第8章~催涙雨~

世界が変わってしまった。





ソンギョンの見えていたものがことごとくくずれ落ち、過去から続くものは全て様変さまがわりし、今現在見えているものは果たして現実なのだろうか、それすらも分からなくなってしまった…





上はどちらであろう…




下はどこであろう…




右は…




左は…




何もかもが分からず、見分けがつかず…





苦しみの沼に沈められ、沼の泥がソンギョンを窒息ちっそくさせてしまいそうであった。








都河港とがこうから帰宅したソンギョンは、幾日いくにちも幾日も屋敷の自室じしつから出ることは許されなかった。



ソンギョンは今日もジョンウからもらったポンジョム(かんざし)の見事な装飾そうしょくを大切そうに指でなぞり、愛おしそうに眺めていた。



時おり、ソンギョンの世話を幼少の頃からしてくれている、少し年長のユナが食事や茶の用意を運んでくれ、しばしの話し相手になってくれる。



しかし、ヘジョ、ソル、シムソ君、ジョンウ、の話には一切答えてはくれなかった。



家族とも会えず、ただ1人自室で日がな一日を過ごす日々が続いていた…









ソンギョンお嬢様が都河港から帰られてから、私ユナの生活は一変いっぺんしました。



あの日、都河港へ遊びに出掛けていたソンギョンお嬢様の妹、ヘジョお嬢様が変わり果てた姿で戻り、お屋敷は騒然そうぜんとなりました。



ヘジョお嬢様がお屋敷へ到着して間もなく、旦那様であるホン・ジュギル様は雅都宮がときゅうからの使いで、出仕しゅつしされ、それから長い時間、雅都宮から戻られることなく、お屋敷の主人家族を始め、使用人たちも不安な時間を過ごしました。



旦那様は、大層たいそう可愛かわいがっておられたヘジョお嬢様の葬儀そうぎにも出席されず、雅都宮にめてお出ででした。



おまけに、ヘジョお嬢様と共に都河港へお出でになっていた、ソンギョンお嬢様はいつまでたっても戻られることなく、使用人の私には何も知らされず、安否あんぴすらも不明で、心配でなりませんでした。



私にとって、ソンギョンお嬢様は主と言うにとどまらず、大切な妹のようであり、主従関係しゅじゅうかんけいとはまた別の特別なつながりがあります。



私が洪家のお屋敷に奴婢ぬひとして売られてきて、たまのように可愛らしいソンギョンお嬢様に出会ったあの日から、どこへ行くにも、何をするにも、共にありました。



お嬢様は、お顔立ちが美しいだけでなく、お心も美しくお優しく、私たち使用人にもえらぶることは一切なく、他のお屋敷の奴婢仲間やお屋敷の使用人たちにもとても人気があり、このお人にお仕えすることをうらやましがられるお人でもありました。



そんなお嬢様が、あの日都河港から眠られたままお戻りになってから、旦那様をはじめ、奥様、上の若様わかさま、の3人よりお嬢様は一切部屋から出ることを禁じられ、私のみが部屋の出入りし、お世話をする、と言う経緯けいいにいいたっています。



本が何よりもお好きだったお嬢様は、本を手に取ることもあまりなくなり、1日のほとんどを都河港から持ち帰られたポンジョムを眺める生活をしておられます。



そのポンジョムは、以前何度かお目にかかったことがある、都河港にお出でのシン・ジョンウ様からの贈り物でしょうか…



お嬢様がポンジョムを贈られて大切にされるのは、おそらくジョンウ様からのポンジョムしか思いあたらない、という私の推測すいそくでございます。



ヘジョお嬢様が変わり果てたお姿で戻られてから数日、旦那様が雅都宮から戻られても、以前は笑いが絶えなかったお屋敷も、そこで生活している主人家族、使用人の心も、全てが雲に覆われている様な薄暗いお屋敷に様変わりしました。



