私は職場の椅子に背中を預けている。窓の外には港湾が広がっている。空、海、その両方が妙にけだるくかすんでいる。黄砂にしては季節はずれだな、と私は思った。

 かつては白砂青松の景勝地だったんだよと前に取引先から言われた。今ではコンクリートに埋め立てられ、松は一本も見当たらない。鶴はクレーンに、亀はタンカーに姿を変えたのだろう。さしずめこのスーツが羽衣か、と私は窓に映る自らの姿を眺め冷笑した。

 頭蓋骨の裏が未だひりつく。熱を帯びた白い疼痛が脈拍に合わせて波を打つ。あと数時間は感覚が引かないだろう、と私は予想した。仕方ない。なんてったって、脳の一部を焼却したのだから。

 私は何を忘れたのだろう、と私は考えた。焼却された神経の周囲にはわずかに残った記憶のカスが散乱している。電柱、ドリップコーヒーの蓋、転がる小石、トイレの鍵……しかしそれらを繋ぐ物語はどこにも存在しない。無理に思い出そうとしなくてもいい、と私は思い直した。焼却は成功した、それだけでいいじゃないか。私の記憶力はそう悪くない。むしろ他の人と比べてもかなり高い方だと自認している。だからこそ私はこの技術を手に入れたのだ。そしてこの技術により、私は自らの健康を保っているのだ……私はそう自分に言い聞かせた。すると私の胸中にはなにか満ち足りた喜びのようなものがゆったりとほとばしった。私は猫のように背中を伸ばし、窓の外を占める豊かなわだつみに視線を投じた。彩度の乏しい水の上を中東帰りのコンテナ船が滑っている。はす向かいのデスクでは明石が下唇を噛みながらCtrl + Zを叩いている。

 人はみなそれぞれ人生最初の記憶を持っているのだという。私の人生最初の記憶は一歳の頃に遡る。ある日、まだ幼かった私は灰皿に置かれていた吸いかけの煙草を誤って咥えてしまったのだ。母親が喫煙しているさまを見て憧れを覚えていたのだろう。フィルター越しの主流煙を勢いよく吸い込んだ瞬間、私の脳は内側から侵された。そのとき私は、さしずめ脳は裁縫に使う綿袋に似た形をしているのだろうと感じた。眼球の裏側に置かれた小さなクッションを幾千もの煙の針が刺している。針が綿を突き刺すたびに炭酸のはじけるような音が骨を通して響く。脳細胞が急速に壊死しているのだ。それは痛く、苦しく、またどこか心地よくもあった。そのとき母が私に気付き、私の口から煙草をはたき落とした。そしてその日から母は喫煙をやめた。これが私の人生最初の記憶である。

 高校に上がった頃、私ははじめて人生最初の記憶を思い出した。それまでも私は、自分が小さい頃に煙草を誤って吸ってしまったという話を母から聞いて知っていた。しかしそのエピソードは私からの目線を含んでいなかった。高校になるまで、私目線の記憶はその他の雑多な情報のカスと混ざって脳の奥底に沈殿していたのだ。なぜ高校になって初めてその記憶は蘇ってきたのだろう。人間とは不思議なものだ。

 高校に上がるまで私は何度も服を焼き続けた。好きな人に嫌われたら服を焼いた。嫌いな人に好かれても服を焼いた。恥辱を受けたとき、失敗してしまったとき、総じて自らが穢れたと感じたとき――私は服を焼いた。その癖が周囲に露見するまで時間はかからなかった。親は私を叱り、先生は私を異常視した。私自身もまた、自分のことを病気なのかもしれないと薄々怪しんでいた。しかし人生最初の記憶が蘇ったことにより私は服を焼く癖から解放された。人生最初の記憶を生々しく想起すれば、そのとき感じた脳細胞の焼ける感覚もまた蘇る。そしてその強烈な苦痛は実際に私の精神を焼却する。精神を物質に宿らせてその物質を焼くよりも直接に精神を焼く方が手っ取り早い。そう考えた私は服を焼くのをやめ、代わりに嫌なことがあったら脳を焼くよう心がけ始めた。かくして私は健康を手に入れた。

