第5章〜耳鳴り〜
ソンギョンは汗まみれになり、布団から飛び起きた。
とても嫌な夢であった。
ソンギョンの大切な人が、1人、また1人、といなくなってしまう夢であった。
起き上がってもなお、心に重い
嫌な
今日は、久しぶりに祖父の商店へ出かける予定であった。
だいぶ秋も深まり、日も短くなってきたので、まだ夜明けまではしばらく時間がある。
先日、祖父の商売仲間の子息、シン・ジョンウから借りた本を広げる。
難しい単語はあるがその部分は、
蘭語とは、今で言う英語のことである。
ランドルから流れてくる欧州の国々の文字の区別はまだ鮮国にはなく、みな蘭語と呼ばれていた。
この本はソンギョンの知る、小説などの
あまり
これもまた、ソンギョンは知り得ぬことではあるが、かの有名な劇作家が書いた、三大悲劇のひとつの
漢字があてがわれていない部分にも難しい単語がいくつもある。
今日はジョンウに会える予定なので、その単語をいくつも書き出していく。
ジョンウとは、祖父の商店へ訪れると必ず顔を合わせていた。
ジョンウの本に
いつも世話をしてくれるユナが
いつもの様に
祖父とは商店で待ち合わせであった。
都河港へ着くと、一番の大通りの入り口でジョンウが待っていた。
『祖父どのとの商談には何時に向かうのだ?見せたいものがあるのだ。時間はあるか?』
言い方はぶっきらぼうだが、優しさの
ソンギョンの祖父と同様、
2人は幼少の頃からの付き合いで、年もジョンウが2歳年上という、年齢も近いので幼少の頃から遊んでいた。
ジョンウはソンギョンにとって
互いに
ジョンウは今日もその約束をソンギョンに取り付けに来たのである。
『今日はお祖父様のおつかいを頼まれているの。午後からなら時間が空くわ。』
輿の小窓を開けてジョンウに答える。
『祖父どのの使いはどこへ参るのだ?私も共に参ろう。一度支度をしに参る。すぐに祖父どのの店へ参るゆえ、待っていてくれ。』
言い終わらぬうちに、駆けていく。
『全く…いつもそうなのよね。自分の伝えたいことだけ伝えて、飛び出して行ってしまう…』
やれやれ、と思いつつ、今日もジョンウと共に過ごせるのだと思うと、心が
ジョンウは、自身の家に急いでいた。
ソンギョンと今日も1日一緒にいられるのである。
ソンギョンとはソンギョンの祖父の店にソンギョンが訪れる時にしか会えず、それは月に数度しかない。
ソンギョンとは、父の商いに連れられて行くようになってからすぐに、商売仲間であるソンギョンの祖父チャン・ヒョイルの店を
そして気づいた時にはもう、共に笑いあって時を過ごす仲であり、ソンギョンと過ごす時間が楽しく、ソンギョンが祖父の店に訪れる日が待ち遠しくて仕方なく、時がたちそれが
しかし、ソンギョンは
しかし年頃の2人はいつ
今のジョンウにとって、ソンギョンが全てであり、大げさに言えば、ソンギョンが生きている理由である。
ジョンウは、外出できる用意を整え、ソンギョンの祖父宅へと急いだ。
『お祖父様、到着しました。』
店の玄関をくぐり、声をかけると、すぐ側の部屋から祖父が出てきた。
『おお、ソンギョンや到着したか。今日はあいにく、夕方から天気が崩れそうじゃ。洪の屋敷へ使いを走らせて泊まっていけ。わしの使いはの、今から出発すれば日が高いうちに帰ってこれるはずじゃてな。』
祖父と話をしているうちに、息せききったジョンウが店へ到着した。
『祖父どの、ご無沙汰しております。』
ジョンウの登場に祖父は一瞬目を見開いたが、挨拶をして話を進める。
『今日は、
祖父のヒョイルは、ソンギョンと自らが春道港へ
