第9章~鈍色~

目を覚ますと、目の前にシムソ大君…



いや今は世子せじゃである、かつてのシムソ大君の顔がある。



目をつむり、寝息を立てている…



寝顔がまだあどけなく、姉弟だからであろう、笑い合いながら初恋の話や白粉おしろいの話をした、あの日のソルに重なる。



世子を通して、ソルを思うのは、世子にとても失礼な話である。



ソンギョンは、決して気取けどられぬようにして、早々そうそうに直さねばならぬな、と考え、そして床から起き上がった。



世子こと、シムソ大君はまだ寝入っており、とこから離れたソンギョンには気づいてはいない。



宿直とのいの者も連日のうたげで疲れが溜まっているのであろう…



船をいでいる。



その隣をそぞろに歩き過ぎ、そっと東宮殿とうぐうでんを出て、東宮殿に併設へいせつされている蓮池はすいけを眺めようと外へ出た…



辺りはまだ夜明け前であり、東側から空がしらんできていた。



秋もだいぶ深まってきて、朝夕はかなり冷え、今も手が冷たくなってきた。



時折ときおり吹く風に立つ、蓮池の水面みなもを眺めながら、随分と遠くにきてしまったものだと、自身が嬪宮ぴんぐんになる以前の自分を回想していた…







万治通まんじつうでいつも過ごしている、ソンギョンの部屋と呼んでも遜色そんしょくのない部屋で帰り支度をしていた…



祖父ヒョイルの計画の報告を聞いたので、明るいうちに帰らねば、また両親が心配する…



と考え、まだかなり日が高く少し早いが帰ろうとしていたところへ、ジョンウが現れた。



『ソンギョン…少し話せるか?…』



いとおしい声が、部屋の戸の向こう側から聞こえてきた。



『ジョンウ?…』



ソンギョンが荷物から顔をあげ、振り返るとジョンウが部屋の戸を閉めているところだった。



思わず立ち上がり、ジョンウに飛び付くソンギョン。



『会いたかった…』



抱き止めてくれたジョンウの腕の中、安堵あんどの気持ちで心の声がほろりとこぼれ出た。



ソンギョンを腕から離し、顔が見られるようにして、ジョンウは話す。



『ソンギョン…この件が済んだら、あのポンジョムをソンギョンの髪にさしてやれる日が来るかもしれない。祖父殿が、取りはからってくれると父上に約束してくれたのだ。…分かるか?…ソンギョンと共に老いることができるようになるのだぞ。』



…ん?…



ポンジョムをジョンウにさしてもらえる?



…!?



『本当なの!?本当に!?』



大興奮で、喜びながら声をあげて泣くソンギョンをジョンウは幸せな気持ちで抱き締めていた。



ずっとずっとなが年月としつき、ソンギョンとジョンウは互いの心に気付き、しかしそ知らぬふりをし、それでも諦めきれずに互いを大切に想いながら過ごしてきた。



やっとの思いであった…



ソンギョンが泣き止んだのを見計らって、抱き締める手を緩め、ジョンウはソンギョンの唇へ自分の唇を重ねた。



この日ソンギョンは本当に幸せな気持ちに包まれていた。







決行けっこうの当日、ヒョイルの指示により、ソンギョンは都城とじょう洪家ほんけの自室で本を読んでいた。



父ミギョンは、リウ・ハオレンを都河港とがこうへと見送りに出るため、出仕しており、部屋へ遊びにきていた妹のスンアを寝かしつけて、静かに読書をしながら皆の無事を祈っていた…



