第6話 罪の言葉

 肩に一人や二人乗っているのかと勘違いするくらい肩が重くて、鍵を開けたドアを開けるのもやっとだった私は、ただいまも口にしないで家の中に入る。


 一応、此処が少しでも自分が休める場所だという意識はまだあるみたいで、先程までは足が重いと感じながらも普通に歩けていたのに、家の中に入った瞬間、気が抜けてすり足でしか歩けなくなっていた。


 ショルダーが肩からずり落ちて、鞄が床に引きずっていることなど気にもせず、リビングのドアを開けて電気をつけると同時に『あ』という声が漏れた。そういえば、帰りにスーパーに行く予定だった。

 いつだったかは覚えてないけれど、煮込みハンバーグが食べたいと言ってたから作ってあげようかと思ったけど、今日は無理。家から出る気力なんて残ってない。


 家に帰ってきて、また家から出るのはしんどい。なんなら今すぐにでもソファに身体を預けて、手で顔を覆いたいけれど、一度座ったら2時まで立ち上がることが出来ない。


 ご飯を作って、洗濯をして、お風呂に入ったりと私にはまだやる事が山程あるから、何も出来なくなる前にやってしまわないと。それが凄く億劫で、何もかも投げ出したいけれどそんなの許されない。ズキズキと痛む腹部を擦りながら冷蔵庫を開け、野菜室も開けて頭に浮かんだナポリタンを作ることにした。


 完成したナポリタンをお皿に盛り、ダイニングテーブルに置く。視線の先にあるナポリタンをちっとも美味しそうに感じないことが悲しくて、なんなら視界にも入れなくないし、匂いも嗅ぎたくない。うっ……という声が口から漏れ、必死に耐えるように手で口を覆って洗面所へ急いだ。


 洗面台に顔を近づけるが、胃液が這い上がってくるというのに口からは何も出ない。何度か咳き込んでみるも、唾液すら口から垂れてこない。涙すらも溢れてこない。


 吐き出してしまえば楽になるのに、言葉も胃の中の物も何も吐けない。

 全て、喉に詰まって出てこない。


 一人になったのだから、何もかも吐き出してしまえばいいのに。誰にも迷惑をかけることもないというのに。それなのに何も吐けないって……もう壊れ始めてるけど、そろそろ本格的に心が壊れそうだ。



 ごくりと唾を飲み込み、顔にかかった髪を退かし、脱いだジャージを洗濯ネットに入れて洗濯機の中に放り込む。洗面台に出ているクレンジングバームを適当に手のひらに乗せ、浴室のドアを開けて中に入る。メイクを落とすのも、髪を洗うのも、体を洗うのも、スキンケアもなるべく早く終わらせる。長い時間なんてかけられない。自分磨きをする余裕なんてない。


 自分磨きなどをして自己肯定感を高めた方が回復の見込みがあると、何かの記事に書いてあった。

 確かに自己肯定感を高めた方がいいに決まっている。グクがまた私だけを見てくれるかもしれないんだし。でも、今の私にはそれが億劫で億劫で仕方がない。心に余裕をなくした今の私は、早くぼーっと出来る時間を作らないと。早く現実から目を背けないと。それらで頭の中が埋め尽くされていた。



*


 風邪が引くからきちんと髪を乾かさないと、なんて考えは私にはなくて。半乾きのまま脱衣所から出てきた私は、水分補給などもせず一目散にソファへ向かっていると、ピーンと床に置いていた鞄の中からスマートフォンの通知が鳴った。


 送り主は大体分かるし、そのメッセージの内容だって分かる。だから見なくたっていいというのに、私の足は自然と鞄へ向かっていた。


 鞄の中からスマートフォンを取り出し、暗くなった画面がパッと明るくなる。メッセージの差出人は案の定、弘樹からで。唇をキュッと結びながら視線を少し右にずらす。


[今日も遅くなるから先に寝てて]


 その文をじっくり見てから、[分かった]と返事をする為にメッセージをタップしてアプリを開く。

 何度も同じ会話をし、同じ返事しかしていないから〝わ〟という文字を打っただけで〝分かった〟と予測変換が出てくる。その一文字を打っただけだというのに、視界がぼやけて予測変換の文字をタップ出来ない。


 こんなメッセージの内容、誰が見ても浮気をしてるって分かるよ。

︎︎ 毎日毎日、飽きずによく送ってこれるよね。


 こんなのを毎日送ってきて、私にどうしてほしいわけ? 私から別れを告げろって?

