第10章~紫苑~

目が覚めると、自らが長い眠りについていたのだと感じる。



夢を見ていたような…



しかし夢ではないような…



はっきりと感じるのは、幸せな気持ちで眠っていたこと。



この幸せが夢であったと目覚めて分かるのは、現実ではとても残酷ざんこくなことが待っていること。



変わらぬのは、ジョンウに二度と会えぬこと。



悲しいのは、ソルと二度と語らうことができぬこと。



心残りは、ヘジョにもっと姉らしいことをしてやれたのではないかと悔恨かいこんが残っていること。



何度止めようとしても、脳裏のうりにこびりついて離れぬこれらの現実をまだソンギョンは飲み込めずにいる。



体のどこかが、かたくなに拒否きょひをしているのだ。



また眠ろう…



と、目を閉じた。



現実は残酷なことばかりが散りばめられている。



夢は都合のよい出来事が、都合のよい時節じせつで現れては消え、現れては消え、の幸せな輪廻りんねだけで作り上げられている…



その世界こそが、ソンギョンが生きる世界なのだと、誰かに確約かくやくして欲しい…



夢の中に永久とわに住むことを許されたい…



ほら、また眠りがソンギョンに降ってきた…



旅立とう…



夢の世界へ…







全てが虚無きょむであった…



何も目に入らぬ。



何も耳に入らぬ。



どんな事象じしょうにも心が動かぬ。



この明るさは朝なのか、夜なのか、暑いのか、寒いのか、五感の全てが停止し、それらを受け付ける脳も麻痺まひしているような錯覚さっかくおちいっていた。



ただ、ただ、虚無きょむ



きょであり、であった。



ジョンウの亡骸なきがらを目の前にして、茫然自失ぼうぜんじしつ微動びどうだにせず、ソンギョンはどれくらいの時をそう過ごしていたのかわかりなかった。



飲まず食わずのうち、人間らしさ、をあきめ、それらを置き去りにし、生きていく為の生命体せいめいたいとしてのあれこれを一切せず、片時もジョンウのかたわらから離れようとはしなかった。



しばらくそう過ごしたのち…



長い長い時間動かずにいたソンギョンは、自分の意思や力ではなく、地球の重力が働き、そのまま重力ののままに倒れた…



意識が遠退とおのいていき…



そのまま深い眠りに入る…



自身では分かっていた。



ジョンウとの最後の別れをせねば一生の苦しみを背負って生きてゆかねばならぬ。



かと言って別れを別れとして認め飲み込む気力が残っているのか…



と、問われるといなとしか言えぬ。



どちらもつらつらい選択であった。



意識が遠退とおのいたのは、それらを受け入れることへの逃げだったのか、それともただ人間生活をほうてきしたことによって、体が悲鳴をあげたのか…



どちらにせよ、心も体も、限界であった。







ソンギョンが重力の意のままにされていたと同じ刻、親友のソルは隣室でまたソンギョンとは異なる戦いを挑んでいた。



ソルもソルで、ジフから離れられぬ時間を送っていた。



公主様こうしゅさま、少しだけでもかまいません…お口に何かお入れ下さいませ。』



世話役せわやく侍女じじょが何度も懇願こんがんしている。



そこへ、ちょうど部屋に入ってきたのは、ジフの母・くむ氏であった。



公主様こうしゅさま。息子にうて下さいまして、ありがとうございます。ジフの母が参りましたゆえ、公主様はあちらで少し休息きゅうそくなさって下さいませ。おぐし随分乱ずいぶんみだれておいでですし、息子同様、海に投げ出されてから一度もおし物も替えられておられぬとか。私が気づかずにおりまして、申し訳ありませんでした。ムアン大君様てぐんさまをはじめ、お母上もこちらへ向かっておいでです。ご両親に今のお姿をお目にかけるわけにもまいりませぬゆえ、息子は私におまかせ頂いて、少しでも休息なさいませ。この通りにございます。』



初めのうちは、自分のことなど…



と反発の気持ちが湧いたソルであったが、ジフの母・くむ氏の静かな、しかし揺るがぬ固い願いによって、重い腰を上げた。






万事通まんじつう都河港とがこう一の大店おおだなであり、その名に負けぬ程の部屋数もあり、どの部屋も都城でも有数の名家の屋敷にも劣らない装飾そうしょく調度品ちょうどひんが用意されていた。



余談よだんであるが、主人のヒョイルはあっさりとした部屋が好みであり、商売人の鏡のような…



しかし表向きは、派手を好み、また派手から好まれる両班やんばんであり…



しかし自室は簡易的かんいてきな部屋しか用意していない…



端的に表現すれば、内向きに見れば質素で素朴な人柄であった、と言うことである。



表向きからは想像できぬ、摩訶不思議な人なのであった。







ジフが寝かされている、ちょうど向かい側の部屋にソルは通された。



戸を開けると部屋にはムクゲの花のにおいが部屋全体に立ち込めており、湯殿ゆでんでは並々なみなみ浴槽よくそうに湯がはられ、湯気の中で目を凝らしてみると、匂いの通り向こう側ではソルの好きなムクゲの花がいくつも浮いていた…



ソルはじっと動かずにムクゲの花がたゆたうのをしばし見つめ、侍女に退出たいしゅつするよう、静かに伝える。



いつもならば、湯の世話をする侍女に装飾品そうしょくひんからチマ・チョゴリまで、外してもらい、湯浴ゆあみの世話までしてもらうのが慣例かんれいであるが、今日は人払ひとばらいをして自ら湯に入ることにした。



理由は…



首から下、衣服から見えぬ場所に所狭ところせましと無数の…あざ、みみずれ、ができているのであった…



それらの傷はまだ新しく、ソンギョンがうらやましがった白磁はくじのような艶やかな肌が、無数の傷らを一層いっそう際立きわだたせていた。



装飾品を外し、チマ・チョゴリを脱いで湯にかる…



傷が湯に染みて、顔をしばらくの間、ゆがませてしまうソルであった。



しかし、ソルはここ数日のうちでやっと人心地ひとごこち着けたのである…



『はぁ…』



と、短い息が出る。



湯浴ゆあかこいのふちに首をもたげ、天井てんじょうあおぐ…



あの日以来やっと息をしている、生きている、心持ちになった。



目をつぶり、頭の上まで湯にもぐる…



と、船が出港する数日前からリウ・ハオレンと共に過ごした体験の映像が頭の中によみがえる…



それは地獄のような時間であった…



陽国へあのまま渡ってしまえば、ソルの息の根が止まるまで、永久とわの時間で地獄を味わいくさねばならなかった…



独りで湯に浸かり、物憂ものうげに浸っていると、直近ちょっきん数日間の出来事ばかりが浮かんでくる…



それをしまいにしたく、湯から出て着替えをしようと思い立った。



湯から上がり出たその時…



『ソル?…』



と、ソンギョンがつい立ての向こう側から姿を表した。



ソルは、ソンギョンに背を向けたままの格好で湯に立っている。



『!?』



『!?』



互いが、同時に息をのむ…



ソルの背中から湯に浸かっているひざまでの後ろ姿に無数の傷の光景がソンギョンの脳裏のうり鮮明せんめいに焼き付き、体が硬直こうちょくしてしまう。



あわてて羽織はおりものを取りに走るソル。



へなへなとその場にくずれ落ち、ほおを流れる涙をぬぐいもしないソンギョン。



いつかは知れてしまうであろうが、それが今ではなく、もうしばらく待っていて欲しかったソル。



親友に起こった出来事が自身と同化し、かける言葉も見つからないソンギョン。



しばらく、2人はそのままの格好で時だけが過ぎていく空間にいた…



どのくらいか時が過ぎ、おもむろにソンギョンが立ち上がる。



『傷の手当ては、まだでしょう?お祖父様が傷によく効くとっておきの薬を持っているの。待っていて。届かないところは、私がるわ。私が万事通まんじつうの名に掛けて、元のソルの肌に治せる薬や医師を探すわ。私の大好きな大切なソルだもの。叶えてみせるわ。店へ降りて薬を持ってくるから待っていてね。』



