第3話 もう一つの地獄

 7時半、いつものように施設の玄関を開け、ビーッと思わず目を細めてしまう大きな音が鳴ると同時に施設の中に入る。まず電気をつけて、エアコンのリモコンを手に取るが、今日は寒くも暑くもない。つけたらつけたで文句を言われるだろうから、私はそっとリモコンを元の場所に戻した。


 然程長くはない廊下を歩いて、施設の一番端にある事務所に入り、自分の荷物をロッカーにしまって鍵を閉めた瞬間から私の仕事は始まる。


 今日の利用者の確認と、重要な予定がないかの確認をする。例えば見学者、体験者が来る予定だったかとか。今日はどちらとも予定はなく、一日の作業の流れを頭の中でザッと決め、情報を共有しないといけないことをあらかじめ纏めておいた資料を印刷し、それを透明ファイルに入れる。手に持っているそのファイルを見て、予想ができる数分後に嫌気を差しながら事務所を後にする。



 一番最初に職場に来ないといけないのも、利用者が来る前に作業やお昼ご飯の準備をしておかないといけないのも、いつしか当たり前となっていた。


 全ての準備にはそれなりに時間がかかる。SNSもやっているから、それの更新用の文章も今のうちに考えておきたい。一番準備に時間がかかるのは、今日の作業の準備。その人に合った仕事を振り当てているため、結構な時間がかかる。


 たとえ準備中に職員の誰かが出社してきても、私の手伝いをしてくれる人は誰もいない。私が一番下っ端というわけではないのに。

 


 この職場は、恐ろしいほど仲間意識というものが全くない。

 いや、仲間意識はあるか。私を蚊帳の外にしている時は、とても楽しそうに絆を深めているから。


 足を引っ張る存在とされた私は裏切り者とみなされて、変に絆を深めたみんなは自分たちこそが正義だと思い込んでいて。みんなから制裁されて、何も言えずに頭を下げる私を見ている時はさぞかし気分が良いんだろう。そんなことで快楽を与えているだなんて馬鹿馬鹿しいし、屈辱でしかないけれど、一度でも歪んでしまったものは元には戻らない。どれだけ私がみんなの操り人形だとしても、私は一生この立ち位置だ。


 これが祖先からずっと続いているだなんて吐き気を覚えるし、私は決して足を引っ張る存在ではないはず……と悔しさを耐えるように唇をギュッと結ぶ。


 まぁ、そういう仲間意識はあるが、仕事での仲間意識は本当に皆無だ。これは私だけに限った話ではない。大変そうだからフォローに入る。それが普通なはずなのに、大変そうと他人事。見て見ぬふりをして自分は楽な仕事を選んでやる。いや……仕事をしていないが正解かな。


 何かしらの理由をつけてはすぐに事務所に行くし、作業時間になったというのにそのまま帰ってこないなんてざらだ。戻ってきたと思えば15時。つまり利用した人たちが終業する時間に事務所から出て来て、全員を見送ったらまた事務所へと戻って行く。お茶をしながらお喋りをするために。


 別に喋るのはいいよ。

 でも、自分の仕事はしてよって話。


 私は就労継続支援B型の施設を運営しているとろこの、生活指導員として働いている。上司たちは私とは違って、職業指導員という役割で働いている。主な仕事は、利用する人が最終的に就職を出来るために必要な知識、技術を身につけるためのサポートを行う。それらが仕事だというのに、現場にも入らずベラベラとお喋りをして、お茶をしてさ……何しに此処に来てるんだろう。


 仕事もしていないのに私よりいいお給料をもらっているのも、私だけ一向に給料が上がらないのも正直意味が分からない。


 仕事をしない職業指導員の上司と違って、私は資格もあるのに。こんな馬鹿みたいな現実、ぶっ壊れてしまえばいいのにと何度願ったことか。いっそ、私を引き抜いた社長に全て告げ口をしてやろうかとも思ったけど、どうせ共謀者だろうし、こっちが負けて職を失う予感しかしないからいつまでも地獄のような状況が続いている。


 仕事の注意も出来ない、ベースアップもない、人権もないほど低すぎる立場。割に合わない仕事とはこういうことだ。


 どうしてあの時、社長の口車に乗ってしまったのだろう。

 あの時の自分を恨んでやりたい。



 清掃をしながら心の中でぶつぶつと文句を言っていると、ドアが開いた際になるビーッという音が室内に響き渡り、ズキッと頭に痛みが走りながら視線をドアの方に向ける。三人の上司が施設に入ってきて、ほうきを持っていた私の姿が視界に入ったことによって会話が一度止まる。


