4
あくる日、私はいつもどおり自らのデスクに向かっていた。湾岸の化学工場の煙突が白い煙を吐いている。サービスエリアの観覧車が水平線と接しながら催眠術の速度で回転している。あらゆる大型連休から外れた平日の昼間だが、あの埠頭の観覧車には誰が乗っているのだろう、と私は疑問を覚えた。家族連れ? カップル? 一人でサービスエリアに寄り、観覧車から商港の構造を一望したいと考える物好きも中にはいるかもしれない。ともかくそう賑わってはいないだろう。私はオフィスの窓より観覧車を眺めながら、反対に観覧車の窓からこちら側を眺めている自分の姿を想像した。観覧車の中は静かだろうか。錆びた骨格が激しい騒音を鳴らしているかもしれない。ぼんやりとしたイメージは掴めたが、その印象は一意な像を結びはしなかった。私はあの観覧車に乗ったことがないのだ。ためしに今日の帰りにでも寄ってみようか。そうふと思案したのちに、いややめておこう、と私は考え直した。遠回りだし面倒だ。搭乗とは別に入場料を取られるかもしれない。
そうして観覧車への興味を失いながら私が席を立つと、給湯室には横光と日向さんの姿があった。私は咄嗟に壁際に隠れた。その時の私は、横光と顔を合わせることを無性に恐れていたのだ。壁に張り付いている自分の姿がデスク側からも見えていないことを確認すると、私は擦りガラス越しに横光と日向さんの会話を盗聴し始めた。
「これは日向さんの?」
冷蔵庫の中に目をやり、横光がそう日向さんに尋ねている。
「目ざといねー。横光くんにも分けたげようと思ってたの」
そう言って日向さんは冷蔵庫から包みを取り出した。まるまる一本の立派な練り羊羹だ。
「えー、いいんですか?」
そう横光がうれしそうに驚くと、日向さんは
「もちよ」
と言って包丁を抜いた。羊羹がまな板にごろりと置かれる。藤色をした羊羹の一切れが胴長の本体から分厚く切り離される。
「ありがとうございます。ぼくここの羊羹好きなんですよ」
横光はウォーターサーバーで二人分の紙コップに緑茶を淹れながらそう答えた。流し台の前に並んだ二人の背中は、どこか洗剤のCMに登場する架空の夫婦のようなそらぞらしい印象を帯びていた。
「最近元気なさそうだったからね、ご褒美」
そう言って日向さんが横光の肩を叩くと、横光は
「ぼくそんなに元気なさそうでしたっけ?」
と素っ頓狂な声を上げた。
「みんなにはバレてないだろうけどね、私には」
そこまで言ったあと日向さんは、わかっちゃった、と声を出さずに口の動きだけで横光に伝えた。
「わかっちゃいましたかー」
横光は苦笑しながら同じくウィスバーボイスでそう返答した。
「無理して繕わない方がいいよ」
そう言いながら日向さんは流しの食器にリズムよく泡をつけていった。ほぼ汚れていないので適当に洗っても問題ないのだ。
「そうですか」
「うん。私の前では甘えたとこ見せていいからね」
そう日向さんがいたずらっぽい笑みを浮かべて言うと、横光はいやーと言って照れるように頭を掻いた。私は心底うんざりしてしまった。日向の局だのDV野郎だのと裏では言っているものの、職務において私は二人に一応の敬意を抱いているのだ。そんなご両人に昼間から恥ずかしげもなくデレデレしているさまを見せつけられたら、胸やけを起こすのも無理はないだろう。もっとも本人たちに見せつけているという自覚はないだろうが。
日向さんが横光に秋波を送るのは今日に始まったことでなかった。横光がこの部署のトップに決まった次の日から現在まで、日向さんは横光に対して艶やかな態度を取り続けていたのだ。ときには聞くに堪えないような性的な冗談を口にすることすらあった。それほど横光に媚態を示すということは、日向さんは横光に好意を抱いているのだろうか。そうではない、と私は断定した。他の人は日向さんが好意を抱いていると考えるかもしれないが、私はそうでないということを知っている。日向さんは横光が自らを性愛の対象として見ないだろうということを重々承知しているし、日向さんにとっても横光は理想像から程遠い存在なのだ。それではなぜ日向さんは横光に媚態を示すのか。それ自体が目的なのだろう、と私は推測した。何らかの目的、たとえばそれ相応の関係の構築、のための手段として媚態を示しているのではなく、媚態によって横光から反応を得ること自体が日向さんの中で目的と化しているのだ。私は鉄をエネルギー源とする一種のバクテリアを連想した。そのバクテリアは鉄から栄養を摂取しているのだが、鉄を食べて生きているわけではない。彼らは鉄イオンを二価から三価へ変えることによって生存に必要なエネルギーをほそぼそと発生させているのだ。日向さんにも横光を食らう気はさらさらない。彼女はただ横光の反応を楽しみながら労働者としての日々を生きているのである。