 婚約して、顔合わせだってしたのに今更……別れるだなんて。


 息をする度にどんどん胸が重くなって。持っているスマートフォンを床に叩きつけたくなる衝動が私を襲うけど、グッと堪える。

 堪えたことによって更に重くなった胸を身体で支えることが出来ず、このままだと倒れてしまうと判断した私は、勢いよくソファに体を預けた。少し硬めのソファなため反動で背中や肩が痛いけれど、痛がる動作すら面倒で、深く背もたれに寄り掛かりながら目を閉じた。


 このまま、寝れたらいいのに。

 あぁ、寝れそう……だなんて感覚が分からないくらい、ふっと意識がなくなったように眠ってみたい。そう考えている時点で眠れるわけもなく、こんな心身ともに疲れ切っているというのに眠気すら襲ってこないのは明らかに異常で。やっぱり私は薬に頼らないと生きていけないのかと、自分に嫌気を吐く。


 暖房をつけていない部屋はあまりにも寒くて、カチカチと歯を鳴らしながら何時間と現実から逃げるように何も考えずぼーっとしていた。そんな至福のひとときを過ごしていると、手元から聞き覚えのない猫の首輪に付いている可愛らしい鈴のような音が聞こえ、重い瞼を必死に開けた。

 

 目だけを動かして視線を手元に落とせば、何故か画面は真っ暗で。ポンと指で画面をタップしても、ロック画面にはなんの通知も表示されていない。頭にはハテナマークが無数に浮かぶも、スマートフォンの存在に気付いたことによって以前から調べたかったことをようやく調べることにした。


 いつも頭の中でしていたシミュレーション通り、ネットにある質問サイトを開き、そこに〝浮気〟と検索をかけてみる。


 浮気のきっかけ、浮気をしない人はいるのか、浮気をされました。など様々な質問が6万以上あって、作業のように永遠にスクロールをしていると、ある質問のところでスクロールをする手を止めた。


 質問のタイトルは〝浮気をした夫が許せません〟という、決して珍しい質問ではなかった。それだというのに、私は惹かれるようにその質問をタップした。


 タイトルに書かれた文が質問の内容となっていて、それ以外の言葉は書かれていなかった。けれど、その質問には20件以上の回答が寄せられていて、回答を見るのに胸騒ぎを覚えながらもゆっくりと画面を下に動かせば衝撃的な回答が目に飛び込んだ。


「……は?」


 ──たった一回のことなんだから、許してあげてください。


 正直、呆れた。それしか覚えなかった。


 たった一回のことだから許せ……?

 どの立場からそんなことを言ってるの? バレなければ何でもいいの?


 いいわけないだろ。


 浮気を許してあげれる人は、聖人かなにかだよ。



 普通は許せない。私だって弘樹の浮気を許すつもりはない。そんな風に色々思っていても、弘樹を嫌いになれていない時点で私はとても憐れ。


 多分、夫を許せないと質問した人も私と同じなのだろう。

 許せないけど、嫌いになれない。


 嫌いになれないということは、結局許しているのと同じなのかな……と思ってしまっているから苦しんでいる。その事に同調してほしかっただけだったのに、あんなこと書かれて……確かに本人たちにしか分からない気持ちだけど、あんなことを書ける人間は〝浮気をした〟人間にしか書けない。



 いつだって、した側の人間は自分のことしか考えていない。

 一度たりとも、こっち側のことなんて考えない。


 ──浮気を罪だとは思わない。


 世の中とは、人間とはそういう風に出来ている。


 

 自分が質問をしたわけではないというのに自分が言われたかのように傷ついた私は、ソファの上で膝を抱えた。溜め息と同時に膝に顔を押し付けると、じわりと部屋着に熱い液体が広がったことによって、自分がずっと泣いていたことに気付いた。