先日、やっと戻られたソンギョンお嬢様は、ヘジョお嬢様のお話を知らされていない様子で、始めのうちは何度も何度も訪ねられましたが、そのうち諦められた様子で、ヘジョお嬢様のお話はされず、当たりさわりのない、天気などのお話しかされなくなりました。



ソル公主様やシムソ君様、ジョンウ様のお話もおたずねになられていましたが、じきになくなりました。



私もあまり外出を命じられることもなくなり、私用で許可を頂ける頻度ひんども減りました。



私の推測ですが、ソンギョンお嬢様と外部、世間、との関わりをとうとされているのではないか、と考えております。



主人家族に何が起こったのでしょうか…



このお屋敷の末路まつろれっする私のような者には知るよしもありませんが、ソンギョンお嬢様の笑顔が戻り、つつがなくお暮らしになられること、このお屋敷に笑いが戻ってくること、を私はせつに願っております。



そして、大好きなソンギョンお嬢様のお幸せをお祈り申し上げております…








ミギョンは自室じしつで考えていた。



このままでいいはずがない…



しかし、ソル公主が鮮国せんこくを出発するまでは、ソンギョンを外には出したくはなかった。



心優しいソンギョンは、必ずソル公主こうしゅを助けようと無理をするに決まっている。



2人の顔を知らぬとはいえ、誰が見ても身なりの良かった、ヘジョとシムソ君がどうなったか…



相手は陽国ようこくである…



鮮国の貴賤きせんなどはどうでもよいのだ…



今回のことでよく分かるように、この先も両班やんばんだとて容赦ようしゃはせぬだろう。



そのような渦中かちゅうに、ソンギョンが飛び込めば、ヘジョのまち、むしろ年頃としごろのソンギョンの方がひど痛手いたでになるであろう、と容易ようい推測すいそくできる。



ソル公主が旅立つまでの辛抱しんぼうである…



と自身にも何度も言い聞かせていた…






都河港から眠ったまま帰宅し、10回目の朝を迎えた日…



その日は朝から屋敷内が騒がしかった。



使用人が走り回る足音、聞き取れぬが何やらの話し声、何かは分からぬが何かを運ぶ台車の車輪の音…



それらが入り混じった、いわゆる通りの両側に元気のいい商店がのきを連ねる活気かっきのある大通りの騒音、と言ったところか…



『何やら屋敷が騒がしいわ。何があったのかしら…。』



少し窓の戸を開けて、外を確めてみる。



全ての戸と窓が固く閉じられ、開けられぬ状態になっていたが、ある日突然開けられる戸が1つだけあったのが判明した。



後に分かることだか、次兄じけいダオンがかんぬきを外から秘密裏ひみつりに外してくれていたものだった。



喧騒の原因は屋敷中の金品、装具品そうぐひん高直こうじきそうな家具、装飾品そうしょくひん先祖伝来でんらい武具ぶぐ、などを台車に乗せて、どこかへ運び込もうとしていたからである。



