第6章〜赤い雨〜

ソンギョンは今日も朝から自室の部屋から一歩も出ることを許されなかった。



家の前の通りはおろか、屋敷の中も歩くことが許されず、部屋で先日兄に借りた本を読んでいた。



あの記憶が途切れた、あの日から、ソンギョンは幾日いくにちもこんな生活を続けている。



血だまりに倒れていたヘジョはどうなったのか…



太刀たちが今まさに振り下ろされそうになっていたシムソ君は無事なのか…



少し先を走り、前を走りぬけていて背中しかみえなかったソルに話を聞きたい…



皆に会いたい…



世話をしてくれるユナに聞いてみる。



が、『分かりませぬ。』としか、答えてはくれない。



不安な気持ちで心が巣食すくっていくのが分かる。



あの日、都河港とがこうから帰ってきて自分は一体どれくらい眠っていたのであろう…



どうやって、あの途切とぎれた記憶の場所から、都城とじょうの屋敷の自室へ戻ってきたのであろう…



誰に聞いたら、答えてくれるのであろう…



いつもどんな時でもソンギョンに丁寧ていねいに答えてくれる、ジョンウならば全て答えてくれるのであろうか…



ジョンウに会いたい…



ソルとまた透明唇膏とうみんちゅんがお唇膏茶館ちゅんがおくわんへ訪れたい…



疲れているのか、ソンギョンはすぐに眠りについてしまう…



起きている間に沢山の思いが溢れ出てくる…



そうなのだ。



ユナの運んでくれる茶に、ソンギョンの気がれぬよう、考えずにいられるよう、感情が動く前に眠れるよう、それとは分からぬように、薬が入っているので、また思考しこうが止まり、ソンギョンはそのまま眠りにつくのである。





屋敷の者、家族ですら、会おうともせず、誰も何もソンギョンに言わぬまま、言えぬままなのには、理由があるのである。



あの日、ソンギョンが倒れてしまったときにはもう、大変なことが起こっていたと誰がソンギョンに伝えることができようか…



奥の部屋で休んでいるはずのヘジョとシムソ君は、ソンギョンの祖父ヒョイルの店を抜け出し、屋台やたいへ向かった。



屋台でヘジョとシムソ君は様々さまざまなものを食べ、大いに楽しんだ。



その後、通りの広場で見世物みせものが開かれていたので、それを見物した。



更にその後、芝居しばいも見物する。



芝居が終わり、そろそろ店へ戻らねば皆が心配し、騒ぎが大きくなると考えたシムソ君は、ヘジョに帰ろうと打診だしんしたところ、この様な自由はなかなかないゆえ、まだ『帰りたくない』とヘジョは泣きべそをかき始めた。



弱ったシムソ君がヘジョの機嫌が直るのを待っていたところ、船着きふなつきばの方角から何やら行列の出立しゅったつの合図のドラの音が聞こえてきた。



シムソ君が止める間もなく、ヘジョが走り出す。



ヘジョは都港へ向かう輿こしの中で、姉のソンギョンに決して陽国陽帝代理ようこくようていだいり主客郎中しゅきゃくろうちゅうの行列には近づいてはならぬ、と言い渡されていた。



ヘジョは忘れてしまっていたかもしれぬが、シムソ君も姉のソルにきつく言われていたので覚えていた。



今日は陽国陽帝代理・主客郎中が来訪し主客来賓しゅきゃくらいひんの為に都港へ到着するのだ。



確かに、陽帝ようていめずらしい動物などを主客郞中に同行させ、鮮国せんこくの民に鮮国王せんこくおうとの差を見せつけることもあるので、見物人けんぶつにんが集まる。



しかし、子どもだけで見物に出かけるのは危険な行為でもある。



来訪の理由が理由なだけに、注意をしなければならず、それをソンギョンにヘジョは伝えられていたはずだか、好奇心旺盛こうきしんおうせいな性格のヘジョには、届かなかったようである。