そうソルへの言葉なのか、自らへの言葉なのか…



心の誓いをソンギョンはひとりつぶやいて、部屋を出ていく。



それを確かめたソルは、ソンギョンが出ていった部屋で独り、嗚咽おえつこらえながら泣いていた。



自身で地獄だと呼んだ、あの惨劇さんげきの中にあっても涙ひとつこぼさず、ジフが横たわる姿を眺めている時にも涙を一粒もごぼしていなかったソルであったが、ソンギョンが部屋を後にした途端とたんせきを切ったように泣き出した。



戸を閉め、戸に背をもたれさせ、ソルの嗚咽おえつこらえる泣き声をソンギョンは立って聞いていた…



自身も目から涙があふれ出し、止まらなかった…



ソルの泣き声が止むまで、ずっと戸の前でソンギョンは待ち、泣き声が止むと部屋からそっと離れ、静かに薬を取りに店へ降りていった…







ジョンウの亡骸なきがらの隣で倒れてしまったソンギョンは、その後すぐに起き上がることができた。



以前のように頭を打ったわけではなかったので、さいわいしたのであろう。



ジョンウと「別れ」をする機会をもらえたと、ソンギョンは考えるようにしたのである。



倒れてしまった後、眠るソンギョンに夢の中でジョンウは会いに来てくれていた。



夢の中であったが、ジョンウはソンギョンに、互いにとって互いは、一期一会いちごいちえの相手であったのだと、そう告げた。



一期一会の相手だからと、必ずしも人生を共にできるものではなく、こうして別れ別れになってしまうことも時にはある。



ただ今生こんじょうの別れは、万物ばんぶつ全ての別れなのではなく、ほんの一時の、一瞬いっしゅんの出来事である、と…



一期一会いちごいちえの相手が笑っていなければ、自身は笑えず、相手が懸命けんめいに生きなければ、自身は存在を許されずたましいは泡になり、いずれ消えてなくなる。



互いの別れをしみ、その別れを大切な節目ふしめとしてとらえ、それらを乗り越え懸命けんめいに生きた先にあるものを得ることができれば、一期一会いちごいちえの相手にまた会えることができるのだ、とも…



だから、生きて欲しい。



自身を大切にするのだ、と。



まことかどうかは、分からぬ。



しかし、ソンギョンにジョンウは今まで嘘や誤魔化ごまかしをしたことは一度もなかった。



どんな時も誠実せいじつ真摯しんしであってくれていた…



だからこそ自身はジョンウの分まで生きることを託されたのだと、どんな時でも笑わなければならぬのだと、ソンギョンはジョンウに背中を押してもらえたのだと感じていた。



大切な大切な人の想いである…



一期一会いちごいちえの相手に今一度会わねばならない。



その為には自らの人生をほうてきしてはならぬのだ。



懸命に生きなければ…



一字一句、ジョンウが語ってくれた言霊ことだまにはできぬ。



と、心に決め、まず自らの身なりを整えることから始めることにした。



思えばソンギョンは湯浴ゆあみもぐしもチマ・チョゴリもいつからそのままなのな分からぬほどに、幾日いくにちも過ぎていた。



そして、自分を必要としている存在がほんのすぐそばで待っていたことにも気づく。



ジフが寝かされている部屋で、ジフの枕元を離れずにいる、ソンギョンの大切なソルである。



陽国へ旅立つ前には最後の別れも叶わず、一度も会えぬまま、別れ別れにならざるを得なかったソルがすぐ近くにいるのである。



ソルは私を必要としているはずである、と不思議にそう思えた。



会いに行かなければならない、と思い立ち、身なりを整え、部屋を出たところ、ジフの母・くむ氏に出会った。



『おば様ご無沙汰ぶさたしております。遠路えんろはるばる足労そくろくにございます。今しがた、ソル公主こうしゅが飲まず食わずでジフ様の傍らから離れておらぬ、と公主の侍女から聞きましたゆえ、湯浴ゆあみの準備が整ったと知らせに参ろうかと思っておりました。』



父の竹馬たけうまの友の妻であり、幼少の頃より折に触れて可愛がってもらった琴氏に挨拶をする。



『お久しぶりですね、ソンギョン。ちょうど私も公主が息子の傍から離れないと聞いて、休むように声をかけに来たのです。』



優しい声音で話す琴氏の声が、悲しさに飲み込まれて、折れてしまわぬように辛うじて立っているソンギョンの心に柔らかく染みてゆく。



『ソルにお伝え下さるのでしたら、私はソルのチマ・チョゴリを選んで参ります。白磁はくじのようなソルの肌に合う綺麗な色を選んで参ります。よろしくお願いいたします。』



ソンギョンも琴氏の優しさに触れ、少しずつ自身を取り戻すことができるようになっていた。



琴氏へ一礼で辞して私室に戻り、ソルに似合うとっておきのチマ・チョゴリを選ぶことにした。



『ソルは本当に綺麗なお肌だから、選ぶのが楽しみだわ。』



そう独りごちて、真剣に黙々もくもくと、ソンギョンが持っているチマ・チョゴリを全て出してみた。



しばらく時間がたつと、ソンギョンの私室ししつは色とりどり、豪華絢爛ごうかけんらんなチマ・チョゴリが足のみ場もない程に広げられ、使用人泣かせな部屋が出来上がっていた。








一方ボヨンは、ソンギョンが落ち着いたのを見計らって、ジョンウの父・ドンウに会いに搬行李店はんこうりてんへ久しぶりに訪れていた…



以前とは大きさは違えど、あの時と変わらず、小ざっぱりとしたなつかしい店構みせがまえは健在で、そこかしこに昔の名残が残されており、ボヨンの心へ懐かしさが広がってゆく。



都河港とがこうの父の店に訪れる時には、必ずこの搬行李店に立ち寄っていた。



『ごめんください。』



そう言って、店の敷居しきいをまたいだ。



中からは、懐かしいあの顔が挨拶に出迎えてくれる…



『お久しぶりです。』



ボヨンが挨拶をすると、



『お変わりなく。』



と、ドンウから返事が返ってきた… 








万事通まんじつうの玄関に、都河港とがこうでもなかなかお目にかかれない豪奢ごうしゃ輿こしが停まった。



中からは、現王げんおう実弟じっていムアン大君てぐん、その正妻せいさい尹妃ゆんひがその人だとひと目で分かる程の豪華なし物をまとってでてきた…



店からは、主人であるヒョイルが出迎える為に顔を出す。



『ムアン大君様、尹妃様、ようこそお出で下された。話は中の方で致そう。お入り下され。』



さすがは、先王せんおう重鎮じゅうちんチャン・ヒョイルである。



王族とも関わりが深く、そもそもは血縁けつえんでもあるからして、あしらいがいちいち見事である。



しばらくの間、店から母屋おもやへ続く回廊で3人は立ち話をしていた。



それから大君夫婦はすぐに、ソル公主の休んでいる部屋に案内された…



公主の部屋に入ると、ソルはソンギョンと茶を飲み休んでいた。



大君夫婦に気づき立ち上がって挨拶をするソンギョン。



『お久しぶりでございます。ムアン大君様、尹妃様。ソル公主様のお相手をさせて頂いておりました。わたしくは、退出させて頂きます。ごゆっくりお過ごしくださいませ。失礼致します。』