日が高くなりはじめた頃になっても何も起こらないままであった。



計画で言えば朝のうちに報告が入る手はずになっていた為、ソンギョンの心は次第にさざ波がたち始めていく…




一向に報告はないが、普段通りに生活せねば屋敷の者たちに不審がられる為、普段通りに生活をしていたソンギョンの部屋の外に、次兄じけいダオンの鬼気迫る声がした。



『ソンギョン!ソンギョン!』



周りを気遣きづかう様子もなく、大声でソンギョンを呼ぶダオンに、急いで部屋の扉を開けて顔を見せた、ソンギョンである。



『お兄さま、慌ててどうなさったのですか?』



慌てているダオンの顔は泥と汗で汚れ、チョゴリは所々破れて泥の様な汚れがあちこちに付着ふちゃくしていた。



『大変なことになった!船が…船が、沈んで…しまった…のだ!』



ダオンは、喉がカラカラに渇いている様子で、ろれつが回らない。



ソンギョンは部屋に戻り、白湯さゆを持ってきた。



『どういうことなのです!?船とは、どの船なのですか?』



白湯を渡しながら次兄にたずねる。



『全てだ!三艘さんそう全て沈んでしまったのだ!』



陽国ようこくへ向かう船は、二艘にそうであった…



残りの一艘いっそうは、ヒョイルたちが用意した船である…



『何があったのですか?ソルは?ジュギルは?ジフ様は?皆はどうなったのです?』



ダオンに詰め寄るソンギョンだが、ダオンは首を横に振った…



『まだ、分からぬのだ…。雅都宮がときゅうからも役人が何人も集められて、捜索に出ておる。お祖父様じいしまも人を集められるだけ集め、自身も船で出られておる。私も船に乗って探してきたが、らちがあかぬゆえ一度そなたに報告だけでも、と都城へ戻ったのだ。また都河港へ向かい、船に乗る予定だ。こう言う時は時が大事ゆえ、急いでおるのだ。また、何かあれば使いを出す、そなたは屋敷にとどまっておれ。父上と母上に心配はかけるな。分かったな?』



そう言い残して、走っていってしまった…



へたり…



と、その場に座り込む…



大変な事が起きたのではないだろうか…



からみ付いて決して取れぬ、決してあがらえぬ、そんな波に足元からすくわれている…



ような気がする…



どろり、と嫌なものが流れ込んだ気がした…



…しばらく座り込んだ後…



すくり、とソンギョンは立ち上がった。



そのまま、コッシン(靴)を履いて長兄ちょうけいの部屋へと急いだ。







ヒョイルは、焦っていた…



陽国へ出発する船が出港し、しばらくしてヒョイルたちが手配した船が港の向こう側に隠れて出港したのを、遠くから双眼鏡そうがんきょうで確認していた。



初めはうまく首尾しゅびしていた…



だが陽国側の二艘のうち、ソル公主やリウ・ハオレンを乗せた船とジョンウたちが乗る船の間に入り込み、速度を落として逃がそうとしている。



そこで、ジョンウたちの船はわざと更に速度を落とし、割り込んだ船との距離を取り、そのまま方向転換をして先に進んだ一艘を先回りする戦法せんぽうに出たのだ。



さすが自ら父の営む店の商船しょうせんへ乗り込み、人足を動かす棟梁とうりょうとして、商船で陣頭指揮じんとうしきを取りながら商談しょうだんへとおもむいているジョンウが乗船しているだけ、動きはあざやかである。



この頃の海では、海には海の流儀があり、倭寇わこうと呼ばれる海人とも渡り歩かねばならぬからして、商船と言えど物見遊山ものみゆさん遊覧船ゆうらんせんとは訳が違うのである。



ジョンウが先ほどいとも簡単に、鮮やかにやってのけた、速度を落とすことと、方向転換をすることを同時に成すことは、帆船ほせんでは特に難しいのである。



これらを見事にやってのけ、船をまるで自らの手足のようにあやつるジョンウがたかだか貴賤きせんと言う、社会構造の越えられぬ壁で愛孫の婿になれぬことが、まこと口惜くちおしいと、双眼鏡で事の成り行きを見守りながらヒョイルは改めて考えていた。