自分は知らされてはいないが、何かがあったのだろう…



戸を静かに閉め、戸棚に隠してある質素しっそ韓服かんぷくに着替え、髪飾りも全て外した。



靴も質素なものを隠し持っており、それを戸棚から出してくる。



ソンギョンは、祖父のヒョイルの教えを大切に…



様々な身分の韓服をそろえてあるのである。



着替え終わり、そっと窓の戸を開けて外を覗いてみる。



『誰もいないわ。』



と、戸を大きく開き、そっと外へ出る。



辺りを見回して、誰もいないことを確認して屋敷の裏道へ続いている比較的、低い塀をよじ登る…



塀を越えて、屋敷の裏道へ出た。



『うまくいったわ…。』



急いで屋敷から離れるために、小走りをする。



最初の目的地は、ムアン大君の屋敷である。



まずは、あの時ソルに何があったのか確めたかった。



ムアン大君の屋敷は、ソンギョンの住む屋敷とそう遠くない場所にあり、すぐに屋敷の屋根が見えてくる…



が、ムアン大君の屋敷の辺りの通りは、何やら異様いような静けさでおおわれていた。



不思議に思い、戸を叩いて中の者を呼ぼうとした手を、誰かに捕まれた…



振り向くと、カン・ジフであった。



『!?ジフさま…お久しぶりでございます。ソルに会いに参ったのですが…ムアン大君さまのお屋敷が静まりかえっておりますが、何かあったのでしょうか…』



と尋ねるソンギョンに、ジフは目を細めた。



『ここでは人目につく。場所を移そう。』



そう言ってソンギョンの手を離し、後をついてくるようにうながす。



ジフはソンギョンが何も知らされてはいないことを、今しがた知ったのである。



自分の口から話してよいものか…



と、歩きながら考えていた。



ムアン大君の屋敷を越えて、少し歩くと林がある。



都城とじょうを横断する、道江がすぐ近くにあり、道江どうこうは冬になると季節風でてつくような風を都城に運んでくる。



毎年、その季節風でまきを用意できぬ、雨風ふううが満足にふせげぬ家に住む貧困者ひんこんしゃたちが凍死とうしし、問題になっている。



その季節風を防ぐ、防風林ぼうふうりんとして自身の家の近くから広い範囲に渡って、ムアン大君が特に被害の大きい地域に松を植林しょくりんしたものが大きく育っているのである。



その林の入口辺りで話を始めようとジフが足を止めてソンギョンを振り向くと、ソンギョンの少し後ろを次兄のダオンが尾行びこうしていた。



ダオンは、さすが近所で洪家の兄弟は…



と評判になるだけあって、戸を開けておいてはいたが、そのまま捨て置いていたのではなく、さくこうじてしていた。



ジフはダオンを見つけ、こちらへ到着するまでソンギョンには何も話さず、黙って待っていた。



立ち止まったまま何も話し出さないジフを不思議に思い、ソンギョンはジフの視線が向かう方側へ振り向くと…



次兄がこちらへ向かって歩みを進めていた。



2人に追いついたダオンは、ソンギョンを背にかばい、ソンギョンとジフの間に割って入り、ジフを睨み付ける。



『ソンギョンをこんな場所へ連れてきて、何を話すつもりであった?…』



ダオンは、怒気どきふく声音こわねでジフへ語りかけた。



ソンギョンは次兄の背中しか見えず、兄の声を黙って聞き入っていた。



『ソンギョンが病み上がりの体だと、知っておろう。そなたが焦っているのは分かる。が、病み上がりのソンギョンを巻き込んで、何か得られるものがあるのか?ソンギョンが関われば、さらにこじれるのは自明じめいの理であろう。なぜ分からぬ。いくら理不尽りふじんが降っていても、静かに耐えるしかないこともあろう…権力も財力もない我らだけで動いて何になるのだ。事を荒立あらだてれば、さらに事態が悪化してひど仕打しうちちが待っておるのが分からぬのか?』



ダオンとて、できることならば力になってやりたい。



しかし、八方塞はっぽうふさがりなのだ…



おまけに、洪家ほんけもこの件についてはお手上げであり、これ以上の犠牲者を出すわけにもゆかぬのだ。



『話が以上ならば、ソンギョンは休ませねばならぬゆえ、連れ帰るぞ。ジフ、強うなれ。目に見えることだけが全てではない。必ずや、次の機会がやってくる日がある。それまで耐えるのだ。』



ダオンはそう言い残して、ソンギョンの手を引いて、後ろへ反転し歩き始める…



しばらくダオンとソンギョンの背中を、黙って見送っていたジフだが、ややあって2人の背中に大声で呼びかける。



『ソンギョン!ダオン殿!…ソルを!ソルを助けてはくれぬか!もうつなは洪家しか残っておらぬのだ…。迷惑は十分に承知しょうちしておる。だが、ソルをこのまま陽国へ見送れば後悔しか残らず、諦めようにも諦め切れぬのだ…。どうか助けてはくれぬか!この通りだ…。』