「おはようございます」


 すかさず挨拶をしたけれど、当然挨拶は返ってこない。

 女特有の、女にしか分からない目で会話をした上司たちは、再び会話をしながら何が面白いのか分からないけど笑いながら事務所へ向かって行った。そして、そのまま事務所から出てこないまでがお決まりだ。


 挨拶が返ってこないなんて当たり前なんだから、いちいち傷ついても仕方がないのに、傷ついている自分がいる。


 挨拶が返ってくるのは新卒で入ってきた子と、施設長だけ。気まずそうに挨拶を返してくるから、気分はあまりよろしくはない。贅沢な悩みなのかもしれないけど、そう思ってしまうのも仕方がないだろう。


 三人の上司たちが出社してくると、立て続けに職員たちが出社してくる。8時なれば職員全員が揃い、15分からは本来ミーティングがある。一日の予定だったり、事前に知っておかないといけない情報共有をしないといけない。


 今日こそはそのミーティングが出来たらいいな。無駄な期待をしながら端に置いておいたファイルを持って事務所へ向かう。


 ドアをノックする前に小さく息を吐いて心を落ち着かせる。

 どんな結末が待っているのか知っているのに、毎日毎日挑み続けるのも疲れる。でもこれが仕事だから。投げ出したら負けな気がするから。今日も私は無謀に挑み続ける。


 控えめにノックをするが返事は返ってこないため、失礼しますと言いながら事務所のドアを開ける。当然のように歓迎していない雰囲気と、突き刺さる視線を感じながら意を決して中に入る。


「おはようございます。今日のスケジュールと共有すべき情報を纏めたので目を通していただけると」

「清水さーん」


 不気味な声で名前を呼ばれ、私は自然と口を閉じる。


「清水さんが休憩所で使ってる机の上に置いておいて」


 いつもそう。ミーティングはきちんとしておかないといけないのに、面倒だから。別に必要ないからと言ってミーティングを勝手に終わらせてしまう。

 普段なら圧に負けて「分かりました」と折れてしまうが、今日はどうしても言わないといけないことがあった。


「あの……今日はどうして共有しないといけないことがあって」


 私の名前を呼んだ上司は盛大に溜め息をついた。それを見兼ねたもう一人の上司が慌てて口を開く。


「どうせそれに書いてあるんでしょ? 置いとけば読むから」

「1分でいいんです。木村美千代さんがお金のことで悩んでいるみたいで。また親御さんに催促の連絡を」

「だから!」


 ダンッと、耳を劈くような机を叩く大きな音が事務所に響き渡る。

 当然、私の肩はビクリと大きく揺れた。


「おいおい、物に当たるんじゃないよ」


 施設長の言葉に謝るのではなく、無視して話しを続けてくるあたりとても厄介だ。


「言ってるよね? 置いとけって」

「あ、あの。置いといてくれたら俺たちも読みますんで」

「……分かりました。すみません」

「はぁ……送迎行ってきまーす」

「俺も行ってきまーす!」


 新卒の子と机を叩いた上司が立ち上がる。ドアの前にいた私は横へとずれて、通りやすいように道を開けた。それだというのに上司はわざと私の肩にぶつかって事務所から出て行き、その光景を見ていた一度も口を開かなかった上司一人と後輩が気まずそうな表情を浮かべながら上司の元へ走って行った。


「本当はあの子がやらないといけない送迎を私にやらせてるんだから、朝の貴重な時間くらいゆっくりさせてほしいわ」

「で、ですよねー! 清水さんも空気読めないところがあるから」

「読めなさすぎよ。本当、朝からイライラする……」

「まあまあ、さっさと仕事終わらせて昨日の続きのボートゲームやろうよ」


 送迎を交代させたのは施設長なのに。私が頭を下げて頼み込んだわけじゃないのに。私だって自分の仕事だと思っているからやりたいよ。でも薬を飲んでしまっているから、したくても運転はもう出来ない。


 職員が利用者と同じもので苦しんでいる。なんて言ったら、私は此処を辞めさせられるに違いない。だから必死にんって隠しているのに、なんでこんなことで馬鹿みたいに傷つかないといけないんだろう。


 ちょっと言い過ぎたとか、少しでも私の味方になってくれる人など誰もいない。



 ぶつかった肩が痛くて、喉に何かが詰まった感覚が辛くて。暫くその感覚がとれないまま、私はファイルを握りしめたい欲をグッと堪えながら事務所を後にした。



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