文月灯との会話(名辞以前と透明な世界)
「中原中也の言った言葉に名辞以前の世界というものがあるわ」
文月灯は本から目を離さずにそう言った。
「名辞以前の世界?」
僕は咲夜がラリっていた時に言っていた「透明な世界」という言葉が何となく気になって、文月先輩にそのことを話したのだった。
「『これが手だ』と、『手』という名辞を口にする前に感じている手、その手が深く感じられてればよい」
「そう中也が言ったんですか?」
「うん。『面白いから笑うので、笑うから面白いのではない。笑うとは言わば面白さの名辞に当たる』って」
「どういう意味でしょう」
「私が考えるに、人が何かを見たり、聞いたりしたとき、すぐにそれが言葉に浮かぶのが一般的な人間なの。それが無くなったとき、人間は言葉を介さずに、ありのままの感情を自分の内に抱える。十の名辞以前――名辞以前とは人が感じた事を言葉にする前の感覚のことね――に対して9の名辞を持っている人と8の名辞以前に対して8の名辞を持っている人では後者の方が詩人として豊富だ。私の中也の解釈はそんな感じ」
「そして全ての言葉を無くした状態が咲夜の言っていた『透明な世界』だということですか」
「私の考えではそう言いたかったんじゃないかって思うの。もちろん勝手な想像だけどね」
僕は文月先輩の言っている事の半分もわからなかったが、なんとなく感覚として咲夜の言っていたことが理解できた気がした。ラリってる人間の言葉をまともに考えるなんて馬鹿げたことだが。
「でも睡眠薬は意識の内側に思考が寄ってくる。頭が言葉でいっぱいになる。名辞以前の世界とは真逆の状態だわ。まあ、だからこそ、世界が言葉で埋め尽くされているからこそ、逆説的に名辞以前の世界――透明な世界の事を感じたんじゃないかしら。咲夜様はとても鋭くて、頭がいいから」
それは自分の組織の上の人間に媚びを売っているのとは違う事がわかった。一目藍暗咲夜を見た人間なら、百人中百人がそう言うだろう。
吸血鬼達は不眠症(の欠片達) 透瞳佑月 @jgdgtgdt
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