ヒョイルは今回の春道港で、ソンギョンに紹介したい商売仲間や、都河港には入ってこない、春道港ならではの見せたい品もあったが、一生懸命に隠しているが2人の焦る気持ちが
どうなるのであろうの…
ソンギョンとジョンウの淡い恋は実るのであろうか…
身分の差はどうにか埋まるのであろうか…
ソンギョンもジョンウも共に年頃である。
先の
両者共に、親は立派であり、容姿も整っており、人柄もよく、婿に、嫁に、とそれは引く手あまたであろう。
幼少の頃から2人を見守ってきた祖父は、2人の恋の行方に
ソンギョンとジョンウは2人揃って、ソンギョンの祖父に挨拶をして、店を出た。
ジョンウ1人であれば、馬で行くことも可能であるが、ソンギョンと共にあろうとすると、輿での移動になる。
隣同士に座るのは、
向かい合わせに座った。
いつも輿での移動は、誰にも邪魔されず2人だけの空間になるので、色々な話ができる大切な時間でもあった。
しばらく輿の中で、ソンギョンがジョンウより貸してもらった本の話をしていた…
とそこで、石に車輪が乗ってしまったのか車体が揺れた。
ソンギョンの体が前のめりに大きく揺れたので、それ以上ソンギョンの体が揺れないようにジョンウが隣に座って受け止める。
ジョンウはジョンウでソンギョンが怪我をしないように、と咄嗟に動いてしまい…
ジョンウは
ふと、我に返ると…
輿の中で2人は並んで座り、抱き合っていた…
のである。
2人はサッと離れ、黙ったまま、赤い顔と
心も身体も忙しく動いて、また更に我に返る…
2人は2人ともに互いが自分と同じ気持ちであることを知っていることを忘れていたのである。
そうなのだ…
互いが互いの抱える事情を知っているがゆえに、互いの気持ちは言葉には出さずに、知らぬふりを決め込んでいるのである。
出してしまえば、そこでおしまいになるから…である。
時間を共に…
これが、2人が言葉に出さずとも、互いの心に決めている共通の思いである。
2人は互いの顔を見て、苦笑いと照れ笑い、嬉しさと恥ずかしさ、を確認しあい、胸いっぱいの幸せをかみしめながら、互いに『ふふ』と笑いながら、どちらともなく互いの手を握りあい、春道港に到着するまで輿の中で並んで座り、手を繋いだまま過ごした。
ソンギョンとジョンウが春道港に赴き、数ヶ月が経ったある日。
ソンギョンとソル
いつもと変わらず万治通は店の使用人と、品物を買いに来る客、で混雑しており、賑やかであった。
特に今日は、
ソンギョンとソル公主が品物を見ている間、シムソ君とヘジョは奥の部屋で休んでいた。
シムソ君とヘジョとは別行動になるが、2人は今日、祖父の店の
声がかかるまで、奥の部屋で菓子を食べ時間を潰していた。
『どうかしら。この食器なら、2人の食卓で楽しい食事にならないかしら。あと、この
久しぶりのソルとの買い物に、ソンギョンは嬉しさのあまり、とても興奮していた。
『この後、まだ時間があるかしら。通りの先にある化粧屋の
年頃の娘らしく、2人は
『もちろんよ!行かない理由はないわ!』
2人は顔を見合わせて、嬉しそうに笑っている。
『この食器とこの食器、を
とソル公主と一緒にソンギョンも店の入り口付近で品定めをしていたのだが、店の奥の方へ入っていくので…
店の入り口から話し声が遠くなってゆく…
とそこへ、隠れていた2つの可愛い頭がひょこりと現れた。
2つの頭は、お互いの顔を見て頷き、静かに外へ出る。
一目散に通りを駆け抜けていき、しばらく行ったところで立ち止まり、辺りを見回して互いの顔を見て大笑いをする。
『うまくいったな、ヘジョ』
と笑いながら話しかける、シムソ君。
『はい!シムソ君様の作戦は見事です!』
と嬉しそうに頷くヘジョ。
『これからどちらへ参る?