見物人が集まるにぎわいが先ほどの見世物や芝居を呼び、屋台も普段より多い出店なのであった。



『ヘジョ!待つのだ!そちらへは行ってはならぬ!止まるのだ!』



と大声で叫ぶシムソ君だが、ヘジョには全く届いていない。



『シムソ君さま、あちらへ!もっとあちらへ参りましょう。近くで見とうございます。』



と振り返るヘジョの目に入ったのは、シムソ君ではなく、空にふわりふわりと浮かぶ、黄色い見たことがない珍かな蝶であった。



ヘジョは先日、姉のソンギョンに大好きな蝶が沢山描いてある本を借りた。



その本に描いてあった、一番素敵な蝶に、目の前の蝶が大層似ていたのである。



ヘジョはその蝶を追い、走り出す。



蝶はヘジョから逃げようとしているのか、ただヒラヒラと飛んでいるだけなのか…



陽国陽帝代理・主客郎中の列へと、ヘジョを誘い出しているかのように、ヘジョは列へ列へ…



と吸い込まれていく…



蝶に夢中で、蝶しか目に入らず、そのまま…



そのまま…



ヘジョは列へ…



『待て!止まるのだ!ヘジョ!駄目だ!』



と出せるだけの大声でシムソ君が叫ぶ。



しかし…



そのままヘジョは列へ近づく…



主客郞中の護衛の白刃しらはがキラリと光る。



ヘジョに光ったものが当たった。



腕のいい護衛なのだろう。



列へ吸い込まれるヘジョがふらりと近づいた一瞬である。



そのままヘジョの身体が傾き、地面に叩き付けられる前にもう一度、白刃がヘジョへ当たる。



見物人たちは皆が皆、息を飲み、時が止まったように微動びどうだにしない。



無情むじょうにも三度目の白刃がヘジョに向かっていた…


が、白刃が当たるその時、人だかりから走り込みシムソ君がヘジョにおおかぶさった。



今度はヘジョに覆い被さったシムソ君の背中に白刃が当たった。



と、そこで急に輿が止まる。



何事なにごとぞ!』



と、何の前触まえぶれもなく急に止まった輿をいぶかしみ、輿の中から、ただならぬ雰囲気を感じ取った主客郞中、リウ・ハオレンが側付そばづきの者に確認する。



顔は見えぬまま、近くにいた野次馬やじうまたちだけに、大層若そうな男性の声だけがかすかに聞こえた。



わらべ2人が列に割り込み、ただいま処理したところでございまする。お怪我はありませんでしたか?』



と答えた。



背中を切られたが、息もあるので身動きを取ろうとしたシムソ君に向かい、また白刃が振り落とされそうになったところ、人だかりからソルが走り出てきて、シムソ君と白刃の間に両手を大きく広げ、立ちはだかる。



『お辞めくださいませ!』



と大きな声で護衛をにらみ付けながら話す。



『まだほんの子どもにございまする。主客郞中さまへ何か危害きがいを与える為に列へ近づいたのではなく、何か他に理由があるはずでございます。よくよく言い聞かせますゆえ、何卒お許しを頂きとうございまする。何卒、何卒…。』



