第1幕

第1章~双眸~

ホン・ジュギル、兵曹参議ぴょんじょ・ちゃむいの妻、張氏ちゃんし・ボヨンは自身が4人目となる子どもを身ごもっていた。



夫のホン・ジュギルは、両班やんばんの中で名門と呼ばれる家の子息しそくではなかったが、名門と呼ばれている生家せいか張家ちゃんけに引けを取らない、上流両班じょうりゅうやんばん家柄いえがら洪家ほんけ嫡男ちゃくなんであった。



洪家ほんけは、たくさんの使用人しようにんを抱え、その大所帯おおじょたいを取り仕切るのが張氏の妻としての仕事であり、もうひとつの仕事は、嫡男であるホン・ジュギルの血を次世代へつなぐことであり、たくさんの子を産むことであった。



息子を2人、娘1人を既に産んでおり、子どもたちは大きな病気もせず、順調に育っていた。



今も、庭からは2つ年違いの息子たちが7歳と5歳となり、そろそろ剣術けんじゅつの年ごろに差し掛かり、その憧れと期待で、どこかで拾ってきた枝木れを振り回し、剣術の真似事まねごとをしているにぎやかな声が聞こえてきていた。



チャン氏としては、世孫せそん・ヤンミョン君が2年前に産まれており、将来の揀択カンテク(王の跡取りになる王子の嫁選び、いわゆる王妃や嬪宮ぴんぐんを選ぶ行事)にそなえて、先に生を受けた長女・ミンソの他にもう娘が1人欲しいところであり、次女をと望んでいた。



欲深よくぶかいと考えてしまうところだが、両班の中でも上流ともなると、王妃や嬪宮、後宮こうきゅうを自分の娘から出すのは、上流の家に生まれた者のつとめであり、憧れでもあり、お家を後世こうせいへ残すすべでもあった。



権力がそのまま生き残るあかしにもなっていた時代である。



庶流しょりゅうに甘んじると言うことは、いつなん時において、はじき飛ばされ、消され、枯れてゆくことに繋がってもおかしくはないのである。



チャン氏の生家である、張家は、4代前に王妃、3代前に揀択カンテクの最終選考に残り後宮へと選ばれた妃嬪ひひんの後、途切れてしまっていた。



嫁ぎ先である、洪家ほんけはもともと武官ぶかん家柄いえがらであり、武功ぶこうで家を繋げ続けてきていた。



この国では、常に北方民族ほっぽうみんぞくとの衝突しょうとつえ間なく続いており、国家が泰平たいへいの世であっても、朝廷では文官ぶんかんだけに重きを成すのではなく、武官にも必要性が生じることから、文官と武官それぞれに権力が二分されていた。



しかし、武官の家柄であるホン・ジュギルは、武官ではなく、文官として立身出世りっしんしゅつせを望んでおり、妃嬪ぴんぐんを多く出している張家ちゃんけの息女と婚姻こんいんを望み選んだのである。



幼少の頃より、武よりも文を好み、科挙かきょでは文科ぶんかを1番の成績で通過し、武をおもんじる洪家の嫡男として親類縁者しんるいえんじゃ戸惑とまどいを運んだ。



もちろん武も他の者よりきん出ており、武か文か、と選べばの話であった。



評判の美丈夫びじょうふであり、婚姻の日には両班やんばん息女そくじょたちが寝込んだほどであった。



そんなホン・ジュギルに竹馬たけうまの友が3人いた。



1人は後の光祖こうそ・ムアン大君てぐん



2人目は妻、張氏ちゃんし次兄じけい・チャン・ノギョル。



3人目はカン・テウン。



4人は、私塾しじゅくで共に学び、共に遊び、酒と共に自分の行く末も学んだ。



成長と共に、それぞれの立場で接する必要が生じることはあったが、それでも心は変わらぬままであった。







一方母である、張氏ちゃんし・ボヨンは…



チャン氏・ボヨンは、美丈夫びしょうふ文武両道ぶんぶりょうどうかかげて、当時の都城とじょうで結婚したい男性ナムジャNo.1と名高いホン・ジュギルとの縁談えんだん歓喜かんきに震え、喜びいさんで婚姻の日を迎えたかと思えば…そうではなかった。



貿易にも手を伸ばしていた、張家ちゃんけの当時の当主、父であるチャン・ヒョイルのあきないの手伝いで一生を終える心づもりであった。



兄が2人おり、それぞれに科挙に合格し、官僚かんりょうになってもいる。



姉が3人おり、それぞれがそれぞれに匂い立つような美人であり、縁談も婚家こんけにも困らず、いずれも張家ちゃんけに利が回ってくる婚姻をしていた。



今さら自分の出る幕はなく、商いに興味のない兄2人の代わりに、父と共に時には外国へも、商いに出かけていた。



ところが、父の竹馬の友である、ホン・ジュギルの父がチャン氏を是非とも嫡男のジュギルに嫁がせて欲しい!と申し出て来たのである。



チャン氏は幼なじみのジュギルと周知しゅうちの仲ではある。



しかし、婚姻によって将来や行動、言動、夢、全てのものが屋敷の中に押し込められる当時の女性の一生が嫌でたまらなかったのである。



父に話を聞いたその夜、密かに家を出た。



三日三晩みっかみばんの後、すす汚れた姿で通りを歩いているところを屋敷の使用人に見つかってしまい、自身の部屋に押し込められた。



数日後、屋敷の使用人をおどし、衣類を交換させ、出入りの野菜売りに交じって屋敷を出た。



そのまま野菜売りの仕事を手伝っていたところ、通りでホン・ジュギルに出会い、いま川岸に腰をえている。



チャン氏・ボヨンはホン・ジュギルに強く手を握られたまま、うつむいていた。



『何が嫌なのか、教えて欲しい。』



ホン・ジュギルは、チャン氏にうつむいたまま、静かに話し始めた。



『幼少の頃より、共に時を重ね、共に過ごし、共に成長し、互いの顔を見合わせて笑いかけもしてくれていた。心底しんそこ、私を嫌いではないはずではないのか?互いに顔も知り、気心も知れ、普通の縁談よりも容易たやすいではないか。』



