第4章~白驟雨~

ソンギョンが14歳の年…



事件が起こった。



世子せじゃ(次代の王、東宮)である、ヤンミョンぐんが時の王である、父・順宗じゅんそうの代理で朝礼ちょうれい(挨拶)のおさとして陽国ようこくへ出かけた。



ところが…



陽帝ようていへの拝謁叶はいえつかなわず、そのまま帰国してしまったのである。



本来であれば、拝謁叶うまでさくこうじ、何としても拝謁して、帰国せねばならなかったし、それ相応そうおうの理由があったのである。



それは…



次年じねん冊封国さくほうこく(朝礼をしに行った国の臣下になる、家臣になっている国)の朝項ちょうこうとして、陽国陽帝代理ようこくようていだいり主客郎中しゅきゃくろうじゅう(臣下の国で様々な取り決めを行う役人)がやって来て、陽国から鮮国は様々さまざまみつぎ物の目録もくろくさだめられ、要求され、郎中の帰国と共に鮮国より貢がれた朝貢を手土産てみやげに持ち帰る、という主客来賓しゅきゃくらいひん(様々な取り決めをしに役人がやってくるが、冊封されている国側は、皇帝と同じ扱いでもてなすことが必須であった)と言う行事が待っており、こちらの対応いかんによって、貢ぎ物の増減ぞうげん優劣ゆうれつ、が決まるのである。



いくら王や王族であっても、名門両班めいもんやんばん(貴族)であっても、陽帝のには逆らえず、どの様な砂でも飲み込まずには終えられない、恐ろしく皆にのし掛かる重い重い重責じゅうせきであった。



そして、王族や両班を人一倍恐怖ひといちばいきょうふさせふるえ上がらせていたのは、鮮国の国民が奴隷どれいとして連れて行かれる、貢奴こんど貢女こんにょであった。



貢奴と貢女は、何も殱民せんみんと呼ばれる最下層の人びとからばかり選ばれるのではなく、両班や王族も求められれば、いな、とは言えず輩出はいしゅつせねばならぬつらいものであった。



以上のことを理解していた上で来訪らいほうしていたにも関わらず、陽帝への挨拶へとおもいた世子が拝謁はいえつせずに帰国したほう早馬はやうまによって都城とじょうにもたらされ、雅都宮とがきゅうだけでなく、都中みやこじゅう騒然そうぜんとなった。



過激な集団などからは、世子をはいしかるべき王族より新たな世子を選び直さねばこの国はほろびる…



との声も上がり、雅都宮正門前がときゅうせいもんまえ儒学生じゅがくせい(法律である儒教を学ぶ様々な年齢の人々)からの上訴抗議じょうそこうぎも起こったのは、当然と言えば当然の出来事である。



都城を守る、都城府とじょんぶ(警察隊)が出動しゅつどうし、死傷者ししょうしゃ、逮捕者、が出る程の衝突しょうとつも起きた。



そんな暗雲あんうんたちこめる事件が起こって、しばらくったあるさわやかな秋晴あきばれの日のこと。






『姉上、早く参りましょう。急がねば、すぐに日暮ひぐれになってしまいます。姉上は、全く…用意に時間がかかりすぎなのです。』



温厚おんこうでのんびり屋のシムソ君には珍しく、姉のソル公主こうしゅを急かしていた。



『ちょっと待ってってば!そんなに急がなくても大丈夫よ。ソンギョンはまっていてくれているわ。そうだ!シムソ、ソンギョンが大好きな焼き菓子と先日頂いたお茶は用意してある?』



