第5話 安定剤

 自分の仕事と、押し付けられた仕事が終わって、凝り固まった体を伸ばす。はぁっと深い長い息を吐くと、ドッと疲れが溢れ出す。その瞬間、仕事モードのスイッチがオフになる。


 もう、何もかもやる気が起きない。背もたれに寄り掛かり、ぼーっと天井を見上げたまま何十分と過ぎ、定時からだいぶ時間が過ぎていたことに気づきもしなかった。


 やっと此処から出ることが出来る。嬉しいけれど、帰る場所もまた地獄。そう思えば嬉しいという感情がどんどん萎み、きっと嬉しいという感情が最初からなかったのかもしれない。脳が誤ってこれは嬉しいという感情だと、判断してしまっただけ。きっとそう……と、自分に言い聞かせる始末。


 心がズンと重くなり、更に椅子から立ち上がることが困難となる。けれど、いつまでもこんな所にいるのも苦痛なため、早く外の空気が吸いたいが一心で机の上に広げていた物たちを片付け、ロッカーから鞄を取り出して、タイムカードを押してから事務所から出る。


 

 事務所の中でも聞こえていたけど、事務所から出れば休憩所から不快と思ってしまうくらいの笑い声が聞こえてくる。その声を聞いているとこめかみにズキッと痛みが走り、眉間にしわを寄せながら心の中でため息をついて事務所の鍵を閉めた。


 15時までは事務所にいて、15時を過ぎたら事務所ではなく休憩所でお茶をする。正確には、私が事務所に入れば事務所から出て行く。


 私は事務所に入れば定時までそこで仕事をする。そんな私の横で仕事もせず、お茶をするのが気まずくて出て行くのではない。私と同じ空気を吸うのが嫌だから事務所から出て行くのだ。


 あからさまな態度に腹が立つし、普通に悲しいけど、もうどうしようもないから。私が我慢をすればいい話だからと、自分に言い聞かせる。

 以前はそう言い聞かせていればまだ心が楽になったのに、今は唯一の人だった彼に裏切られてからは言い聞かせる行為もダメで、全て受け取ったものが心に残って、心だけが重くなっていく。


 重くなり過ぎたこの心が、いつ破裂してしまうのか分からないから自分でも怖い。


 そんなに遠くない日に破裂しそうで、そんな心を安心させるためにも乾燥した手を擦り合わせ、温かくなった手のひらを胸に押し当てた。服の上からなんて温かさは伝わらないけれど、そうやることで心の持ちようは少しだけ違う。



 小さく息を吐き出すと同時に「よし……」と呟いた私は鞄を肩に掛け、事務所の前を後にする。


 そんなに長くはないというのに、廊下が異常に長く感じる。足も震えて歩きづらいし、なんなら今にも立ち止まりそうだった。けれど私は〝頑張れ〟と自分に言いながら、必死に足を前へ踏み出した。



 お喋りで盛り上がっているところに鞄を持った私が現れると、一度会話が止まる。その空気があまりにも重いし、永遠にも感じる長い沈黙が気まずい。私は一人一人の顔を見るのも怖くて下を向いたまま「お疲れ様でした」と、頭を下げて玄関に向かうが、当然のように引き留められる。


「仕事は?」

「終わりました」

「全部?」

「今日の分は全て終わりました」

「ふーん。でもさ、下っ端が先に帰るのはおかしいんじゃない?」

「……定時を過ぎたので」

「それでも上司より先に帰るのはおかしいでしょ」


 だったら先に帰らばいい話でしょ。

 定時なんかとっくに過ぎてるんだから。


 そんなことを言える勇気がない私は、唇を噛み締めながら頭を下げる。


「すみません……」

「はぁ。なんか空気が悪くなっちゃったわね。帰りましょう」

「あ、私の机にある資料に目を通しておいてよね?」

「え?」

「戸締りもよろしくね」

「……はい。お疲れ様でした」


 軽く頭を下げ、全員が出て行ってドアが閉まってしばらく経ってから頭を上げて、言われた資料を見に事務所へと戻る。別に重要書類ではないって、意地悪で言われたって分かっているけれど、私には〝電気〟をつけに行かないといけない。