そのまま先を行く船を追う、ジョンウたちの船がソル公主たちの乗る船のふちに付けようとした瞬間、後ろから先ほどの割り込みをした一艘が体当たりを仕掛けてきた。



速度を上げて逃げようとする、ジョンウたちの船が速度を上げ始めたその時、先ほどの一艘の船がもう一度体当たりを仕掛けてきた…



あ!っとなった瞬間…



体当たりを仕掛けてくる一艘がジョンウたちの船へ横から激しく衝突したことによって、玉突き状態になり、ソルたちが乗船する船の横部りに船の切っ先が激突する。



その衝撃で、ソル公主たちの乗る船がそのまま大きく転覆てんぷくし始めた…



もう一度、先ほどの一艘はジョンウたちの乗る船の横縁よこぶち目掛めがけて進んでくる…



ジョンウたちの船は、前にソル公主たちの転覆し続けている船があるため、身動きが取れない…



絶対に重ねてはならぬ偶然がまた偶然を呼び、ぴたりと重なってしまう不運が起きてしまう…



雷が落ちた様な衝撃音が、岸から双眼鏡で成り行きを確認していたヒョイルにも聞こえる程の音が聞こえ、音とほぼ同時に大きな衝突しょうとつが起こっているのが見えた。



その強い衝撃で、ゆっくりジョンウたちの船が横に大きく傾き始める…



と同時に、衝突したにも関わらず速度は保ったままの勢いで、先ほどの一艘の速度は弱まらずにそのままジョンウたちの船の上へ乗り上げ始めてしまう…



そこへきて、二艘の船への傾きで波がその部分だけ高くなり、乗り上げた不安定な状態で、そのまま最後の一艘も横転おうてんを始めた…



ほんの一瞬の出来事であった。



あっという間に、大型船三艘さんそうの船が転覆てんぷくしてし始めてしまったのである…



ソル公主こうしゅは…



ジョンウは…



ジフは…



3人の安否あんぴが心配で、ヒョイルは自らの商船を出しておきへ出た。





日が沈むまでには、もうしばらくかかるので自らの商船が近づける場所までギリギリつけ、泳ぎに覚えがある者たちを集めて、ヒョイル自らも海に入る…



最初に転覆した船に乗船していた、ソル公主から探し始めた。



船に近づくと、一番初めに目に飛び込んできたのは、何人もの鮮国民せんこくみんたちのすでに亡くなった亡骸なきがら浮遊ふゆうしている事実であった。



朝貢ちょうこうみつぎものとして乗船させられていた人々、いわゆる男性は奴隷として、女性は貢女こんにょとして、陽国へ渡れば過酷かこくな環境下で生きていかねばならぬ運命を無理矢理に背負せおわされ、都河港を出発した鮮国民の亡骸であった。



ヒョイルは様々な思いが吹き出し、心がそちらへ持っていかれそうになるが、気持ちを奮い立たせてソル公主を探すことに注力ちゅうりょくする…



と、ソル公主らしき上等じょうとう鮮服せんぷくを身にまとう少女を発見した。



近づくと、やはりソル公主であった。

急いで鼻を押さえて口から空気を入れると、苦しそうな顔と口から2つ、3つ、と小さな泡が出てきた。



急いで両脇に腕を回し、船内から脱出し、脚を蹴って浮上ふじょうさせ、海面かいめんへと出る。



そのまま、自身が乗ってきた小型の救命船きゅうめいせんを呼び、その船にソル公主を乗せ、乗船させてあった医者に診るよう伝え、ジョンウとジフを探しにすぐさま、またもぐる…



先ほども確認していたが、ジョンウとジフが乗船していた船は、損傷そんしょうが激しく、またジョンウとジフが最後にどこにいたのかも不明であり、捜索は困難こんなんを来すであろう…



と予想できた。







『お兄さま!ミギョンお兄さま!』



部屋の外から大声で長兄ちょうけいを呼ぶ。



『何事だ?ソンギョン。』



兄がすぐに部屋の外へ出て答えてくれた。



『大変なのです!…お話が!…ご相談してもよろしいですか?』



何やら、妹が切迫せっぱまった様子でいるので、すぐに部屋へ通す…



『お兄さま、お助け下さい!ソルが…ジョンウが…ジフ様が…』



最後は涙に消され、言葉にならなかったが、泣くのをやめて説明するよう、長兄にさとされて事のあらましを何とか伝える。



『話は分かった。だが、何もしてやれぬぞ…。ダオンがけつけておるのだろう?ならば、ダオンに出来ぬことが私に出来るはずがない。それに、洪家ほんけへ何も連絡をお祖父様が寄越よこさぬと言うのは、洪家へ波紋はもんおよばぬことを望んでいるからではないのか?…事によっては、これが全て明るみに出てしまえば、鮮国をあげての大騒動に発展しかねない…ソンギョンは、世界図絵せかいさずえを持っておったな?鮮国がいかに小さな存在であるか、陽国がいかに大きな存在であるか、理解しておろう?ネズミがトラに石を投げたのだ…お祖父様のことだ、最悪の事態を理解した上で進めたはずだ。物事は全てにおいて、表裏一体ひょうりいったいだ。ソンギョンも同意したのであろう…ならば覚悟の上で、報告を待つしかなかろう…?』



いちいちもっともな意見しか長兄から聞けなかった…



ソンギョンにとって、ソルに起こったことが、何もなかったことだと見ぬふりをして進んで行けぬことは、ソンギョンを知るものだったら容易よういに分かることだ。



この様な事態にならぬ為には、何をすればよかったのであろう…



胸が苦しくて仕方なかった。



下を向いたまま、何も話さなくなった妹に長兄はたずねた…



『ジョンウ、と言ったな?そなたの想い人だ。一度、都河港とがこうで挨拶を交わしたことがある。両班やんばんが世の全てではないが…商人にしておくには勿体もったいのない逸材いつざいであったな…あの者もからんでおるのか?』



