第4話 もう一つの地獄 2

 現在の時刻は9時。

 職員の仕事開始は8時15分。


 送迎をしてくれている職員は当然仕事中で、施設に残っている職員は清掃をしたり、休憩時間に利用者が飲む麦茶を作ったり、今日利用する人の名前を全て書き出したメモと、非接触型体温計をドアの前にある机に用意しておいたり、お昼に食べる栄養がきちんと管理されたお弁当を一気に温めることが出来るスチーマーにまずはご飯だけを入れておいて、10時になったらお弁当を今度は入れる。あとは今日やる作業の準備を9時半までに終わらせないといけない。


 この施設を利用する人の仕事開始時間は10時。その前に続々と利用者が来て、一番早く此処に来る人は30分には来てしまう。


 すぐに終わってしまう仕事の方が多いけれど、作業の準備を一人でやると9時半までにはどうしても終わらない。一人じゃなかったら終わるのかもしれないけど、誰も手伝ってくれる人はいないからいつも中途半端なまま作業室を出てみんなの対応をしている。


 一日にこの施設を利用する人は、平均25人。施設外に10人は行ったとしても、15人は残るわけで。それを一人で回すのも限度があって、どうしても一人一人に注意が行き届かない。それぞれに合った仕事をしてもらっているから。


 私が生活支援員だけの仕事をしていれば、そんなことはない。上司たちが全て仕事を丸投げしてくるから、毎日の仕事がとても大変。


 どんな仕事をやるだとか、その仕事の準備だとかは職業指導員が普通行う。以前の職場だってそうだった。

 それなのにどうして生活支援員の私が、全て行っているのだろう。生活支援員は利用する人の生活上のサポートなどが主な仕事なのに、どうして枠を超えているのだろう。どうして一人で仕事を回して、気を配らないといけないのだろう。


 どうせ今日も、ファイルを見てもらえずに一日が終わるのだろう。それなら私は、何の為に利用者全員の情報を纏めたりしてるんだろう。ため息をついても仕方がないというのに、どうしてもため息が漏れてしまう。


 弘樹はこんな理不尽な職場とは違って息がしやすい職場で働いているんだと思うと、安堵を覚える。


 小さな欠伸をしてから、今日も準備を中途半端にしたまま作業場から出る。

 出てすぐに見える玄関には、自分でこの施設に来てくれている利用者数名が体温を測るために玄関の前で待っていた。私は走って、少し荒々しく玄関のドアを開けた。



「おはようございます!」

「おはよー」

「おはようございます」

「ごめんなさい、遅くなってしまって」

「別に俺ら気にしてないっすよ。今日は職員さん一人なんすか?」

「いえ、一人じゃないですよ。他の方は事務所にいます」

「ドア開けたのに誰も出てこなかったから、わたしたち今日休みだっけ? って話してたんだよね」

「うん」


 作業室にいると、どうしてもドアについているブザーの音が聞こえない。だからいつも9時25分には作業場から出るように心がけていたけど、今日は25分を過ぎてしまっていた。そのせいで、何分かは外でみんなを待たせてしまった。


「本当、申し訳ないです……」

「弥生ちゃんが謝ることじゃないじゃん」

「そうっすよ。てか、他の人たちが体温くらいやれって思ってるくらいだし」

「そうそう! わたしたちいつも」

「ほ、ほら。体温測るおでこ出してください」


 この方たちが文句を言ってくれたところで何も変わらない。環境が変わるだなんてごく一部だけで、実際は何も変わらない現状維持が続いていく。悲しいことに、現実はそんな甘くない。


「名が靴履いて、作業着に着替えてくださいね」


 はい、と返事をして更衣室へ向かって行く利用者二人の姿を見届けてから、机に置かれたファイルに視線を落とす。結局、誰も見てくれなかった。送迎に行った人たちは仕方がないけれど、事務所にいる人たちは事務所から出てくることもなかったな。