ソルの必死の直談判じかだんぱんを、いつの間にか開け放っていた輿の窓から見ていた主客郞中、リウ・ハオレンが静かに



『まだ都城までの道は遠い。参るぞ。』



と護衛に声をかける。



そして続けざまに



不問ふもんいたせ。』



つぶやいた。



列が動き始める。



護衛は何事もなかったかのように、布をふところから取りだし、太刀の血糊ちのりぬぐい、布を地面へほおり、太刀たちさや仕舞しまい、また歩きだしていた。



そんな護衛と向かい合わせになっていたソルは、ヘタヘタと座り込む。



しかし目の前に重なり倒れている、シムソ君とヘジョに気づく。



『!!!誰か!誰か、医師を!医師を呼んでくださいませ!シムソが…ヘジョが…』


と頭を左右に回しながら誰か!と助けを呼んでいる。



と、そこへソンギョンの祖父・ヒョイルが走ってきた。



『何があったのじゃ!』



シムソ君が重なっている下には、ヘジョが血まみれになって倒れているではないか。



ヒョイルが2人の前にしゃがみこみ、シムソ君をヘジョから離す。



『私が到着した時には、ヘジョがられ…シムソがかばっているところでした…』



ソルの頬に涙がひと粒流れた。



『とにかく、店へ運ぶぞ!皆力をかしてくれ!』



とヒョイルが声を上げると、共に会合かいごうをして、主客郞中を見送った旦那衆が集まってきていた。



人だかりの中からひとり、ふたり、と旦那たちが集まってくる。



集まった旦那衆だんなしゅうたちは、それぞれに顔をしかめながら、ヘジョとシムソ君を見下ろす。



皆、何も言わなかった…



ただ、ただ、黙って動かぬ2人を見ていた。



しばらくして、誰も何も言わぬが、またひとり、ふたり、とヘジョとシムソ君の側にしゃがみこみ、手を伸ばし、皆と協力しながら、ヘジョとシムソ君を持ち上げる。



茫然自失ぼうぜんじしつになり、微動だにせず、立てずにいるソルをヒョイルは抱き抱えるようにして、立ち上がった。



と、そこでソンギョンがいないことに気付き、ヒョイルは辺りを見回す…



通りの向こう側に人だかりの輪が出来ていた。



不思議に思い、ソルを旦那衆仲間に預けて足を向けた途端、ソンギョンを抱き抱えたジョンウが人だかりの中に立ち上がったのが見えた。



『ジョンウや!』



ヒョイルは大声でジョンウを呼ぶ。



ジョンウが気付き、こちらへ歩いて来る。



『一体何があった?ソンギョンはどうしのじゃ?…』



孫たちに一体何が起きたのか…



『父の使いの帰りに通りかかったところ、人だかりのが出来ていたので、見に寄ったところ、ソンギョンが倒れていたのです。名前を呼んだところ、ほんの一時、意識が戻って頭が痛い…と言い、また意識がなくなりましたので、祖父どのの店へ運ぼうとしていたところです。』



と話す。



『ヘジョとシムソ君のことは知らぬのか?』



とヒョイルの質問に、ジョンウは




『!!ヘジョとシムソ君に何かあったのですか!?』



と返す。



『いいや、詳しくは店で話す。そのままソンギョンを店へ運んでもらえるかの?わしは、番屋通ばんやどおりの医者に声を掛けに寄るゆえ、ひと足先に店に運んでおいてくれ。』



と壮年とは思えぬ速い足取りで人だかり中をかけてゆく。



ジョンウはソンギョンを強く抱き締める。



大好きなソンギョンの匂いが鼻をくすぐり、春道港での出来事が思い出された…



一瞬、このままソンギョンを連れ去りたい思いが頭をよぎる…



が、思いとどまる…



ヒョイルの店へとゆっくりとした足取りで、向かい始めた。



ジョンウがソンギョンを抱き抱えて店へ到着すると、店は塵箱ちりばこをひっくり返したような、慌てておらぬものがいない惨状さんじょうになっていた。



『ジョンウさま!…ソンギョンお嬢様!?』



使用人頭しようにんがしらの男が、ジョンウを見つけて駆けてくる。



『布団をひいてやってくれぬか?』と伝え、店の奥へと入っていく。



と、そこでヒョイルに出会う。



『おお、ジョンウや。すまなかったの。ソンギョンを奥の部屋へ運んでやってくれ。わしは、都城から使いが来るまでヘジョとシムソ君の側を離れられぬゆえ。もし、時間が許せばソンギョンの側にいてやってもらえると有難ありがたいのじゃが…。』



とヒョイルが話す。



何が起こったのか分からないが、店の様子を見るにただ事ではなさそうだ。



目を覚まさぬソンギョンも何か巻き込まれているかもしれぬと思われ、ソンギョンの側を離れる気になれず、用意された布団にソンギョンを寝かせ、布団をかけて、手を握っていた。



時折、廊下をバタバタと大きな足音で駆けていく使用人の音以外は静かであった。



どれほどの時間がたったであろう…



いつの間にか、ジョンウはソンギョンの布団の隣で寝ており、店も店でしん…



と静まりかえっていた。



扉が開く音がする…



ハッと目を開き、起き上がったジョンウにヒョイルは人差し指を唇に当てて、静かにするよう伝え、



『少し話せるか?』



と声をおとして話す。



向かい側の部屋に入り、事の次第しだいを聞いた。



主客郞中の列を見物に集まっていた人々に話を集め聞いてきた、とヒョイルは静かに話し始めた。



通りの人々の話をつなぎ合わせると、このような話になったと言う…



蝶を追いかけてヘジョが主客郞中の列へと誘い込まれる、そこへシムソ君が叫びながら引き留めようと走る、主客郞中の護衛は列へ入ろうとしたヘジョに斬りかかり、二度太刀たちを下ろし、三度目をヘジョにおおかぶさったシムソ君に下ろした。



