第5章〜耳鳴り〜

ソンギョンは汗まみれになり、布団から飛び起きた。



とても嫌な夢であった。



ソンギョンの大切な人が、1人、また1人、といなくなってしまう夢であった。



起き上がってもなお、心に重いなまりのようなものが居座いすわって、さざ波を立てている。



嫌な胸騒むなさわぎのような気持ちをかき消す様に、布団から出た。



今日は、久しぶりに祖父の商店へ出かける予定であった。



だいぶ秋も深まり、日も短くなってきたので、まだ夜明けまではしばらく時間がある。



行灯あんどんに火を入れ、部屋が明るくなると沈んだ気持ちがいくばくかまぎれた。



先日、祖父の商売仲間の子息、シン・ジョンウから借りた本を広げる。



蘭語らんごで書いてある、大層珍たいそうめずらしい本であった。



難しい単語はあるがその部分は、陽国流ようこくながれの本のようで、漢字が所々ルビのようにあてがわれ、ソンギョンも読めるようになっている。



蘭語とは、今で言う英語のことである。

ランドルから流れてくる欧州の国々の文字の区別はまだ鮮国にはなく、みな蘭語と呼ばれていた。



この本はソンギョンの知る、小説などの文章形態ぶんしょうけいたいではなく、何やら左端より名前が始まり、次に続くのは人が話す言葉と認識される文章に続く。



あまり場景描写ばめんびょうしゃはなく、人の話す言葉の文章ばかりであった。



これもまた、ソンギョンは知り得ぬことではあるが、かの有名な劇作家が書いた、三大悲劇のひとつの芝居しばいを台本にしたものを読んでいるのである。



漢字があてがわれていない部分にも難しい単語がいくつもある。



今日はジョンウに会える予定なので、その単語をいくつも書き出していく。



ジョンウとは、祖父の商店へ訪れると必ず顔を合わせていた。



ジョンウの本に没頭ぼっとうしていると、いつの間にか窓の外が白んできて、夜が明けてきた。



いつも世話をしてくれるユナが手水ちょうずを部屋へ運んでくる足音が近づく。



いつもの様に身支度みじたくを整えて、祖父の家からの迎えの輿こし都河港とがこうまで向かう。



祖父とは商店で待ち合わせであった。



都河港へ着くと、一番の大通りの入り口でジョンウが待っていた。



御者ぎょしゃがジョンウに気付き、輿が止まる。



『祖父どのとの商談には何時に向かうのだ?見せたいものがあるのだ。時間はあるか?』



言い方はぶっきらぼうだが、優しさのにじ声色こわいろで話す青年である。



容姿ようしは世間で言う整った、精悍せいかんな、雰囲気の顔の持ち主で、どちらかと言うと軍配ぐんばいが上がりそうであるが、一代で大店おおだなの旦那まで上り詰めた、自身の父親と肩を並べる若いが立派な一人前の商売人しょうばいにんである。



ソンギョンの祖父と同様、乗船じょうせん隣国りんごく船出ふなでするため、船内や港の人足じんそくと渡り歩かなければならぬため、この容姿でちょうどいいのである。



2人は幼少の頃からの付き合いで、年もジョンウが2歳年上という、年齢も近いので幼少の頃から遊んでいた。



ジョンウはソンギョンにとって両班やんばんと言う身分や大きな屋敷の息女そくじょでなくてよい、ソンギョンのままでいられる存在でもあった。



互いに諸外国しょがいこくに明るく、あきないの目利めきき、客あしらいが上手く、同じものを同じ高さや角度から見られるので、共に過ごす時間が互いに楽しく、ソンギョンが都河港におもむく時はいつも2人で過ごしていた。



ジョンウは今日もその約束をソンギョンに取り付けに来たのである。



『今日はお祖父様のおつかいを頼まれているの。午後からなら時間が空くわ。』



輿の小窓を開けてジョンウに答える。



『祖父どのの使いはどこへ参るのだ?私も共に参ろう。一度支度をしに参る。すぐに祖父どのの店へ参るゆえ、待っていてくれ。』



言い終わらぬうちに、駆けていく。



『全く…いつもそうなのよね。自分の伝えたいことだけ伝えて、飛び出して行ってしまう…』



やれやれ、と思いつつ、今日もジョンウと共に過ごせるのだと思うと、心がはずむソギョンであった。



ジョンウは、自身の家に急いでいた。



ソンギョンと今日も1日一緒にいられるのである。



ソンギョンとはソンギョンの祖父の店にソンギョンが訪れる時にしか会えず、それは月に数度しかない。



ソンギョンとは、父の商いに連れられて行くようになってからすぐに、商売仲間であるソンギョンの祖父チャン・ヒョイルの店を頻繁ひんぱんに訪れるので、孫娘ソンギョンと頻繁に会する仲になる。