今日は親友のソンギョンの屋敷にお呼ばれしており、姉弟そろって大騒ぎで用意をしているのであった。



『お嬢様お輿こしの用意が調いました。』



御者ぎょしゃがソルの部屋の外で呼んでいる。



御者はソンギョン嬢に会いに出かける時の姉弟がいつになく嬉しそうに、楽しそうに、騒いで用意をしている姿が、使用人としてとても嬉しい気持ちであった。



『ありがとう。今出るわ。』



ソルから気持ちのいい返事が帰ってくる。



ソルは屋敷の使用人たちへも、おごり高ぶり、尊大そんだいな態度を取ることもなく、分けへだてなく接してくれ、気の優しい主人であると、使用人の間でも人気があった。



『お母さま行って参ります。』



二人揃って、母の部屋に出かける挨拶をしに寄る。



『まぁま。シムソや、母に挨拶そこそこ、出発したい気持ちがはやりそわそわ、母は何と言って送り出したらよいやら…』



いつもは両の親に礼をいたことのないシムソ君が、はやる気持ちがおさえられずにそわそわしているのが、母は楽しくて仕方がない様子であった。



『そうなの。シムソったら、朝早くから私の部屋に来て、ずっとこの調子なのよ。』



吹き出しじりに姉から母に報告されて、うつむいたままのシムソ君がやっと口を開いた。



『ソンギョンさんが、商談しょうだんで出かけた大和やまとの国の土産みやげを見せてくれるそうなのです。ソンギョンさんのお話は都城の貸本屋かしほんやにもない新しくて珍しいお話ばかり、見せてくれるものは、都城の珍物屋ちんぶつやにもどこにもない、異国の不思議な道具なのです。』



母と姉に散々にからかわれ、もう隠すことが徒労とろうに終わる気がして開き直るシムソ君である。



『それに、ソンギョンさんのお話はとても楽しくて、時がすぐに過ぎてしまうのです。だから一刻も早く参りたいのです。早くお会いしたいのです。なのに、姉上ときたら…のんびりしてらっしゃるので、隣でお手伝いをして差し上げておりました。もう出発の時間はとうに過ぎているはずです。』



母と姉が顔を見合わせて、吹き出している。



もういいから、早く出発を…とシムソ君はため息をついていた。



2人の母、ユン氏から見てもソンギョンはとても愛らしく目を見張るほどかしこく、礼儀正しい娘であった。



そんなソンギョンはソル公主にとって申し分のない友であり、シムソ君には王族がなかなか知り得ぬたみの暮らしぶりや世情せじょうを教えてくれる、有難ありがたい存在でもあった。



そろそろ解放してやらねば…



と、シムソ君が可哀想かわいそうになってきたユン氏は、2人に持たせる手土産てみやげの話に切り替えた。



『母もいつも子どもたちがお世話になっているソンギョンが楽しい旅に出られるよう、船上せんじょうで使える身の回りの携帯用品を選んでおいたわ。あと、大監てがむ・旦那様・にお酒と張氏・奥様・にも菓子を用意させたわ。母からの日ごろの礼と一緒に心ばかりの品を届けておくれ。』



互いの旦那同士だんなどうしの付き合いから始まった、ゆん氏と張氏の出会いだが、お互いがお互いに初対面で意気投合いきとうごうしたあと、旦那抜きで頻繁ひんぱんに会う旧知きゅうちの仲なのだ、と使用人たちから耳にしているソルである。



今日は、ソルとシムソが楽しめるよう、洪家に同行するのを遠慮してくれている様子であった。






『行って参ります。』



2人揃って、母の部屋をした。



屋敷の門をくぐり、輿こしに乗る。



今日は、普段ソルが使用する、姉と共有の輿よりも一層豪華いっそうごうかな母の輿を貸してもらえ、ふかふかの布団が引いてある座部ざぶに、飾りかざりまど装飾そうしょく絢爛けんらんで、高揚こうようした気持ちでソルは乗っていた。