と、ジフが最後まで話しきらぬうちに、ソンギョンはダオンの手を振り切り、ジフのところまで戻る…



『わたくしが眠っている間に、何がおこったのです!ソルは…ヘジョは…シムソ君は…皆に何があったのです!ソルはどこにいるのです?ヘジョの怪我はどうなったのです?…』



ジフのそでを強く握り締めながら、ソンギョンはジフに激しく詰め寄った…



『待て!私から話す。どのみち、知らぬままいられる程、世は甘くもないし、知らぬままでおれる程にソンギョンはおろかでもない。屋敷に帰る道すがら、伝えようと考えておった。だが、洪家はこの件とは関われぬ。これ以上の犠牲者ぎせいしゃはいらぬ。ヘジョの一件で、洪家はリウ・ハオレン様の記憶にも残ってしまっておる。それだけでも、大きな痛手いたでだ。起こってしまった事実はソンギョンに伝える。しかし、それ以上はないと考えてくれ。ソンギョンもだ。父上と母上、兄上がどうしておまえをここしばらく部屋にめ置いたと考える?さといそなたならば、分かるであろう…。それが理由だ。分かるな?』



五感がだんだん嫌な方向に引き寄せられていくのが分かる…



脳の思考がつらい結末に転がり落ちていくのも伝わる…



ソンギョンは、全身をかれていくようなしびれを感じていた…



ミシリ…



ミシリ…



と体なのか心なのか、ソンギョンの何かが裂けていくような感覚に覆われて、のどの奥がかわき切って声が出なかった…。



今度こそしっかりと次兄に手首を捕まれ、足早に歩く次兄の歩幅には及ばないソンギョンは引っ張られながらの小走りで去っていく。



ジフは拳を握りしめ、下を向いていた…



最後の頼みの綱を断ち切られてしまった…



自分とソルは、縁がなかった、のだと諦めればいいのだろうか…



諦め切れぬから、こうしてソンギョンの優しさに期待したのだ…



どこまでさかのぼれば、この状況に至らなかったのであろうか…



何をどこで自分は間違えたのか…



いや。



間違えてはいない。



これが、ソルと自分の結末であったのか…



いつまでも答えの出ぬ問いを自問じもん自答じとうしながら、ジフは長い間佇たたずんでいた。






ソンギョンは、次兄に訪ねる。



『ヘジョはどこにいるのですか?お兄さま。ソルには、どちらへ参れば会えるのですか?シムソ君は、ムアン大君さまは、お屋敷にお見えにならぬのですか?…お兄さま、お答え下さい。』



つかまれている腕を激しく振りほどきながら、ソンギョンがたずねる。



『お答え頂けぬのであれば、戻ってジフさまにお聞きして参ります!』



普段はおっとりしているソンギョンであるが、一度こうと決めてしまうと、誰にも止められず、他の言葉はがんとして受け入れない…今はそれが、発動した時のソンギョンであった。



