第2章~綺羅星~

洪家の長男・ミギョンは、梅雨つゆ合間あいまにある久しぶりの日差しの中、母と共に日課である午後の薄茶うすちゃを楽しんでいた。



ところが…



母が急にお腹を押さえ、苦しみの表情でうずくまってしまった。



母は来月になれば臨月りんげつになり、今しがた母が出産にそなえ、ミギョンの弟・ダオンと妹・ミンソの世話を頼まれたばかりであった。



『母上、どうなさったのですか?腹が痛むのですか?医者を呼びに参ります。それまでこらえていられますか?』



と早口で伝え、家の者を大声で呼んだ。



『誰か!』



と言うやいなや、廊下でひかえていた使用人が勢いよく部屋へ飛び込んできた。



それと入れ違いに、ミギョンは



『医者を呼んで参る!』



と飛び出して行く。



開いた扉の側に立つ弟のダオンは、母の姿を見て不安そうに泣きべそをかいていた。



屋敷を出る間際まぎわ執事しつじのカン・ジュンギとすれ違い



『母上が苦しそうにしておられる!私は医者を呼びに参るうえ、そなたは父上に早馬はやうまを出してくれ!』



と伝えた。



父は本日は出仕日しゅっしびであり、雅都宮がときゅうで仕事をしていた。



洪家の2人の息子たちは、近所でも有名で将来を有望視ゆうぼうしされる優秀な子どもたちであり、先ほどの出来事も、驚くことにたった7歳の子どもが差配さはいして飛び出して行ったのである。



ミギョンは医者の家まで全速力ぜんそくりょくで走り抜ける。



見事な差配ができても、まだ7つの子どもである。



母上が心配でたまらない…



去年から通い始めた私塾の友は、下の兄弟の出産で母を亡くしたと聞いた。



本当は怖くてたまらない…



のである。



門を足早あしばやにくぐると



『ミン先生はご在宅ざいたくでしょうか?母が…母が…。母をお助け下さいませ。お早く我が家へお越し下さいませ。腹をさすって、苦しんでおられます。お早く!』



と叫んでいた。



ミン・ソジュンは、宮で御医おいを長年務めていたが、4年前に息子のミン・ホジュンに御医をゆずり、自宅で医院を開いていた。



妹のミンソから、ミン先生に洪家はお世話になっていた。



『ミギョンではないか。母に何かあったのか?そなたの母は、産褥さんじょくを重ねるごとに重くなっていくようじゃの。まだ産み月ではないはずじゃ。どれ、苦しんでおるのなら、早う出発しようではないか。』



言葉にならない返事をうなずくことで返す、ミギョン。



ミギョンはミン先生の顔を見や否や、みるみる涙を目いっぱいに溜めてしまった。



不安でいっぱいだった…



そんなミギョンにミン先生は、下男しもおとこかばんを持たせ



『急ぐぞ、ついて参れ。』



と告げた。





屋敷に着くと、ミギョンは大声で



『ミン先生のご到着だ。お世話をいたせ。』



と屋敷の使用人を呼ぶ。



母の部屋へミン先生を案内した。



開く扉から、一瞬母の姿が見えた。



下に引かれている布団は真っ赤に染まっていた…



立ち尽くした…



言葉が出なかった…



部屋の外で同じく立ち尽くす弟のダオンの手を取り、2人で縁台えんだいに腰かける。



手をつないだまま、弟のダオンを見つめ



『母上はきっと大丈夫じゃ。私たちを置いてどこへも行かぬ。ミン先生も到着されて、父上もじきに戻られる。きっと大丈夫じゃ。』



と弟ではなく、自分に語りかけるように話す。



【きっと大丈夫じゃ。】



【母上は強いお人じゃ。】



【何より、私たちを何よりも大切に思うて下さっておる。】



『ミギョンや、母上の様子はどうじゃ。』



母の部屋の前の縁台に腰掛け、弟の手を強く握ったまま、うつむくミギョンの前に、息咳切いきせききり肩で息をする父の姿があった。



父の姿を理解した瞬間、目にいっぱいの涙が込み上げてきた。



父に何か伝えなければ…



口を開けたり、閉じたり、はしてみるものの、弟の手前、真っ赤に染まった布団の話はできず、ただ見つめることしかできずにいた。



と、そこへ…



『オギャア、オギャア』



と赤ん坊の泣き声が耳に入る。



ミギョンは目を見開みひらいた。



と同時に靴も脱がずに部屋の扉をこわれんばかりに開けて部屋に入る父を見届けた。



部屋の奥で、母の手を握り、何かを伝える父に笑顔で頷く母がいた。



ひざから崩れ落ちた自分の頬を伝う涙があった。



長兄を心底しんそこ心配させ、次兄に寂しい思いをさせ、父を慌てふためかせて産まれてきたこの次女が、後の嬪宮・ホン氏ソンギョン、この物語の主人公である。



ミギョンは、出産の時に自分に苦労をかけたこの妹の愛らしさがたまらなくいとおしく、時間があれば母と共にいるソンギョンに会いにきていた。



玩具おもちゃであやすと、大きな目がくるくると回り、小さなもみじをつつけば、ミギョンの人差し指を力強く握ってくれる。

可愛くて仕方がなかった。



ハイハイを始めれば、共にハイハイをし、つかまり立ちを始めれば、手を取りつかまり立ちの練習を付き合った。



ミギョンとソンギョンはとても仲のむつまじい兄妹に育ってゆく。



洪家はこの頃、本当に穏やかで、事件とは無縁で、取り立てての何か、は文官ではあるが兵曹参議であった父が兵曹参判ぴょんじょ・ちゃむぱん昇格しょうかくしたくらいで、武官の家でありながら、文官になった父が北方民族と対峙たいじしに北へ遠征えんせいした、などという話もなく、家族で春の木漏こもの中にずっといるような日々を送っていた。



非日常ひにちじょうと言えば、時おり父の竹馬の友である、ムアン大君や伯父チャン・ノギョル、カン・テウン、が子どもたちに手土産を持ち、父に会いにくるくらいで、暖かく穏やかな木漏れ日の中を兄弟たちはすくすくと大きくなっていった。



綺羅星きらぼし

【夜空に光る星たち】

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