最近のムアン大君家族、ソンギョンの洪家ほんけ家族には、挨拶と共に交わされる明るい話題もなければ、相も変わらぬ息災そくさいや他の何かを互いにめ合い喜び合い分かち合う、話題もなく、挨拶を気安く出来るはずもなく、ただただ顔を見合わせて挨拶をすることのみしかソンギョンには浮かばなかった…



ソンギョンが退出をしようとすると…



ムアン大君、尹妃、ソル、が口々にソンギョンへ礼を述べた。



ソンギョンは「何か力になれることがあれば遠慮なくお伝え下さい」と告げて、部屋を辞した…



自室に戻ろうと廊下を歩いていると、ジフが寝ている部屋の前を通った。



すれ違う万事通の使用人に、琴氏はまだジフの傍らにいるのか確認すると、目が覚めるまで万事通に親子で滞在させて欲しいとの申し出があった、と報告される。



ならばと、琴氏にジフの寝ている部屋の隣室りんしつを続きの間にして使用できるように手配し、軽食を用意するように命じた…



ジフが心配で何度も部屋を訪ねれば、琴氏に要らぬ気遣いをさせてしまうと考え、使用人に采配さいはいだけを振るい、自室に戻った。







『お父様、お母様、お久しぶりにございます。この様な形でお会いせねばならず、大鮮国だいせんこくムアン大君てぐん公主こうしゅとしてのつとめを果たせず、まことに申し訳ございません。』



ひざをつき、ソルは父と母に謝罪をする。



何故なら、ソルはこれから鮮国王族代表として陽国とのけ橋にならねばならなかったにも関わらず、船の転覆てんぷくにより、陽国側の人間は全滅ぜんめつ、鮮国側の人間も数人しか生存しておらず、これからの外交に大きなみぞを作り、暗雲あんうんを立ち込める原因を作ってしまったのだ…



ソルだけでなく、両親のムアン大君夫妻にも陽国、鮮国、双方からの風当たりが強くなるのは明らかであった。



ソルが望まぬ政略結婚とあの無惨むざんな傷をこらえたのには、王族としての果たさねばならぬ勤めへの義務があったのだ。



それは、公主として生を受けた日から避けては通れぬ義務であり、何もソルだけに特別に重くのし掛かっているわけでなく、古今東西ここんとうざい今昔こんじゃく未来永劫みらいえいごう、どんな王族も民から糧を徴収し、その糧を食んで生活する以上、になわねばならぬ義務が存在している。



王族とは聞こえは華やかに思えるが、実のところ、統治する組織の奴隷と言えなくもないのである。



組織を守る為には、自らを犠牲にすることもいとわねばならぬし、それが大切な者たちを犠牲にすることも飲まねばならぬのであった。



鮮国の王族は皆、幼少の頃より皇子おうじ四書五経ししょごきょうから、公主は女四書おんなししょを通して、それらを一通り学んでいた。



ムアン大君夫妻ももちろん、それらの書は学んでいたし、王族としての義務も熟知じゅくちしている。



それらを踏まえても、無事に戻ったソルに涙せずにはいられなかった。



王族と言えど、見なければならぬ現実はあるが、人の子の親として、子の命に代わるものはなく、親にとって子の命ほどとうとく重いものはないのだ。



『何を言うのだ。無事にわしたちの元へ帰ってきたではないか。さ、立つのだ。ソルは私の大切な公主様だ。これより先は誰にもひざまづくことは許さぬ。よくぞ無事であった。立派であるぞ。』



父に介助かいじょされ立ち上がると、母に抱き締められた…



『ソル…私の娘ソル…』



泣きながら、何度も何度もソルの名前を呼び続ける母に、ソルの頬からも涙がこぼれる…



『お母様ご心配をお掛けして、申し訳ありませんでした。』



そう伝えたきり、久しぶりに会えた母の胸で、久しぶりに長い間、泣き崩れていた…








ムアン大君夫妻が到着する、少し前のこと。



『ソル?薬とチマ・チョゴリを持ってきたわ。開けるわね。』



そう告げて、ソンギョンはソルが休んでいる部屋の戸を開けた。



部屋に入ると、ソルは窓際に置かれている茶卓ちゃたくに座り、窓を開け放って外を眺めていた。



『ソルが届かない背中の方の薬を塗りたいのだけど、また後からの方がいいかしら。それとも、自分でやれるかしら…』



そう、ソンギョンが訪ねると



『今お願いしてもいいかしら。』



と、窓の戸を閉めるソルから答えが返ってきた。



薬を塗るために、服を脱いで背中を見せるソル。



何も口にせず、黙々と薬を背中に塗るソンギョン。



黙々とそして、大切な友への想いも込めて、ひと塗りひと塗りを丁寧に進めていく。



しばらく互いに話さず、静かな時が流れていった。



『終わったわ。』



そう、ソンギョンが告げるとソルはチマ・チョゴリに腕を通す。



『覚めてしまったけれど、ソルの好きな蓮茶はすちゃを持ってきたわ。ソルの好きな、桃饅頭ももまんじゅうもマーラーカオ(カステラ風蒸しパン)も蓮蓉包れんようほう(蓮の実入り蒸しパン)もあるわ。私の好きな月餅げつべいもあるわ。ずっと何も食べていないでしょ?一緒に食べましょう。』



ソンギョンはソルに何か口にするようにすすめる。



実はソンギョン自身もしばらく何も口にしていなかったのである。



ジョンウの死と向き合い、自身をふるい立たせ、大切な友の前に毅然きぜんと腰かけるまで、ソンギョンにはソンギョンなりの戦いがあったのだ…







食べはじめてしばらくすると、ソルは食べるのを止めてソンギョンを見つめた。



『ねえ、ソンギョン。気になっていたことがあるの。ジフが乗船していた船に、ジョンウ様もいたと聞いたわ。ジョンウ様は今、どこにいらっしゃるの?…』



ソルの真っ直ぐな問いかけに、何も答えられないソンギョンは、一瞬停止したのち、微笑ほほえみを答えとすることにした…



『!?…ごめんなさい…』



口に手を当て驚いた後…



小さな声で下を向いてソルがつぶやく。



『謝らないで。ソルが謝ったら、ジョンウが間違っていたことになるわ。ジョンウは間違ったことはしていないの。ジョンウは素晴らしく正しいことを成したのよ。ジョンウは、間違っていないの。それにね、今でもジョンウはずっと私と共にあってくれているの。だから、私は前を向いて生きていかねばならぬのよ。大丈夫だから。さあ、ソルも食べましょう? お腹を一杯に満たすの。また、ジフ様の側にもどるのでしょう? 鋭気を養わなければ、ジフ様の看病は務まらないわ。』