 私が電気をつけるまで、子供みたいに外で監視をしている。そのため、事務所には必ず行かないといけなかった。



 鍵を開け、事務所に入って資料を見てと言った上司の机に行く。けれどそこには、当然何の資料も置かれていなかった。


 中の様子は外からは見えないけど、何となく今がどんな状況なのかあの人たちは分かるのだろう。小さくだけどクスクスと笑う声が外から聞こえてくる。



 馬鹿にする笑い声、嫌な目線に態度、そして嫌味。全てが私の心を傷つけていく。


 気にしなければいい。相手にしなければいい。そう思えば思うほど苦しくなって、どうしたらいいのか分からない。全て馬鹿みたいに受け止めてしまい、ただただ死にたいという気持ちが募っていく。


 追い打ちをかけるように胃も痛くなってきて、立っていることが出来なくなった私は、自分を抱きしめるようにしてその場に蹲った。


 大丈夫と、十分頑張っていると、思う存分泣いてもいいんだよと自分に言い聞かせる。けれど、〝まだ頑張れるでしょ〟と。〝もう少しだけ頑張ってみようよ〟と思ってしまう自分もいる。


 まだ頑張らないといけないという現実を自分自身で突きつけてしまい、それによって呼吸も乱れ始め、何十にも鍵をしていた心の瓶の鍵が開いてしまい、しまい込んでいた感情がドバドバと溢れ出して耐えられなくなった私は、鞄へと手を伸ばした──。



*


 トンッと肩を押されたことによって、私はビクリと異常なほど大きく肩を揺らし、目を見開いたまま一瞬息を止めた。

︎︎

「すみません! よろけちゃって……」

「あ、いえ……」


 頭を下げた女性に私も頭を下げ、視線を前に戻した私の心臓はバクバクと暴れまわっている。


 視線の先には電車の窓があり、窓の外は次から次へと景色を変えていく。

その様子に、私は動揺を隠せないでいた。


 今、自分が乗っている電車まで、どうやって移動してきたのか分からないからだ。



 あまりにも心が不安定だった為、会社で薬を飲んでしまった。

 先月から薬の強さが変わり、だいぶ強くったせいでぼーっとすることが今まで以上に増えた。だからぼーっとしていても意識がどこかに行かないように外では気を付けていないといけないのだけれど、今日は逃げたい気持ちが強かったのか意識を保つことが出来なかった。


 こうなるって分かっていたから外では飲まないように我慢していたのに……負けてしまった自分が情けない。ただ、幸いにもすぐに私が降りる駅へと着き、一目散に電車から降りて、心に伸し掛かっていた物を取り除くように長い息を吐いた。


 そんな私を不思議そうに見ている人が沢山いて、その視線が無条件に職場を思い出させ、胃液が這い上がってくる感覚を覚える。それがどれだけ気持ちが悪いことが私自身しか知らなくて。悔しさや寂しさを覚えながら、口元を押さえて人の邪魔にならない端へと寄る。


 鞄に入っている水を取り出し、落ち着かせる為にも水を飲んだ。

 ペットボトルの半分まで一気に水を飲み、不快な胃の痛みを覚えながら溜め息をつくと、重くなった瞼のせいでどんどん視界が狭まっていく。視界が真っ暗になる寸前で「ダメだ」と小さく呟き、逆らうように必死になって目を開けた。



 明日は病院だから、どんなに自分の中で整理が出来ないとしても薬を飲むことは出来ない。先程のようにどうやって電車に乗ったかも分からない頭じゃ、病院に着くことすら出来ないだろう。


 だから明日は、何が何でも我慢しないと。


 我慢しないといけない。

 そう自分に言い聞かせるのは、凄く気分が落ちる。



 乗っていた電車が新しい乗客を乗せて私の目の前から走り去った為、視界には線路が飛び込んでくる。


 視線の先にある線路に飛び込めば、すぐにでも楽になれる。もう嫌なものを見るのも聞くのも、苦しむことも、涙を流すことも何もかも無くなって、全てから解放される。それはこの上なく幸せなこと。


 ふわりと浮いた心で一歩前に踏み出したけど、命を投げ出すことは負けを認めることになる。それだけは嫌だったから私はまた、踏み止まってしまった。


 踏み止まってしまったことも、飛び込む勇気など端からなかったことも悲しくて、泣くのを必死に我慢しながら私はホームを後にした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る