3
重そうだなあ、と私は感じた。駅前に佇む小島の黒髪は休職前よりもさらに長くなっている。彼女の厚くかさんだ前髪を見て、重そうだなあ、と私は感じたのである。まるで平安貴族だ。あれだけ長く髪を伸ばしたら常時肩がこって仕方ないのではないか。髪と同様、シルエットを膨張させている厚手のコートもまた黒だ。コート? まだ今はコートの季節ではない。縁の丸い眼鏡がマスクのせいで曇ってしまっている。
「いたいた。おーい」
そう言って明石が手を振ると、小島は表情をまったく変えないまま私たち二人に向けて小さくピースを差し出した。ピース? カメラのない場所でピースをする人間を私は久々に見たような気がした。明石もまた小島に対して大ぶりのピースを返した。私もなぜかピースした。変な三人だろうと思う。駅前だというのに道路の幅はひどく狭い。ロータリーというよりただの行き止まりと称した方が正確だ。
「久しぶり」
そう私が小島に声をかけると、小島もまた
「久しぶり」
と言った。声が随分と細くなってしまっている。長らく人前で話をしていないのだろう。
「体調はもう?」
外出のできる身体なのだろうかと疑問を覚え、私は小島にそう尋ねた。すると小島はやや不思議そうに表情を曇らせた。
「あー……」
明石はそう唸って前髪をかき分けた。
「小島ちゃん、まだ須磨ちゃんには何も話してないんだ」
そう明石が説明すると小島は眼鏡ごしに私と明石の顔を交互に見比べ、
「わかった」
とだけ呟いた。あまり居心地が良くはないな、と私は思った。
「とりあえずどっか入ろっか」
そう言って私は飲み屋のありそうな方角に目を向けた。二人は歩きはじめた。私も歩きはじめた。かくして私たち三人は、誰が先導するわけでもないまま腰を落ち着かせる場所を求めて駅前の街路をうろつきはじめた。
十分後、私は一軒の串カツ屋にてお冷やを飲んでいた。
一軒の串カツ屋。そう言われたとき人はいったいどのようなものを思い浮かべるだろうか。ホッピーと書かれた提灯がぶら下がり壁には筆文字のメニューが貼られている、そのような店を想像するのではないだろうか。私たちの入店した串カツ屋はそのような既存のイメージから大いに乖離していた。照明は色を帯びて薄暗く、アッシュグレーの塩化ビニル壁に挟まれた細長い廊下の先に半個室のテーブル席が並んでいる。スピーカーは見当たらないが、瞑想的な808ベースが常に微小ながら空気中を漂っている。テーブルもまた塩化ビニル製だ。妙に柔らかい合成皮革のソファに腰を下ろし、私はここが果たして本当に串カツ屋と呼べる店なのかと訝しんだ。大体、卓上にソースが置かれていないじゃないか。
私がそう思いながら周囲を見回しているうちに、正面に座る小島はゆっくりとマスクを外してテーブルの隅に折り畳んだ。そして明石は彼女の左隣からそのさまをじっと見守っていた。予想に反してマスクを取った小島の顔はそれほどやつれていなかった。むしろ休職前より肥えているようにすら見える。
「休職中は何してたの?」
そう私が問うと小島は曖昧な笑みを浮かべた。
「横光くんとは会ってた?」
そう言って私が横光の名を出した瞬間、メニューを持った黒服の店員が廊下の奥から姿を現した。モディリアーニの描くような細身の男だ。
「この盛り合わせのCをください。お酒はみんな生でいいね?」
明石はメニューに目を落とすなりそう言った。私も小島も無言で頷いた。
「じゃあ盛り合わせのCと生三つ、あとは単品を個人で好きなの頼む感じで」
そう明石は店員に伝えた。すると店員は「失礼ながら――」と言って話し始めた。
「失礼ながらお客様、当店では白ワインの方を推奨させていただいております」
「推奨」
そう明石が店員の言葉を反復すると、店員は
「ええ、推奨」
と言ってもう一枚のメニュー表を明石に手渡した。
「当店には甘口・辛口、赤・白・スパークリング、さまざまなワインを揃えさせていただいております。何卒惹かれるものをお選びください」
そう黒服が慇懃な口調で述べると、明石はやや挑戦的な表情で店員に迫った。
「あなたはどのワインを推奨するの?」
黒服はしばし言葉に詰まった。「ええと、それはカツとの相性により……」
「いい?」明石は身を乗り出した。「私たちは暇じゃないの。ゆったりとした気持ちでお宅のカツとワインに舌鼓を打つのも悪くはないのでしょうけど、今日私たちは話をするためにこの店に入ったの。高くても不味くてもいいから、早くあなたの推奨を教えて」