そう微笑んで、点心てんしんをすすめた。



しばらく茶と点心を喫し、茶が空になったところで、ソンギョンは席を立ち部屋を出て廊下で控える使用人を呼ぶ。



すると半刻(30分)ほどでムアン大君夫婦が都河港に到着する、とのしらせが入った、とのことであった。



お代わりの茶を飲みながら、ムアン大君夫妻の到着をソルに伝えよう、とソンギョンは考えていた…






春道港から都城までは、どう急いでも一刻は必要であった。



陸路と水上とで路を選べたが、ムアン大君夫妻とボヨンたちは、陸路を選んだ。



まだまだこの頃は、陸路と言っても獣道が少しましになった程度であり、山林にはもの剥ぎ、賊、無籍者などに加え、日が沈めば獣たちも活動を始める。



また都城の入口にある、蒼天門そうてんもん暮五刻くれごこくまでに通らなければ、山林で野宿になってしまう。



そろそろ出立しなければ暮五刻までに蒼天門をくぐることができぬ刻に近づいてきていた。



ムアン大君夫妻とボヨンは、それぞれの娘たちに別れを告げ、それぞれの輿に乗り込んで出発をした…






それからしばらくして…



ムアン大君と尹妃、ソンギョンの母ボヨンもそれぞれに帰路に立ち、万事通が静かになる…



賑やかな性格の次兄じけいダオンも、母ボヨンに連れられて帰っていった。



ムアン大君夫妻も母も、互いの娘がまだまだ落ち着かず、後ろ髪を引かれる思いであるが2人の互いを思い合う友情を大切にしてくれたのだと、ソンギョンは感じ入り感謝もした。



そして自身を信じてくれた母に恥じぬ生き方をしていきたい、と心に決め、その心の灯火ともしびで心を満たしていった。







ソンギョンは、ソルを探しにジフの寝ている部屋の戸を叩く…



すると、琴氏が答えてくれた。



『ソル公主は、まだ自室の方におられるそうです。』



琴氏にお礼を告げて、ソルがいるであろう自室に向かう。



しかし、ソルは不在であった…



不思議に思い、どこかへ外出していないかを使用人にたずね回り…



店の方へも顔を出していないか確認する…



母屋などを方々ほうぼう探してみると、庭の東屋あずまやに腰を降ろしているソルを見つけた。



東屋に足を向け、歩みを進めていく。



ソルはただじっと動かず静かに、庭の向こう側を眺めていた。



『…ソル?…』



ソンギョンは、静かに語りかける…



するとソルが振り返りながら、ソンギョンに微笑ほほえみ返してくれた…



東屋の長椅子ながいすに、ソルの笑みに安堵あんどしたソンギョンもソルと並んで腰を降ろす。



2人は何も語らわず、静かな時が流れていく…



しばらく静かな空間を通りすぎた頃、ソルが静かな空間にふさわしい声音でソンギョンに語りかけた。



『ねえ、ソンギョン…私は生きていていいのかしら。笑ってもいいのかしら。このまま鮮国せんこくにいられるのかしら。ジフと共にいられるのかしら。』



静寂せいじゃくの中にふさわしくやわらかい声音で話すが、ひとつひとつは重い問いであった。



『自らのことなのに分からないの…あの日、都河港でヘジョとシムソを…あの子たちをかばった、あの日から全てが様変わりして、何をどうしたらいいのか…何も分からなくなってしまったの。あのおぞましい出来事も、私の身に本当に起こったことなのか…こうしてソンギョンと静かに過ごしていると、全てがただの夢物語だったのではないかと思えてくるの。私は何をしるべに、どこへ向かって生きていけばいいのか…ここ数日ずっと考えていたのだけれど、答えは出ないままなの。』



ソンギョンは何も答えずに、ただただソルを静かに抱き締めながら、背中を何度も撫でた。



生きることの是非ぜひを誰かに許し、許される、それはソンギョンやソルが生きた世界では当たり前のことなのだった。



自らが自らの価値を、居場所を、求め迷い、決断できる、などと言う考えは毛頭もうとうない世である。



役割が全ての世界であった。



ソルは、公主として、王族として、誰かにとつぎ、その家の血を自らのとうとい血と混ぜてつながねばならぬし、諸公しょこう外交戦略がいこうせんりゃくとしてのとうとい身分だからこそのける贈答品ぞうたうひんになり得たし、臣下しんかに嫁げば、それはまた尊い身であるがゆえ下賜品かしひんになる、また、自らの血を繋いでいくことは鮮国王室の血が絶えぬことへも繋がる、それが主なソルの役割であった。



しかし今のソルには、どれにもなれない身体になってしまった…



王族としての役割が果たせぬ自分は、鮮国の民が納めてくれる税をんで生きる資格が果たしてあるのだろうか…



この様な身体に成り果てた自分が、ジフやジョンウ、助けてくれた船の人足にんそくたちの犠牲の上に生きてもいいのだろうか…



自らが生きることが何になろう…



これを自らに問うて、自らに生きなくていもいい、ともしかしたら言い聞かせていたのかもしれない、とソンギョンは感じていた…



先ごろにソルの身に降ってきた出来事が、ソルの生きてきた世界とあまりにも違いすぎたこくな体験で、つらく、にがく、くるしく、おぞましく、その状況を受け入れるには、今までの自らでは到底とうてい受け入れられぬ出来事であるはずで…



それらを受け入れることが出来なければ、おそらく生きては行けぬ。



そしてそれらを受け入れることは、自らで行わねばならず、また容易では、ない。



辛いが、それが現実であった。



ソンギョンに出来ることは何なのであろう…



その答えが何もかたらわず静かに、ソルの心にうことが、今できると思える唯一ゆいいつの最善であると、ソンギョンは結論付けた。



2人でしばらく、また静かな空間を通りすぎていたところ、静寂をやぶる音が突然やってきた。



万事通の使用人のけたたましい声が、2人の静かな空間に終わりを告げた。



『お嬢様!ジフ様が、お目覚めです!』



むくりとソルが立ち上がる。



ソンギョンも続いて立ち上がる。



2人は顔を見合せ、一斉いっせいに走り出した…







ジフの休んでいる部屋へ到着すると、既に医師が到着しており、診察が始まっていた。



二人は肩で息をしながら、ジフの診察を固唾を飲んで見守っていた。



意識があり、応答ができること、手足が動かせること…



と、確認が進んでゆく。



以上でおしまいになる…



間際、ジフから申し出があった…



『先生、目の前が真っ暗です…』



『!?』



『!?』



『!?』



その場に居合いあわせた人、全員の動きと思考が止まる…



医師が今一度、確認をした。



行灯を目の前で、左右に移動させる…



しかし、黒目は動くことがない。



『何本に見えますか?』



と言う問いかけに…



『分かりません…』



と答えるジフ。



『貴方のお母様は、どちらに見えますか?』



との問いかけに…



『この場にいるのは分かりますが、どこにいるのかは分かりません…』



との答えである。



ソルと琴氏は言葉を発することが出来ず、沈黙のまま…



ソンギョンの祖父、ヒョイルは黙ったまま思案している様子であった…



ただ1人、医師に確認したのはソンギョンである。



『回復をする見込みはあるのですか?そして、何か回復の手立てだてはあるのですか?…』



そう、問うていた。



日薬ひぐすりで回復したらしい、と聞いたことがありますが、実際に私は会ったことがありませぬ。ジフ様の場合おそらく、船が沈没ちんぼつする折りに頭を強く打ち、そのまま意識を失ったまま、長い間海水にもぐっていたこと、意識がないまま幾日いくにちも眠っており動いておらぬこと、それらが引き起こした血の道がとどこおる症状が今お伝えできる、最大の原因ではないかと思われます。回復した者は、もしかしたらこの血の道が滞っていたものが、何らかの刺激で通るようになり、回復したのやもしれませぬ。申し訳ありませんが、私としてはこれが限界であり、これ以上は何とも言えませぬ…』