こくり、と首を縦に振るソンギョン。



『…そうか…そなたの全てが詰まったことだったのだな…さぞつらかろうな…』



そうなのだ…。



ソンギョンの大切なもの、全てが詰まった事件と計画と、惨状さんじょうなのだ…。



目からはまた、途切れることのない涙があふれてきた。



泣いていることしか出来ない自分にも、情けなさとわびしさとくやしさ…



言葉には出来ない悲しさも湧いてくる…。



思わず袖口そでぐちから、肌身はだみ離さず持ち歩いているポンジョムを取り出し、見事な装飾そうしょくを指ででる…。



最近のソンギョンは事あるごとに、このポンジョムを取り出してながめ、撫で、心の中でジョンウに話しかけている。



『そのジョンウとやらが、そなたと約束をしたい…と一度会うた時に申してな。その時にそれ、そのポンジョムを見せて「このポンジョムをソンギョンに渡すつもりだ…」と話しておった。身分の差をどう埋めるつもりだと問うたら「共に年月としつきを重ねるだけでいい。それ以上のことは望まぬ…不自由をさせぬだけの商才はあるから安心しろ」と私の目を真剣に見て話していた。春道港しゅんどうこうに2人で住む家も用意してあるゆえ、あとはそなたに同意を得るだけだ、とも話しておった。だから私から一つだけ約束をさせた。そなたを泣かさぬことだ。生涯どんなことがあろうとも、いつくしんで大切にあつかうこと…それを約束させた。それなのに、な。こんなに早く反古ほごにするとは…必ずや、私から叱ってやらねばな。』



そう言って、下を向いて涙を流すだけの妹の手を取った。



『ソンギョン。あの者の目はひどく真剣な目であった。そなたの元へ必ずや帰ってこよう…男とは、そう言うものよ。れた女の元には、必ず帰ってくる。泣いてばかりだと、あの者に不器量ぶきりょうだと笑われるぞ?そろそろ泣き止め。おなごは笑ってこそぞ。』



兄が涙をぬぐってくれる。



その布巾ふきんで涙をぬぐい、微笑ほほえみをたたえ、兄を見た。



兄と向き合うと、必ずといって言いほど、長兄のソンギョンへの愛が伝わってくる。



今日も兄の愛に救われた。



ジョンウがソンギョンへの気持ちを真っ直ぐに向けてくれているのも、今一度いまいちど知ることがでた。



自分が今できることは何か…



答えは出たように思う。



ソンギョンはおもむろにうなづき、長兄に微笑み、すくり、と立ち上がり、兄の部屋をした。






ダオンはソンギョンへの報告を追えたあと、急いで都河港に向かった。



都河港にダオンが、到着すると…



通りは人通りがかなりあり、にぎわっていた。



鮮国一の港町と言えど、いつもは日が沈むと人通りが多いとは言えず、都城と比べるとやはり繁華はんかではない。



しかしあと数刻すうこくで濃いやみに包まれる時間になっても、今日はう人々でごった返していた。



る者、そんこうむる者、喜ぶ者、なげき悲しむ者、それぞれの心にいだく思いは人それぞれであり、ここでも様々な人間模様にんげんもよう垣間かいま見れる。



特に、陽国ようこく陽帝ようてい代理だいり主客しゅきゃく郎中ろうちゅうリウ・ハオレンが鮮国から帰国するとのことで、朝貢ちょうこうがもたらすを求めて、あきないをする者たちが集っていた。



祖父の店、万治通まんじつうは都河港の一番の大通りにあるため、人をかき分けて万治通へ向かわねばならなかった。



店に到着すると、身支度みじたくを終えた祖父が出発するところであった。



『お祖父様、一度都城の屋敷に戻り、着替えなどの身の回り品を持って参りました。ソンギョンには、屋敷から出ることを禁じて出発して参りましたが、ソンギョンが黙って引き下がるとは思えません。もしもの時を考え、その気があるならばお祖父様のところへ身を寄せる方がよいかと思いますが、いかがされますか?』



