AHA REM

黒井瓶

 不審者に注意。近頃、不審者が小学生に接触しようとする事案が増加しています。お気付きのことがありましたらすぐ一一〇番に通報してください。――そう書かれた貼り紙をはじめて目にしたとき、私の隣には明石が立っていた。

「不審者だって」

明石はノースリーブの腕を組み、いかにも不快そうな表情で貼り紙を睨んだ。

「いやだね」

そう言って私の方に目をやる。松脂じみた濃いマスカラが名もなき変質者への憎悪に凄味を与えている。なるほど明石が嫌いそうな話だ、と私は思った。もっとも、このような話を好む人などそうそういないだろうが。

「いやだね」

私はそう明石の言葉を反復すると、片手に握っていたドリップコーヒーのカップを口に運んだ。紙製の縁にグロスがうつる。会社のトイレで塗り直さなきゃな、と思う。

「最低だよ。小学生を付け狙うなんて」

明石はそう呟くと、道に転がっていた小石をサンダルの爪先で器用に蹴飛ばした。小石は放物線を描いて数メートル近く飛び、頑丈なブロック塀に弾き返されて排水溝の底へぼちゃりと落ちた。

「不審者かー」

私は凝り固まった首を回しながらそう呟いたあと、

「思い出すなー」

と何の気なしに独りごちた。そのとき私は私一人だけの世界に浸っていた。しかし、隣に立つ明石はその言葉を聞き逃さなかった。

「思い出す?」明石は私の顔を覗き込んだ。「須磨ちゃん、昔なんかあったの?」

しまった、食いつかれてしまった。私は苦笑を漏らすと、

「うん。小学校の頃、一度だけね」

と答えた。

「道に迷っててさ。もう暗いし帰らなきゃなーと思ってたら、目の前で男の人が車のドアを開けて、お嬢ちゃん乗せてくよ、って。私も学校で不審者のこと習ってたからさ、もう一八〇度後ろを向いて全力疾走。で、気がついたら開けたところに出てて、安心したっていう」

そう私が話すと、明石は「えー怖いね」と言って私の手首を握ってきた。明石のボディータッチからは得てして無自覚なあざとさが感じられる。おそらく当人は本気で私の体験に同情しているのだろう。しかし、平日朝八時四十五分の私にとって彼女のぬくもりはいささか疎ましかった。

 そう、あのとき私は道に迷っていた――ススキとセイタカアワダチソウに支配されただだっ広い河原の真ん中で。日はとうに暮れ、雲を染めるわずかな光も段々と鈍くなっていく。進んでも進んでも現れるのは同じ景色ばかり。遠い月面を彷徨っているような孤独を覚え、私はしずかにパニックへと陥っていった。そのとき、私は目の前に一台のバンを見た。

「でも須磨ちゃんそのとき気持ち悪くなかった?」

絶対気持ち悪いよね、そんな男に話しかけられたら。そう明石は言葉を繋いだ。

「気持ち悪かった」私は明石の問いにてきぱきと答えた。「だから燃やした」

「燃やした!?」明石は私の答えに眉をひそめた。「何を」

私は少し躊躇したのちに答えた。

「その日着てた服を」

その頃の私にとっても不審者は薄気味悪い存在だった。そもそも荒れ果てた河原の真ん中に新品同様のバンが停まっているという状況が異様だった。しかもその車の周囲には轍が一切見当たらなかった。車の四方は、人の背丈を超える雑草たちによって一様に囲まれていたのである。そんな車に乗っている男から声をかけられたのだ、私が一目散に逃げるのも無理はないだろう。

 家に帰ってなお、そのとき覚えた不快感は私の思考を占拠し続けた。男の声が、視線が、粘液みたく体表にこびりついているような気がしたのだ。だから私は服を脱ぐと親に隠れて家の裏手の空き地に向かい、着ていた服の山にマッチを投じた。冬の炎は勢いよく燃え上がり、化学繊維で描かれたキャラクターの柄をどろどろに溶かした。石油に似た黒い煙を嗅ぎ、私はそこに清らかなものを感じた。男から粘液を浴びせられて穢れてしまった自分が炎によって浄化されていく、そのような感覚を当時の私は抱いたのだ。

「ええ……」

明石は顔を曇らせた。そして明石は、

「それはつらかったね」

と言って再度私の手首を温かく握った。

「カコノハナシデス」

私は九官鳥のような無機質な声でそう返答すると、飲み終えたコーヒーのカップを自販機の横のゴミ箱に押し込んだ。

 私は明石に話したことを早くも悔やみ始めていた。自分が酔って吐いたゲロを他の酔っ払いが美味そうに頬張っていたら誰だって更なる吐き気を覚えるだろう。そのときの私には明石がそのような酔っ払いと同等に見えていたのだ。ああ、また服を燃やしたい。しかし出勤前に裸になるわけにもいかない。少し面倒だが、あれをやるしかないか……。

「先行ってて」

私は明石にそう伝えると足早に近くのコンビニへと向かっていった。トイレの鍵を閉め、パンツを履いたまま便座に腰を下ろす。その後私は息を吸って目を閉じ、指先をそっと両のこめかみに添えて意識を統一した。そして次の瞬間、私は明石との会話の記憶が刻まれた脳神経の部位をまるごと焼き払った。

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