医師の言葉に、また場がてつく…



ソルはそのまま何も話せず、ずっと下を向いている。



琴氏は食事の支度をしにゆく、と静かに言い残して部屋を出ていってしまった…



ヒョイルは、医師を見送る為に階下へ降りて行く…



部屋に残されたのは、ソル、ジフ、そしてソンギョンであった。



『しばらくは、万事通まんじつう養生ようじょうする様にお祖父様もおっしゃるはずよ。ジフ様、琴氏も引き続きこちらへ滞在するとお祖父様にもお話なさっていたし、何よりもソルもまだ全快ぜんかいではないの…ご案じなく今しばらく万事通でお過ごしください。私は、ジフ様の湯浴ゆあみや着替えの用意を致して参ります。では…』



と、言い残してソンギョンは部屋を後にする…



部屋を後にしたソンギョンは、廊下に出るとため息をついた。



辛い出来事ばかりが重なる…



どこかに出口はあるのだろうか…



それとも、もう出たところであろうか…



先ごろの出来事、これからの自身と自身の周囲の人々の身の置き所は、変わらずに今のままであるのだろうか…



考えれば考えるほどに、沼にはまってしまい、そのまま抜け出ぬ足のような…



少しずつ少しずつ、じりじりと足元が断崖絶壁への瀬戸際せとぎわに追い込まれているような…



嫌な感覚がソンギョンにまとわりついて、離れずにいた。








都城とじょうの屋敷へ帰宅したムアン大君の元に、雅都宮がときゅうから使いが届いていた。



先の、都河港での沈没船事故の詳細しょうさいを報告せよとの勅旨ちょくしと、来年度の朝貢ちょうこうの詳細会議、ソル公主の仕置しおき、などムアン大君の考えを報告せよとの内容であった。



ムアン大君の周囲を、濁ったため息とどろりとした嫌な汗が身体中から吹き出て、心休まらぬ淀んだ空気が充満してゆく。



全てが自らの一手一手で決まって行くのだと心静かにぜんの方向へさいを向けられるよう、決意を新たに固くしていた…



家族を、妻を、子どもたちを、守りたい…



元の笑顔が溢れる時間を取り戻したい…



ムアン大君の頭の中は、このことで専有せんゆうされていた。







ソルは黙ったままうつ向いていた。



ジフに何と声をかければよいのだろう…



自らの身の置き所は、このまま万事通まんじつうに落ち着く訳もなく、生きていると知られれば再度、陽国ようこく貢女こんにょとして渡らねばならぬ確率はかなり高い。



しかも体の傷(この世界で女性は生まれや容姿の希少さを含んだ金銭的な価値で見られることが多く、なぐさみものとしても扱われる貢女は、身体の傷や不自由はより醜いと見なされ、価値のないものとして扱われるのだ。)により、鮮国で王族であったとしても、賤民せんみん奴婢ぬひと変わらぬあつかいを受ける確率も高いように思える。



自らの先行きが暗いことは、誰の目にも明らかであった。



両親はソルが沈没船から海へ投げ出されたこと、リウ・ハオレンへの貢女として数日過ごした娘への療養りょうようとして、万事通で過ごすことを承知してくれている。



婚約していたので、ジフの回復に配慮はいりょ考慮こうりょ寛容かんようであるかと思える。



しかし王弟おうていとしての父の立場と役割もある。



どれくらいソルには時間が残され、許されているのであろう…



ソルはずっとずっと黙り続け、それらのことを考えていた。






ソンギョンはジフの湯浴みと着替えの手配、ジフとソル、琴氏の食事の手配など、3人が快適に過ごせるような生活の身の回りについての采配さいはいを振るったあと、自室でこれからのことをずっと反すうしていた。



ソルの存在は、いつまで隠せおおせるのであろう…



ジフ様の行く末は、いかなるものになるのであろう…



ソルの仕置きは、どれくらい延ばせるのであろう…



自分は何ができるのであろう…



「後悔だけはしない」



これは、譲れなかった。



今回の事象じしょうは全般において、後手に回らざるを得なかったことが、全ての引き金になっているとソンギョンは考えていた。



ならば、こちらが先手を打てばいいのである…



ソルをこのまま万事通に置いておくのは、敵に援軍を送り続けるようなものであり、危険であった。



では、どうする…



そこで何度も止まってしまっていた。



先手を打たねばならぬのであれば、時はそう長くは待ってはくれぬであろう。



しからば、どうする…



ソンギョンは、ずっと思いあぐねていた。






ソルを見舞みまい、都河港とがこうから帰宅したムアン大君が屋敷で思案しあんにふけ、幾日いくにちこもっていたところ、雅都宮がときゅうからの使いが来た…



そして兄王あにおうに呼ばれ、ムアン大君は雅都宮を訪れていた。



今回はまつりごとの用向きではなく、私事であるとの体裁なので表向きの王の私室である思政殿さんじょんじょんではなく、奥向きの私室である康寧殿がんにょんじょんへ呼ばれた。



訪れた康寧殿がんにょんじょん謁見えっけんの間にはリウ・ハオレンのおいリウ・ハオシュエンがまぬかれていた。



そして、ソンギョンの父であるホン・ジュギルも同席していた。



兄王とリウ・ハオシュエンに挨拶をしたムアン大君に、2人から沈没船事故についての説明を求められた…



がしかし、まだ詳細しょうさいの調べは進んでおらず、王への報告ができるいきには達していなかった。



そしておそらく、報告を遂行してしまえば、娘であるソル公主の仕置しおききの方向が決まってしまう…



ムアン大君としては、曖昧あいまいなまま、うやむやにし、時が過ぎるのを待つことが最善さいぜんに思えていた。



今しばらく、いや未来永劫みらいえいごう、娘に自由を与えてやりたかった。



まだ調べは終わっていない、との報告を終え、早々そうそうにこの場から退きたい気持ちであせっていた。



しかし、そんなムアン大君を嘲笑あざわらうかのように、兄王から



『待て。』



との声が掛かる…



『ムアンや。そなたには、ソルの他にも娘がおらなんだか…?』



立ち止まり、背を向けたままのムアン大君に兄王は残忍ざんにん一手いってを投げてよこした。



『!?』



『!?』



その場に居合わせた、ジュギルはこの王は気がふれたのであろうか…



と耳を疑った。



ムアン大君は、何かを答える気には到底なれなかった…



ムアン大君の口からは何も語られず、時だけが過ぎてゆく。



これ以上の沈黙は、要らぬ憶測と不穏な空気しか生まない。



そう判断したジュギルは、ムアン大君の代わりに、口を開いた。



『お体に不安が残る公主こうしゅですが、おみえになられます。』



ジュギルはけに出たのだ…



ソル公主が生きているかどうかは、鮮国王はおろか、陽国もこの時点では知り得ぬことである。



そしてソル公主の妹、生まれつき病弱であまり外界がいかいとは接点のないヘス公主の存在は、広くは知られていない。



尹妃ゆんひに生き写しの、まだ年端もゆかぬ年頃であるが、将来はさぞ器量良しになるであろう、大層可愛らしい公主こうしゅである。



だからこそ、である。



リウ・ハオシュエンが鮮国の公主をこのままあきらめて帰国することを切に願っていた…



ジュギルもソル公主の話は伝え聞いている。



がしかし、世の人々に不明のままである状態が続けられるのであれば、何もわざわざ日の目に自ら現れて陽国へ連れて行かれるよりも、ひっそりと静かに暮らしていけばいい、とジュギルは考えている。