ダオンはソンギョンが心配でならなかった。



こうなってしまった以上、心優しくかたくななソンギョンが黙って屋敷の自室じしつとどまっているはずがない。



もしかすると、もうすでにこちらへ出発しているかもしれない…



事が事であり、自らの一手がどのような波紋はもんを呼び、どのような顛末てんまつを運んでくるのか、皆がそれぞれに慎重しんちょうかつ迅速じんそくに、的確てきかくに、打って出ていかなければお家がどうなるか…



生死せいしけたたたかい、なのである。



『もう使いは出してある…ソンギョンに計画の話を伝えた時点で、最悪の場合はこうなると予想しておったし、伝えてもあったんじゃ。ソンギョンは当事者とうじしゃではないが、部外者ぶがいしゃでもないはずじゃ。いても立ってもおれんであろう…いのないよう、悔恨かいこんが残らぬよう、許される範囲はんいで好きにさせてやろうではないか。ダオンもじゃが、まだソンギョンも若い。思いのままに動いても許されよう…』



ダオンは、祖父が祖父であってくれたことに、感謝した…



それから間もなく、ソンギョンが万治通へ到着したのは、言うまでもない。






部屋の外から、娘の声が聞こえる。



娘ソンギョンにはあの事件以来、部屋から出ることを禁じていた。



理不尽りふじんこくな話なのは、重々承知じゅうじゅうしょうちしている…



しかし、それらを楽観的に承服しかねる理由が、母ボヨンにはありすぎるくらい、あったのだ。



少し昔になるが…



次女のソンギョンが生まれてすぐ、入れ替わるように、可愛いさかりであった長女ミンソを3歳で流行はやり病にうばわれた…



つい先日はリウ・ハオレンの護衛に斬られたと、変わり果てた姿で戻ってきたのは、三女で10歳のヘジョである…



大切な宝物たちを奪われ続けた母は、理不尽りふじんだと理解しながらも、娘たちを閉じ込めておくことでしか、自らの心が休まらぬ悲しい事態を招いていた。



だからと言って当たり前だが、決して心安こころやすらかになるものではないく、娘たちの大きな犠牲によって得られる、ほんの僅かな安心でしかなかった。



これらのことを自身で回想し熟考し、このままではよくないと反省していたところ、遠くからソンギョンの幻聴か、現実か不確かではあるが、間違いなく愛して止まない娘ソンギョンの声だと思われる音が聞こえてきた。



固く扉を閉ざしておくように、使用人にはきつく言い渡し、母の言い付けを破ったことがないソンギョンは、粛々と母の言葉の通りに行動しているはずで、それを信じて疑わなかったボヨンは、いよいよ自身の心が病み始めてしまったのだろう、と気落ちしていた。



しかし…



やはり何をどう考えても、ソンギョンの声が自室の外でするのだ。




『お母様、お母様。』



いぶかしみながら、今一度耳をよく澄ましてみると、はっきりとソンギョンの声がするではないか。



ボヨンは勢いのまま扉を蹴開けあけて自室の外まで出て急ぎ、娘をその目で確かめたのであった。



すると、軟禁させていたはずのソンギョンがボヨンを訪ね、立っていたのである。



心に様々なものが込み上げてくるボヨンであったが、ここは一旦自らで制し、娘の言葉に耳を傾けることにした。



母の心の葛藤はいざ知らず、ソンギョンは母に別れの挨拶をしに訪ねてきていたのだ。



先ほど、父には挨拶を済ませてきた。



「別れ」とは言っても今生こんじょうの別れではなく、祖父の店・万治通まんじつうへ出かけるので心配をかけぬよう、伝えにきただけである。



娘と部屋の前で押し問答するわけにもいかず、ボヨンは部屋へソンギョンを通す。



『ソンギョン、いかがしましたか。部屋で休むように伝えてあったはずですが…』




そう母から刺されるような眼差しで言葉を切り出されたソンギョンだが、そんな母にひるんでいる時間も心も余裕がなかく、一刻も早く都河港へと出発したい気持ちでいっぱいであった。




そんなソンギョンは、母にジョンウの話をまず伝えることから始める…



『お母様。これは、ジョンウと共にお伝えしたかったお話ですが…私はこのまま都河港へ残り、この先の人生をジョンウと共に時を過ごして行こうと考えております。じきに揀択カンテクが終わり、禁婚礼きんこんれいがとけるかと思います。そうなると私もジョンウも縁談えんだんのお話が参ります。その前に、私は都城とじょうを離れたいと考えております。私は両班やんばんですので、中人ちゅいいんのジョンウとは婚姻こんいんできないのは存じております。都城で独り身を通すことは難しいかと思いますが、都河港などの港町でしたらそう目立つこともあるまいと考えます。ジョンウが今回の件で、お祖父様に協力をして乗船しております。必ずや戻ってくると信じておりますゆえ、戻りましたら2人で改めてお話に参ります。その時はどうぞお耳をお貸し下さいませ。』