そんなソンギョンが怒りを込めて次兄に詰め寄ったかと思うと、また元の道にきびすを返し、ジフの元へ走ろうとする。



次兄は、次兄でソンギョンの兄であるからして、妹の行動はきちんと予測している。



すぐに、手を握り直して自分へと引っ張り戻した。



『!?痛!!』



ソンギョンは、次兄を怒りに任せてにらみ付ける。



『お話頂ける気になりましたか?お兄さま…』



ソンギョンは、再度確認をした。



『分かっておる。ただ、内容が内容ゆえにどこでも話せる話ではない。場所を変えるゆえ、黙ってついて参れ。全く…』



とダオンはそう伝え、首をため息交じりに左右にふりながら、足早に前をゆく。



ソンギョンが渋々しぶしぶ黙ってついてゆくと、山小屋のような建物が見えてきた。



戸を開けて入ってゆく次兄に小走りでついてゆく。



小屋の中へ入ると、一見するとどこにでもあるような山小屋で、山仕事に使う道具が納められており、納屋の様なしつらえであった。



奥に進むと、ある場所でダオンは立ち止まり、床に敷き詰められているわらの上を3回踏む。



すると、上から紐が垂れ落ち、その紐を引くと、上から階段が降りてきた。



本で読んだ「からくり」と呼ばれる、摩訶まか不思議なものに類似るいじしており、ソンギョンは感心しながら眺めていた。



その階段を上ると、2階部分があり、1階部分の粗末そまつな小屋には似つかわしくない、しっかりとしたつくりの部屋があつらえてあった。



聞きたいことがどんどん増えてゆく妹を歯牙しがにもかけず、次兄は部屋をずんずんと進んでいき、奥に用意されていた座布団のある場所に腰を落ち着けた。



ソンギョンも向かえ合わせになる場所にある座布団に腰を下ろす。



2人ともに無言で向かい合う…



しばらくして、口火を切ったのは、ダオンであった。



『ヘジョの話からしてもいいか。』



ダオンは、ソンギョンの目をしっかりと見据みすえて、静かに話し始めた。



『ヘジョはそなたと都河港へ出かけたり、リウ・ハオレン様の列に立ち入ってしまったのだ…リウ・ハオレン様の護衛ごえい謀反者むほんもよとしてられてしまってな。お祖父様の店に運ばれた時にはもう手遅れであった。そのまま息を引き取ったそうだ。最後に、「ねえさま、ねえさま…」とそなたを呼んでおったそうだ。だが、ヘジョの最後の呼び掛けに答えてやれなかった…。そなたはそなたで気を失っておったであろう?…ソンギョン。気に病むでないぞ。いたし方なかったのだ。誰もヘジョがあの様なことになるとは、想像もできなかった。打つ手もなかったのだ。幸いシムソ君が共にあってくれて、ヘジョをかばってくれた。ヘジョを庇ったせいで、肩から背中に大きく傷を負ってしまった…近ごろ快方かいほうに向かったと、伝え聞いておる。そなたがもう少し快方に向かったら、共にヘジョの墓に参ろう。ヘジョはそなたをとてもしたっておったゆえな、喜ぶだろう。ソンギョン、そなたは何も悪くはない…みずからを責め、自らを苦しめることだけはするな。分かっておるな?』



ソンギョンの目から涙が止まらず、次兄の顔が見えぬ程に流れていた。



ヘジョが亡くなってしまったことが、もう会えないことが、理解ができぬではない…



が、分からないのだ。



分かりたくない…



と心のどこかが拒否をしている。



あふれてくる感情が決壊けっかいしたダムのように、心から流れ出てしまい、思いが溢れ出てしまい、制御せいぎょが効かない…



分からない…



自分の感情におぼれてしまいそうであった。







ひとしきり泣くと、今度はヘジョとの思い出が溢れてきた。



ヘジョに来年の正月に贈ろうと選び縫っていた、テンギ(髪飾り)の赤い綸子りんずの生地を思い出したのだ。



以前ソンギョンがジョンウからもらったテンギを酷く欲しがった。



しかし、絶対に譲ってやれぬテンギであった。



妹にとって大好きな姉が持っている物は全て光輝くのである。



ヘジョはソンギョンを困らせるようなせがみ方はしなかったが、そのテンギを見るといつも羨ましい…



と顔に書いてあった。



ソンギョンはそんな妹の為に、自分とお揃いのテンギをあつらえ始めたのだ。



ソンギョンは刺繍や縫い物が得意で、ソンギョンが作れば店へ出せそうな立派なものが出来上がる。



特に刺繍が得意で、よく身近な人に一針一針刺しては贈っていた。



もう少しで出来上がる予定のヘジョを思って刺していた牡丹ぼたんの刺繍が頭によぎる…



ヘジョへの想いを追想ついそうしているソンギョンに、新たな悲しみが降り出して、止んだはずの涙が溢れてきた。







ソンギョンが泣き止むまでしばらく黙って泣くままにしていたダオンが、ソンギョンが少し落ち着くのを待って、次の話を投げてきた…



『ジフが先ほど、ソンギョンに訴えていたであろう?その話だが…ソル公主の話なのだ。ソル公主が、リウ殿のお目にとまって…リウ殿の帰国と共に陽国へ参ることが決まっておる。その話であったのだ。』