一呼吸ひとこきゅうの後、ジュギルは続けた。



『逃げ出す程に私と共に年老いてゆくのは、嫌なことなのか?』



ジュギルは知っていた。



チャン氏・ボヨンが、父親の両班やんばんではない商売仲間の息子にあわい思いを抱いていることを…



どんな名門両班の子息からの縁談えんだんはしから断っていることも。



それでも、婚姻を結ぶのであれば自分はチャン氏・ボヨン以外考えたことがなかった。



あきらめ切れない自分の気持ちがこれ以上さ迷ってしまわぬように、静かにチャン氏へ語りかけた。



一方、チャン氏は違うことを考えていた。



いつも共にあったジュギルは、気心が知れると先ほど話ながら、なぜ私の心が分からぬのか…



私は誰か、彼か、をどうのではなく、婚姻と言うもの、特に両班の妻が嫌なのである。



しばらく考えあぐね、このまま引き下がってくれるジュギルでないことは知っていたので、



ポツリ…



ポツリ…



と、心の中を伝えることにした。



『私はね、誰かと婚姻をして、両班の妻になり、屋敷を回し、たくさんの子を産み育て、楽しみは食べ物、着るもの、かざるもの、をせまい屋敷だけの中だけで日々送る人生が嫌なの。まだ多くはないけど、商いを立派にこなしている女人にょにんも見たことがあるわ。両班の子どもたちの仕事は、兄と姉が十分こなしていると思うの。だから、私は自分の好きな世界で生きて行きたいの。もう少し抵抗すれば、父上も母上も折れて下さるはずなの。ジュギル様も両班の奥さまに相応ふさわしい娘さんを探すべきだと思うわ。私はきっと苦労しかかけず、洪家ほんけ嫡男ちゃくなんであられるジュギル様の立身出世りっしんしゅっせさまたげになるわ。洪家のおじ様にもご迷惑になる…。そう思わない?』



ジュギルは困った…



チャン氏の父親の商売仲間の息子である、シン・ドンウを理由に断られる!と思い込み、その線での説得草案せっとくそうあんしか想定そうていしておらず…どうしよう…の言葉ばかりが頭を何度も回っている。



やっと浮かんだ言葉が。



『両班の奥方おくがたの仕事はしなくてよければ、私の妻になってくれるのか?』



と、家に持ち帰って家族と相談しなければならないような言葉を口にしていた。

しかも。



『私の妻になってくれたら、今のまま自由な生活をしてくれてもいい。商売がやりたいのなら、私が張家で住んでもいい。子もいらぬ。屋敷の取り回しなどせぬでもいい。とにかく私の隣で笑っていてさえくれれば、それでいいのだ。』



などと口走くちばしってしまっていた…



父に怒られそうだ。



母に泣かれそうだ。



『本当に?本当にそれでいいの?ジュギル様はそれで幸せだと言えるの?』



と小さな声がうつむいたままのチャン氏・ボヨンからつぶやくように聞こえてきた。



『ああ。いいよ。その代わり隣で笑ってくれるか?共に年老としおいてくれるか?』



ジュギルからの返事を聞くうち、ボヨンはあいらしい目でジュギルを見つめて、コクンとうなずいた。





ところが、若い二人の話の通りにはなるはずもなかった…



屋敷に大層たいそう嬉しい気持ちで舞い戻った娘の口から、先の話を聞いた張家当主夫妻は、娘をしかりつけ、【自由、商売】の言葉を娘から封印させ、有無を言わせず洪家へ嫁がせた、というより、気づいたらボヨンは婚姻のうたげで、ジュルギと主賓しゅひんとして並んで座っていた。



張家当主夫妻は、婿のジュギルを幼少の頃から知っており、おおらかで優しく、時に大胆で、文武両道であり美丈夫な青年が娘を一途に好いてくれていたこともお見通しであった。



もちろん、洪家当主夫妻も息子の一途な気持ちも知りつつ、自由奔放じゆうほんぽうではあるが憎めず、大胆な発想で様々さまざまな角度から物事をはかり見るたぐまれな目を持ち、本当は心優しいチャン氏を幼少から見守ってきていた。



これは、当人同士のなにがしで別れ道になったり、曲がり道になるのではなく、最初からそれ道などは用意されてもおらず、一本道は決まっていたのである。



後日談ごじつだんであるが…



このことは、当人たちは全く知らずに夫婦になり、生活が始まり、随分ずいぶんと時が経ってから知ることになるのであった。



ともあれ、チャン氏・ソンギョンが産まれる道も整ったのであった。





双眸そうぼう

【両方の瞳】【両目】

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