舞台袖

 舞台袖に続く扉を開けると、青白い顔をした上岡が目に飛び込んできた。三枝木さん、と呼ばれて眉をしかめる。

「お前な、仮にも役者がそんな情けない声出すなよ」

 俺の言葉は聞こえていないようだった。何かに追い詰められたような表情で、上岡は口を開いた。

「三枝木さん、セリフ全部覚えてますよね」

「そりゃ俺が書いたからな」

「役者もやってましたよね」

「学生の頃だけど一応」

 それが何だよ、と怒鳴りそうになるのを堪える。開演五分前、無事に幕を上げることが先決だった。

「じゃあ代わりに演ってくれませんか?」

 危うくはっ倒しそうになった。役者と作演、二人きりの劇団でそんなことができるわけがない。

「……体調でも悪いのか」

 いえ、と上岡は首を振った。

「だったら何で」

 問い詰めるが視線が合わない。上岡は黙ったまま、血の気の引いた顔で客席を見つめていた。

 別れた恋人が観に来ている、ストーカーがいる、会いたくない家族が客席にいる。

 理由は色々考えられたが、どれもしっくりこなかった。そんなことで舞台に立てなくなる奴ではない。

「なあ上岡」

「三枝木さん、どうしても駄目ですか」

 充血した目を向けられて、俺は一つ息をついた。

「あのなぁ、大した知名度もない作演がのこのこ出ていってみろよ。変な空気になるぞ」

「大丈夫です。客は人じゃないですから」

 上岡らしくない言葉だった。言葉通りに受け取るべきか迷って、「お前本当にどうした」と上岡の顔を覗き込む。

「……話せば代わってくれますか」

「理由次第だけど」

 壁時計に目をやりながら応える。午後一時十分、そろそろアナウンスをしなければならない。上岡は何回か逡巡したあと、意を決したように口を開いた。

「客席に、裸の大将がいるんです」

「分かった。五分後に出られるよう準備しろ」

 待って行かないで、と服の裾をつかまれる。

「三枝木さん、本当に見えませんか?」

 上岡の手をはたき落として、俺は視線の先を追った。暗がりに沈む客席に、特段変わった様子は見受けられない。

「……気のせいだよ。裸の大将なんかいるわけない。てか何だよ裸の大将って」

「坊主で恰幅のいいタンクトップ姿の男ですよ」

「それは知ってる。俺が言いたいのは」

 言葉を続けるのが面倒になった。大きく息を吐いていると、上岡が必死に訴えかけてきた。

「三枝木さん、お願いします。俺あんなのに見られながら演じるなんて無理です」

「……とりあえずアナウンスしてくるから」

 開演時刻は大幅に過ぎていた。中止という選択肢はない。上岡を説得するか、自分が演るか。どちらにせよお詫びをしなければ、と舞台に出る。

 客席と向かい合ったところで息を飲む。一斉に視線を向けられ、俺は思わず頭を下げた。

「主宰の三枝木です。申し訳ありませんが、その、もう少々お待ちください」

 全員が同じ顔だった。坊主頭に空とぼけた表情が脳に焼き付いている。裸の大将とはよく言ったものだ。

 額を伝う汗が床に落ちる。身体中に感じる視線。未だ顔は上げられそうになかった。

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午後一時開演予定 多聞 @tada_13

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