに行ってもそれほど迷惑にはならないだろう。
「こゃ...ぁ.....。」
テレビを眺めながらも、この後どんな風に過ごすか考える。
すると液晶の中でキャスターとスタジオに居るキャストが談笑する声の間を縫うようにか細く声のような物が聞こえた。
それと同時にパシャッパシャッと何かが濡れた地面を蹴るような水っぽい音。
音がした方向である縁側に目を向けると、音の主はこんな雨の降りしきる中でも確かにそこに居た。
「こゃ...こゃぁ....。」
それは白く艶やかな毛並みをした犬....いや耳の感じとか太い尻尾の感じからして狐....?
少なくとも犬科であろうビショビショに濡れている毛玉が軒下で家を逆立ててブルブルと身体を震わせる。
我が家の軒先に雨宿りに来たのかな?
珍しいな...野生動物が迷い込んでくるなんて。
物珍しさから眺めていると、その狐は不意に身体を震わせるのをやめて視線を上げる。
その狐と目が合う。
するとおもむろに毛玉は口を開いた。
「こゃ~~~~!ゃぁ~~~~!わ”~~~~~っ!!」
しきりに鳴き声を上げる。
しっかりと僕の目を見つめて、声を上げている。
それはまるで僕を呼んでいるかのよう。
それにしたって、なんていうか遠くで女の人が泣いているかのような...そんな甲高い声だ。
なんとも変な鳴き声だ。
正直夜に聞いたら不安になる類の声。
狐の声なんか聞いたことないけど、こんな感じなのかな.....?
余りにも呼びかけるように鳴く為、一度羊羹を食べる手を止めて立ち上がる。
そして縁側の方に行くと、狐は泣くことを辞めて僕を見上げる。
形の良い耳をピクピクと動かして、尻尾は取れるんじゃないかと思う程にブンブンと振る。
ハッハッと口を開いて息を吐きつつも、ジッとその細い目で僕を見つめている。
...どうやら、本当に僕を呼んでいたらしい。
「え~~~とキミは、どうしたんだ...つって。」
なんとなく声を掛けてしまう。
まぁ、動物なんだから人の言葉なんか分かるはずもないのだけど。
そう内心自嘲していると、狐はこてんと横になるや否や仰向けになって僕にお腹を見せてきた。
警戒心なんか欠片もなさそうな姿。
そんな姿のまま尻尾をフリフリと振りつつ、くねくねと身体を動かす。
そして上目遣いで変わらず僕を見つめ続けている。
「こゃぁ~~~~!こゃっ、こゃぁ~~~!!」
...これは、撫でろって事なのかな?
正直...撫でたくはある。
可愛いし....そもそも動物は好きだ、生前は猫カフェとか行ってたし。
でも狐ってエキノコックスとかあるって聞くし....そもそも野生の動物ってどんな菌とか虫が付いているとか分からないしなぁ....。
それに手を出して噛まれるかも.....。
そんな懸念から躊躇っていると、不意にその狐の額の所に毛で埋もれて見にくかったものの何やら紋様みたいな物があるのが見えた。
それによく見ればお腹にもうっすら同じ奴が見えるな。
...よくよく考えてみると、そもそも野生動物とか害虫の類はこの屋敷の敷地に張られた結界で弾かれるんじゃなかったか?
前に澪にこんな山奥なのにネズミとかそういう動物見ないね?って聞いたら、そう言ってた覚えがある。
そう考えると..もしかしてこの狐、外から来たわけじゃないんじゃないか?
よくよく考えてみれば雪国でもないのにこんなに毛並みが白い狐が居るのはおかしい。
それにこの毛並みの上からうっすら見える紋様みたいなの....デザインは全く違うけど思えば久遠たちも首元に契約を表す紋様があった。
それに何よりもこの友好的な態度。
....もしかしたら、この狐って澪の持ってる式神の内の一体なのかな。
そう考えると自然だ。
澪の張ってる結界の内部に居て、それでいて身体に紋様がある。
野生動物じゃない、式神なら撫でても大丈夫だよ...な?
