第3章~青東風~

ソンギョンが3歳になる年に妹のヘジョが産まれ、7歳になる年にすえの妹、後の元宗げんそう王妃・ホン氏スンアが産まれた。



少しさかのぼるが、ソンギョンが生まれて年をまたいだ、寒さがまだまだ厳しかった季節に、この冬二度目の流行り病が都城とじょうを包み込んだ。



その折、ソンギョンのすぐ上の姉・ミンソが流行はややまいで亡くなる。



この時の流行り病は、すさまじい感染力で都城を包み込んで離さなかった。



比較的に栄養状態もよかった両班やんばんの家族も、一家で罹患りかんして主人家族が全て亡くなる…という話も飛びった。



そんな流行り病に幼かったミンソは罹患し、両親の看病のかいなく、両親を悲しみのうずへ迷いこませてしまった。



悲しい出来事を柔らかく、優しく、包み込んでくれたのが、この後にほん家にやってきた、ヘジョとスンアである。



ソギョンは5人兄弟の3番目として、仲睦なかむつまじい両親、にぎやかな兄弟と共に、なに不自由することなく育っていく。



子どもたちが成長するにつれ、父の竹馬の友たちの子息しそく息女そくじょ、もそれぞれの奥方おくがたと共に来邸らいていするようになり、屋敷が大層賑たいそうにぎやかになることも増えた。



中でもソンギョンは、年も1つしか違わない、ムアン大君の第二子・公主こうしゅソルと仲がよく、ソルの後ろを追うソギョンより3歳下のムアン大君てぐんの次男、のち恵宗けいそうシムソ君とよく遊んだ。



その日もムアン大君家族が来邸し、屋敷は賑やかになり、ソンギョンはソル公主と共に自室じしつで遊んでいた。



隣にはもちろんシムソ君があり、3人の目の前には大きな紙が広げられていた。



その紙には、碁盤目状ごばんめじょうの線があり、【sea、round、north、south】と訳の分からない文字のような走り書きのような、不思議な線が上下左右に各1つずつと、山のような絵、海に立つ波のような絵、が描いてある、大きな紙の名は世界図絵せかいずえと呼ぶのだそうだ。



先日、母方の祖父にもらった世界図絵とやらをソギョンは親友のソル公主とその弟シムソ君に披露ひろうしていたのである。



『この大陸に小さく出ている部分が、私たちの国なの。世界はこんなに広いのよ。おじい様がよく出かけているのがね、こことこことここの国なの。暖かくなったら、都河港とがこうまで私も連れていってもらえるのよ。都河港には、たくさんの国の人たちがいるんですって。だから私もたくさんの国の人たちと話したくて、たくさんの国の言葉を勉強しているの。』



得意満面とくいまんめんのソンギョンに、ソル公主が訪ねる。



『国によって言葉が違うってこと?もしかして、着ているものも違うの?』



ソル公主の隣で黙ったまま、世界図絵とやらをながめていた、シムソ君は



『この紙は何て言う名前なの?本当にこの紙は正確なの?どうして我が国はこんなに小さいの?屋敷からここまで、自分で歩くと随分ずいぶん時間がかかるよ?本当にこんなに小さいの?』



などと、独り言のような、姉と姉の親友に質問しているような…



そんな言葉をつぶやいていた。



その様子をソンギョンの部屋の扉の向こうで、ソル公主とシムソ君を呼びに来た、ムアン大君が笑顔でのぞいていた。



利発りはつな我が子たちと、親友の娘。



この小さな国の小さな部屋で広く大きな世界の話をしている子どもたちが、微笑ほほえましくもあり、頼もしくもあり、嬉しい気持ちで満たされていく、ムアン大君であった。






それからしばらくして。



ソンギョンは、母方の祖父、前張家ぜんちゃんけ当主とうしゅヒョイルに張家の商船しょうせん停泊ていはくしている、都河港に連れてきてもらっていた。




都河港とがこうは、みやこ都城とじょうを流れる大河たいが道江どうこうが流れ着く港である。




輿から都河港とがこうへ降り立ったソンギョンは声にならない驚きで呆然としていた。



目に入る全てのものは、都城とじょうでは目にすることがないものであり、目まぐるしく動き回る人たちが立てる砂ぼこり、活気に満ちた雰囲気を乗せた潮風、あたり一面が輝いて見え、興奮と港街の熱量で上気したソンギョンの頬が染まっていた。



賑やかな街全体は時代が下っても変わらず、かつてソンギョンの母・チャン氏を虜にした、そのままであった。



ヒョイルは瞬きすらも忘れて、都河港とがこう一番の通りで未だ動かずにいる孫娘を促し、自身の商店へと進む。



本日中に終わらせることができなければ、住居用にはあつらえていない、商店の物置部屋で翌日を迎えなければならぬし、何より大きな商いをしている為、大きな損失が生まれてしまう。



それは何としても避けたかった。



『ソンギョンや、そろそろ店へ行くことにしようかの。』



ソンギョンは祖父の声で我に返り、や

っと瞬きを再開し、口も閉じた。



途端に我に返り、息せき切ったように次から次へと、早口にまくし立てる。



『おじい様、都でない港街なのに想像以上に大きな街なのね。人びとも都より活気があるわ。勢いのある場所には、勢いのある人が集まると本で読んだわ。本当なのね…。おじい様の商いを見せてもらえるかしら。昨日読み終えた本がちょうど銭の本だったの。銭の不思議がたくさん記してあったわ。銭は物なのに、生き物であり、生き物なのに、自ら動くことは叶わない。外見は変わらないのに、中身が変わる。とても不思議な本だったの。』