『そうか…残念であるな。鮮国王よ、もうそなたの親族に公主はおらぬのか?』



そうリウ・ハオシュエンは更に食い下がりたずねてくる。



話題の矛先ほこさきが王へと向いたその隙に、ムアン大君とジュギルは静かに、そしてすみやかに退出をした。



康寧殿かんにょんじょんを退出して、2人並び歩き、ジュギルの執務室へ向かった。



ジュギルの執務室は、これ以上にない程に静まりかえっている。



ジュギルとムアン大君は人払ひとばらいをして、2人で茶を囲み、何やら密談を始めた、と二人に付き従う者たちは判断し、それぞれの持ち場へ戻っていく。



どれくらいの時を過ごしたであろう…



日が沈むと、2人揃そろって執務室を後にした…



が…



そこには、入る時には確認していなかった二人、チャン・ノギョルとカン・テウがムアン大君とジュギルの後から続いて、静かに現れた…



この4人の動きをいぶかしみ、チャン・ノギョルの父であり、ソンギョンの祖父である、チャン・ヒョイルは手の者たちに探らせていた、と言う。



しかし、この4人が集まって何やら密談を交わしている、とヒョイル以外の周囲の人々は気づいてはいなかった。



4人はかねてより、共に過ごす姿が雅都宮でも都城でも、見られ何の不思議も周囲の目には写っていなかった、のである。



ただ、幼少の頃からの変わらぬ竹馬の友たちの集いである、としか写っていなかったのであった…







沈没船事故が起こってから、ふた月ほどが過ぎた頃、万事通まんじつう雅都宮がときゅうからの早馬はやうまが到着していた。



カン・ジフとソル公主に雅都宮へ参内さんだいするよう、王命おうめいが下ったのである…



始め、勅旨ちょくし姜家かんけ屋敷とムアン大君邸てぐんていへ届いていた。



が、しかし、2人はそれぞれの屋敷に存在しておらず、屋敷の奉公人ほうこうにん、屋敷主人家族は、沈没船事故から今までそれぞれの屋敷で2人を見たことはない、生存すら知らされていない、との返答へんとうで、詳細しょうさいを調べても嘘だと言う証拠もどこを探しても見つからなかった。



そこで、沈没船事故の周辺を辿たどっていくと、事故直後に運ばれたらしい、万事通まんじつうの存在が浮き上がり…



事故からしばらく療養りょうようをしていた、万事通に白羽しらはの矢が立ち、王命の伝える使いがやって来た、という流れであった。



しかし…



万事通にも、しばらく前から2人の姿を見たものはおらず、おまけにチャン・ヒョイルは腰を痛めた、とのことで、商売は使用人頭しようにんがしら丸投まるなげをして、沈没船事故からこちらしばらく都河港にはおもむいておらず、都城の屋敷にこもっていた。



おまけに、孫娘のソンギョンも軟禁なんきんされていた洪家屋敷からこっそりと抜け出し、両親にこっぴどくしぼられ、沈没船事故からこちら、屋敷から出ることは許されず、更に厳重げんじゅうな環境下で幽閉ゆうへいをされているとのしらせが入る。



万事休ばんじきゅうす…



王命を受ける者が行方ゆくえ知れずになり、王命はまたもや雅都宮がときゅうに舞い戻ってきた…



王は自尊心を傷つけられた、と躍起になり王直属おうちょくぞく秘密裏ひみつりに動かせる斥候せっこう駆使くしして血眼ちまなこになり、ソル公主とカン・ジフを探していた。



王の周辺が騒がしくなったのには、先ごろの沈没船事故の陽国ようこく側の生存者が奇跡的に見つかった経緯があった…



陽国側の生存者は全滅していたはずであったが、遠く離れた鮮国のさびれた漁村ぎょそんに打ち上げられ、そのまま漁船に乗り、陽国へ帰国していた。



その陽国側の生存者が、何をどう陽国皇帝へ伝えたのかは定かではないが、鮮国には陽国からの使者が到着していた。



陽国王宮・勲城くんじょうから正式に事の詳細を報告せよ、ソル公主こうしゅ貢女こんにょとして再び引き渡せ、との内容である。



雅都宮でも、沈没船事故によって生存者はおらぬ、と報告が上がっていたので、寝耳ねみみに水であった。



鮮国王はソル公主が生存しているかも知らぬままであれば、陽国側の生存者がいた、との報せも入ってきてはいなかった。



ただ実弟である、ムアン大君に沈没船事故の詳細を報告せよ、との王命を遣わせて、ことの成り行きを見守り、待ち、過ごしていたのだ。



この件が起こり、王の中にある何かが着火されたのであった。



そして王は、本来の疑心暗鬼ぎしんあんき執念しゅうねんかたまりである性格をむき出しにして、自らに裏切りを働いた不届ふとどき者を、自身の斥候せっこう血眼ちまなこになって探させていた、という経緯けいいであった。



そこでどうやら、ソル公主を助けたのがカン・ジフではないか、との糸が手繰たぐり寄せられ始めていたのである…



それぞれの身柄みがらを確保し、取り調べをしたい王は、ムアン大君とカン・テウにも参内するように王命を出していたが、ムアン大君は沈没船事故で亡くなったソル公主をはじめ、犠牲者ぎせいしゃの為に都城からかなり離れた春道港しゅんどうこう程近ほどちか春雪山しゅんせつざん建立こんりゅうされている鮮国一せんこくいち大寺院だいじいん鎮魂ちんこんの為のくどくをみに行っている、カン・テウは息子のジフと共に大和やまとの国へ見聞けんぶんを広めに旅に出ている、と返答があった。



もちろん斥候せっこうにも調べさせ、方々ほうぼうへ手を打っているが、四面楚歌しめんそかであった。







都城とじょうの屋敷に幽閉されている形になっていたソンギョンの元に、祖父ヒョイルからの伝達でんたつが届いた…



「ソル公主こうしゅ、カン・ジフ、に参内さんだい王命おうめいくだる」との内容であった。



すぐに春道港しゅんどうこう搬行李支店はんこうりしてんに「くだる」とだけ書かれた文を鮮服の間に挟み、行商に見立てた文を運ばせる遣いを送った。



春道港の搬行李支店を通して、あの日ジョンウがソンギョンとの未来に用意してくれた屋敷へ生活に必要な様々な品や情報が届けられているのである。



そうなのだ…



ソルとジフは、この屋敷に身を寄せ、身をかくし、共に生きられる道を探していたのだ…



このまま鮮国にいれば、そう長くは同じ場所にはとどまれず、また新たな潜伏せんぷく場所を探して流浪るろうを重ねながら生きていかなければならない。



周辺国への移動も視野しやに入れてはいるが、大国である陽国ようこくでも追われる身になったソルたちが安住できる場所が果たしてあるのであろうか…



鮮国から程遠ほどとおくない国のほとんどが、大国である陽国の冊封国さくほうこくになっている現実が重くのし掛かる。



鮮国を取り巻く世界では、陽国の支配が強いか、弱いか、又はあまり価値がないと見なされわずかな貿易と争わない約束があるだけの国、しか、周辺国として存在していないのだ。



どこに安住あんじゅうの地があるのだろう…



じりじりと断崖絶壁の波打なみうぎわへ追い込まれる切羽詰せっぱつまった感覚と、リウ・ハオレンに受けたあの日の悪夢あくむとが、重くのし掛かり、ソルは連日れんじつ連夜れんや夢見が悪く、うなされる眠りに悩まされていたのである。