頭を鈍器どんきで殴られたような衝撃しょうげきであった…



ソル公主の話をした時から、まばたきもせず、返事はおろか言葉すらもはっせず、ただ呆然ぼうぜんと座って、ヘジョの時から止まらぬ涙もぴたりと止んでしまったソンギョンが心配になり、ダオンは可愛い妹の手を握る。



やっと息をしたかと思われるような様子のソンギョンは、カッと次兄を力の宿った目で見つめ、



『今…何とおっしゃいましたか…?…』



と聞き返す…



『ソル公主がリウ・ハオレン様に伴われて陽国に参るのだ。10日後であったはずだ…。』



とダオンは、ソンギョンが反応したので、いくばくかの安堵あんどを混じえながら答えたのだが、ソンギョンの心の内は全く別の感情で支配されていた。



ソンギョンは、衝撃でまだ何も体が反応しなかっただけである。



ソル…



ソルが…



ソルが陽国へ…



陽国へ行くのね…



リウ様と…!?



陽国…!?



やっと繋がった…



が、ソンギョンの中で何かがぽんと爆発した。



急に席を立ち上がるソンギョンに、ダオンは慌てる。



『待つのだ!ソンギョン!どこへ参ろうとしておる!落ち着くのだ!そなたが動いたところで、何も変わらぬのだ!』



ソンギョンの手首を掴み、元の席へ座らせようとするダオンに



『お離しください、お兄さま!落ち着いてなどおれませぬ!私は必ずソルに会わなければならぬのです!ソルは私を必要としているはずです!行かせて下さいませ、ダオン兄さま!』



ダオンの手を振りほどこうと、腕を力いっぱい振るソンギョンに、絶対に離すまいと手に力を入れるダオン、座らせようとソンギョンの腕を下に引っ張るダオン、座らずにいられるよう足に力を入れるソンギョン…



互いに一歩も引けぬ攻防戦こうぼうせんであった。



『先ほども伝えたであろう!そなたには何もできぬのだ…。父上と母上、兄上もそなたがそのような状態になると分かっておったゆえ、部屋に留め置いたのだ。ヘジョの二の舞にはなって欲しくないのだ!何故なぜ分からぬ!』



ソンギョン、ダオン、両者が肩で息をする音だけが部屋に響く…



2人の息が整い始めた頃に、聞き慣れた声が聞こえてきた…



『やはり、ここであったか…』



ソンギョン、ダオンが声の聞こえた方へ、すなわち2階へ続く階段へと目を向けると、そこには長兄のミギョンが立っていた…



『ソンギョンが見当たらぬゆえ、屋敷が大騒ぎだ。屋敷に戻り、父上と母上を安心させてやれ、ソンギョン。ソンギョンとて、皆の大切な存在なのだ。ヘジョの話は聞いておろう?皆が神経質になるのは、理解できよう。屋敷にお祖父様まで駆けつけておるぞ。どうなっておるのか、察するな?帰るぞ。』