 ここにおいても、事務所においても結局見られることはない。

 以前、纏めておいたファイルの姿が見当たらなくて、まさか……なんて思いながら事務所のゴミ箱を確認したら、まんまと捨てられていたという事があった。


 何度纏めても、必要な情報を人数分コピーしても見てはくれない。こんなの意味のない行動でも、私にとってはこれらは任された仕事だから。何故こんな仕打ちを受けても続けているのかというと、仕事というのもそうだけど、最初に抱いた最後まで足掻いてやろうと気持ちを何故か今も必死に貫き通しているから。


 まぁ、貫き通しているから余計心が重くなっているんだけど。


 大事な事と、利用者の情報が書いてあるファイルをいつまでもここに置いておくわけにはいかない。誰かがそれを見てしまった場合、すぐに利用者の間で話題となり、それが職員の耳にでも入ったら私は更に人権が無くなってしまう。そうならないようにファイルを持って事務所に行くのではなく、職員しか出入りできない小さな倉庫へと向かう。


 其処なら利用者の目に入ることはないし、職員も此処には滅多に来ない。私しかほとんど出入りをしていないから仕事中に発作が起きそうになったり、我慢ができなくなった時は此処へ逃げ込んでいる。狭くて、薄暗いこの倉庫に。



*


 その後も送迎を使わず自転車だったり、親御さんの車で送迎してもらっている人が立て続けにやって来る。その中の一人は自分で作業着を着ることが出来ないため、世間話をしながら手伝いをしていると、ドアが開く際に鳴る音が聞こえると同時に「清水さん!」と怒号のような声で私の名前を呼ぶ上司の声が聞こえてきた。


 送迎で来ている人たちが施設に到着したら、今度はその人たちを対応しないといけないのは当たり前だけど、私の名前を呼ぶなら代わりにやってほしいし、みんなの前でそういう声をなるべく出さないでほしい。それでパニックになる人もいるから。なんなら事務所から出てこない職員にやらせてよ。なんて思うけれど、やってはくれないから結局自分がやらないといけないわけで。溜め息をグッと堪えて、私は着替えを手伝っていた利用者に声をかける。


「体温の仕事をしてくるので、ここからは一人で出来ますか?」

「うん」

「終わったらすぐに来るので、それまで頑張ってください」

「うん」


 声が跳ねてる。今日はテンションが高いから、一人で着替えられるかな。でも、こういう日に限って泣いてしまう事が多いから安心はできないけど。ちょっとした不安を抱きながら、私は更衣室を出て玄関へと走った。


「みなさん、おはようございます」


 ドアを開けながら挨拶をすれば、送迎車から降りて一列に並んでいるみんなが挨拶を返してくれる。


 体温計を持って、みんなの体温を測る前に視線を左右に動かす。送迎から帰って来た職員の姿はなくて、多分喫煙所へといつものように向かって行ったのだろう。長い送迎から帰ってきて一服したい気持ちは分かるけど、そういうところをみんなは怖いくらいちゃんと見ているから、せめてみんなが中に入ってから一服しに行ってほしい。そう思ってしまうのは、私の我儘なのだろうか。


「あ、弥生ちゃん今日はシュシュじゃないんだ!」

「うん、そうなの。新しくしたんだけど、どうかな?」


 全員の体温を測り終え、一人一人の体温を書いたメモと体温計を戻しに行こうとドアを開けた時、18歳の芽衣ちゃんが声をかけてきた。

 彼女は敬語で話されるのが嫌みたいで、この子にだけ私は敬語を使っていない。


「めっちゃ似合ってるよ!」

「ありがとう。芽衣ちゃん、今日はオレンジメイクなんだね」

「そうなの! ママがね、昨日買ってくれたの」

「そうなんだ。とても似合ってるよ」

「ありがとう。今度弥生ちゃんにもメイクしてあげたい! いい?」

「……うん。楽しみにしてるね」


 彼女はメイクの楽しさを覚えたから人にもやってあげたいって、ただ純粋な思いから口に出た言葉だったんだろうけど、私にはどうしてもそうやって受け止めてあげることが出来ず、自分が上手く笑えたのかは分からなくて不安になった。


 こうやってコミュニケーションを取るのは嫌いではない。だから資格までとって、生活支援員になったのだから。ただ、それを一人で行うというのはまた違ってきて。お昼休みは事務所で1時間休める、なんてことはまずあり得ない。それが当たり前だから。