「あ~...えっーと...よ、よ~しよしよしよし...。」
狐の白いお腹を撫でる。
ふわふわとした毛の感触が気持ちいい。
さっきまで雨に濡れてずぶ濡れになっていたとは思えない。
うん、やっぱり野生の生き物とは思えないな。
まぁ一応撫で終わったら手を洗うわけだけど。
「きゅ~、きゅ~~~~~.....❤」
なんだかきゅーきゅー鳴きながら、二本の前足で僕のお腹の毛を掻きまわす腕を抱えるようにしながらもくねくねと身を捩る。
気持ちよさそうに細い目をさらに細めていた。
こう...撫でていると、なんだか癒されるな。
アニマルセラピーって奴だろうか。
「ふふっ、よしよしよし~~~~....ぁえ?」
なんだか楽しくなってきて、狐の前で屈んでもう片方の手も使って本格的に撫でようとする。
その瞬間、目の前が煙で包まれた。
そのすぐ後に感じるのは柔らかい...獣とは違う人肌の感触。
胸元が開いた白い着物に手を突き出す姿勢になり、掌に収まりきらない程の温かさと柔らかさが伝わってくる。
視界の端に入るのは白い肌、そして酷薄にも見えるような笑みを浮かべた切れ長の目の美しい女性。
その髪はハッとするほどに白く艶やかで、頭の上に生えた狐の耳。
それでいて視界の端に見える太く大きな八つの尻尾が目の前の彼女が尋常ならざる存在であることを物語っていた。
「迎えに来たぞ旦那様よ!儂の身体をああもまさぐるなんて婿殿は破廉恥じゃのぉ~~、まぁ儂を前にすればそれも仕方ないか!まったく儂は罪な女じゃからの~こんな幼気なおのこの純情を弄んでしもうた、将来の旦那様じゃなければ大問題じゃ!」
「ぇ.....。」
頭が理解する前に、抱き寄せられる。
はだけた胸元、胸の間に顔を持って来られると共に身体中をふわふわとした感覚に包まれる。
この感じ...尻尾か?
そう理解した瞬間、バキパキッパキと割りばしを纏めてへし折るような嫌な音が響く。
身を捩ると、不意に周囲の様子が自分を包む胸と尻尾の白い毛の隙間から少しだけ見える。
家紋の描かれた人型の大きな紙。
前に一度、結衣と久遠が忍びとしての方針の違いで揉めて衝突した際に見たことがある屋敷警護用の式神。
澪が態々家の警護の為に作っただけあって、陰陽術を使うことが出来るようですぐに二人を拘束していたのは記憶に新しい。
そんな式神を、今自分を抱きしめている狐の女はいとも容易く握りつぶして無力化していた。
それを見るだけでも魔....それもこの前見た水龍もどきとは比べ物にならない程に高位の魔であることがこんな僕にも直観的に理解出来た。
マズイ.....!
本能的な危機感から背中から冷や汗が流れる。
なんとか彼女の腕の中から逃れようと藻掻こうとした瞬間、狐の女は僕の頭を優しく慈しむように撫でた。
まるで澪がするかのように。
「すまんのう...そちらも幾星霜もの時の中、完遂されるか分からぬ契約を抱えて不安じゃったろ?準備はもうこちらで済ませてるおるから、ゆるりと安らぐとよい...。よしよし...案ずるでない。」
その瞬間、まるで頭の中が溶けていくかのように意識がぼやけていく。
今の状況では考えられないような突然の睡魔。
明らかに目の前の狐の女が何かしたのだろう。
ゆっくりと頭を撫でられて、その度に意識が搔き乱されて墜ちようとする。
ダメだ...身体に、力が入ら...な..い.....。
「若!」
「御屋形様!」
瞼が重く今にも閉じ、意識が途絶えようとする中、微かに澪と結衣が僕を呼ぶ声が聞こえた。
されどしとどに降りしきる雨の音に紛れ、瞼は遂に閉ざされた。
「御屋形様っっ!御屋形様を...離せぇぇっっ!!!」
目の前で自分の主を抱きかかえ、澪の式神を握りつぶす人狐。
本来、強固な結界で守られているはずの敷地内に居るはずのない魔...怨敵の存在に結戌は半ば半狂乱の様相で声を張り上げて一歩踏み出す。
まるで天翔けるかのように跳躍する人狐に追い縋るように結戌も跳び上がる。
その背後では澪が人狐をしっかりと見つめる。
「浄土空烈、救急如律令。」
そう唱えて右手の人差し指を人狐に翳して九字切りする。
狐の跳び上がる先に張られた不可視の結界。
網目のように格子状に編まれた格子状の斬撃、それ自体が帯びる退魔の術式が魔である狐だけを切り裂かんとする。
されど、その人狐は不可視の結界を明確に見やると左手で少年を抱きかかえながら右手を挙げて人差し指を少し動かす。
次の瞬間、澪は目を見開いて驚愕する。
(術式を魔に....解除された!?それも、最小限の印の動きで.....!)