ジフは目が不自由になって、まだ今の生活に慣れておらず、自らのことで手一杯であり、ソルの様々な変化には気づくにいたっていない…



ソルはジフの不自由に助けられている自分を情けなく思いながらも、安堵あんどの気持ちも持ち合わせていた。



そこへ、ソンギョンからの知らせが届いた。



誰の目に触れるか分からぬ知らせは、人物の名前はおろか、場所や時間、など何かを特定できるものは、一切書かれていない。



「下る」



ただ、一言、だけの知らせである。



それはソンギョンとソルの阿吽あうんの呼吸で全てが伝わるようになっていた、のであった…



ソルはじっと考えた…



そろそろ時が来たのかもしれぬ。



では次の場所、と軽々かるがるしく腰を上げられるほど、事はそう簡単にはゆかぬのであった。



じわりじわり、と追い詰められ、ソルの心が身が悲鳴を上げ、限界を迎えようとしていた…



その瞬間。



ぷつり…



とソルの全てが止まった…



目を開けると、見覚えのない天井てんじょう



かと思われたが、すぐに思い出した…




ソンギョンが秘密裏に用意してくれた、建てられて日が浅く、取り分け豪華ごうかな屋敷の一部屋に布団へ寝かされていた。



ソンギョンは何も語らずにこの屋敷をソルとジフに使わせているが、この屋敷はおそらくジョンウがソンギョンとの共に暮らす為にあつらえたものであろう、とソルは密かに推察すいさつできる。



何も言わずに大切な屋敷をソルとジフに差し出してくれ、住まわせてくれているソンギョンに、心の中で何度も礼を言う…



横になったまま周囲をうかがうと、この屋敷に来てからずっと世話をしてくれている、母の尹妃ゆんひが遣わせてくれた侍女、いむ氏がそばひかえていた。



任氏は、念のために医師を呼んでいた。



医師がみゃくを見るために、ソル公主の手首を持ち、静かに目を閉じた…



が、はっと目を見開き、耳を澄ますかのように脈に集中している…



ふぅ、と短い息を吐いて、おけに入っている手水ちょうずを使い、手をすすぎ、ソルといむ氏に向き合い、静かに、しかしはっきりと伝えた。



『ご懐妊かいにんでございます。』



『!?』



『!?』



ソルもいむ氏も、げない…



現実は全くもって酷である。



ソルはジフとまだ一度もとこを共にしたことがないのだ…



世話をしているいむ氏も、もちろん承知している。



ソルは震えが止まらず、何も口には出せない…



『産み…月は…』



と任氏がおそおそるたずねると



『ふた月目に入ったところにございます。まだお産まれになる確かなお日にちは、不明瞭ふめいりょうにございますが、脈を診たところ、お子はすこやかかと存じます。』



と医師から返事がくる。



そのままソルも任氏も何も話せないまま、医師がすくりと立ち上がったので、任氏が見送りに部屋を後にする。



部屋に残されたソルは、今現在の自身を受け入れる為の準備だけで、精一杯であった。



自らの身に何が起こったのか、起こっているのか…



それらを飲み込むことが出来ず、体も心も止まったままであった。



一方、任氏は医師を門まで送りに行った帰り、玄関でへなへなと座り込んでしまう。



主人夫婦に託された大切なお嬢様の身に大変なことが起こり、これからどのようにお守りしていけばよいのかをじっと思案しあんしていた…



そして転がり落ちる時はこんな時でも待つことはせず、勢いはますます加速してゆく…



ソルとジフが身を寄せた屋敷の外では、じわりじわりとソルとジフの安穏あんのんな生活に終止符しゅうしふが打たれる用意が整っていっていた…







雅都宮がときゅう斥候せっこうから早馬はやうまが届く…



『王様。オ・ドゴンにございます。』



斥候せっこうおさ、オ・ドゴンが王に報告を持って戻ってきた。



『入れ。』



そう王に言われ、目通めどおりがかなう場所まで歩み出る。



『ソル公主、カン・ジフ、の居場所が判明致はんめいいたしました。』



片膝かたひざを付き、頭を下げ、明瞭めいりょうな声で王にそう伝えた。



『やはり生きておったのだな…ムアンめ、熊をえんじよって…して、どこに隠れておったのだ。』



王は満足気まんぞくげにそう続ける。



春道港しゅんどうこう少し先の海岸近くの屋敷にございます。』



そうオ・ドゴンが答えると



『その屋敷の所有しょゆうは誰じゃ?』



王がまたたずねる、すると。



『持ち主はおらぬ、とのことにございまする。調べを進めておりますが、建物の様式ようしきからして、陽国ようこく越南えつなん豪族ごうぞくが建てたものかと推測すいそくされます。』



『して、その豪族とやらが、ソル公主こうしゅやカン・ジフと繋がりがあった、と…大方おおかた、ムアンの仕業しわざよの。ムアンの奴め…やりよるな…』



と、独り言をつぶやいている王に、オ・ドゴンが続ける。



ただちに2人をとらえますか?』



との問いに、



『今はまだ泳がせておけ。陽国へ使いを送る。必ずウィソン君の世子せじゃ奏請そうせいをして、承認しょうにんをもらわねばならぬ。その折に、ソル公主には働いてもらわねばならぬからの。』



そのまま王は上機嫌じょうきげんのまま、オ・ドゴンを下がらせた…







ソルとジフは、共に連れだって豪華な屋敷の見事な庭を静かに散策していた。



手を繋ぎ、互いを気遣いながらのんびりと歩みを進める。



ジフは、目が不自由になって人の僅かな変化に敏感びんかんになった。



今も手を繋いでいるだけの、何も話さずにいるソルの様子がおかしいと気づいていた…



食もすすんでいない様子であるし、会話の中ではよく涙をふくんだ返事をされることもあるし、夜も眠れていないような気配がする。



しかし、今の自分には何もしてはやれぬ。



ジフは憤りを持たずにはいられなかったが、それもまた出口のない感情であり、持ってしまったところで持て余すものであり、諦めも混じる。



つないでいる手から少しでもソルへ自らの気持ちが伝わり、その気持ちがソルの前向きな気持ちへと繋がってくれればいいと願っていた。



一方ソルは…



幾多いくた修羅場しゅらばをくぐり抜けてきた王族の遺伝子を受け継ぐ者だけに許された、嗅覚きゅうかくのようなもので、近ごろ屋敷の周辺が何やらきなくさい、とかんづいていた。



しかし、不思議な感覚が支配していた…



焦りの感情が湧かぬわけではないが、とかく落ち着き払っている自分に苦笑いを隠せなかった。



さくこうじなければ、このまま想う人と共にちていくのみ、である。



では、今の自分に用意できる策とはどのようなものであろう…



それも、いくつあるのであろう…



身重みおもになってしまった自分。



目が不自由である想い人。



何かに希望を見出みいだし、気力を集めてふるい立たせ、幸せになろうと心に灯火ともしびを持って生きていける気力がもう自分にはいているように思えた…



そう思いながら、ジフと並んで庭を静かに散策する…



互いが互いの心と心とが重なり合った方に手を取り合い、互いの幸せへと繋がる道へと歩みを進めることが出来ぬところに、ソルとジフは立っていた。



ただ、2人でいられるこの静かな空間だけが僅かに残された幸せと言える最後のとりでとなっていた…








屋敷の外では、王の斥候せっこう捕禁府ほきんぶ(王直属の近衛隊)とが静かに囲み、突撃とつげきへの待機をしていた…



雅都宮では、王がリウ・ハオシュエンを招き、ソル公主とカン・ジフの捕縛ほばく報告を今か今か、と待ちわびる祝宴を開き、豪勢な料理と珍酒に舌鼓を打ち、艶やかな踊り子たちに鼻の下を伸ばしていた。



