終章 2

 有機農場からの帰り道、アキがビニールハウスを覗くと、伸也がほうれん草に顔を近付けていた。


 元気に育っているかい。

 病気にかかっていないかい。


 一株一株、耳を傾けるようにして生育状況を点検している。


 ほうれん草は順調に育っている。三月に入ってすぐに寒締めをすれば、糖度の高い上質なほうれん草を収穫できるだろう。


 プロの仕事を邪魔してはいけないと、アキはそっとビニールハウスを後にした。


 今日はとても冷える。マイナス十五度を下回ると、雪原からは煙のように白い靄が立ち上り、世界の輪郭をあやふやにする。日の傾いた空は、夕方と夜の間を藍色に染まりながら彷徨っている。少し日が長くなったなと、アキは白く息を付いた。春はもうすぐそこまで来ているはずだ。


 離れの前に見慣れた軽トラックが止まっている。正人のものだ。歩いて五分とかからない距離を何故車に乗ってきたのだろうか。アキは首を傾ける。門灯はもう灯されていた。玄関のたたきには、正人と美葉のものらしい靴が、きちんと揃えられていた。


「ただいま」

 そう声を掛けて家に上がり、兎にも角にも台所へ向かう。夕食の準備をしなければならないが、この時間に二人一緒に来ているのなら食べていって貰おう。鍋が出来るくらいのものが冷蔵庫に入っているか確認しなければ。


「アキ」

 台所の引き戸に手を掛けた時、名を呼ばれる。健太が階段の上から手招きしていた。

「なあに? 正人と美葉さん来てるんでしょ? 二階にいるの?」

「いいからいいから」

 急かすように忙しなく招く手を振る。アキは唇を尖らせてから階段を上がった。


 二階には六畳の和室が二間続いている。二間は襖で区切られていて、手前の部屋は特に用途が決まっていない。奥は猛の部屋だ。


 その部屋の前に、正人と美葉、猛と健太が並んで立っている。皆一様に唇の端をもぞもぞとさせているのでとても怪しい。アキは思わず吹き出しそうになり、口をムッと噤んだ。


「ジャーン!」

 高らかにそう言って、健太が襖を開けた。そしてアキの手首を掴んで身体を引き寄せてから、背中を部屋の中に押し出した。


 窓際に、二つの机が並んでいる。

 一つは猛のものだ。この家で暮らし始めてすぐに健太が注文して作ってもらった、手作り家具工房樹々の学習机だ。その隣に、何故かもう一つ机が並んでいる。


「入学祝いです、僕と美葉さんからの」

 照れたような口調で正人が言い、美葉が隣で口に手を当ててサプライズの成功を喜んでいる。

「机……? 私に?」

 アキは驚いて目をしばたいた。


 思えば、自分には勉強机は与えられなかった。食事も満足に与えてくれない親なので、当たり前と言えば当たり前だが。夜間中学に通うと決まったが、勉強など食卓テーブルでも何処でも出来る。勉強机の事など微塵も頭に浮ばなかった。

「触ってみろよ、流石樹々の机だ。手触りが抜群だぜ」

「う、うん」

 健太に促され、机に近付く。心臓が急に大きく鼓動を刻み始める。


 白木の天板はしっかりとした厚みがあり、しっとりとしてなめらかな手触りだ。小さな本立ても付いており、収納力のありそうなキャビンも備え付けてある。椅子の脚はすくっと真っ直ぐ床に伸び、背もたれは優しいカーブを描いていた。


「これを、わたしに? 本当にいいの?」

「勿論ですよ」

「アキの門出だもの」


 正人と美葉が口を揃える。アキは思わず、胸に手を当てた。熱いものが込み上げて、あふれ出してしまいそうだった。

「ありがとうございます」

 胸を押さえたまま、頭を下げる。


「喜んで貰えて良かったね。……って、どうしたの?」

 動揺した美葉の声に顔を上げると、正人が涙を流していた。鼻水も盛大に流れ、涙と合流している。正人は慌てたように腕でごしっと顔を擦った。


「アキの椅子を作るのは、これで二度目です。一度目は、僕の初めてのオーダーメイド家具でした。あれから十年以上経ち、今回椅子を作ってアキの体格が凄く変わったことに気付いたんです」

「や、やだ! 太ったのかしら!?」


 アキは思わず頬を抑える。健太が「いやらしい目で見ていないだろうな」とばかりにギロリと正人を睨んだ。正人はその視線には気付かないようで、また流れる涙を拭って続ける。


「筋肉が付いて、軸がしっかりとした身体になっていました。……この十年、色んな事を乗り越えて生きてきたその道を、手で触れているような気がして、作っていて涙が止まりませんでした」

「多分、塗装前の木に染み込んでると思うよ。……涙と鼻水」


 美葉が苦笑する。ウゲっと健太が眉をひそめた。


「ねぇ、正人さん。僕の机とお母さんの机、同じ木で出来ているの?」

「ええ、そうですよ」

 猛が問うと、正人は頷いた。猛は不思議そうに二つの机を見比べる。


「色が全然違う」

 猛がそう言うと、正人は涙を流しながら微笑んだ。

「木は、生きているんですよ。こうやって家具に姿を変えてもまだ。呼吸をし、自分の身体を守るオイルを滲ませて、艶をたたえながら育っていくんです。猛君の勉強を見守りながらね」

「これからも?」

「勿論」


 正人が頷くと、猛は唇をキュッと結んだ。

「じゃあ、しっかり勉強しないと。……お母さんもだよ」

「勿論。がんばるわよ。私もこの一年生の机と一緒に成長するんだから」


 アキはグッと握りこぶしを握った。


『ほらね』

 そんな言葉が聞こえた気がして、声がした方へ首を向けた。夜の闇に染まる前の、藍色の空が白い靄のベールを被って窓外に広がっている。


 その空に、白く淡い月がそっと浮んでいた。輪郭のぼやけた小さな月は、生まれたての真珠のように柔らかな輝きを放っている。


 ずっと昔、月の声を聞いた。まだなっちゃんとあの洋室に閉じ込められていた頃だ。


 全てを諦めて死を待っていた自分に、月が言った。


『諦めないで。必ず幸せになれるから』


 今思えば、あれは幻聴の類いだったのかも知れない。しかし月の言葉に勇気を得て、軟禁されていた部屋から脱出し、命をつなぎ止めたのだ。それから、月の言葉に縋るように生きてきた。健太と出会ってからは、いつの間にか忘れてしまっていたけれど。


「どうした?」

 健太がアキの肩に手を置く。アキはそっと、人差し指で月の存在を健太に伝える。

「綺麗な月だね」

 猛がそう言った。健太も月を見つめて頷く。

「本当ですね」

「幻想的」

 正人と美葉も寄ってきた。小さな窓辺に皆が集まってきたので、肩を寄せ合う形になる。淡い月の光が、極々控えめにそれぞれの顔を白く照らしている。


 アキは目を閉じた。

 その言葉を信じて生きてきて良かったと、心の底から思う。


 目を開けて健太を見上げると、優しい微笑みを自分に向けていた。


「幸せだね」

 アキが呟くと、健太の手に力がこもった。



 

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