 本邦において健康な女は珍しい存在だ。明石は病んでいる。小島も病んでいる。日向さんもおそらくは病んでいる。その中で私のみが健康でいられているのは、ひとえに人生最初の記憶があるおかげだ。人生最初の記憶を忘れなかったおかげで私はそれ以外のすべての記憶を忘れられるのだ。人生最初の穢れによって私はそれ以外のすべての穢れから解放されるのだ……思考が漂流しながらその辺りの命題に辿り着いたとき、私は自分の背後に件の日向さんが立っていることに気付いた。噂→影。

「日向さんおはようございます」

そう言って私が頭を下げると、日向さんは

「須磨さんおはようございます」

と言って私のPCのディスプレイを覗き込んだ。私は微笑の裏で焦燥を覚えた。

「すみません日向さん、今日はまだあまり進められて……」

そう私が弁明しようとすると日向さんは不思議そうな顔で私を見た。

「なに言ってるの? ちゃんとやれてるじゃない」

そう言われて私がディスプレイに目をやると、たしかに作業は順調に進められていた。私はついさっきまで思索に耽りながら無意識に仕事をこなしていたのだ。

「この調子で進めてちょうだいね」

そう言うと日向さんは白衣観音のような笑みを浮かべて別のデスクへと「査察」に向かっていった。私は狐につままれたような気分になりながらも、日向さんから怠慢を問いただされなかったことに小さく安堵を覚えた。私と明石は日向さんのことを裏でひそかに「日向の局」と呼んでいる。

 私たちの勤務先であるIPTU株式会社は「統計商品」なるものを売っている。官庁や民間から依頼を受け、データの解析を通してクライアントに提言を行うことを生業としているのだ。そのような業種のため、IPTUは数学科の卒業生を優先して採用している。明石も小島も数学科だ。小島に至っては院卒だという。商学科から入社した私はレアとまでは言えないがそれなりの少数派なのだ。むろん私も高校までの数学なら使いこなせる自信があるが、本来であれば私と明石らの間には埋めがたい能力の差があっておかしくないのである。しかし現状、私と明石の能力値にそれほど大きな差はない。なぜか。私が有能だからではない。弊社が、あるいは弊社に仕事を依頼する多くのクライアントが、明石らの専門知をじゅうぶんに引き出そうとしていないのだ。

 IPTUのホームページには「データを情報に、情報を判断力に」といういかしたキャッチコピーがでかでかと掲げられている。しかし実際の業務において「データを情報に」変える、あるいは「情報を判断力に」変える時間は微々たるものだ。私たちの勤務時間の八割は、クライアントから与えられた「データのようなもの」をしっかりとした「データ」に書き換えるための単純労働によって占められているのだ。数十年前の紙媒体をスキャンしただけの傾いたPDF、全角と半角が混在した数列、不要なスペースとセル結合が散りばめられた見かけだおしの表ファイル……そのような前時代の怪物たちを黙々と修正するだけの三下労働に、なぜ生粋の数学人が従事しなければならないのだろう? また残る二割の業務においても私と明石の間に能力差はほぼ存在しない。「データを情報に」変えるためには複雑な計算が必要となるのだが、現代においてはその大半の工程をコンピュータに代替させることが可能となっているのだ。むしろ人間は出来るだけ計算に関わらない方がよい。ただ人間は適切な手順と作法のもとコンピュータにデータという神饌を供え、見返りに与えられた情報という託宣をうやうやしく拝聴すればよいのである。「情報を判断力に」に至ってはそもそも数学科の領域から外れる。業務の最終段階において必要となるのは精緻な正確性の探求ではなく、クライアントに「なるほど」と思わせるための明瞭感と信頼感の演出なのだ。そして図表などの視覚的な領域において私はそのような演出を行うことにいささか長けている。このささやかな芸当によって、私は小島が辿ってきた学士四年+修士二年の経験値と肩を並べることに成功している。

 これは不公平なのだろうな、と思う。実際、飲むたびに明石は会社と社会への文句を吐き連ねている。

「終わってるよ」

私はそう叫ぶ明石の姿を思い出した。シークヮーサー杯のジョッキがテーブルにごとりと置かれる。金網の上の蛤はいつまでも開かない。

「何が」

ポテトフライを口に運びながら私がそう問うと、明石は一言

「日本」

と答えた。ポテトフライはしけてしまっていた。

「そもそもデータを取った後で統計屋に依頼するのがおかしいんだよ。データを取る前から統計屋に相談しなきゃちゃんとした結果なんて出ないのに。実験計画のことを誰も分かってなさすぎる」