黒服はしばし戸惑ったあと、とあるワインの銘柄を口にした。
「それをボトルで頂戴」
「かしこまりました」
そう言って店員は再び廊下の奥へと消えていった。明石は肩をすくめ、
「なにさ、推奨って」
とやや茶目っ気のある口調で憤ると一気にお冷やを飲み干した。
皆が食事の到着を待っているあいだ私は改めて横光のことを回想した。橫光とは、IPTUの組織図において私たちの直属の上司にあたる存在、である。あえて「にあたる存在」という表現を取ったのには理由がある。彼は私たちに対してずっと年下であり、弊社での歴も短く、また本人も認めるとおり私たちに比べて統計への知識が非常に乏しいのだ。それゆえ私たち三人は今まで半ば公然と彼のことを裏で「横光くん」と呼称してきた。また、実際の人間力学においても、私たちの部署をまとめているといえる人物は今や横光ではなく日向さんとなっている。
私たちの上司として弊社の一員となった横光の姿をはじめて見たとき、私は「やけにノーブルな顔をしているな」と感じた。整っているのだがどこか本能的な鋭さを欠いており、そしてそれが魅力でもあるような童顔。しばらくして私は自分の直感が正しかったことを知った。彼は、さる有名な家系の出身だったのだ。その家系はこの地域の政経界に大きな影響力を有している。ははんと私は思った。彼を私たちの上司に据えるという上層部の決定には、彼の人脈を用いて官民からの依頼を増やそうという下心も伴っていたに違いない。
私はそのような予想から彼のことを侮っていた。結局のところ彼は家柄によって有難がられているに過ぎないのだ、と。しかし彼のもとで働くにつれて、私は彼もまた彼なりに能力を有しているのだということを知った。むろん統計に関する専門知識は私たちに比べてずっと乏しい。高校数学の範囲すらおぼつかない。しかし彼は、自分が私たちに比べてずっと無能であるということを自覚していた。そして彼は真摯な態度で私たちから教えを乞い、自分が理解しなくてもよいと判断した箇所は自らの責任のもと部下の裁量に委ねた。彼は仕事を「する」ということに関しては私たちに比べてずっと無能だったが、上司「である」という一点において私たちよりもはるかに高い能力を有していたのだ。このような能力は生まれつき自分が他の人々より恵まれていることを知っている者にしか獲得できないのだろう、と私は思った。根っからの統計畑によって構成された弊社の上層部にそのような芸当を求めることはできない。ましてや日向の局にそのような芸当を期待することなど不可能だろう。スペシャリストによって構成されたIPTUという蟻塚において、横光というノーブルな人格は一種の換気口となっていたのだ。
横光は常に「縁起の良さ」を身にまとっていた。そして部署内の人間は日向さんを含めみな横光の縁起の良さを快く思っていた。そのような横光の縁起の良さは、彼が小島と交際しているという噂が部署内に広まったとき頂点に達した。小島も横光も異なる意味において邪気のない性格だと周囲に見なされていた。同時に小島は弊社の技術的側面を、横光は弊社の商業的側面を象徴していた。彼らが交際しているという噂は、しばしば対立し合っていた弊社のスーツとギークを統合する出来事として社内に肯定的に迎えられた。そして当の二人もその噂を進んで否定しようとはせず、むしろまんざらでもなさそうに振る舞った。かくしてIPTUにおける二人の社内恋愛は、ロイヤルファミリーの婚約のような慶事として神話化されるに至ったのだ。
店員がワゴンに食事を乗せて現れた。空白だったテーブルがボトルとグラスとカツで埋められていく。カツはオードブルのような大皿に盛られており、その脇に数種類のソースの入った小皿が置かれている。日本人がよく知る鳶色のソースもあるが、白やピンク色をした未知のソースも並べられている。
「じゃ、乾杯しよっか」
瓶のワインをてきぱきと三人のグラスに注ぐと、明石はそう言ってグラスを持ち上げた。
「何に?」
そう私が尋ねると、明石は一瞬の思案ののちに
「小島ちゃんと須磨ちゃんの再会に」
と答えた。なるほどと思いながら私は乾杯と言った。二人も乾杯と言った。かくして私たちの夕食は始まった。店員の推奨した白ワインは海水のように塩辛かった。