母の目をしっかりと見て、そうすっきりと話し、頭を下げる様は、若い頃の自分に瓜二うりふたつであった…



こうなると回りの言葉は全く耳に入らない…



それは、瓜二つの自分が一番知り尽くしている。



『とにかく今回の件を片付けてからです。都河港へ今から参るのでしょう。私も久しぶりに父上の顔をおがみに参ろうと思います。ダオンもあちらへ参っておりますでしょう?共に輿こしに乗って、参りますよ。道中どうちゅう、そのジョンウという青年の話を聞かせてもらいます。確か、シン・ジュンソの子息しそくであったはず…お祖父様の同業の商人で、わたくしの昔馴染むかしなじみです。でもジュンソさんの子息だと…お父様は何ておっしゃるかしらね…』



何だか母がふふっと薄笑いを浮かべながら、意味深いみしんな発言をする…




『さあ、そうと決まれば出発しますよ』



明るい気持ちで娘に語りかける。



娘をひとまず自分の部屋へ戻って支度をしてくるように促し、ひとり部屋に残されたボヨンはまたあの感情に囚われる空間に迷い混んでしまった…



自身の父の店だとて、ヘジョが変わり果てた姿で帰ってきたのもまた、父の元からであった。



ソンギョンの挨拶は、あの日のヘジョと重なってしまう…



そしてヘジョが最後を迎えた場所へこれより赴かねばならないのだ…



先ほどのソンギョンの面差しを思い返すと、過去に囚われている場合ではないと、自分ではない誰かに諭されたような気持ちになった。



ボヨンは顔を上げ覚悟を決めた。



すっと息を吸って、共に参ろうと立ち上がった。



部屋から出て、屋敷の門へ向かうと既にソンギョンが待っていた。



共にボヨンが使う輿に乗り込む。



ソンギョンは何も口にはせず、輿の格子戸を僅かに開けて外を黙って眺めている。



その横顔に見える眼差しが、とても鋭く今のソンギョンの心をそのまま写し出しているように思えた。


娘をここまで必死に変貌させてしまうシン・ジュンソの息子ジョンウの存在が、ソンギョンにあるのは以前より耳に入っていた。



ソン・ジュンソ…



若かれし頃、ボヨンに恋慕れんぼしていた昔馴染みであり、大切な友であった。



そんなジュンソの子息が、ソンギョンの相手だと言う。



様々な思いが溢れそうになるが、もう過去のことだと、それらに蓋をして娘とジュンソの子息のこれからのことについて思いを巡らせた。



ボヨンは娘の気持ちにずっと以前より気付いていたが、そ知らぬ振りをずっと通してきた。



もちろんソンギョンの父親である、ジュギルとも一切その話をしたこともない。



そ知らぬ振りが娘を応援することに繋がると、自身の経験で嫌と言うほど身に染みていた。



娘の話の報告を別の筋から受けて、あのジュンソの息子と自分の娘が恋仲になるなどと、どんな因果いんがなのだろう…



と先日考えていたところである。



久しぶりに訪れる都河港…



ジュンソと顔を合わせることもあるだろう…



ソンギョンが必死になるジョンウとは、どの様な青年なのだろう…



そんなことを回想していたところ、ソンギョンの言葉に思考がさえぎられた…





母とはヘジョと共に都河港へ訪れたあの日より、今まで向かい合って話をしたこともなかった。



ヘジョを都河港へともなったのは、他でもないソンギョンである。



あの日のヘジョの保護者として、母に話をする機会も与えられず、閉じ込められていたソンギョンは、父や母に拒否をされているような孤独感も味わっていた。



そんなソンギョンは都河港へ向かう輿の中で、母と共に語らいながら向かう時間が出来たことを嬉しく思っていた。



嬉しそうに




『お母さま。』



と、この時の笑顔で自らへ向けてくれたソンギョンの顔を母は生涯、忘れられずにいた。



願わくば…



この娘の美しく花の咲いたような笑顔がどうかこの先、いつまでもいつまでも娘にあり続けるように、とこの時のボヨンは切に切に願ったのであった…






ジョンウとジフの乗っていた船の内部に入ったヒョイルは、考えていた以上に船の損傷そんしょうが激しいこと、乗っていた人員の惨状さんじょうすさまじいこと、をの当たりにしていた…