驚く澪、そんな澪を見て一瞬得意げな表情を浮かべるも進行方向へと顔を向ける人狐。
そんな人狐に対して結戌は一瞬手元の棒手裏剣を考えるも、悔し気に歯噛みして投げることはしない。
標的の腕の中には自身の最愛の主が居て、傷つけてしまうかもしれない。
その懸念が、躊躇いを呼んだ。
そんな彼女の想いなど知る由もなく、人狐の尻尾の内の一つがふわりと動く。
風を受けて直下の結衣の方へとはらりと落ちていく白銀の毛。
瞬間、毛の一本一本が煙を発する。
そして煙の中から数人の人狐が結戌目掛けて降ってくる。
「なっ.....!?」
自分目掛けて降ってくる人狐達。
それは先ほど自分の前を跳躍していた人狐と瓜二つ。
全員が同じ顔をして、同じようなまるで結戌を嘲るかのような笑みを浮かべている。
迎撃しようと棒手裏剣を取り出すも刹那、人狐達は笑みを深くする。
そして光り輝いたかと思えば、轟音と共に爆発した。
先ほどまで結戌が居た空中で立ち込める紫紺の爆煙。
「結戌っ!」
「今のは...一体....。」
遅れて屋敷に帰り着いた狗遠と孕貴は目の前で自分の娘が空中で数人の顔が同じ女の自爆に巻き込まれたのを目にして声を上げる。
その直後に、爆煙の中から結戌の姿が現れる。
爆煙の中に居たことで煤に塗れては忍装束は所々破れてはいるものの、猫のように空中で体勢を整えると綺麗に着地する。
しかし、着地して立ち上がるもすぐに膝を突いた。
「結戌!平気!?どこか怪我は....。」
「母上!そんなことより御屋形様が!御屋形様が、魔に攫われて....わたしは何も、出来なくて......っ!!!」
「御屋形様が...攫われた...?」
膝を突いた娘を心配して駆け寄る孕貴。
そんな母を見て、立ち上がったその肩を掴む結戌。
その口から紡がれるのは、焦燥と悔悟の念。
その言葉を聞いて、狗遠の目の色も変わる。
そんな三人を視界に収めながらも、澪は思索を巡らせる。
鎮守のトップにして自分の主の一大事。
だからこそ、彼女の頭には引っかかる物があった。
(私の陰陽術を容易く解除した魔....ここの結界は高密度の浄土術式を用いている。いくら高位の魔と言えど侵入して無傷で済むはずがない。そして結界自体も式を毎朝変えているからこそ計画の建てようもないはず。それにそもそも結界は破壊されていない。加えて暫定的ではあるものの、今回解除されたのはどれも一条家及び鎮守で受け継がれ代々改良された術式。それならば...考えにくいけれど、元から式の根幹を知っているとしか....。)
そう思索を巡らせていると、澪は不意に先ほど人狐が跳び上がる前に居た地点に一枚の折りたたまれた紙が落ちていることに気づく。
その紙は天気雨が降りしきる中、グチャグチャに濡れた地面の上にあるにもかかわらずカラッと乾ききっている。
その紙を手に取り、警戒しながらも開く。
(...あぁ、なるほど。そういうことですか....、まったく....いくら好き放題しようが構いませんが子孫である若に迷惑を掛けるのは辞めて欲しい物ですね。)
手紙の内容を読むと、納得感と共に顔も知らぬ己の主の先祖に対して忌々しさを覚えて顔を少し顰める。
それはその手紙に記された彼の先祖が、今も尚自分の同僚である和が蔵書院に閉じこもる原因の一つであり、出雲家が抱える問題の原因であることに起因していた。
「ここで悠長に話している時間だって....!御屋形様が奴の手にある以上、御屋形様の身の安全が......っ!!まさか、魔が大量発生したのもわたし達を外に釘付けにする為に....。」
「....若の身の安全という面においては、心配はないでしょう。これをご覧なさい。」
澪は結衣たち3人に声を掛けると、手紙を彼女達に見せる。
『謹啓 皆様にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます
このたび今より五代前にあたる第十一代当主出雲永徳との契約の下、力を貸した褒章として現出雲当主の身をもらい受け、婚礼の儀を挙げることに相成りました。
つきましては、鎮守の皆様方にお集まりいただき翌日の明朝にて細やかではありますが披露宴を催したいと存じます。
ご多用中、誠に恐縮ではございますがご来臨の栄を賜りたく謹んでご案内申し上げます。