私がチーズと鶏ささみと大葉の串カツを頬張っていると、小島は下を向いたまま唐突に言葉をつむぎはじめた。そのとき私は自分以外の二人が料理にほぼ手をつけていないことに気付いた。私が間違ってるのだろうか。
「あのさ、さっき須磨ちゃん何か言おうとしてたじゃん」
「よこみつくん?」
私が口に物を入れながらそう聞き返すと小島はゆっくりと頷いた。隣に座る明石はしきりに小島の背中を撫でさすっている。
「あのさ」小島は言葉を選びながら私に語りかけた。「私、彼と別れたんだ」
私はしばし返答に窮した。ただ私はじっと小島の顔を見つめ、口の中のカツを嚥下することしかできなかった。
「……そっか。……おつかれさま」
そう呟いて私はおしぼりの袋を開き、手を拭った。なるほど、そうだったのかと私は思った。そうに違いない。実を言うと私は当初から二人はじきに別れるだろうと勘づいていたのだ。IPTUの社員たちは二人の交際を軽薄に言祝いでいたが、馬鹿馬鹿しい。これほど性格の違う二人が末永くやっていけるはずがないのである。
「それで休職してた、ってことか」
私はそう納得すると大皿に目を落とし次の串カツを選ぼうとした。やはり病気ではなかったのだ。失恋程度で休職するのは社会人としてどうなのだろうという思いも脳裏をかすめたが、本人に言うのも酷なので黙っていた。すると小島は、
「うん、それも、そうなんだけど」
とやや含みのある返答を残して再び口をつぐんでしまった。
「別れただけが理由じゃないんだ」
と明石が言葉をつけたす。明石のことも小島のことも嫌いではない。しかし、今日の明石たちの態度は私にとってあまり快いものではなかった。二人が結託して私を何かに勧誘しようとしているような、そのような空気感を私は覚えていたのだ。
私の警戒心をよそに、小島はリュックサックのポケットからスマートフォンを取り出した。画面が割れているが本人は気にしていないようだ。
「今から不快な音声が流れるよ」小島がロックを解除している間、明石は私にそう言った。「嫌になったら無理せずすぐに伝えてね」
「うん」と私は答えた。小島が再生ボタンをタップした。
こもった音質だと私は思った。スマートフォンで録音したのだろうか、布の中から隠し撮りしたような音だ。その向こうで誰かが叫んでいる。おそらく男だが、叫んでいるというよりガラス化した声帯を鉄の鉤爪で引っ掻いていると表現した方が正確なほどの罵声だ。そしてその合間合間に物のぶつかる鈍い音と女の呻き声が挟まっている。
当初私は、それが何を意味しているのか掴み取ろうと思いながらその騒音に耳を傾けた。しかし程なくして私の理解力は麻痺させられてしまった。スマートフォンの向こうから響く気味の悪い絶叫には、あらゆる人間の心理を萎縮させるような作用が含まれていたのだ。
「ごめん、わたしこれきけないかも」
私がそう言って両手を合わせると、小島は一時停止のボタンをタップした。私はおしぼりで額の脂汗を拭った。
「誰でもこんな声聞けばそうなるよね」
明石はそう私に言い、再度小島の背中をさすった。私はピッチャーからコップにお冷やを注いで喉を潤した。まだ耳の中では先ほどの怒声が反響し続けている。
私がコップをテーブルに置くと、小島は私に次のように問いかけた。
「さっきの声、誰だったか分かる?」
私は少し考えてから「分からない」と答えた。あのようなおぞましい声を発する男は、幸いにも私の脳内には一人も記録されていなかった。
私の答えを聞き、明石はしばし嘆息のようなものを漏らした。そしてついに彼女は私に答えを明かした。
「横光」
え? 虚を突かれた私に対し明石はさらに言葉を放った。
「横光。あいつ、小島ちゃんのことDVしてたんだよ」
そう明石が吐き捨てると、小島はうつむいて顔を覆った。明石は「大丈夫、大丈夫だからね」と言って小島の肩を抱いている。
私の脳内には二枚の画像が並べられていた。左には横光の顔写真、右には先ほど耳にした怒声の波形。次に私の脳はその二つを立体視のようにゆっくりと重ね合わせていった。そして二枚の画像が完全に重なり合った瞬間、私の口は無意識に
「たしかにな」
と呟いていた。
「たしかにな?」明石は聞き返した。「どういう意味?」
「いや、あのね」
明石の鋭い表情にいささか驚きながら私は弁明の言葉をつむいだ。
「あいつならやりかねないなー、って思っただけ」