ミギョンが淡々たんたんと話をする…



と、ソンギョンは落ち着き、ダオンも落ち着いた。



ミギョンは、ソンギョンの手を握り歩き始める。



ダオンとすれ違う時に、ダオンの肩をポンポンと軽く叩く。



ミギョン、ソンギョン、ダオン、の順に階段を降り、小屋の外へ出て、歩き始める。



3人は無言であった…



無言でただ歩き続けた。



林を抜けてしばらく歩くと、大きな通りに出たところで洪家の輿こしが待っていた。



ソンギョンは輿に乗り、両兄は輿を挟んで黙々もくもくと歩く…ソンギョンはもちろん、誰も何も話はせず、黙ったまま帰路きろを進む。



屋敷へ着くと輿の戸が開けられる前に、門から母が転げるように飛び出してきた。



酷く心配していたのが、身なりから見て取れた…



兄弟も使用人も屋敷の者は誰も、毛筋ひとつ乱れた姿を見たことのないはずの母が、髪を振り乱し、チマ(スカート)にも泥汚れとシワがある姿で、門から転がり出て、輿から降りたソンギョンをいの一番に抱き締めた。



ソンギョンは、そんな母を見て…



ただ、ぽつりと



『ただいま戻りました。』



とだけ、伝えて母が気が済むまで大人しく抱き締められていた。



父もソンギョンの姿を確認しに急いで部屋からでたのであろう…



履き物も履かず、ポンソ(靴下)のままでソンギョンの元へ駆けてきた。



ソンギョンの心は両の親を見て、自らの軽率けいそつな行動を反省し、申し訳ない気持ちでいっぱいになってゆく。



両親は先日、娘を失ったところであり、閉じ込めていた後ろめたさはあるとは言え、また娘がいなくなってしまったのである。



焦燥しょうそうられるのは、必然ひつぜんであろう…



『お父様、ただいま戻りました。』



父と母に抱き締められていると、父の肩越しに祖父の姿があった。



祖父に微笑ほほえみと共に会釈えしゃくをする。



ソンギョンはこの日、自身の存在の重さを改めて思い知った。






ソンギョンお嬢様がお屋敷から密かに外出され、お部屋に見当たらず、お屋敷中が大騒動になった翌日、ソンギョンお嬢様の祖父、チャン・ヒョイル様がお嬢様をお訪ねになられました。



お嬢様のお部屋で一刻ほど過ごされてから、屋敷の誰にも会わずに、さらりと吹いた風のようにおいとまされました。



人払いをされていたので、私にはお話の内容が分かりませんが、次の日ヒョイル様がソンギョンお嬢様をお迎えにみえて、お二人でお出掛けになられたので、お出かけのお約束をされていたのだと推測されます。



お屋敷では、ご主人様も奥様も強く私の同行を望まれましたが、ヒョイル様の強い要望ようぼうにより、お嬢さまはヒョイル様とお二人でお出掛けになられました。



私もご主人様ご夫婦同様、何やら胸騒むなさわぎがしてお嬢様が心配でならず、お出かけの準備をお手伝いする傍ら、お嬢様に何度もご同行の許可を頂こうとお願いしておりました。



いつもは余程のことがない限り、私のお話に耳を傾けてくださいますが、今回はお聞き入れ頂けず、更に更に不安だけが膨らんでいきました。



この時、私のような者の不安からくる直感が当たらなければいい、そう考え、願っておりました…







ヒョイルもヘジョの事件以来、何やら嫌な胸騒ぎを覚えていた…



数年前に引退をし、長子ちょうしイドゥンに家を譲り、妻も数年前に他界たかいしていた為、都河港とがこう万治通まんじつう事実上じじつじょつ隠居いんきょ生活を送っていたが、以前より使っていた手の者を都城とじょう雅都宮がときゅうに残し、常に世の動きをつぶさに手に入れられるようにしてあった。



胸騒ぎの原因は、ソル公主とシムソ君の父であるムアン大君とソンギョンの父ジュギルがジフの父テウンと、我が次男ノギョルと何やら密談みつだんをあちらこちらで開いている、との知らせが入っていたからである。



4人はかねてより、家族ぐるみで仲が良く、おまけに幼少の頃より私塾しじゅくを共にした竹馬たけうまの友であった。



その4人が何やらひそかに動いている、との話である。



一見すると、ただの幼なじみが寄り集まっているだけに見えなくもないが…



ヒョイルのかんがそうは考えさせずにいた。



息子たちに問いただすには、もうしばらく手の者たちに探らせて、事を見極みきわめる必要があるが、きなくさい集まりを始めた日が、リウ・ハオレンの列の事件後から始まったことを考えると、ヘジョやシムソ君、ソル公主の件が引き金になっているのではないかと推測すいそくされた。



あの事件以来、洪家ほんけでは主人夫婦の気が触れたのではないかと、使用人を始め、近隣きんりんの人々の噂になっていた…



万治通まんじつうで目を覚ましたソンギョンを薬で眠らせ、屋敷に運び、閉じ込めておくなどとは、正気しょうき沙汰さたとは到底とうてい言いがたい…



と、どこからかソンギョンの話が噂の種になっていた。



これ以上、騒ぎを大きくせぬ方法を探っていたヒョイルは、かなりあぶない賭けではあるが、このまま何もせぬよりはましだと、あるさくっていた…






ソンギョンを伴い、万治通まんじつうに到着したヒョイルの自室に集まっていたのは、ジョンウとジフ、ダオンとジョンウの父ドンウ、ソンギョンとヒョイルであった。



ヒョイルはかねてより、策のあらましをドンウに相談し、ジョンウとジフに既に動いてもらっていた…



ヒョイルの計画は、こうである…



@ドンウに商船しょうせんを手配してもらう。



(必ず出所でどころは不明にし、足はつかぬ様にしてある)



@ジフに口が固く、働きのいい者を集めてもらっておく。



(こちらも出自しゅつじがつかぬ者たちで集めておく)



@ソンギョンには知らせるが、必ず秘密裏ひみつりにさせ、ダオンがソンギョンへの連絡口れんらくぐちとなる。



ソル公主を助け、ジフと共にしばらく目のつかぬ場所で密かに暮らせる様に時間をかせぐ…



と言う計画であった。



失敗に終わったり、計画に関わる面子めんつがそれぞれに両班や大店おおだなの主人家族なので、波紋はもんが大きくなることが予想され、実行に移すには細心さいしんの注意が必要とされる。



ヒョイルはドンウにまず協力してもらう説得から始めた。

 


ドンウは始め、話すらまともに取り合おうとはせず、自身の話はおろか、息子を巻き込むことにも大反対をし、話を聞いてもらうことから始めなければならないさまであった。



世間には、雅都宮がときゅうの役人たちの働きにより、ヘジョやシムソ君の事件が知られてはおらぬゆえ、何事もなく時が過ぎているが、事があかるみになれば、陽国ようこく鮮国せんこくへの扱いに対し、人民じんみんの不満が吹き出るのは必須ひっすであり、国内が混乱するであろうとヒョイルは考えている。



王朝への不満はかねてより、あふれだす寸前であり、下手をすると大規模な暴動ぼうどうへと発展しかねない。



先の世子せじゃ朝礼ちょうれいの失敗の折り、成均館そんぎゅんがん儒学生じゅがくせいたちの上申じょうしんを思うと、人民の暴動は押さえきれぬものになろう…



更にソル公主の話も重なれば、人民の怒りは王と世子へ噴出ふんしゅつするであろう。



そうなれば、また流さなくていい血が流れ、人々の心はすさみ、鮮国は更に衰退すいたい一途いっとへと歩みを進めることになる。



息子たちが何をたくらみ、何のためにつどっているのかは分からぬが、ソル公主を救うことが必ずや世の人々の心のせきになろうと考えているヒョイルである。



子が笑顔で無事に育つことは、万民ばんみんの共通の願いであるはずで、それらをドンウに焦ることなく、説いたヒョイルでもある。



国が混乱にきたせば、あきないどころの話ではなくなるのだ…



ヒョイルは、根気よくドンウに何度も頭を下げたのである。





催涙雨さいるいう

【七夕の夜に降る、織姫と彦星の涙。涙の種類は諸説あるとされる。筆者は、別れを惜しむ涙を推したい。】

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