しばらく船内を泳いでいると、身なりのいい男性が見えた…



近づいてみると、ジフであった。



頭部に傷があるのであろう…



出血をしているのが、血が海水に混じって細い線になっているさまを見ると確認できる。



脇の下に腕を入れて、海面かいめんまで引っ張って泳ぎ、急いで浮上する。



海面から顔を出し、ヒョイルが乗ってきた救命用の小型船の船べりを叩くと、上から人足じんそくが顔を出し、ジフを引き上げてくれる。



同乗してもらっている、医師に声をかけてまたもぐろうとしたところ、少し離れたところで停泊ていはくしていた船に乗船しているダオンがヒョイルを呼んだ。



『お祖父様!ソル公主が目を覚ましました!』



ダオンの乗船している船へ急ぐ。



乗船のために、人足がヒョイルを引き上げてくれた。



ソル公主が目を開けてヒョイルを確認した。



『ヒョイル様…?…私は…どうして?…』



『公主様。じいが分かりますか?都河港とがこうおきで公主様が乗っていた船が転覆しましたので、じいがお助けに参りました。公主様は少々お疲れです。じいの店でお休み下さい。…ダオン、頼んだぞ。』



ヒョイルがダオンに目配めくばせをすると、ダオンがヒョイルに向かってうなづく…



すると、ジフを乗せた救命用の小型船が近づいてきていた。



ヒョイルはダオンとソルに別れを告げて、そちらへ乗船する…



すると、それぞれの船が別れ別れに出発していった…







ジフの様子をのぞき込んで確認するヒョイルに、同乗してもらっている医師は首を横に振る…



意識を失っている時間が長過ぎたのだ。



救命措置きゅうめいそちで息はかろうじて戻ったようだった…



しかし、状況は楽観視らっかんしできぬことを医師の反応で確認した。



ジフに着いていてやりたい気持ちは山々だが、まだジョンウが見つかっていない…



ジョンウと共に笑い合うソンギョンの顔が思い出された…



ヒョイルの老体ろうたいもそろそろ潜水に耐えられる時間が残りわずかに思える…



日か沈むまでも残り僅かであった…



気持ちを引き締めて、海を凝視ぎょうしする。



ヒョイルは、こちらの船も港へ向かうように指示を出し、もう一艘をこちらへ呼び寄せて、ジョンウを探しに海へ潜った。



ジョンウたちが乗船していた船に着くと、今度は反対側から船内へ入っていく…



船内の、乗船していた人々の、人足たちの、そこにった人々の最後が克明こくめいきざまれていた。



心が船内の惨状さんじょうに引っ張られ、ジフを救助した時の容態ようだい、まだ救助されていないジョンウへの焦燥しょうそうがないぜになりながらも、冷静な判断が出来るようヒョイルは集中していた。