シムソ君は徒歩とほで輿の隣を歩いており、ソルに他愛たあいもない話を投げてくる。



そんなシムソ君の話に適当な相づちを打ち、ソルの心は違うところへ飛んでいた。



ソルの心の旅先のお相手は、父のたけうま馬の友であるカン・テウンの息子しそく、カン・ジフである。



ずっと小さな頃から、ソルとジフは幼なじみであった。



父の友人はそれぞれに持った家族とも互いに頻繁に交流があり、よく集まっていた。



沢山の人数の幼なじみ同士、顔を突き合わせて共に時が経ち成長し、年頃になれば、幼なじみの中でそれぞれあわい初恋が知らぬうちに生まれるのも、自然の摂理せつりである。



そんな幼なじみの中で、ソルとジフは恋文こいぶみ交換こうかんする仲になっていく。



まだ始まったばかりの、淡い初恋であるソルとジフの仲を知るのは、ソンギョンとシムソ君だけであった。



今日はソンギョンの洪家の屋敷で、ソンギョンのみに会う約束であるが、最近は頻繁にソル、シムソ姉弟とソギョンとジフの4人で出かけていた。



そろそろ年頃でもあり、縁談えんだんの話がお互いに始まる前に、お互いの父に二人の関係を伝えたいと相談をしている、ソルとジフである。



ジフの生家、かん家は燕慈えんじ時代より王族に支える、現在の王家よりも古く由緒ゆいしょのある名家めいけである。



本人同士の淡い初恋とは言えど、縁談の話としては両家にとって良縁りょうえんであり、気心きごころの知れた間柄あいだがら恋仲こいなかの子どもたちが思いあいっているのである。



互いの父たちが反対する理由はないであろう。



ソルは今日、ソンギョンにその報告をしたいと心をはずませていた。



そう言えば…



ソンギョンはそう言った浮いた話を1度もしたことがないな…



ジョンウとはどうなっているのであろう…



いつも仲良く息がぴたりと合っている、ソンギョンとジョンウの2人である。



しかし自分に話さないと言うことは、何か思うことがあるのであろうな…



逡巡しゅうじゅんしたところで…



洪家に到着したと、御者の声で現実に戻ってきた。



輿を降りると、シムソ君のほほふくれていた。



おおかた途中から輿の中の姉から返事がもらえなくなり、膨れているのであろう。



最早さいそう、洪家に到着したのに膨れている弟の世話などする気もないので、そのまま洪家の門をくぐる。



ソンギョンが門のすぐそばで、芍薬しゃくやくのような笑顔とたたずまいで迎えてくれた。



ソンギョンは、母・張氏ちゃんしの姉たちそれぞれが都城とじょうでも評判ひょうばんの美人であり、その伯母おばの血を色濃いろこく受け継いでいるらしく、幼少の頃より愛らしく美しい少女であった。



『二人ともいらっしゃい。とても楽しみにしていたの。さあ、上がって。』



はずむような足取あしどりで、二人を自室じしつまで案内する。



ソル公主とシムソ君はそれぞれに用意してきた手土産を広げ、説明と紹介をする。



終えると、ソンギョンはなにやら大きな箱と世界図絵せかいずえを運んできた。



『これはね、望遠鏡ぼうえんきょう、というものらしの。』



とソンギョンが紹介してくれる。



和国わこくは近頃、ランドルと呼ばれる…ちょっと待ってね、ここ!この国と取引をしていてね。和国の港で、付き合いのあるランドルの貿易商ぼうえきしょうに偶然会ったの。』



と世界図絵をバサバサと広げながら、ランドルを教えてくれる。



(ランドル…随分ずいぶん遠いところね。こんなにも遠い所から旅をするなんて。家に本当に帰り着くのかしら…)



ソルはソンギョンの話しを聞きながら、空想くうそうふくらます。



『ランドルの貿易商が、この双眼鏡そうがんきょうと言うものと、望遠鏡とね、見せてくれて、どうしても欲しくなってしまって…祖父と長い時間、問答もんどうをして手に入れたの。お陰で来月からしばらく都港の店で、使用人と共に働くことになってしまったわ…。お代をみずからの手で働いて返しなさい、と言われたの。』