それにつきまして、ご案内の遣いとして儂の分身をお送りいたしますので、その案内に従って山を登り我が社へとお越しくださいませ。
敬白』
その文面はまるで結婚式の招待状。
それを見せたまま、表情を変えることなく澪は言葉を続ける。
「奴の目的は若との婚姻、それだけでしょう。そう考えれば、ここ最近の天気雨も説明が出来る。...“狐の嫁入り”、妖狐自体の目撃例が少ない今では考えられませんが文献で読んだことがある。婚儀を控えた妖狐の近辺で起こる自然現象...あの女狐が婚儀の準備をする為に目を覚ましている間に降っていたのでしょう。魔の異常発生は霊格の高い魔が目を覚まして活動を始めたことに起因して周辺の魔が刺激される、“百鬼夜行”現象が重なった。そう考えるのが妥当でしょうね。」
澪が粛々と分析を行う。
そして彼女達が聞いているか確認する為に目を向けて、澪は少し後悔する。
「ぇ....御屋形様が、結婚...?婚姻って...」
「招待状....なんで御屋形様があんな魔と結婚なんて...」
結戌と狗遠は目を見開き、冷や汗を流す。
瞳孔は揺らぎ、息が荒い。
心臓の鼓動が早まり、身体が強張る。
それは動揺と自らの大切な者が突然奪われることによる喪失感を前にした身を焦がすような情動。
その顔に澪は見覚えがあった。
それは十年前、彼女達真神家を受け入れることが決まったことで出奔した御三家の一角。
三条凜が見せた表情とよく似ていた。
大切な人を誰かに奪われた時の、脳が壊れるかと思う程の激しい情動。
目の前の二人がその情動に頭を焼かれていることが分かった。
「...そもそも、その十一代当主とやらの契約は魔の戯言ではなく確かなのですか?そもそもなぜ...結界が機能しなかったのか、何か申し開きは?」
孕貴は冷静に澪に尋ねる。
その表情は二人とは打って変わって落ち着いている。
そして二人の娘を庇うかのように一歩踏み出した。
その瞳には言い争う時のような相手の落ち度を突こうとする“敵”に対する責める視線ではなく、必要事項を確認するかのようなある種の信頼を感じ取れた。
(どうやらこちらは察しているようですね。...これならあの二人も凜のようにはなる心配はないか。ここで二人も普段通りに動けなくなられては困りますから....。)
澪は少しの安堵を覚える。
母親の方にはそこまで情はなく気に入らないが、娘二人は自らが手ずから自分の主に仕える走狗として色々と仕込んできた。
それ故に人に指摘されれば澪は否定するが、一定の師弟としての情はある。
そして何よりもこの状況で動揺せず、話の通じる戦力が居ることの安堵。
澪は目の前の己の主に色目を使ういけ好かない年上の雌犬に対して、そういう意味では信用していた。
だからこそ、彼女達を自身の主の下に付けたのだから。
それは孕貴も同じ。
目の前の女の頭脳と力、そして何よりも執着にも近い程の愛。
それがこの事態が起きたことに理由があること、そして何よりこのままで終わらせるはずがないという確信にも似た信頼を寄せていた。
「確かかは現状定かではありません。...けれど、戯言と切り捨てるのは早急だと思われます。我々鎮守...及びに出雲家はかつて窮地に立たされていたそうです。時代の変化とそれによる陰陽道の需要の陰り。そんな中、十一代当主、出雲永徳の時代に財政が上向きとなり、新たな術体系の開発など今の鎮守の盤石な体制を築くきっかけを作り上げました。しかし、きな臭いことにそれまで永徳前後の当主の代であれば必ず残っているはずの記録が彼の代には残っていなかったり、黒塗りになっているのも事実。」
澪は今もなお蔵書院に缶詰となって、まだ事態に気づいていないであろう和を思い出す。
彼女を最も悩ませている問題がその隠匿及びに改竄された文献の訂正だ。
そしてその訂正事業を行うことが出来るのが和である為にオーバーワークにならざるを得ないのが現状である。
(...まぁ、籠り切りになっている一番の原因はほとんど凜と同じなんですけどね。)
澪は心中で呆れながらも、和が籠り切りになっている一番の原因である目の前の三人に目を向ける。
そしてまた口を開いた。