祖父は首をかしげた…。



興奮しながらまくし立てて話す孫娘は、どこでそのような難しい本を見つけたのだろう…。



後日談であるが、ソンギョンは男装をして、ムアン大君の子息たちや、自身の兄たち、が通う私塾に紛れ込み、ムアン大君の師でもあった、誠等館そんとんがん前大提学ぜんてじゃはくも努めた教授の講義で出た話であり、本で読んだなどとは事実無根じじつむこんであった。



店に着くやいなや祖父は帳簿を確認し始める。



ソンギョンは、店の商品を手に取って鼻が付きそうなほど顔を近づけてみたり、腕組みをして少し離れて眺めながらぶつぶつと呟いてみたり、たがめすがめつひとつひとつを丹念たんねんに見ていった。



書物で見たこと読んだことがあるもの、名前や原産国はおろか、使い方すら想像ができないもの、我が鮮国産せんこくさんのものでも、ソンギョンが見たことのないほど凝った細工がしてあるもの、この世のものとは思えない程に滑らかなさわり心地の生地、一目で高級とは、こういう物を指すのだ、と分かるほど高じきなもの、様々なもの、が品よく並んでいた。



屋敷では、祖母にやり込められることに甘んじ、力関係が誰の目にも明らかな祖父母夫婦を演じているはずの祖父が、目の前の商品を見れば見るほどに素晴らしく、祖父の商才と見識の高さを見せつけるように鎮座ちんざしていた。



一通り店の商品を見て回ると、ふらりと通りに出て、祖父の店をあおぎ見る。



外から見る祖父の店の屋号やごう万事通まんじつうの立て札だけでも、周囲の店と比べ、贔屓目ひいきめを抜いても大きくて立派なものであった。



しばらく外で通りを眺めたり、行き交う人びとを眺めたり、興味の赴くままに五感を働かせて周囲を探索した。



『ソンギョンや。ソンギョン。』



と言う、遠くからのあるかなしかの呼びかけに振り向く。



すると、すぐ後ろに祖父が立っていた。



集中のあまり、祖父の呼びかけが耳に入らなかった様である。



『はぇ?おじい様?』



と答えると、



『船は見なくてもいいのかの?今日また新しい荷が港に着いたと連絡があって、ここへ来たんじゃ。店に出さんもんもあるぞ。行ってみるか?』



ソンギョンの顔がみるみるうちに輝いていく。



『もちろんよ!!』



喜びのあまり、祖父の進行方向とは別の方に勢いよく歩き始め、祖父の気配がないことに気付き、反転して祖父と同じ方向に歩き始める。



『おじい様。荷はどこから届いた物なの?都港からどれくらいの時を経て、目的の港まで到着するの?どれくらいの時で都港に帰ってくるの?難破なんぱしたりはしないの?』



まくし立てるように矢継ぎ早に言葉が出てくる。



孫娘の息つく暇もない話を黙って聞いていたヒョイルは、一息吸うとゆっくりと静かに、しかしひとつひとつの言葉に言霊ことだまを込めて話し始めた。



『ソンギョンや。思い付いたことを全て口にするものではないのだよ。それは本当に自分で選んだ内容であるのか?そして、内容にそくした的を得ている言葉を選び出し、時が経っても劣化しても、なお新しいことを口にするように心がけてごらん。さすればの、ソンギョンの見えているもの、知り得た人たち、自分の立場、それらのことが全て様変わりするのじゃ。大切なのは、言葉にしなければならないことだけを選び抜いた言霊ことだまで口から出すことじゃ。思うこと全てを口にしていたら、生きざまだけでなく、商売でも大損するぞ。それに、それ相応の人脈しか周囲には集まらん。その人脈は、銭を運んではきてはくれぬであろうの。人と人との縁が銭を生むのじゃて。それに1度世に出したものは引っ込みがつかんでな。よくよく考えねばならんのじゃ。言霊とは、そう言うものよ。要はの、言霊と仲良くなり、言霊をうまくあやつれるようになればいよいよじゃ。それには鍛練たんれんが必要での、思ったことだけを口にしておるようでは、言霊は見方にはなってくれんのじゃよ。』



この祖父にしては、珍しく饒舌じょうぜつに長い言葉を話していた。



言葉ひとつひとつにも、しっとりとした重みがある。



ひょっとすると、この重みが今しがた聞かせてくれた、言霊を見方につける…



と言うことなのだろうか。



鮮国には、いにしえより『言のことのは操り《あやつり》しもの、言霊ことだまの精霊と話せし、その心をとらえて、まことみちかん。』と言う言い伝えがある。



それは祖父が話してくれたこと、そのものであった。



ソンギョンはこの祖父の言葉を死ぬまで忘れたことがなかった。



この言霊の話は、ソンギョンにとって、祖父との大切な宝物であり、幸せな思い出であった。



ソンギョンは容姿は母方の伯母似であるが、中身は母譲りの自由奔放じゆうほんぽう天真爛漫てんしんらんまん、そして人好きのする愛らしさを持ち合わせたのが、ソンギョンの人となりであった。



祖父は、愛娘まなむすめの性格を生き写したようなソギョンを大層可愛がった。



この日をさかいに祖父は度々ソンギョンをつれ歩いた。



ソンギョンは祖父に教えてもらい、伝えてもらい、一緒に考えてもらった。



お互いにとって、とてもとても幸せで、温かい時間が流れた。



ソンギョンがいつも懐かしむのは、にぎやかな生家で過ごした時間と大切な家族の笑顔、この祖父と語らいながら過ごした温かく流れる時、であった。





青東風あおこち

【初夏の頃、新緑の間を吹き抜ける東からの爽やかな風のこと】

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