 みんなと同じ空間でさくっと食事を済ませ、ゆっくりご飯を食べることを指導して、薬をちゃんと飲んだのか確認をして、相談なり話し相手になったりと、実質の休み時間は5分……いや。食事を終えた時点で終了だから2分程度しかない。


 生活支援員というものはそういうもので、常にみんなと同じ空間にいる。

 他の職員は事務所で食べてる人もいれば、外に食べに行ってしまう人もいて、利用者と交流しようとはしない。サービスでも何でもない、仕事場という意識があるからなのかもしれないけど、ここは普通とは違う。一人一人と交流することで成り立つというのに。私より長くこの業界にいるなら、そのくらい理解しているはずなのに。


「大塚さん、薬飲みましたか?」

「飲みました」


 毎日何かしらの問題が起こらないようにと願いながら過ごしているけれど、そういう日の方が圧倒的に少なくて。誰と誰が喧嘩をしたとか、つい思っている口に出して後悔しただとか、泣いてしまったとか、貧血を起こしたとか、パニックに陥ってしまったとか、常に何かしらある。


 怒るのも、慰めるのも、愚痴を聞くのも、全ての対処を私がする。

 

 私が此処に来る前はどうだったのかは知らないけど、今は私しかいないから、みんなも私にしか寄ってこない。それを信頼されている……とはお世辞にも言えないけど、少なからず必要とされているということは分かり、嬉しいけど辛いという気持ちがどうしても生まれてしまう。


 ただ、午前中の作業では何一つ問題は起きなかったから、今日作成する資料に書き込む内容を頭の中で纏めながら、お昼休みにぼーっとしてしまっていた私の隣に誰かが座った。


「清水さん」

「どうかしましたか?」

「俺、これが欲しいんです」


 そう言ってスマートフォンを見せてくれた画面には、3万円と書かれているべっどが映し出されていた。


「ずっと腰が痛いって言ってましたもんね。いい買い物じゃないですか」

「欲しいから通帳にお金残しときたいんですけど、生活保護って貯金しちゃダメなんすよね?」

「何かが欲しい時には貯めておいていいんですよ。ただ大きな買い物をしたり、引っ越しがしたいって時には申告しておかないと大変なことになります。生活保護を打ち切られてしまう可能性もありますから」

「3万くらいのも申告した方がいいんすか?」

「大丈夫だとは思いますが、念には念をという言葉があるくらいですから申告しておいた方がいいとは思います。未申告ということが一番ダメなので、何事も申告しておいた方が信頼は上がります」


 相談してきたこの男性は、私より2歳年上。

 以前は一般企業のそういう枠で働いていたが、朝起きれず何度も遅刻と欠席が続いてしまい、解雇になってしまった。そのまま家から出ることが出来ない引きこもりとなり、生活保護を受けるようになって10年が経った。


 彼がこの施設に来て4年。私と関わって2年。

 最初は本当に口を開くことはなく、挨拶すら出来なかった。そんな彼に沢山コミュニケーションをとっていった結果、こうやって相談をしてくれたり、挨拶は勿論、ちゃんと朝起きれるようになって、今では送迎を使わずに自分で来れるようになったりと本当に成長した。


 歳は上でも、自分の努力が彼を少しでも変えることが出来たという実績が素直に嬉しかった。


「なんて言ったらいいんすかね?」

「腰痛が酷くて、何ヵ月後までにはベッドを買いたいので貯金をしても大丈夫ですか? と最低限のことを言っておけば大丈夫だと思います」

「なるほど」

「無理のない程度で貯金していくんですよ?」

「はい」

「いやぁ、この子がこうやって誰かに相談している姿を見ると、夢の中かと勘違いしちゃうよ」


 そうやって後から来たこの人は、彼と同じ時期に此処で働きだした年配の利用者。歳は離れてるとはいえ同性ということで、彼も打ち解けるのが早かったのだろう。休憩時間になると、いつも二人で一緒に居る。