2人が地面に重なったところ、ソルが人だかりから走り出てきて、両の手を広げて2人を庇ったそう。



ソルのすぐ後ろを走っていたソンギョンは、通りの人だかりに差し掛かる少し前で、誰かとぶつかり、その衝撃しょうげきで飛ばされ、民家みんかはしらに頭を強く打ち付けて意識を飛ばしてしまった。



ヘジョ、シムソ君、ソル、にはヒョイルが駆けつけ、ソンギョンにはジョンウが駆けつけたのである。




その後、ヘジョは胸と背中に大きな刃傷はきずがあり、大量に失血してしまい店まで何とか息は持っていたが、まもなく息を引き取った、とのことであった。



まだ10歳の子どもである。



大量に失血した身体が持つはずはなかった。



本日ヘジョは葬式そうしきを終えて、土にかえるとのことである。



一方シムソ君は、肩から背中の傷であり、幸いにも太刀筋が肩に重くかかったので、背中の傷が思いのほか浅かったことが運良く、山を越えたとのことで、都城へ戻り、自身の屋敷へ先ごろ戻って行ったそうだ。



茫然自失の状態で、日常生活もままならず、言葉もあの日から1度も発していないと言うソルも、慣れた環境がよかろうと判断され、シムソ君と共に帰っていった、とのことである。



ヒョイルの店に残ったのは、ソンギョンとジョンウのみであった。



ヒョイルは、ジョンウに許される時間があれば「ソンギョンの側にいてやって欲しい。」と告げる。



ジョンウはまる3日、家を空けていたことに気付き、一度自身も家で身支度みじたくを整えてくることにした。



ジョンウは自身の屋敷への道中、このままソンギョンはどうなるのであろうか…と思いをめぐらせていた。



ソンギョンはこのまま都城へ帰らず、都河港で過ごすことが幸せになるのではないだろうか…



共に外出した、妹が亡くなってしまった今、心優しいソンギョンのことだ、自身を責めるに決まっている…



しかし、それもこれも全てジョンウ自身がソンギョンと離れて暮らさずに済む、胆略的たんりゃくてきな思いからくる願望にしか過ぎない…




ソンギョンと共に春道港へおもむいた時のことが思い出される…




互いに揀択カンテク禁婚礼きんこんれいが解ければ、縁談が始まり、別々の人生を歩まねばならない現実がもうすぐそばまできている。




ジョンウは行き場のない思いと、ほんの少しの希望、見たくない、考えたくない現実…



の間にはさまり、かなうはずのない願望にすがろうとしている自分勝手な妄想もうそうを払いのけるように、首を振った。




身支度を整え、ソンギョンの祖父の店へ到着すると、ソンギョンの次兄ダオンが訪ねて来ていた。



ダオンとソンギョンは、年の差が5もあるにも関わらず、兄妹の中で最も気が合い、ダオンは時間が許せばソンギョンと共に祖父ヒョイルの店へ訪れていた。



自ずと、ジョンウとダオンも顔見知りになり、よく話すようになる。



ダオンはジョンウを弟のように、よく可愛がり、ジョンウはダオンを兄のようにしたっていた。



『おおジョンウ、久方ひさかたぶりだな。妹たちが世話になったと聞いた。礼を言うぞ。』



ダオンは疲れていた…




可愛がっていた妹たちが、大変なことになった。



可愛い盛りだったヘジョは亡くなり、両親の期待を背負っていた次女は目を覚まさない。




屋敷は息苦しく、重苦しく、鈍い空気が充満じゅうまんし、こらえきれずにヘジョの墓へ花を手向けに行ったついで、ソンギョンの顔を見に来たのであった。




父は陽国陽帝代理・主客郎中の列に、王族が2人、両班やんばんが1人、が乱入したとの知らせで、雅都宮へ対応と始末をしに駆けつけたきり、ヘジョの葬式にも現れなかった。



娘の葬式にも出られぬとは、如何なものか…



とムアン大君の屋敷にも訪ねてみたが、同様に雅都宮がときゅうから帰宅しておらぬ、とのことであった。




カン・ジフの父の姜家屋敷かんけやしき、母の実家でもあり、伯父おじチャン・ノギョルの張家屋敷ちゃんけやしきにも訪ねたが、みな同様で父の竹馬たけうまの友たちは雅都宮へ出仕したきり不在ふざいであるとのことであった。