あいつならやりかねない。そのとき、私は本心からそう思っていた。一見横光は優しそうな外見をしている。虫も殺せないような印象の童顔だ。しかしそのような男ほど裏で女を殴るのだ、そうに違いないと私は思った。そして私は、自分が前々から横光に対して上記のような忌避感を抱いていたということに気付いた。
「ああ、なるほどね」
私の弁明を聞き、明石は矛を収めた。
「じゃあ須磨ちゃんは小島ちゃんの被害を信じてくれるんだ」
「信じるも何も証拠があるし」と私は答えた。
「よかった、ありがとう」
そう言うと明石は唐突に私の手を握った。明石の目がほのかに潤んでいることに気づき、私はたじろいだ。
「小島ちゃんからはじめに話聞いたとき、すっごい悔しかったの。私たち三人って前からずっと一緒だったじゃん? まあ小島ちゃんは二個上だけど。それなのに気付けてなかったのが悔しくて。小島ちゃんをそんな目に遭わせた横光が憎くて。それでもあの会社に勤めてる自分が情けなくて」
そう言って語調を強めながら明石は両目をみるみる赤らめていった。小島もまた明石に肩を抱かれながら泣いている。気づけば私もなぜか涙を流していた。そして私は向かいのソファに移り、涙と鼻水に顔を濡らしながら女同士三人でしばし抱きしめ合った。腕に当たる小島のぬるい呼吸を感じながら、しかし私はどこかその様子を俯瞰してもいた。小島が休職し始めたのは一ヶ月以上前、いつ明石が小島からDVを知らされたかは分からないが、それから明石は何ひとつそのような素振りを見せないまま横光の下で働き続けていたのか? すごいなあ、と私は明石の強靱な気質に感嘆した。敵に回したくはない人物だ。
六個の眼球はひとしきり涙を出し尽くした。私は呼吸を整え、元のソファに戻った。
明石はグラスの白ワインを勢いよく飲み干すと、ふたたび私たちに話し始めた。マスカラが流れてしまっている。
「須磨ちゃん、私小島ちゃんと何度も話し合ったんだ。戦おう、って。泣き寝入りしちゃ駄目だ、って。でもそのためには仲間を増やさなきゃいけないな、ってなって。まだ小島ちゃんも、ショックから立ち直れてはいないし」
そう明石が言うと小島は俯いて自身の膝を見つめた。私は、先ほどまで自分が感じていた勧誘っぽさの正体を悟った。
「須磨ちゃん、私たちの戦いに協力してもらえない?」
明石はどろどろの顔でそう私に迫った。
「もちろん力にはなりたいけど、何すればいいか分からないし」
そう私が言いよどむと、明石は
「黙っててくれればいいよ」
と答えた。
「須磨ちゃんは黙っててくれればいいよ。黙って、話を聞いてくれれば。それだけで私たちにはすごい励みになるから」
そう明石が言うと小島も俯きながら頷いた。私は、
「それならいつでも大丈夫だよ」
と半ば言わされるように答えた。すると明石は、
「ありがとう、須磨ちゃん大好き!」
と言って私の手を再度握ってきた。そして明石は私の手を強く引きながら身を乗り出し、何を思ったか私の頬に接吻しようとした。
「あ」
私は明石の突然の挙動につまずいた。その勢いでグラスが倒れ、テーブル一面に白ワインが広がった。
「あー」
小島がおしぼりでテーブルを拭いている。明石は私に謝っている。何はともあれ一蓮托生となり、その日はお開きとなった。
その日の夜、私は自室でくだらない動画を眺めていた。暗い部屋の中、小さいスマートフォンの画面のみが青白く光っている。動画と動画の合間に数本のコマーシャルが挟み込まれた。スキップを押そうとしていた私は、ふと指を止めた。その中に一本だけ弊社のコマーシャルが混ざっていたのだ。
爽やかな男性の俳優がスーツを着こなし、右肩上がりのグラフを指差している。点と線のネットで都市が結ばれている映像の中を俳優が前へ歩いていく。
「全てが統計化され、集約・比較される現代。
統計の読み方を知る者こそが、未来を掴む。
データを情報に。
情報を判断力に。
IPTU」
社名が読み上げられるとともにコマーシャルは終わった。私は次の動画を観ずにアプリを閉じた。「IPTU」というサウンドロゴがやたらと耳にこびりつく。私はスマートフォンをケーブルに繋ぎ、這ったまませんべい布団へと潜り込んだ。次第に眠気の水位が上がっていく。意識を失う刹那、私は先程のコマーシャルに出ていた俳優の容姿がどこか横光と重なるように感じた。
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