「本当は色々と誰かに言いたかったんだけど……」

「相談することってなかなか難しいですからね。緊張してしまいますし」

「年寄りにはすぐに言ってくるのにな?」

「職員さんに言うのとはまた違うじゃん」


 この施設には様々な人がいる。


 年齢も最年長が62歳。最年少が18歳。

 軽度の人もいれば、生活介護とまではいかないけど重度の人もいる。


 普通の健常者と思ってしまっても、やっぱりこの施設を利用するだけあって健常者ではない。その為、言葉と態度には人一倍気を付けないといけない。


「弥生ちゃん、これあげる」


 敬語が取れた彼と、そんな彼を可愛がっている年配男性を微笑ましく眺めていると、私の席に来た木村美千代さんが、手のひらに乗せたキューブ型の飴を私に差し出した。


 昨日、あれほどお金のことを利用者たちに相談し、相談員から彼女のお金事情を聞かされるくらい酷い状況なのに飴を買ってくるだなんて。まぁ、それを私がとやかく言える立場にはないんだけど。


「いいんですか?」

「みんなにも配ってるの。だからもらって?」


 先程、袋から出したばかりであろう飴で、一度でも開けたらすぐに分かるような使用の飴だったため、私はすんなりと手のひらに乗っている飴を受け取った。


「ありがとうございます。あの、よかったらこれ」

「チョコ?」

「ミルクチョコなんですけど、よかったらどうぞ」

「ありがとう」


 貰ったチョコをその場で食べた木村さんは、美味しいと言ってニコッと笑みを浮かべた。


 悩みを聞き、アドバイスをして、面白いことを言ってみんなで笑い合ったりする。地獄は地獄だけど楽しいと、嬉しいとまだ思える心でいることに安堵を覚えていると、ビーッと荒々しく玄関のドアが開くから視線は無意識にそちらに向く。


 誰か見ても機嫌が悪いと分かる表情を浮かべながら入ってきた上司を見て、どうしてまた機嫌が悪いの……と視線を逸らしながら心の中で呟いていると、私の手元に影が落ちる。恐る恐る見上げれば、上司とばっちり目が合ってしまった。


 あぁ……あの目つきは自分が生ませてしまっていたのだと思うとかなりショックで。私は上司に何かを言われたからとかではなく、自主的に席から立ち上がった。


 チッと舌打ちをした上司はくるっと私に背を向けて、再び外に出て行った。その後を私はついて行くしかなくて、私の名前を呼んだ利用者たちを安心させるためにも小さく微笑み、急いで上司の後を追う。




「あなたさ、生保の人に物をあげるだなんてどういうこと? これを他の人に知られたら会社が潰れるって分からないの?」


 高価な物や、生活の役に立つ物。例えば、余ってしまったお弁当をあげたりだとかは生活の援助になってしまう為あげることは出来ないけれど、たいしてお腹にたまらないお菓子くらいなら大丈夫だったはず。


「……私は、飴を貰ったのでそのお返しに小さなチョコをあげただけで、高価な物は」

「それがダメだって言ってるの! どんな物でもあげないで。何回も同じことを言わせないでよ」


 だったら、規則とかにしておいてよ。

 入社した際、そんなことは一言も書かれていなかった。


「仕事も出来ない。人に迷惑をかけてばかり。清水さんってそういう人なんだから、少しは目立たないようにしててよね。本当疲れる

「……申し訳ございません」


 深々と頭を下げると、上司は気分が良くなったのかふっと鼻で笑いながら私の横を通ってこの場から去って行った。


 ビーッという音が遠くから聞こえたことによって私は頭を上げたけど、視線は足元に落としたまま、怒りを耐えるように掌を思い切り握りしめた。



 仕事が出来ない……か。一人で仕事を回している私が、仕事が出来ない。

 そっか。私って、仕事が出来ていなかったのか。



「ふざけないでよ……」


 物をあげてしまったことは私が悪いけれど、仕事のことをとやかく言われる筋合いはない。こんなにも楽な仕事がないから、あんなことを言ったんでしょ。そう思うのに、何も言えないのが悔しくて。言葉を飲み込むしかなくて。早く施設に戻らないといけないのに、先ほど言われた言葉だったり、朝に言われたこと、いつだったかはもう定かではない理不尽な言葉だったりがずっと頭の中で流れていて、私は暫くその場に立ち尽くしたままパニックに陥らないように必死に耐えていた。


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