そして気づいた時にはもう、共に笑いあって時を過ごす仲であり、ソンギョンと過ごす時間が楽しく、ソンギョンが祖父の店に訪れる日が待ち遠しくて仕方なく、時がたちそれが慕情ぼじょうであるとジョンウは気付く。



しかし、ソンギョンは名門両班めいもんやんばんの娘、一方ジョンウは裕福であっても所詮しょせん中人ちゅいいん(貴族でも、奴婢でもない、中間層の人々)の息子、階級かいきゅうの差はどう足掻あがいても越えられず、ジョンウの前に高い山のようにそびえていた。



しかし年頃の2人はいつ縁談えんだんの話が親同士でまとめられてもおかしくない年齢であり、だからと言って現実を卑下ひげしていても仕方がなく、今ソンギョンと過ごせる時間を大切にしようと心に決めているジョンウであった。



今のジョンウにとって、ソンギョンが全てであり、大げさに言えば、ソンギョンが生きている理由である。



ジョンウは、外出できる用意を整え、ソンギョンの祖父宅へと急いだ。






『お祖父様、到着しました。』



店の玄関をくぐり、声をかけると、すぐ側の部屋から祖父が出てきた。



『おお、ソンギョンや到着したか。今日はあいにく、夕方から天気が崩れそうじゃ。洪の屋敷へ使いを走らせて泊まっていけ。わしの使いはの、今から出発すれば日が高いうちに帰ってこれるはずじゃてな。』



祖父と話をしているうちに、息せききったジョンウが店へ到着した。



『祖父どの、ご無沙汰しております。』



ジョンウの登場に祖父は一瞬目を見開いたが、挨拶をして話を進める。



『今日は、春道港ちゅんどうこうへ使いへ行って欲しくての。ジョンウや、そちは行ったことあろうの?ソンギョンは初めてのはずじゃ。案内を引き受けてくれるかの?いつもの、ほれ、あの大和やまと乾菓子ひがしを手土産にして参る、こうあつか南香堂なんこうどうの主人を覚えておるかの?あやつの暖簾分のれんわけした店が春道港にあるんじゃ。話は済んでおるでの、あの店でしか扱っておらぬ香があるで、それを受け取りに行って欲しいんじゃ。とても高直こうじきでな、希少きしょうなものゆえあつかいにはくれぐれも気をつけてくれよ。ジョンウや、ソンギョンを頼むぞ。』



祖父のヒョイルは、ソンギョンと自らが春道港へおもむく予定であった。



ヒョイルは今回の春道港で、ソンギョンに紹介したい商売仲間や、都河港には入ってこない、春道港ならではの見せたい品もあったが、一生懸命に隠しているが2人の焦る気持ちがけて見え、おまけに2人の現状を誰よりも近くで見ているヒョイルであり、可愛い孫娘に甘い甘い祖父は何も言い出せずに2人を見送った。



どうなるのであろうの…



ソンギョンとジョンウの淡い恋は実るのであろうか…



身分の差はどうにか埋まるのであろうか…



ソンギョンもジョンウも共に年頃である。



先の揀択かんてくによる、禁婚礼が解けると互いに縁談が来るであろう。



両者共に、親は立派であり、容姿も整っており、人柄もよく、婿に、嫁に、とそれは引く手あまたであろう。



幼少の頃から2人を見守ってきた祖父は、2人の恋の行方に前途多難ぜんとたなん見据みすえて、春道港への時間を2人におくったのであった。



ソンギョンとジョンウは2人揃って、ソンギョンの祖父に挨拶をして、店を出た。



ジョンウ1人であれば、馬で行くことも可能であるが、ソンギョンと共にあろうとすると、輿での移動になる。



隣同士に座るのは、はばかられ…



向かい合わせに座った。



いつも輿での移動は、誰にも邪魔されず2人だけの空間になるので、色々な話ができる大切な時間でもあった。



しばらく輿の中で、ソンギョンがジョンウより貸してもらった本の話をしていた…



とそこで、石に車輪が乗ってしまったのか車体が揺れた。



ソンギョンの体が前のめりに大きく揺れたので、それ以上ソンギョンの体が揺れないようにジョンウが隣に座って受け止める。



咄嗟とっさのことで、ソンギョンは何が起こったのか訳が分からず…



ジョンウはジョンウでソンギョンが怪我をしないように、と咄嗟に動いてしまい…



ジョンウは無我夢中むがむちゅうで取った行動であった。



ふと、我に返ると…



輿の中で2人は並んで座り、抱き合っていた…



のである。



2人はサッと離れ、黙ったまま、赤い顔と早鐘はやがねをうつ心臓の鼓動こどうが相手にさとられぬよう、下を向いたり、顔を見合わせないように、車窓の方へ顔を向けたり、忙しくしていた。



