第2話 幼なじみとカキツバタ
「
「だめだー、また逃げられた」
犬君と
犬君は私の小間使い。お転婆で、男の子たちとよく外で遊んではスズメの
「犬君、ちっともすくえてないじゃない」
あんまり犬君が空振りばかりするので、思わず口を出してしまう。私が代わってやりたいぐらい。
「そんなこと言うけど姫様、この魚、小さいしすごくすばしっこいんだもの」
「犬君ちゃん、僕に網を貸して」
直政くんのお父さんは光る君さまの信頼も厚くて、経理の仕事を任されている。直政くんもとっても頭がよくて、たまに勉強でわからないところを聞くとすぐに教えてくれるの。しかも、顔だちも整っているものだから、若い侍女たちなんかは
「直政くん、将来が楽しみね。どんなイケメンになるかしら」
「文武両道で、素敵よね」
なんて言っていて、結構人気があるみたい。
直政くんは、真剣な表情で網を川に沈めて、魚をすくうタイミングを狙っている。
「犬君ちゃん、静かにしていて。魚が逃げちゃう」
5月の風は草や木の葉の匂いを含んでいて、とってもさわやか。久しぶりに外の空気に触れて、お日さまの光を浴びると生き返ったみたい。
お祖母様と一緒に暮らしていた頃は、私も自由に外で遊んでいた。お祖母様の屋敷は山のほうにあったから、珍しい草花を摘んだり、きれいな小鳥もいて楽しかった。今は、京のお屋敷の奥深くに暮らしているから、外の景色はすだれ越しに眺めるだけ。しかも、ことあるごとにばあやが、
「身分の高い女性はめったに人に姿を見せるものではありません」とか言うもんだから、うっかり縁側の近くに行くこともできやしない。
光る君さまのお屋敷に来てからは、見たこともなかったような贅沢で美しい着物や家具に囲まれて暮らしているけど、外に出て遊べないっていうのはつらいわ。
「姫様、なんですか、またこんな縁先に出て。人に姿を見られたらどうします」
案の定、ばあやがめざとく見つけてやってきた。
「中庭だもの、大丈夫よ」
「そんなことはありません。お客様があったらどんな人が紛れ込んでくるかわからないんですよ。すぐにお部屋に戻ってください」
これだもの。わたしはしぶしぶ立ち上がって、犬君と直政くんに
「魚がとれたら、後で見せてね」
と頼んだ。
長い内廊下を通って自分の部屋に戻る途中、ばあやの小言が絶え間なく降ってくる。
「姫様、もう大きくおなりなのですから、いつまでも子供っぽい振る舞いをしていてはいけません。そんなことでは光る君さまに嫌われてしまいますよ」
「光る君さまのまわりには、美しくて教養がある女性がたくさんいらっしゃるんですから、姫様もその方たちに負けないようにしないといけません」
「いつまでもお人形遊びに夢中だなんて、亡くなったお祖母様もおっしゃっていたでしょう、お母さまはあなたの年頃にはもっと大人だったと……」
くどくど、くどくど。ばあやが私のことを思って言ってくれているのはわかるんだけど、毎日同じことばかり、どうにもこうにもうっとおしい。ばあやは光る君さまが私に興味をなくしてしまうことをとても心配しているみたい。
「姫様のお父様は親身になってくれる方ではないのですから、もし姫様が光る君さまに飽きられてしまったら、姫様は一体どうなってしまうのか……」
ばあやはとにかくそればかり心配している。確かに、私は光る君さまに誘拐同然にここに連れてこられたのだからしょうがないけど、実のお父様とは音信不通だし、今も私を探してくれているのかどうかもわからない。
それに、もし光る君さまに見捨てられてしまったら、本当に頼るところがなくなってしまう。今は何不自由なく暮らしているけど、考えてみたら、私の立場ってすごく不安定なのよね。
でも、ばあやは心配性すぎると、私は思う。そりゃあ、光る君さまが同時並行で付き合っているガールフレンドは私が知っているだけでも5本の指では収まらないくらいいるし、光る君さまに声をかけられたら大抵の女性はなびいてしまうと言われているのは知っているけど、光る君さまが私を見捨ててしまうとは思えない。だって、光る君さまは私にとっても優しくしてくれるんだもの。
昨日も、そろそろ衣替えの季節だというので、新しい着物を何枚も持ってきて、一枚一枚私の肩に当てては「この色はとてもよく似合うね、こちらのほうは姫君には少し地味だな」なんて、とっかえひっかえ衣装選びをしてくれたの。
私にはどの着物も素敵に見えたけれど、光る君さまは私に似合うと認めたもの以外は全部下げさせてしまう。今度、新しい着物を着て、
葵祭といったら、庶民から貴族まで京の街をあげての一大イベントなのね。お祖母様のところにいたときからその盛大さは話に聞いていたけれど、実際にそのお祭りを見物できるとは思っていなかったから、今からとっても楽しみ。
部屋に戻ってから、一人で昨日光る君さまに選んでもらった新しい着物の組み合わせをあれこれ試していたら、内廊下のすだれ越しに「姫様、姫様」と控えめに呼ぶ声がする。直政くんだ。
最近、ばあやは直政くんと親しく話しているのにもいい顔をしないので(「姫様、幼なじみといっても殿方と気安く話してよいお年ではないのですよ」)、直政くんも遠慮がちだ。
すだれを少しめくって「姫様、これ約束の魚」とうすいグリーンの水盤を差し入れてくれた。水盤のそばに、見事な紫色のカキツバタの花が添えられている。
「わあ、きれい。こんな深い紫色、見たことない」
「きれいでしょう。紫の君様にぴったりだと思って」
とにっこり微笑む。
「ありがとう」
お礼を言っていたら、表の部屋からばあやのけたたましい声が近づいてきた。
「これ、犬君! こんなに袴を濡らしてしまって。すぐに着替えていらっしゃい」
直政くんは、そっと立ち上がって廊下の奥に去っていった。
水盤の中には小さな川魚が4、5匹、忙しく泳ぎ回っている。私は水盤にカキツバタの茎を入れて、飾り棚の上に置いた。薄いグリーンと深い紫色のコントラストが映えて、とっても素敵。直政くんって、結構センスもいいと思う。
そうだ、この色の組合せ、新しい着物の重ねで真似しちゃおう。私は再び葵祭の衣装選びに戻って、あれこれ組み合わせを考え始めた。
若紫異聞 ~光る君に一番愛されているのはア・タ・シ☆~ 立川きんぎょ @konohatorituki
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