やっとの思いで、帆柱ほばしら甲板かんぱんはしはさまれているジョンウを見つけた。



もちろん…



ジョンウは息をしていない…



脇に腕を入れて海面へと浮上ふじょうさせる。



ヒョイルの顔が上がった場所まで船が移動してくる…



ジョンウを先に引き上げさせ、ヒョイルも船へ引き上げられた。



船内に留まってくれていた医師の顔つきが段々と先の2人の時よりも険しいものになってゆく…



ヒョイルも急いでジョンウの側に寄り、顔に耳をつけて確認した…



何度、救命措置をほどこしても…



息が再び戻ることはなかった…



ヒョイルは寝かされているジョンウの側にへたりこみ…



うなだれた…



後悔しか湧いてはこない…



つい先日の春道港へ向かおうとしていた、孫娘ソンギョンとジョンウの互いの嬉しそうな、幸せそうな顔が浮かぶ…



これから都河港の商いの、旦那衆の、未来をになってくれ大切な人材でもあったジョンウ…



孫娘の選んだジョンウだから認めていた訳ではなく、ヒョイル自身がジョンウを認め、信頼し、ジョンウ自身の将来を楽しみに可愛がっていたのであった…



ヒョイルは涙も言葉も出ないまま、船は静かに都河港の港へと向かっていた…







都河港の港では、ソンギョンが母のボヨンと皆の到着を待っていた。



最初に港へ到着後したのは、ソル公主を乗せ、ダオンが同乗している船であった…



到着した船へと駆け寄り、ソル公主が話せることに喜びを隠さない。



『ソル…会いたかった!』



涙を流しながら、自身の服が海水でずぶ濡れで汚れてしまうのも気にもせず、ソルを抱き締めるソンギョンを皆が温かく見守っていた。



と、そこへジフを乗せた船が到着する。



『ソル公主、ジフが到着しました…』



!?何も知らされていなかったソルは、ダオンの声に反応して飛び起き、ジフが乗る船へと駆け寄った。



『!?…ジ…フ…?ジフ!ジフ!目を開けて!』



目を開けないジフを揺らすソルに、



『ソル公主、ジフが頭や体を強く打っているかもしれませぬ。あまり揺らされると、不自由が残ることもあります。息をしていますゆえ、医師の話では命には別状はないそうです。目を覚ますまでしばらく待ちましょう。』



ダオンの言葉に激しく揺らすのを止め、動かなくなったソル…



『ソル公主も今一度いまいちど、医師に診てもらった方がよろしいかと思います。おし物もお着替えしましょう。ジフもこのままこちらに置いておく訳にもいきません。とにかく、一度祖父の店へ参ってから…と言うことにしましょう。』



ダオンの話を黙って聞き、首だけで返事をする。



片時かたときもジフから目を離さず、心配が全ての表現に現れている様子で、ジフをながめていた。



一方ソンギョンは、一向に戻らぬジョンウを待ちわびていた…








遠くに祖父が確認できた。



祖父が乗る小型船には、何人もの男たちが確認できる…



懸命けんめいにソンギョンはジョンウを探す…



が、見つからない…



…やがて船が港へ入ってきた…



祖父が甲板に出て、けわしい顔でソンギョンを見ている。



船が停泊ていはくするための太いつなが船から陸へ投げられる…



祖父が陸へ上がるが、ソンギョンの顔を険しい表情で凝視ぎょうひするだけであり、無言のまま何も話さない…



ソンギョンは、そんな祖父の様子に嫌な予感がして、陸に上がった祖父の隣をかすめ通り、先ほど停泊ていはくした船へ降りて甲板かんぱんけた…



むしろの上にジョンウが寝かせられていた…



駆け寄ってジョンウの隣にへなへなと座り込む…



ジョンウは動かずにいた…



愛おしい手を取ってジョンウを確かめる…



手は…



冷たい…



『ジョンウ?…』



呼び掛けながら反対の手を、大好きなジョンウのほほえる…



頬も冷たい…



そのまま手を下ろし、首の動脈に指先を当てる…



!?…



寝ているジョンウの胸に額を当てて突っ伏すソンギョン…



『ジョンウ…ジョンウ…』



泣きながら愛おしい者の名前を何度も呼び続ける娘を追いかけてきたボヨンは、呆然ぼうぜんと立ち尽くして眺めていた。






ヒョイルの店・万治通に到着したソルは、海水で濡れた自身の着替えもそのままに横たわるジフにともなっていた。



しばらくすると、ジフの母親・くむ氏が万治通に到着した。




ソルから向かってジフを挟んで反対側にジフの母が静かに座る…



ジフの母は全てを承知していた。



ソル公主と将来を約束し、その日が現実になるのを心待にしていた息子にある日突然、青天せいてんのへきれきと呼べる事件が起きた。



ソル公主との将来が突如とつじょとして消えてしまったのである…



ソル公主がリウ・ハオレンにともなわれて陽国へ連れて行かれることを知った日から、ふさぎ込み、食事も喉を通らず、夜も寝ることがままならなかったが、この件の話を知ったときから笑顔と希望が宿やどった眼差まなざしをするようになったこと…



何よりも、息子がどれほどソル公主を愛し必要としていたか…



息子をずっと見てきた母にはよく分かっていた。



ソル公主が陽国へ連れていかれ、息子の前から消えてしまえば、いずれこの様な結果になっていたのだ…



布団に横たわる息子を静かに傍観ぼうかんしていた…



息子に選べたのは、ソル公主の為に身をささげられるか、ソル公主の知らぬ時に知らぬ場所で人生をほうてきする姿にてるか、であった…



母として多くは望んだことはなかったし、今も何も変わらぬ…



ただ、息子が笑顔で暮らしてくれること、それだけで十分であった…





一方、ソンギョンの母・ボヨンは、娘が心配でならなかった。



愛おしい人を亡くすことは、身をかれるのと同じことである…



共に老いる、と約束を交わしたジョンウを失ってしまった娘が心配でならなかった。





鈍色にびいろ

【濃い灰色。喪の色。】

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