心も身体も忙しく動いて、また更に我に返る…



2人は2人ともに互いが自分と同じ気持ちであることを知っていることを忘れていたのである。



そうなのだ…



互いが互いの抱える事情を知っているがゆえに、互いの気持ちは言葉には出さずに、知らぬふりを決め込んでいるのである。



出してしまえば、そこでおしまいになるから…である。



時間を共に…



これが、2人が言葉に出さずとも、互いの心に決めている共通の思いである。



2人は互いの顔を見て、苦笑いと照れ笑い、嬉しさと恥ずかしさ、を確認しあい、胸いっぱいの幸せをかみしめながら、互いに『ふふ』と笑いながら、どちらともなく互いの手を握りあい、春道港に到着するまで輿の中で並んで座り、手を繋いだまま過ごした。






ソンギョンとジョンウが春道港に赴き、数ヶ月が経ったある日。



ソンギョンとソル公主こうしゅ、シムソぐん、ソンギョンの3歳下の妹のヘジョ、とで都河港のソンギョンたちの祖父、ヒョイルの店、万治通まんじつうへソル公主の頼んでおいた婚姻こんいんの品物を見物に来たのである。



いつもと変わらず万治通は店の使用人と、品物を買いに来る客、で混雑しており、賑やかであった。



特に今日は、陽国陽帝代理ようこくようていだいり主客郎中しゅきゃくろうちゅう、リウ・ハオレンが主客来賓しゅきゃくらいひんをしに陽国から使節団しせつだんとして来訪らいほうしており、その出迎えに都城の役人、野次馬やじうま見物客けんぶつきゃくに、といつにも増して都河港どがこうには往来おうらいがあった。



ソンギョンとソル公主が品物を見ている間、シムソ君とヘジョは奥の部屋で休んでいた。



シムソ君とヘジョとは別行動になるが、2人は今日、祖父の店の商船しょうせん使用人頭しようにんがしらに見学させてもらう予定であった。



声がかかるまで、奥の部屋で菓子を食べ時間を潰していた。



『どうかしら。この食器なら、2人の食卓で楽しい食事にならないかしら。あと、この生地きじでソルに鮮服せんぷくをあつらえて欲しいの。陽国のもっと西側にある国で織られた生地なのだけど、この赤がきっとソルの肌にとてもえると思うの。ほら、似合うでしょ?ソルはやっぱり肌が透き通るほどに白いわ。どんな色もたちまち似合ってしまうもの。本当に羨ましい…。』




久しぶりのソルとの買い物に、ソンギョンは嬉しさのあまり、とても興奮していた。




『この後、まだ時間があるかしら。通りの先にある化粧屋の白粉しらこが素敵でね、肌の色に合わせて何種類も用意してあって、ひとりひとりに合わせた色も特別に調合してくれるそうなの。紅も頬白粉ほおしろこ都城とじょうの店とは比べ物にならないほどあるのよ。ね、行ってみない?』



年頃の娘らしく、2人は嬉々ききとしてお化粧の話をしていた。



『もちろんよ!行かない理由はないわ!』



2人は顔を見合わせて、嬉しそうに笑っている。



『この食器とこの食器、をそろいで10組、この生地を積んであるもの全て、を頂くわ。布団用の生地もあるかしら。綿もあれば欲しいわ。万治通であつらえるものは、良いものばかりだから、婚礼の支度したくは万治通で全てそろえるようにと、母に言われているのよ。』