そう吠えながら明石はイカゲソを噛みちぎった。ガーリーな見た目と豪快な動作が強烈な異化効果を生んでいる。どうやら明石は私を含む数人にしかこのような姿を見せないらしい。なるほどなあ、と私は思った。彼女の主張はたしかに正論だ。しかし、一般企業にその意識を望むのはお門違いなのではないか? おそらく明石は四年間の大学生活で統計学の「精神」を感得したのだろう。しかし、日本人の大多数が統計学の「精神」を分かっていないからこそ私たちの仕事は成立しているのではないか? 私はそのような疑問を明石に投げかけてみた。すると明石は半ば酩酊した目をこちらに向け、

「須磨ちゃんは志が低い!」

と拗ねるように唇を尖らせた。

「私は全体を憂いてるんだよ」

私は「ふーん」とのみ相槌を打ち、カシスウーロンを喉に注ぎ込んだ。酔いも甘みもない。ウーロン率がやたらと高い。

 私は「志が低い」と言われたことにわずかながら苛立ちを覚えていた。全体とやらについて思いを馳せることの何が高尚なのだろうか。何が有意義なのだろうか。そういうことはそういうことがやりたい人だけでやればいい。だいたい、居酒屋で恨み言を並べて世が少しでも変わるのだろうか。しかし私は明石に何も言わなかった。こうして明石は私の内心を悟らぬまま、相変わらず社会への問題意識を私に投げ続けた。

「私の周りには私よりずっと頭のいい子がたくさんいたけど、今じゃみんな気力をなくしてるか移住を考えてる。あんな子たちを逃してるようじゃこの国は駄目になるよ。いや、もう駄目になってるね」

「明石ちゃんは移住しないの?」

そう私が尋ねると、明石はすぐに

「いやだ」

と答えた。

「いやだね。私はこのクソ社会でのし上がって、今まで私らをさんざんいじめてきた連中に復讐するんだ」

そう言うと明石は不敵な笑みを浮かべ、帆立の殻を持ち上げて美味そうに汁を啜った。

「ふーん」

私は生返事を打ちながら金網の上を整理した。蛤は殻の中で腐ってしまっていた。

 無心に手を動かしながらそのような情景を思い返していると、ふいに誰かが私の肩をぽんぽんと叩いた。振り返るとそこには明石当人の姿があった。

「お昼だよ」

驚いて画面の右下を見る。たしかに正午だ。よく見ると今日の作業は完了してしまっている。私は何も考えずにタスクをこなしていたのだ。私は改めて自らの有能さに呆れ果てた。

「はいこれ、次は須磨ちゃんの番ね」

そう言うと明石は私の膝にレジ袋を置いた。中にはおにぎりと紙パックの紅茶が入っている。下の売店で買ってきたものだ。

「ありがたやありがたや」

私はそう言ってレジ袋を仰々しく持ち上げた。私と明石は交代で昼食をおごり合っているのだ。なんだかんだ明石はよき友人だな、と私は思った。

 私がおにぎりのフィルムを剥こうとしていると、明石は私に

「今夜暇?」

と尋ねた。

「暇だけど」

そう私が答えると、明石は

「ならよかった。少し話がしたいんだよね」

と言ったあと周囲の視線を伺い、小声で

「小島と三人で」

と付け足した。お、と私は思った。小島と会うなんて何週間ぶりだろう。彼女は近頃長らく休職していたのだ。病気だと聞いていたが、会ってもいいのだろうか。

 その後明石は私にとある私鉄の駅名を告げ、

「秘密にしてね」

とだけ言って廊下へと去っていった。そういえばその駅は小島の最寄りだ。それにしても、なぜ秘密なのだろう。なぜ今頃になって小島は私と会おうと思ったのだろう。そう疑問を抱きながら、私は明石が買ってきたおにぎりのフィルムをするすると引き抜いた。

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