そのようなことを私が考えているうちに、日向さんと横光の会話は次のフェーズへと移行していた。
「冗談はさておき、私にはなんでも言っていいからね?」
「ほんとですか?」
「うん。私は何言われても被害者ぶったりなんかしないから」
そう日向さんが何気なく口にした瞬間、横光と私は同時に慄然とした表情を浮かべた。日向さんは――彼女は、小島の休職の理由を知っているのだ。
「え、またどうして、そんなことを」
横光は作り笑いを浮かべながら日向さんの顔をまじまじと見つめた。すると日向さんは再度、口の動きだけで
「わかっちゃった」
と横光に伝えた。だってわかっちゃったんだもん。聞かなくても分かるよ。
恐ろしい人物だと私は思った。どれほど具体的に察知しているかは分からないが、少なくとも日向さんは小島と横光が暴力的な破局を迎えたことを理解しているのだ。そして小島が周囲に被害を訴えているということもなぜか日向さんは把握している。ひょっとしたら先日私たちの間で話し合われた秘密のヤルタすら勘づかれているかもしれない。オフィスの壁にヤモリのように張り付きながら、私は彼女が壁越しにこちらの心身を透視しているような錯覚を抱いた。
そうしているうちに日向さんはふたたび冷蔵庫を開け羊羹の残りをしまった。私は慌てて壁から離れ、あたかも今ちょうど給湯室の前を通りかかったかのように装った。すると扉が開き、件の日向さんが姿を現した。
「どうも日向さん」
「あら須磨さん。給湯室には何の用が?」
「ポットにお茶を作ろうと」
「なるほど。優雅なことで」
それだけ言うと日向さんは廊下を滑るように歩いて元いたデスクへと向かっていった。先ほどまでとは打って変わり、日本人形のように顔面から喜怒哀楽が拭い取られている。さすが日向の局だと私は奇妙な感心を覚えた。おそらく嫌味を言われたのだが、なぜか反感は一切湧かなかった。むしろ常にこれくらいの方が日向さんらしくて信頼できるのにな、とすら思った。
給湯室に入ると横光は依然として流し台の前にいた。何をするわけでもなく、ただ紙皿に乗った羊羹の切り口を眺めている。そう暇でもないだろうに何を考えているのだろう、と私は訝しんだ。
「横光さんこんにちは」
そう私が呼びかけると、横光は
「あ、須磨さん」
と言ってこちらを振り返った。弊社では上司をさん付けで呼ぶことが慣例化している。「チーフ」や「マネージャー」などという横文字の役職名を採用しているせいで、人名と併せて肩書を呼ぶならわしが定着しにくいのだ。ちなみに横光は当部署のゼネラルマネージャー(GM)である。
「須磨さん、つかぬことをお伺いしますが……」
そう言うと横光はまな板と私を交互に見比べ、
「須磨さんって甘いもの好きですか?」
と質問した。
「まあ好きですけど」
「それはよかった!」
横光はそう言うと羊羹の乗った紙皿をこちらに差し出し、
「これ頂いちゃってください。みんなには内緒で」
と言った。私は目を見開いた。
「え、いいんですか? これお高いやつですよね」
そう私が渋ると横光は爽やかな笑顔のまま、
「いいんです。ぼくあんこ苦手なので」
と答えた。
「いや、でもさっき」
思わずそう口を滑らせた直後、しまった、と私は息を飲んだ。横光の頭上にゴシック体の疑問符が浮かぶ。
「どうしました?」
「いえ、なんでもありません。ありがたく頂きます」
なにかを悟られる前にここから離れよう。そう思った私は横光の手から紙皿をひったくると、ポットに湯を注いで足早に給湯室を去った。
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