とソル公主と一緒にソンギョンも店の入り口付近で品定めをしていたのだが、店の奥の方へ入っていくので…



店の入り口から話し声が遠くなってゆく…



とそこへ、隠れていた2つの可愛い頭がひょこりと現れた。



2つの頭は、お互いの顔を見て頷き、静かに外へ出る。



一目散に通りを駆け抜けていき、しばらく行ったところで立ち止まり、辺りを見回して互いの顔を見て大笑いをする。



『うまくいったな、ヘジョ』



と笑いながら話しかける、シムソ君。



『はい!シムソ君様の作戦は見事です!』



と嬉しそうに頷くヘジョ。



『これからどちらへ参る?金子きんすなら少し持っているゆえ、屋台も見物も楽しめるぞ。』



とシムソ君は得意気であった。



『あちらの屋台で何やら美味しそうな匂いがしますゆえ、そちらへ参りとうございます。』



といつも祖父の店の使用人は忙しく、ソンギョンにしか都河港を案内してもらえないので、良家の子女が屋台のものを口にするなどとは…



と言う考えの姉は屋台では買ってはくれぬので、ここぞとばかりに羽を伸ばすヘジョである。



一方。



2人の姉たちは、妹と弟は大人しく奥の部屋で使用人頭を待っている、とばかり疑わず。



『ひとまずここまで選べば、ひと安心だわ。透明唇膏とうみんちゅんがおへ出掛けてきます。』



とソンギョンは店の者に声をかけ、ソルと共に通りへ出ていく。



本日、祖父のヒョイルは外出中であった。



万治通まんじつうのある大通りに大店をかまえる旦那たちとの、月に一度の集まりに出掛けていた。



陽国陽帝代理ようこくようていだいり主客郎中しゅきゃくろうちゅうが本日、都河港とがこうへ到着するはずである。



主客郞中を都河港へ受け入れ、都城の役人への引き渡しを、大店おおだな旦那衆だんなしゅうで引き受けるように王命おうめいが下っていた。



不備ふびがあれば大問題になるので、その最終確認で集まり、じきに到着する主客郞中を迎える手はずを整えていた。



と言う理由で主が留守にしており、ソンギョンがソルの婚礼調度こんれいちょうどを選ぶ手伝いをし、手薄てうすな店でヘジョとシムソ君は抜け出しに成功したのであった。



そうとは知らぬ姉たちは、お目当ての白粉しらこの店へはしゃぎながら向かっていた。



白粉しらこのお店ね、透明唇膏とうみんちゅんがおと言うの。透明唇膏とうみんちゅんがおと言う、めずしい軟膏なんこうも置いてあって、唇をなめらかにしてくれるのよ。そうすると、べにの引きがよくなるの。』



と楽しそうに通りを歩く、ソンギョンとソルであった。



『今日は通りが賑やかね。』



とソルが話す。



『そうなの。陽国陽帝代理・主客郎中のリウ・ハオレン様がみえるそうなの。随分ずいぶんお若いとのお話なのだけど、まだ鮮国の皆はお目にかかったことがないらしいのよ。今年は重い主客来賓しゅきゃくらいひんにならないといいわよね…』



とソンギョンが答える。



主客来賓しゅきゃくらいひん鮮国せんこくの者で、知らぬものはいなかった…



陽国への鮮国からのひんみんしん、まで全てのみつぎものの話であった。



『ソンギョン…暗い話はやめましょ?ねえ、今日はジョンウの姿が見えないけど…どうしたの?いつも、ソンギョンが到着する時間が分かるの?って言う瞬間に現れるじゃない?』



クスクス笑いながら、ソルはソンギョンをからかう。



『もう!笑いものにしないで?私がいつも知らせているのよ。今日はね、お祖父様も出席している会合に、ジョンウのお父様も出席なさってて、代理であちこちあきないに回っているみたいなの。』




綺麗な口を尖らせながら、ソンギョンが答える。



ソルは知っていた…



ソルとジフの様に、この親友の初恋が実らぬことを。



階級の壁は、例え王であっても、王族であっても、越えてはならぬし、越えることは許されぬことであった。



身分の低いものであれば、互いに誰とも婚姻をせぬまま、互いと婚姻は出来ずとも、死ぬまで関わりを持って暮らすことも叶うであろう。



ことソギョンにおいては、ソンギョンの父である、ホン・ジュギルの才覚さいかくで、洪家は勢いのある両班やんばんの家系のひとつに数えられるようになり、両班の中でも有力な名門両班の仲間入りを果たしていた。