「胃が……痛い……」


 心も、胃ものたうち回るくらいの痛みがまた私を襲い、じっとしていることが出来なくなった私は、倒れるようにソファに横になった。



*


 ギシ、とベッドが沈んだことによって少しだけ目を開ける。


 いつものように2時を指している時計を見て寝室に移動した私は、今日はすぐに寝ることが出来たらしい。

 こんなこと滅多にないのに。と心の中で呟いていたら、またあの嫌なニオイが鼻につく。そして小さく着信音も鳴っていることに気付いて、私は完璧に目を覚ました。


 「ただいま」


 おかえり──と今日は言おうと口に隙間を作ったけど、声は出せなかった。


「ごめんね……」


 弘樹がそう言ったから。


 違う……私は、そんな言葉が聞きたいわけじゃない。先に言わないといけない言葉が沢山あるでしょ。

 目を開けて、体を起こそうと全身に力を入れた時だった。


「愛してる」


 耳元に顔を寄せて、寝ていると思っている私に弘樹は愛の言葉を囁いた。


 

 愛、してる……?


 私のことを愛しているのに、浮気するの?

 毎日のように浮気相手の所に行ってるのに?

 私とは一言も言葉を交わしていないのに、私を愛してるの?


 色々思っている間にも、着信音はずっと鳴っていて。いい加減にしてよと、親指を包み込むように掌を握りしめた時、グクは私の頭を撫でるとそこにキスをした。掠れたチュッという音を残して唇が離れていくと、寝室から出て行ったグクは、しつこいくらいに鳴り続けていた電話にすぐ出た。


「もしもし……? もう家だよ」


 いつもの何も変わらない口調。けれど、こんな夜中にグクの居場所を知りたい相手は──浮気相手しかいない。

 ふざけてる……私がいるって分かっていながら電話をしてくるのも、その電話に出るのも。


「寝てたから。うん、ありがとう」


 浮気相手からの電話だとはっきり分かり、ずっと布団の下で握りしめていた掌にもっと力を込めて、震えるほどの怒りをこれ以上表に出ないようにと必死に耐えている時だった。



 「俺も好きだよ」



 耳を疑った。


 そんなこと言ってないって。私の単なる聞き間違いだって。そう自分に言い聞かせているのに、頭の中ではグクの声が何度も繰り返されていて、私が今聞いた言葉は聞き間違えなんかじゃなかったんだって受け入れるしかなかった。


 なら、さっき私に囁いた愛の言葉は何だったんだって話になってくる。

 あまりにも馬鹿にされてるし、ただただ腹が立った。少しでもあの言葉を聞いて安堵を覚えてしまった自分にも、平気で嘘をつく弘樹にも。


 もう起き上がる気力もなかった私は、寝転んだまま涙を流した。声を押し殺し、肩を震わせながら。


 自分の気持ちを自分の中で留めておくことが出来なくて、私はいつものようにすぐ薬を飲みたいという気持ちになる。けれど、今ここから出て行ったら弘樹と居合わせてしまうし、薬を飲んでいるということを弘樹に知られてしまう。


 それに、これ以上……抗不安剤に依存したくなかった。

 薬に頼りたくない。でも頼らないと身が持たない。ずっと、この負のループから抜け出せないでいた。


 

 自分が傷つけられたからといって、それが誰かを傷つけてもいい理由にはならないんだから、あまりにも不公平というか。何で私ばかりこんな目に遭わないといけないのって思ってしまう。


 世の中にはきっと、見ざる聞かざる言わざるを貫くしかない人が沢山いて。その中に自分も無条件に入ってしまっていることが死ぬほど悲しくて……これでもかというくらい死にたい気持ちが私の心を埋め尽くす。



 死にたいけど、死ぬ勇気がない。


 私一人が死んだところで世の中には何の影響もないし、誰も悲しまない。ただ、私を最初からいなかった存在にされるのは嫌だった。だから私は生きるしかなくて。また……意味もなく死ねない理由が出来てしまった。そんなのただ、辛いだけだというのに。


 弘樹聞こえるかもしれない。なんて心配をする余裕もない私は、心に留めておくことが出来なくなった言葉を泣きながら口にしていた。



「誰かっ……誰か私を殺して……!」


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