ダオンは、ソンギョンの頭を撫でなから、この先の家族の生活を考えていた…




雅都宮では、勤政殿きんじょんでんであの事件当日からずっと王と大臣たちの問答もんどうが行われていた。



『王様、お願いにございます。娘の無念むねんをお晴らしください。今年は主客来賓しゅきゃくらいひんを中止し、鮮国せんこくふくしとうございます。王様のご親族、シムソぐん様、ソル公主こうしゅ様、も太刀たちを向けられ、シムソ君様は太刀にたおれました。いくら、冊封国さくほうこく朝貢国ちょうこうこくと言えど、王族と両班に太刀を向けるなど、到底とうてい受け入れられませぬ!王様、お願いにございます。』



ジュギルの言葉の後に、




『王様、お願いにございます。』




と大臣たちが合唱のように続く。




元々、鮮国の王の権威けんいは低く、先の世子の陽国訪問ようこくほうもん実質不備じっしつふびに終わり、国民の王と世子への畏怖いふも地に落ちていた。




そこに来ての、陽国陽帝代理・主客郎中の列への乱入らんにゅうとは言え、ほんの子どもの失敗に太刀を三度も振り上げ、しかも犠牲ぎせいになったのは王族と両班の身分の子どもたちである。




不問にして主客来賓を続けるなど、到底受け入れられるものではなかった。



しかし王は、自身の王妃の実家の勢力の傀儡かいらいであり、外戚がいせきたちは自身の親族がいないことをいいことに、知らぬ存ぜぬを決め込むつもりで、王は外戚が言い出さぬことを自身の口に出来ぬ仕組みになっていた。




ムアン大君てぐんは、あえて




『兄上』




と呼び掛けた。




『シムソは、兄上の甥でございます。ほんの子どもの甥が主客郞中の護衛に斬りつけられるなど、鮮国王族が他国の臣下に斬りつけられるなど、あってはならぬことにございます。お考え直しください。』




ムアン大君の呼びかけに、王は答えないままであった。




答えない…




ではなく、何も言えぬのである。




王の代わりに、外戚の領議政ヨンイジョンが答える。




『ムアン大君様、まつりごとに王族は関わらぬ決まりにございますぞ。しかも、シムソ君様は付き人もつけておらぬ外出であったそうではないですか。そもそも主客郞中は、陽帝の代理として訪れておるのですぞ。その主客郞中の列に乱入するなど、気のふれた沙汰さたにございます。論点ろんてんをすり替えて王様を困らせるなど、ごとはおひかえなさいませ。』



ムアン大君の強く握られた手からは、血がにじんでいた。




王は弟のムアン大君としゅうとの領議政のいさかいが激しくなり、嫌になったのか…



逃げたくなったのか…



サッと立ち上がり、勤政殿きんじょんでん玉座ぎょくざを後にした。




勤政殿はシンと静まりかえり、臣下たちもそのまま勤政殿を後にした。




領議政側の門閥もんばつは勝ちほこった顔であったが、そうでない大半の臣下たちは唖然あぜんとし、王の振る舞いに落胆らくたんの色をにじませていた。






ムアン大君と竹馬の友たちは、人払いをしたホン・ジュギルの執務室しつむしつに集まり、執務机しつむづくえに向かい合わせに座る。




が…




重い重い空気が流れ、張り詰めた時間が流れ、誰も何も言葉を発しない。




と、その沈黙が破られた…




『失礼致します。ムアン大君様、ホン・ジュギル様、王様が勤政殿に直ちに参内さんだいせよ、との命にございまする。』




皆で顔を見合わせた。




長い沈黙であったが、時間にするとそうは長くないはずである。




先ごろ勤政殿キンジョンデンから執務室へ移動したばかりで、いくばくも時は過ぎてはいない中、再度王からお呼びがかかるのは何故か…



それぞれに、いぶかしみが生まれ、嫌な予感が浮かび、なまりを飲み込んだような心持ちになった。




ムアン大君とホン・ジュギルが勤政殿に戻ると、陽国陽帝代理・主客郎中、リウ・ハオレンと王が待っていた。





あかあめ

【深い悲しみに満ちた、血の雨】(著者の造語)

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