婚姻をしておらぬ娘が家にいると世間に知られれば、大変なことになることは明白であった。



ソルは応援したくてたまらない、のである。



いつか話してくれるだろう、と今か今かと待っているのであり、共に想い人の話をしたいのである。



ソンギョンはこの話をなかなか話してはくれぬが、ソルは親友のソンギョンの気持ちはとうに知っていた。



そして、ソンギョンかジョンウ、どちらかに縁談が決まるまで、この親友の初恋をひそかに応援しようとソルは決めていたのである。



想う相手と添い遂げる《そいとげる》ことが、何よりも大切であり、生き甲斐いきがいであり、生きる全てである…それが、この時のソルとソンギョンであった。



『ソル、あの店よ。店構え《みせがま》も素敵じゃない?しかもね、1階は甘味処かんみどころになっていて、茶も飲めるの。』



ソンギョンはソンギョンで考えているのである。



ジョンウとの将来や悲しい現実を考えないようにしていたのだ。



考えずにいるので、ソルにも話したことはなかった。



話せば、実らぬ恋だと口に出さぬわけにはいかない。



口に出せば、改めて自覚もする。



儚い《はかな》夢だとしても、明日終わりを迎えることになろうとも、今は今なのであり、明日は明日に考えればよいことなのだ…



逃げだと名付ける人もいるであろう。



それでも、ジョンウと時間を共に、と考えるのであれば、ソンギョンにはこの方法しか思いつかなかったのである。



透明唇膏とうみんちゅんがおと言う店は、とても面白く、珍しい店である。



白粉の特注とくちゅうも人気の理由であるが、それだけではないのである。



2階にある白粉の店・透明唇膏とうみんちゅんがおで注文した商品を1階にある、唇膏茶館ちゅんがおくわん甘味かんみと茶を、楽しんでいると調合して用意してくれる、と言う画期的かっきてきなしくみになっていた。



店主の娘が考案こうあんしたと、ジョンウに教えてもらった。



都河港には新しい店であるが、活気も賑わいもあり、大通りの入り口にも位置しているので人気もあった。



外観がいかんも、鮮国にはない造りで、陽国でも大和国やまとのくにでもなく、もっと海を下ったところにある、屋根が葉で造られているようで、南国のような造りである。



2人とも、2階の透明唇膏で沢山の白粉やら、紅を買い込んだ。



ソンギョンも知らずにいたのだが、紅は新作が出ていて、それはもう大はしゃぎで選んだ。



白粉やら、紅が入っている入れ物の陶器にも細工さいくった絵が描いてあり、乙女の心をつかんで離さぬ逸品いっぴんばがりであった。



1階の唇膏茶館ちゅんがおくわん一風いっぷう変わっており、内装も南国風なのである。



店内にはまだこの頃には珍しく、本場の南国の楽器を使用しての演奏もあった。



その演奏を聴きながら、珍しい甘味と陽国で店主自らが仕入れてきた茶が楽しめるのである。



この店が賑わいがない訳がない、のである。



ソンギョンとソルは、唇膏茶館でのんびりとお茶を飲みながら、甘味を楽しみ、楽しいお喋りを十分した後で、先ほど大量に購入した、透明唇膏の品を受け取り、再び通りに出る。



と、そこで聞き覚えのある大きな声が聞こえた。



『止まるのだ!やめるのだ!待て!ヘジョ!』



ソンギョンとソルは顔を見合わせた。



大変!2人はヘジョの名前と聞き覚えのある、シムソ君の声が聞こえ、声のした方へ走り出す。



鮮明せんめいな声だったので、すぐ側のはずである。



角を曲がると、向こう側に陽国の行列が見えた。



国のおきてとして、みやびくらいの者の列を横切るものは、切り捨てられる…それは、鮮国、陽国、共通の約束事であった…



のである。



ソンギョンもソルもある力を振り絞り、駆け抜けた。



2人とも嫌な予感が胸いっぱいに広がる。



その思いを振り切るかのように、一心不乱いっしんふらんに駆け抜ける。



近づくにつれ、何やら不穏ふおんな空気と血のにおいが充満じゅうまんしていた。



それでもなお、走り続ける…



少しずつ見えてきた…



ところで。



ハッと息を飲む…



ヘジョが血だまりの中に倒れている…



ように見える…



立ち止まり、へたり込みたい気持ちをふるい立たせ、止まることなくけ抜ける。



とそこへ。



太刀たちと思わしき光が反射した銀色のものが、シムソ君へ今振り下ろされそうになっていた…



あっとなった途端とたん



に、ソンギョンは身体が傾き、何かにぶつかった。



「ヘジョと血だまり」



「シムソ君と太刀」



「血の臭い」



すべての映像と記憶…



が、ぷつり、と止まってしまった。




~耳鳴り《みみなり》~

【実際には音がしていないのにも拘らず、何かが聞こえるように感じる症状。病気の前触れとも呼ばれる。】

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