と双眼鏡を見せてくれながら、花が咲いたようにころころと笑う。



そんなソンギョンに見とれていたシムソ君をつつく姉のソル公主。



我に返り…



『これはどのようにして使うのですか?』



と焦って答えるシムソ君に、吹き出すソル公主。



そんな2人のやり取りをクスクスと笑いながら、ソンギョンはシムソ君に双眼鏡を手渡してくれる。



『この双眼鏡は、こちら側を両の目に当てるのです。目に当ててのぞいてみると、遠くのものが近くに見えるでしょう?あの、石がすぐ手に取れるほど近くには見えませぬか?どのような仕組みかは分かりませぬが、とても不思議で面白いものなのです。』



説明しながら、開け放った窓から見える、屋敷の庭をあちこちと指差しながら、双眼鏡の説明をしてくれている。

双眼鏡から目を離すと、考えていたよりもソンギョンの顔がすぐ近くにあった。

みるみるうちにシムソ君の顔が真っ赤に変わる。



そんなシムソ君に全く気が付かないソンギョン、その2人を眺めて、やれやれ…



と思うソル公主であった。



『ソル。今日は早く帰らなければならないかしら。望遠鏡と言う、この箱の中の道具でね、2人に見せたいものがあるの。もしよかったら、泊まっていかないかしら。』



ソンギョンの申し出に、ソルとシムソ姉弟は嬉しそうに頷く。



『もちろんよ!私もソンギョンに聞いてもらいたい話があったの。嬉しいわ。枕を並べましょうね。シムソはどうする?お世話になる?』



ソンギョンと過ごせる時間が長くなるのだ。



断る理由はどこにもない。



『私も世話になる、と屋敷へ使いを出します。』



シムソ君は、嬉しそうに立ちながら使用人を探しに部屋を出た。



部屋にソンギョンと2人きりになった。



ソルは恥ずかしそうに、嬉しそうに、話し始める。



『あのね。私…ジフとのことを父上に話そうと思っているの。ジフも私とのこと、ジフのお父上に伝えるそうよ。じきに揀択かんてく(王の跡取りの嫁選び)になり、禁婚礼きんこんれい・年頃の娘は結婚が禁止される・が始まるわ。その前に婚約だけでもしようと2人で相談をしたの。』



ソンギョンの容姿ようしはずば抜けており、いつも隣にいるソルは忘れられがちだが、世間一般の基準からすると、ソルもかなりの器量きりょうよしである。



肌は透き通るように白く、目鼻立ちはととのい、あわ雪のようにはかない、触るとたちまち溶けてしまいそうな、柔らかい雰囲気の可愛らしい娘である。



そんな可愛らしいソルが、頬をあかく染め下を向いている…ソンギョンはそんなソルの可愛らしさと、ソルが幸せになれるのだ!と言う約束で、嬉しくてたまらなくなり、思わずソルを抱き締めていた。



『おめでとう、ソル。自分のことのように嬉しい。絶対に幸せになってね…』



目にいっぱいの涙がまって言葉に詰まってしまい、最後は言葉にならなかった。





夜になり、3人は洪家の庭で空を眺めていた。



『ソンギョンさん、姉上、すごいです!月の表面が見えます!月はデコボコしているのですね。この望遠鏡とやらは、素晴しい道具です。姉上!こちらに来て、是非ご覧ください!』



シムソ君が大喜びをしている姿を、ソンギョンとソルは少し後ろで嬉しそうに眺めていた。



ソンギョンの心は、温かい気持ちでいっぱいであった。



嬉しい知らせを運んでくれた親友のソル、新しい世界を両手を広げて受け止めようと顔を輝かせている我が弟のようなシムソ君。



この2人といつまでもいつまでもいつまでも、この様に過ごせていけたらどんなに幸せなのだろう…そう思わずにはいられない、中秋ちゅうしゅう名月めいげつであった。




白驟雨はくしゅうう

【雨足が強く地面に落ちる際に白く跳ね返るような力強い秋の雨。】

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