とシムソ君は得意気であった。
『あちらの屋台で何やら美味しそうな匂いがしますゆえ、そちらへ参りとうございます。』
といつも祖父の店の使用人は忙しく、ソンギョンにしか都河港を案内してもらえないので、良家の子女が屋台のものを口にするなどとは…
と言う考えの姉は屋台では買ってはくれぬので、ここぞとばかりに羽を伸ばすヘジョである。
一方。
2人の姉たちは、妹と弟は大人しく奥の部屋で使用人頭を待っている、とばかり疑わず。
『ひとまずここまで選べば、ひと安心だわ。
とソンギョンは店の者に声をかけ、ソルと共に通りへ出ていく。
本日、祖父のヒョイルは外出中であった。
主客郞中を都河港へ受け入れ、都城の役人への引き渡しを、
と言う理由で主が留守にしており、ソンギョンがソルの
そうとは知らぬ姉たちは、お目当ての
『
と楽しそうに通りを歩く、ソンギョンとソルであった。
『今日は通りが賑やかね。』
とソルが話す。
『そうなの。陽国陽帝代理・主客郎中のリウ・ハオレン様がみえるそうなの。
とソンギョンが答える。
陽国への鮮国からの
『ソンギョン…暗い話はやめましょ?ねえ、今日はジョンウの姿が見えないけど…どうしたの?いつも、ソンギョンが到着する時間が分かるの?って言う瞬間に現れるじゃない?』
クスクス笑いながら、ソルはソンギョンをからかう。
『もう!笑いものにしないで?私がいつも知らせているのよ。今日はね、お祖父様も出席している会合に、ジョンウのお父様も出席なさってて、代理であちこち
綺麗な口を尖らせながら、ソンギョンが答える。
ソルは知っていた…
ソルとジフの様に、この親友の初恋が実らぬことを。
階級の壁は、例え王であっても、王族であっても、越えてはならぬし、越えることは許されぬことであった。
身分の低いものであれば、互いに誰とも婚姻をせぬまま、互いと婚姻は出来ずとも、死ぬまで関わりを持って暮らすことも叶うであろう。
ことソギョンにおいては、ソンギョンの父である、ホン・ジュギルの
婚姻をしておらぬ娘が家にいると世間に知られれば、大変なことになることは明白であった。
ソルは応援したくてたまらない、のである。
いつか話してくれるだろう、と今か今かと待っているのであり、共に想い人の話をしたいのである。
ソンギョンはこの話をなかなか話してはくれぬが、ソルは親友のソンギョンの気持ちはとうに知っていた。
そして、ソンギョンかジョンウ、どちらかに縁談が決まるまで、この親友の初恋を
想う相手と添い遂げる《そいとげる》ことが、何よりも大切であり、生き
『ソル、あの店よ。店構え《みせがま》も素敵じゃない?しかもね、1階は
ソンギョンはソンギョンで考えているのである。
ジョンウとの将来や悲しい現実を考えないようにしていたのだ。
考えずにいるので、ソルにも話したことはなかった。
話せば、実らぬ恋だと口に出さぬわけにはいかない。
口に出せば、改めて自覚もする。
儚い《はかな》夢だとしても、明日終わりを迎えることになろうとも、今は今なのであり、明日は明日に考えればよいことなのだ…
逃げだと名付ける人もいるであろう。
それでも、ジョンウと時間を共に、と考えるのであれば、ソンギョンにはこの方法しか思いつかなかったのである。
白粉の
2階にある白粉の店・
店主の娘が
都河港には新しい店であるが、活気も賑わいもあり、大通りの入り口にも位置しているので人気もあった。
2人とも、2階の透明唇膏で沢山の白粉やら、紅を買い込んだ。
ソンギョンも知らずにいたのだが、紅は新作が出ていて、それはもう大はしゃぎで選んだ。
白粉やら、紅が入っている入れ物の陶器にも
1階の
店内にはまだこの頃には珍しく、本場の南国の楽器を使用しての演奏もあった。
その演奏を聴きながら、珍しい甘味と陽国で店主自らが仕入れてきた茶が楽しめるのである。
この店が賑わいがない訳がない、のである。
ソンギョンとソルは、唇膏茶館でのんびりとお茶を飲みながら、甘味を楽しみ、楽しいお喋りを十分した後で、先ほど大量に購入した、透明唇膏の品を受け取り、再び通りに出る。
と、そこで聞き覚えのある大きな声が聞こえた。
『止まるのだ!やめるのだ!待て!ヘジョ!』
ソンギョンとソルは顔を見合わせた。
大変!2人はヘジョの名前と聞き覚えのある、シムソ君の声が聞こえ、声のした方へ走り出す。
角を曲がると、向こう側に陽国の行列が見えた。
国の
のである。
ソンギョンもソルもある力を振り絞り、駆け抜けた。
2人とも嫌な予感が胸いっぱいに広がる。
その思いを振り切るかのように、
近づくにつれ、何やら
それでもなお、走り続ける…
少しずつ見えてきた…
ところで。
ハッと息を飲む…
ヘジョが血だまりの中に倒れている…
ように見える…
立ち止まり、へたり込みたい気持ちを
とそこへ。
あっとなった
に、ソンギョンは身体が傾き、何かにぶつかった。
「ヘジョと血だまり」
「シムソ君と太刀」
「血の臭い」
すべての映像と記憶…
が、ぷつり、と止まってしまった。
~耳鳴り《みみなり》~
【実際には音がしていないのにも拘らず、何かが聞こえるように感じる症状。病気の前触れとも呼ばれる。】
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