「おそらくは子孫に伝えることが憚られることも行っていたのでしょう。そして今回事例を考えるにあの妖狐がそれに関係していると考えるのが妥当。...陰陽道はある種一本の幹から枝分かれで術が発展していく物。...であれば、あの妖狐が今鎮守において使われている術の根幹に関わっているとすれば結界を通り抜けて私の術をいとも容易く解除出来たのも納得できる。永徳が協力する見返りとして子孫である若を差し出したと考えれば今回の出来事の辻褄が合います。」
「それじゃあ....!御屋形様のご先祖様の結んだ契約だからってこのままにするのか師匠!?そ、そんなの...わたしは嫌だぞっ!ぜったい...絶対に嫌だ!!」
「ん...私も、結戌と同じ気持ち。」
結戌と狗遠が澪に詰め寄る。
そんな二人を見て、澪は溜息を吐いた。
「はぁ...貴方達、誰に物を言っているのです?この私が、そんなことを本当に許すとでも?」
澪は目を細める。
その瞳からは怒りと明らかな不快感が滲み出ている。
そんな澪の気迫に二人は一歩後ずさる。
「私の主は若ただ一人、私の全ては若なのです。後の事など極論どうでもいい。それは若の先祖だろうが同じこと。ましてや、その先祖は魔に未来の子孫を売った。自らの負うべき代償をこともあろうに若へと投げた。...到底許されることではありません。」
淡々と述べる言葉。
しかし、その言葉一つ一つに刃物のような鋭さを感じさせる。
そして不意に澪は口元に嘲るかのような薄い笑みを浮かべた。
「...しかし、先代のその無責任な姿勢で救われた面もあります。我々の手元には契約書がない。そして今の今まで何も起きていなかったことを考えるに...契約書を介さず、もしくは介したとしてもすぐに破却できるように細工したとみるのが妥当でしょう。つまり、あの妖狐はその気になっているが...実際のところは騙されて手を貸した可能性が高い。だったらその卑怯千万な姿勢に則って、私たちも行動するだけ。...普段と変わらずやることは魔の討伐です。」
(仮に契約が機能していたとしても、契約先の相手が居なくなれば契約は成立しない。それに何より...鎮守が契約で手を出せなかったとしても、股噛家は鎮守ではなく若に契約が繋がっている。当時の観点から見ても鎮守の配下ではない家の人間の為、契約の範囲外のはず。....これなら例え不測の事態が起きたとしても対応可能。)
澪は嘲りの表情を浮かべながらも、頭の中では最悪の場合も観点に入れて思考する。
そして目の前の3人が居るのであれば何が起きても対応可能であると結論付ける。
寧ろ若の申し出とはいえ真神家を股噛家として受け入れたのは、このような事例に際した時の為。
あくまで鎮守に縛られた御三家である自分達とは違い、自分の主に繋がれた彼の為だけに動ける狗。
それが股噛家の存在理由の一つなのだから。
「...安心、した。それなら...大丈夫。負けない。」
「うむ!この手で奴を討ち、御屋形様を取り戻す....このような狼藉を働いたことを後悔させてやる...。」
狗遠と結戌は訥々と意気込む。
そしてそんな二人の後ろから、孕貴が澪に視線を投げかけている。
澪はそんな二人を見やると、そのまま言葉を口にする。
「では、今私たちがすべきことは時が来るまでの作戦会議です。奴が今潜伏している場所は迎えの者を待たずとも手紙に付着した霊力から割り出すことが可能でしょう。結婚を控えて、また魔が刺激されて百鬼夜行が起きる可能性がある。若を取り戻す人員と百鬼夜行を抑えて周辺の秩序を維持する人員で分かれます。よろしいですね?」
澪の言葉に二人は深く頷く。
そして、澪に対して一挙一投足を見定めるような視線を向けていた孕貴も頷いた。
そんな3人を見回すと、澪は嗜虐的な笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。
「それでは、往年のメロドラマではありませんが...あの獣畜生の結婚式をぶち壊して差し上げましょう。」
澪がそう言うと、彼女達はいそいそと屋敷の中へと入っていく。
空は雲一つない透き通った青空の中、振りつける天気雨。
ライスシャワーのように細やかな雨粒が途切れることなく地面を濡らし続ける。
されど、出雲家の軒下は変わらず乾ききっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます