第7章~砂嵐~

悲鳴が様々な場所から生まれる。



人々が逃げ惑う。



地獄絵図じごくえずの様な光景が広がる。



たった今、政変せいへんが起こったのである。







いわゆるクーデターである。








その首謀者しゅぼうしゃは、ムアン大君てぐん







もう1人の首謀者しゅぼうしゃは、ホン・ジュギル。







協力者は…






カン・テウン。







チャン・ノギョル。






ソル公主こうしゅ、ソンギョン、ジフ、シムソ君、ヘジョ、それぞれの父たちであった…






4人はまず…






王の家・康寧殿かんにょんじょん






王妃の家・交泰殿ぎょてじょん






政の家・勤政殿くんちょんじょん





王の宝箱・万春殿まんちゅんじょん千秋殿ちょんちゅじょん





世子の家・東宮殿とんぐんじょん





包囲ほういし、それぞれを独立させて、孤立こりつさせ、連携れんけいを分断させた。





さいは投げられた、のである。









ホン・ジュギルの執務室に王の使いが来て勤政殿くんちょんじょんへ戻った、ムアン大君とホン・ジュギルは目を見張った。



そこには王と、主客郎中しゅきゃくろうちゅうのリウ・ハオレンが待っていた。



いぶかしみながら、ムアン大君とホン・ジュギルは挨拶をする…



話を切り出したのは、王であった。



『先の主客郞中の道中でリウ殿の護衛に向かったのは、ソル公主であったと聞いておるが相違そういないか?』



ムアン大君の背中に嫌な汗が一筋流れた。



『…その様に聞いております…』



と苦しみに満ちた声で答える。



ホン・ジュギルはどのような助け船を出せばいいのか…



を自身の沈黙ちんもくの中で反すうしていた。



『ソル公主をこちらのリウ殿が大層気たいそうきに入った、とのことでな陽国へ帰国する折りに連れ帰りたいとのことだ。鮮国としても、陽国とつながりができるのは喜ばしいことである。そこに、リウ殿は陽帝の甥子おいごなので、我が王家が陽帝と親族になるということになる。王族が国のために橋になれると言うことは、何ともめでたいではないかと思うてな。わが姪、ソル公主は器量きりょうも気立ても良く、我が王家の代表として、陽帝一族へのけ橋に申し分ない人物だと思うがムアン大君はいかが考える。』



『!?…』



ムアン大君は、言葉が詰まり、何も出てこない…



結局、視線を下へ向けることしか出来なかった…



この申し出に、いなと言えるものがいるのだろうか…



ムアン大君の握った手からは、ポタポタと血が流れていた。



下を向いて反すうしていたホン・ジュギルがややあって、口を開いた。



『リウ様には、奥方と先月お生まれになった皇子がおられる聞いておりますが、ソル公主様はご側室そくしつというお立場になられるのでしょうか…いくら進貢しんこうの我が鮮国でも、王族しかも王様のめいをリウ様のご側室になさるとは、鮮国の臣下しんかとして容認できかねまする。今一度お考え直し頂きたく存じまする。』



と進言する。



この発言は、場を変えれば、不忠ふちゅうと見なされ、罪を問われる発言でもある。



しかし、親友の窮地きゅうちを黙って見過ごすわけにはいジュギルであった。



ソル公主とカン・ジフの婚約を先日、竹馬の友の家族皆を呼んで、拙宅せったくで祝ったばかりである。



幸せな約束を交わしたのは、互いに大切な友の子どもたちである。



嬉しくないはずがなかった…



幸せそうな若い2人は、若い頃の自分自身にも重ねられ、胸が温かくなり、末長すえながく幸せであって欲しいと切に願った。



そこへきて、この話である…



これに対し、リウ主客郞中しゅきゃくろうちゅう



側室そくしつという身分が気に入らぬのであれば、先の妻を離縁りえんして、正室として迎えようではないか。先の妻は家族同士が家の為に決めたものであるゆえ、私には興味もない。ソルと言ったな、あの娘が手に入るのであれば、雑作ぞうさもないことよ。』



と食い下がる。



『道中に乱入したわらべの父はそなたであると聞いておるが、相違ないか?あの護衛は陽国へ帰らせてやったぞ。童をるなど、非道ひどつが過ぎるゆえ…その後、童は息災そくさいにしておるか?…』



ジュギルの手詰てづまりであった…



王も王で、ヘジョのことは耳に入っているはずであるが、何も言わぬままであった…



この場で、ヘジョの葬式は本日であり、臣下しんか忠義ちゅうぎゆえ、出席できずにいるのだと叫びたかった。



ジュギルにとって、世の非情ひじょう無情むじょう劣情れつじょう、が限界に達していた。



ジュギルの心が巣食すくっていき、戻れないところまで行き掛けたところ、ムアン大君の声が呼び戻してくれた。



『一度持ち帰り検討けんとうさせて頂きたいと考えまする。お時間を頂戴ちょうだいいたします。』



とムアン大君は、しぼり出した声音で、苦しまぎれの返答へんとうした。



『あい、承知した。吉報きっぽうを待っておるぞ。』



と弟の苦悩を知ってか知らずか…王は答える。



勤政殿くんちょんじょんして、2人で歩き始める。



ジュギルは、親友のムアン大君に掛ける言葉が見つからなかった。



ムアン大君も、親友に兄の無体むていをどうびればいいのか、検討けんとうもつかなかった。



どこへ向かっているのか分からず、ゆっくりとした足取りで進むムアン大君の少し後ろをジュギルはついて行く。



『一度屋敷へ戻ることにする。この話はわしとジュギルの話で止めておいてくれぬか。』



どれくらいの時間、雅都宮がときゅうを歩いたであろうか…



ぽつり、とムアン大君は口にした後、静かに雅都宮がときゅうを後にした。






ホン・ジュギルは執務室に戻り、静かに考えていた。



自分たちに何が起こっているのか。



果たしてこれは現実であるのか。



まだまだわざわいは始まったばかりなのか、それともこれで終息しゅうそくに向かっているのか、頭のなかを整理したかった。



可愛い盛りであった、ヘジョ…



子を失う辛さは身を削る思いである。



ジュギルが執務室を辞したのは、明け方近くであった…





ムアン大君は雅都宮を後にし、そのまま屋敷へは戻らず、春道港ちゅんどうこう別宅べったくへ向かった。



愛娘まなむすめのソルには今は会えぬ…



先日のソルとジフの婚約を披露する宴での2人が幸せそうにはにかんだ笑顔が脳裏のうりに浮かぶ。



ジフの父、カン・テウンとは喜びを分かち合い、共に子どもたちの幸せを噛みしめ、互いの子どもたちの将来に期待を膨らませた。



テウンにも会わねばならぬ…



ジフにも話さねばならぬ…



シムソの意識は戻ったのだろうか。



時折、痛みに顔を歪ませていた息子の顔を思い出す。



自身に振りかかる災難を受け止める心が未だ定まらぬまま、夜が明けていった。






ホン・ソンギョンは、夢の中をさまよっていた。



真っ暗やみの中で、少し離れたところにいる妹のヘジョが一生懸命に何かを姉のソンギョンに伝えようとしている。



『ヘジョ?何?今、そちらへ行くわ。待っていて…』



と話したところで、ヘジョが消えた…



『ヘジョ?どこ?』



と首を左右に動かして探していると、親友のソル公主がソンギョンと手を繋いでいた。



『ソル…ヘジョがね…』



と話したところで、ソルに抱きしめられる…



体が離れると、ソルが泣いていた。



『ソル?…どうしたの?』



と聞くと、後ろから肩を叩かれる。



振り向くと、大好きな笑顔のシン・ジョンウだった。



『あのね、ジョンウ…ソルがね…』



と話ながらソルに顔を向けると、ソルはいなかった…



ジョンウに振り向くと、ジョンウも消えていた…



大切な皆が消えてしまった真っ暗闇は、寂しさとむなしさ、わびしさを心に深く広げていく。



涙が止まらなかった。



涙を流れるままにしていたら…



いつからか、手が温かくなった。



遠くから、大好きなジョンウの声も聞こえる。



ジョンウの声に耳を澄ますと…



辺りが明るくなってきたところで、ソンギョンは目をつぶっていた自分に気づき、真っ暗やみは目蓋まぶたが閉じていたせいだと知る。



と同時に、目を開けるとジョンウの顔が見えた。








『…ジョン…ウ…?』



愛おしくてたまらないソンギョンの可愛らしい声が自分の名前を呼んだ、気がした…



ソンギョンが眠ってしまってから、幻聴げんちょうが日常になっている。



今回も自分の願望がそうさせるのだろう…



と苦笑いをしながらソンギョンの顔を確認すると、目が開いていた。



『!?…ソンギョン?目が覚めたのか?』



ソンギョンがこのまま目を覚まさずにいたらどうしよう…



とジョンウは不安でたまらなかった…



ソンギョンへの思いを込めて手を強く握った時、頬に涙が流れるのが分かった。



『よかった…』



ただただ思うこと、思いつくこと、言葉にできることは、これだけだった。







ソンギョンは、ジョンウの頬から流れる涙を定まらな意識の中で眺めていた。



ジョンウが泣いている…



大好きなジョンウ。



何かあったのだろうか…



ジョンウを悲しませる何か。



『ジョン…ウ…?どうして泣いているの…?』



ソンギョンがそう聞きながら、起き上がると…



ジョンウに強く強く抱きしめられた。



ジョンウとジョンウの匂いに包まれて、目を閉じる…



と、唇に何か柔らかなものが当たる。



春道港しゅんどうこうに2人で訪れた時に初めて知った、ジョンウの唇だった。



しばらくすると唇が離れ、名残惜なごりおしさに目を開けると、泣いていたはずのジョンウは笑顔になっていた。



ジョンウにつられて笑顔になると、また、抱きしめられた。



ジョンウの匂いに再び包まれる。



『ずっとこうしていたいけど、皆が心配している。祖父どのに、ソンギョンが起きたこと、伝えてくるよ。もうしばらく横になって。』



と、耳元でささやくと、布団に戻された。



横になったソンギョンの頭を数回、優しく撫でると、おでこに唇を優しく当てて、立ち上がり部屋を出ていってしまった。



ひとりきりになって、反すうする…



自分は一体何をしているのか、していたのか…



を。



思い起こすと、自身の記憶が途切れたのは、通りの向こう側にヘジョが倒れ、シムソ君がかばっている場所へ急いでいた時、先を走るソルの背中がどんどん遠くなっていき、同時に斜めに見え、横に見え、見えている映像のわくが静かに黒におおわれていくさまであった。



ジョンウは、ヘジョやシムソ君、ソル公主の話は何もしなかった…



確かめることへの恐怖で誰にどう切り出すべきか、考えあぐねていると、部屋のドアが開いた。






『ソンギョンや、痛むところはないか?食べたいものはないか?欲しいものはないか?じいに何でも言うんじゃぞ。わしから都城とじょうの屋敷へは使いを出すからの、心配せんでええでな。何も心配するな。誰のことも考えんでええ。今は自分のことを優先にな、とりあえず寝ておれ。後のこと、これから先のことは、じいに任せておくんじゃ。よいな、分かったな。』



祖父はソンギョンの顔を見て、心底しんそこ安心をした…



意識を失って、早10日…



そろそろ諦めのいきに入らねばならぬところであった。



年甲斐もなくジョンウに呼ばれて、走ってきた…



足元を見ると、片足だけ靴を履いている。



ヘジョのこと、ソル公主のこと、いつまでも隠し通す訳にはいかぬが、今しばらくソギョンには自分のことだけを考えて、身体を休ませてほしいと、ヒョイルは願った。



あと、2、3日でいい。



このまま、しばらくこのまま…



『ジョンウや、少しソンギョンを休ませてやってはくれぬか。頼みたいこともある、少し話せるかの?』



この好好爺こうこうやはさらりとジョンウを誘い出した。



『ジョンウや、ヘジョとソル公主の話はソンギョンにはしておらぬな?』



部屋を出て、廊下の曲がり角まで来て祖父ヒョイルは声をひそめた。



『今は身体の回復に、心の負担が影響するのではないかと、何も話していません。ただ、ソル公主は来週には鮮国せんこくを立たれるとのお話です。お会いせずにいたら、ソンギョンは必ず後悔します。ヘジョのことは、仕方がなかったとしても、ソル公主の話は別かと…。ソンギョンは人一倍、感受性かんじゅせい心根しんねの優しい心をしています。ソル公主とは、心の繋がりも深いです。このまま会わずにいるのは、こくであるかと…。』



まとを得て、端的たんてきな、率直そっちょくな答えである。



と、同時にソンギョンを大切に思う気持ちが伝わってくる。



ヒョイルは考えた…



真実を知る日は必ずや、やって来る。



ただ、その時期を選ばねばならぬ。



間違えてしまうと、ソンギョンの心に大きな黒い染みが出来るであろう。







ジョンウは、一度自らの屋敷へ帰ることにした。



屋敷への道すがら、この先のことを考えていた。



何よりもこの様な状況であるが、ソンギョンが近くにある、と言うことだけで、ジョンウは幸せであった。



屋敷へ帰ると、ソルとジフが待っていた…



『お久しぶりですね、ソル公主、ジフ殿。』



ジョンウは、疲れきった表情を浮かべる、ソルとジフに驚いたが、2人に気取られずにいられるよう、表情を固く引き締めた。



わたくしのお話はお耳に入っておりますか?』



とソルから切り出した…



『はい…。先日、ソンギョンのお祖父殿からうかがっております。何とお伝えしてよいやら…。』



と、どう話していいのか分からず、何も言えぬままのジョンウであった。



『ジョンウ殿に願いがあって、訪ねてきたのだ。ジョンウ殿のお父上は商いをしており、船をお持ちだとか。ソルは、陽国までの道中、都河港とがこうで船に乗り、そのまま入国する航路だと入手した情報にあるのだ。そこでだ…ソルの乗る船の横に別の船を付けて、ソルをさらってしまいたいと考えている。街道では目立つが、一旦海に出てしまえば、それとは見分けがつかぬ。危険を承知で頼んでおるのは、重々承知の上だ。だが、このままソルをリウ・ハオレンに連れて行かれるのは、どれだけ考えても諦めがつかぬ。他に頼める当てもない…協力を…承知をしてはもらえぬだろうか…?』



ジョンウは黙ってしまった。



黙ることしかできなかった、と言う方が正しいかもしれぬ…



やつれきった2人をの当たりにして、何も策が見つからずに時だけが過ぎる焦燥が限界に達し、無理を押して頼みに来たのであろう2人に、安い同情やありきたりな慰め、軽々しい言葉は何も口にはできなかった。



そして2人ともに、着の身着のまま春港まで来たことも明らかであった。



しかし、だ。



自らが咎められることがあれば、害が父や店、使用人にまでも及ぶのは明らかである。



だが…



ソンギョンの大切な2人であることも知っている。



どうしたものか…



返答が出来ずにあぐねている、と言う状態であった。



と、そこで父が部屋へ訪ねてきた。



『失礼致します。』



父の声と共に、部屋の扉が開く。



『ソル公主、ジフ殿、お久しゅうございます。ソル公主、お美しくなられましたな。ジフ殿、立派にご成長あそばされました。お2人とも本当に大きくなられました。息子と通りを走り回っておられた日がなつかしく思えます。』



父はゆっくりと、2人の眼を代わる代わる見つめながら続けた。



そして、大きくひと息入れてから話始める。



『今回のお話、この都河港とがこうで起こったことゆえ、私も存じております。ヘジョ様、シムソ君様、本当にお気の毒でございました。そして、ソル公主こうしゅ様の現在のお立場、降り掛かってきた惨状さんじょう、全て存じております。しかし、老い先の果てが見えましたわたくしには、もはやジョンウしか残っておりませぬ。わたくしたち親子は妻に先立たれ、二人で肩を寄せ合って暮らして参りました。どうか、どうか、息子はご容赦ようしゃ頂きたい。船でしたら、私がご用意させて頂きまする。今回のこと、このジョンウには関係のなかったこと、そうお願い申し上げます。』



父が床に手をついて頭を下げていた。



ソルとジフの話を聞いていた時、ジョンウの嗅覚きゅうかくがこれはよくない、と教えてくれてはいたが、目の前の2人をそのまま捨て置くわけにはいかなかった。



しかし、父が頭を下げる姿を見て、これ程のことであったのか…



と改めて思う…



と言うより、口からこぼれ出る何かを止めることができた。



しばらくもせず、ソル公主とジフはジョンウからいとまを告げた…



ジョンウも分かっているのだ。



もし、ソンギョンがソルと同じ立場に立たされたら、手当たり次第しだい助ける方法を模索もさくするであろう。



ただ、ジョンウは中人ちゅいんと言えど、商いや屋敷に沢山の人を使う大店おおだなのひとり息子である。



自分の行動ひとつが、様々な形で波紋はもんとなり、思いもよらぬ場所の隅々すみずみまで広がってゆくのは承知していた。



迂闊うかつには動けぬ、のだ。



この話は祖父殿に相談するまでもなく、ソンギョンには知らせずにおこうと考えている。



また、ソル公主にソンギョンの容態ようだいを伝えたら、祖父殿の船を…



と言い出しかねない。



これは知らせられぬ、とジョンウの勘が警笛けいてきを鳴らしていた。



ここまで考えたところで、はっと気付く…



ソンギョンに



『すぐに戻る。』



と約束してから、かなり時間が過ぎてしまっていた。



急いで屋敷を後にして、ヒョイルの店のソンギョンのいる部屋へ戻ろうと、屋敷を出たところで、ソンギョンの次兄・ダオンに出会った。



『いましがた、都河港とがこうに到着したところでな、ソンギョンに会う前にジョンウに話があってな、参ったのだ…』



いつもは笑顔で迎えてくれるダオンの表情が固い…



『ソル公主の話は聞いているか?ソル公主のことで、ソンギョンが胸を痛めて何かに巻き込まれることを父上がひどく心配しておるのだ。先ほど、ソル公主とジフとすれ違ったが、ジョンウの所に何かを頼みに来なかったか?わらをもつかみたい気持ちは理解できなくはないが、今回ばかりは関わってはいけない気がしてならぬのだ。まさか、色よい返事はしておらぬよな?』



ダオンはジョンウを覗き込むようにして確認をする。



ジョンウに何かあれば、必ずソンギョンの心が痛む。



それは、避けたかった…



『はい…頼まれた話が話だけに、返答に困り、黙っていたところを、父に助けられました。部屋の外で話を聞いていたのか、突然部屋に入るや否や、私への頼み事を取り下げて欲しい…と頭を下げておりました。』



ジョンウの話に、ダオンは胸をなでおろす。



ソル公主やジフは、ダオンにとっても昔なじみであり、出来ることならば聞き届けてやりたい相手でもある。



しかし、今回ばかりはそうはいかぬ。



ソル公主の次は、ソンギョンに白羽しらはの矢が立つことも、可能性としてはなくはない…



想像だけでも恐ろしいことであった。



『ソンギョンは先ごろ目覚め、ソル公主の話を知らぬままである、と馬が来たので、そのうちに都城の屋敷へ運んでしまおうと、父に言われてな、迎えに来たのだ。ソル公主の話を聞いたら、黙ってはいないだろうと思われてな。』



ダオンは、ため息混じりに話す。



『私もちょうどソンギョンの元へ参ろうかと考えていたところです。ご一緒致します。』



と話すジョンウにダオンは首を振った。



『ソンギョンには、何も伝えぬまま眠らせて運ぼうと考えておるのだ。私に会えば必ずや、ヘジョの話、シムソ君の話、ソル公主の話、を聞きたがる。それではまずいのだ…。』



ダオンは、こぶしを強く握りしめ、苦そうな顔をしていた。



ジョンウも分かっていた…



妹を、眠らせて運ぼうなどと、そのようなことを可愛がっている妹にしたい兄はいない、のである。



しかし、ジョンウは引き下がらなかった。



『他に方法はないのでしょうか…。ソンギョンが全てを知った時、必ずや心を痛めます。』



ソンギョンは昔からずっと、大切に大切に育てられ、心身にいかなるシミもできぬよう、あらゆる障害から守られて育った、洪家の家宝かほうのような存在であった。



心優しく育ったソンギョンが、今回の話を知った時、心を痛めるだけで済むとは思えぬ、ジョンウであった…



しかしヘジョが亡くなり、娘を失う恐怖に囚われている、ホン・ジュギルにとって、命を守ることに関心ばかり向いており、娘の心を守ることまでは考えが及ばぬ状態であるのであろう…



『ソンギョンを迎えに行き、眠ったらすぐに都城へ向かうつもりだ。悪いが、ソンギョンに会うのはまた次の機会にしてくれぬか?』



ダオンにそう告げられ、ジョンウは黙ったままダオンを見送った…







万事通まんじつうの静かな部屋でジョンウを待つソンギョンの耳に、かすかに次兄ダオンの声が聞こえてきた。



『祖父さま、ダオンが参りました。』



店の戸をくぐりながら、ダオンがヒョイルに挨拶をすると、奥からヒョイルが現れた。



『おお。都城からの馬で大方の話は聞いておる。もうすぐソンギョンに菓子を出そうと思っておったところじゃ。薬は用意してあるの?水刺間すらっかん(台所)へ行って、菓子の用意をして参れ。』



ヒョイルに促され、水刺間へ向かうダオン。



自分が恐ろしいことをしていることは承知している…



が、立ち止まって考えてしまうと怖くなるので、考えないようにし、水刺間へ急いだ。



ダオンの心中には、家の為、誰かの為、の思いではなく、ただただ可愛い妹たちの笑顔だけが心にあるのだ。



しかし、可愛いさかりのヘジョはいなくなってしまった…



すぐ下の妹は、流行り病でソンギョンが生まれてすぐに亡くなっていた。



ダオンは今回のことで二度も妹を失っている…



当然の事ながらもう…



嫌なのである…



水刺間へ到着し、人払ひとばらいをした後、茶に眠る薬を入れる。



それを手に、ソンギョンが休んでいる部屋へ向かった。






扉を開けると、ソンギョンは床で起き上がって本を読んでいた。



ダオンの姿を確かめると、顔がみるみる華やいだ。



ダオンはソンギョンの笑顔を見て、自分のしていることは間違ってはいない…



と何度も反すうしていた。



『お兄様お久しぶりでございます。屋敷の皆は元気にしておりますか?父上、母上はお元気でしょうか?』



ソンギョンが眠っていたに起こった出来事について、ソンギョンは本当に知らぬようであった…



『土産を持ってきたのだ。もう何でも口に出来ると聞いてな。茶も用意させたゆえ、共に楽しんでくれ。』



先ほどの茶を勧める…



『美味しい…。』



嬉しそうに好物の菊茶と菓子を楽しむソンギョンを黙ったままじっと見守るダオンである。



『お兄さまは召し上がらないのですか?菓子も茶も本当においしいですよ。』



茶を飲み干し、菓子も平らげたあたりから、ソンギョンが眠そうにし始めた…



『まだ快癒かいゆしておらぬゆえ、疲れが出たのであろう。私も、もうしばらく万事通へとどまるゆえ、安心して横になって休むがよい。ジョンウも後で参ると話しておったぞ。少し休め…』



ダオンが優しくさとすと、ソンギョンはそのまま眠りについていった…







しばらくすると、部屋に祖父が入ってきた。



『ソンギョンは休んだかの?…こんな形でソンギョンを送り出すのは心残りであるが、都城の屋敷の方が安全であるから致し方ない…であろうな。ダオンや、ソンギョンを頼んだぞ。事が落ち着き、快癒したらまた、都河港にいつでも参るように伝えておくれ。じいは、待っておるゆえな。』



眠りについているソンギョンの頭を優しく何度も撫でる祖父のヒョイル…



と、そこへジョンウがはずむ息で部屋を訪ねてきた。



『ソンギョンを見送りに参りました…失礼致します。』



そう告げて、扉を開ける…



『少し前に眠りについた。また事が落ち着き、快癒したら、話し相手になってやってくれ。ジョンウといる時のソンギョンはとても笑顔が多い。世間がざわついておるゆえ、ジョンウもくれぐれも用心するのだぞ。軽はずみな行動がいかに命取りになるか、分かっておるな。そなたに害が及べば、ソンギョンが悲しむ。それに、私も苦しい。自らを大切にするのだぞ。』



弟のようなジョンウの世話を焼く兄のようなダオンの言葉に、ジョンウは黙って頷く。



ジョンウは、眠っているソンギョンの頭を優しく撫で、額に口づけをする。



そして、袖から綺麗に装飾されたポンジョム(かんざし)を取り出すと、ソンギョンに握らせた。



二人だけの秘密であった約束を、春道港しゅんどうこうでの約束を、目に見える形でジョンウはソンギョンへ伝えたかったのだ。



婚姻をした女性は、髪を結い上げて留めておく道具としてポンジョムを使用する。



だからこそポンジョムは、婚約のあかしとして夫になる男性から、妻になる女性への見える約束として受け継がれていた。



ソンギョンが握らされたポンジョムは、ジョンウがソンギョンにいつか渡したいと夢見ていたもので、随分前から大切にしまってあったものである。



「また会える日を楽しみにしている」



と言う約束をポンジョムに託したジョンウは、その日ソンギョンの輿こしが見えなくなるまで、いつまでもいつまでも見送っていた。







あの事件以来、皆が不安な日々を送っていた…



斬りつけられた当事者だけでなく、その家族、それを取り巻く人々…



その人々と繋がりのある人びと…



皆がみな、他人事ではなく、ある日突然自分や自分の家族に、いつふり掛かる不幸であっても不思議ではない、鮮国には当たり前の光景であった。



鮮国に住む誰もが平等に担わなければならない、暗く重い主客来賓しゅきゃくらいひん朝貢ちょうこう冊封さくほうと言う現実。



王の権威が内外にあれば、鮮国民が担わなければならない重圧が少しでも軽減されたのであろうか…



さきの王朝下でもおこなわれていたと史実にある、冊封、朝貢、主客来賓と言う重責じゅうせき



終わりの見えぬ苦しみに、皆の感情が悲鳴をあげていた。





砂嵐すなあらし

【砂漠などで起こる、強風によって巻き上げられた砂が空に高く渦巻く現象。】

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