鮮国王の嫡男ちゃくなんであるウィソンぐんは、先の朝貢礼ちょうこうれいの折り、陽国ようこく陽帝ようていに世子の奏請そうせいうかがいを立て、承認しょうにんみことのりいただきにして、帰国する手筈てはずであった。



しかし陽帝ようてい拝謁はいえつを叶うことなく、早々に諦めて帰国した経緯けいいがここでを引いているのであった。



鮮国せんこく世子せじゃウィソンぐん承認しょうにんみことのりをもらっておらず、よって陽国ようこくから見れば鮮国せんこく跡継あとつぎがおらず、現王げんおう亡き後は陽国が選定せんていした王をつかわすことになるであろう、と勲城くんじょう(陽帝の城)で嘲笑あざわられていたのである。



理由は世子の不適合ふてきごうによるものであるとささやかれていた。



陽帝としても、鮮国はながらく敵対している北方民族ほっぽうみんぞくおさえのかなめと言う、無下にはできぬ存在であるのだった。



北方民族の流動地に接している鮮国の立地りっちがそうさせており、いくさに強い北方民族には陽国、鮮国、共に長らく手を焼いており、共に協力関係で対峙たいじし、何とか侵入を防ぐに至っている。



その大切なかなめに、不適格ふてきかくな王はえられぬ。



陽帝が「会わぬ」と申せば、粘ることもせずにおめおめと自国へすげ帰る始末。



そこへきて対外的たいがいてきな仕事も満足にさず、かといって礼儀を知らぬあばれ者であれば戦働いくさばたらきに使えそうなものの、そうではなくただの萎縮者いしゅくものだと周囲に評価されている。



それでは屈強くっきょう戦上手いくさじょうずな北方民族の抑えには到底とうていなれぬ…



と鮮国からの使者が陽国から承認をね返されたところ、沈没船事故とソル公主の貢女こんにょ事件が起きた。



鮮国側から見れば、一時は陽国陽帝代理・主客しゅきゃく郎中ろうちゅうリウ・ハオレンを死なせてしまったとがさいなまれたが、事態は急転きゅうてんしたと楽観視された。



これをと見た王は、陽帝との橋渡し役のリウ・ハオシュエンを呼び寄せ、自らの気分を高揚こうようさせ、高みの見物をしているのであった…







ソルとジフの身を寄せる屋敷の中では、いつもの通り、さわやかな秋風に吹かれながらソルとジフは昼食後の日課になった、庭の散策さんさくをしていた。



ゆったりと静かな時間が2人を通りすぎてゆく…



と、そこへ黒装束くろしょうぞくの者たちが2人の回りを取り囲んだ。



取り囲む黒装束の手には銀色に光る太刀たち、屋根の上にひかえる黒装束の者の手には今にもはなたれようと弓が引かれていた。



ソルとジフの後ろに控えていた、いむ氏とムアン大君のつかわせてくれた護衛3人が、黒装束とソルとジフの間に瞬時に立って入る。



ソルは、ジフの手を取る。



先進的せんしんてきな考えを持つムアン大君の屋敷のものたちは、欄語らんご(西側の国の言葉)をある程度、あやつることができ、相手に気取けどられぬようソルは欄語で皆に指示を出す。



【1、2、3、で私が走り出すわ。皆はその合図で相手に斬り込んでちょうだい。ジフ様と共にその隙に山の方へ向かうわ。ここが片付いたら駆けつけてちょうだい。】



そう指示をする。



そっと、ジフに耳打ちをした。



『1、2、3、で走り出すわ。私が誘導ゆうどうするから、全速力で走り抜けるわよ。』



【1、2、3!!】



それぞれがわっと動き散る。



ソルはジフの手を引き、飛んでくる弓を避け、屋敷の敷地から飛び出て、裏山へ登っていく…



もちろん、追手おっては太刀と弓を手に手に追ってくる。



目が不自由なジフが何度も何度も、足場の悪い山道やまみちでつまずく…



追手はそれぞれに訓練されたもの達なのであろう、動きも俊敏しゅんびんで、ソルと目の不自由なジフにはとても逃げおおせるものではなかった。



それでも捕まるわけにはゆかず、必死でソルはジフと共に先へ急ぐ。



すると、少し明るい木々の生えていない場所に出た。



その直後…



あっ…



となった瞬間ジフが転び、ソルも止まる。



後ろにいる転んだジフを見やって、顔を上げると。



目の前には、追手がソルとジフを半円で取り囲むようにじんを取っていた。



足元にいる、ジフをゆっくりと起き上がらせて、少しずつ少しずつ後退する…



と、あと数十歩ゆけば陸は終わり、はるか下は海、という波打ち際のがけの上に、いつの間にかたどり着いてしまっていた…



追手がじわりじわりと詰めてくる…



ソルは覚悟を決めた。



ジフに耳打ちをする。



『私が手を引く方向へ、思い切り走って。』



そう伝え、波打ち際の崖をめがけて走り出す…



そのまま勢いを落とさず、ソルとジフは手を繋いだまま、崖を落ち、海へ飲まれる…



か…



となったところ…



崖まであと一歩のところで、ジフの太ももに矢が刺さる…



ジフが失速し倒れ込んだ拍子ひょうしに、ソルとジフの手が離れた…



手を引くソルは引くものがなくなり、急に軽くなった拍子で、そのまま崖から落ち、まっさかさまに海へ飲まれていった…



倒れ込んだジフに矢継やつばやに矢が飛んできた。



無数の矢が体に刺さり、最後は斥候せっこう太刀たちによって、ジフの人生は終わりを告げた…



二人の結末は既に決まっていた、と断言してもよかった。



「カン・ジフは見つけ次第、その場で始末しまつしろ」



「ソル公主こうしゅは必ずりにせよ。」



と、王命が下っていたのだ。



ソル公主こうしゅは、生きたまま雅都宮へ連れ戻さねばならず、血眼ちまなこになって捜索そうさくが行われる。



落ちた場所と、波の高さ、しおの流れる方向、などを計算して、捕禁府ほきんぶ斥候せっこうがソルを探した。



日が沈んでも捜索は続けられたが、ついには見つかることがなかった…






それから数日経すうじうたった頃、春道港しゅんどうこう砂浜すなはまへ身なりのいい若い女性の遺体が打ち上げられた、との知らせがムアン大君邸にもたらされ、ムアン大君てぐんは取りも取らずおもむいた。



その遺体が打ち上げられた、春道港へ到着したムアン大君は、馬から飛び降り、足が取られる砂浜を気にもせず、必死に遺体のある場所へと走ってゆく。



ムアン大君が肩で息をしながら、ゆっくりと歩みを進めた先には…



ムアン大君が公務で訪れた竜国りゅうこくで求めて愛娘に土産にした型染かたぞ生地きじのノリゲ(飾り房)がチョゴリに結ばれている遺体がむしろに寝かされていた。



茫然自失ぼうぜんじしつひざから崩れ落ちるムアン大君に、屋敷からしたがってきた使用人はいつまでも声をかけることができずに、静かにたたずんでいた…





~第2幕~へとつづく…





紫苑しおん

【秋に薄紫色の花を咲かせる多年草。花言葉は、思い出、君を忘れない、追憶、遠方にいる人を思う、忘れない心。】

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