終章 3
和夫が強張った顔を正面に向けている。借り物のタキシードは腹部のボタンが横に引き攣れていた。
緋色の絨毯の端に立ち美葉が父の腕に手を添えると、厳かにウエディングマーチが鳴り響き、チャペルの扉が開いた。盛大な拍手が出迎えるバージンロードを、美葉と和夫はゼンマイ仕掛けの人形のように歩き出した。
「お父さん、手と足、一緒に出てるよ!」
どうも上手く歩調を合わせる事が出来ないので和夫の様子に目を向ける。ベールで顔を隠し俯いているので、一度目に着くと気になって仕方が無い。バージンロードの向こうには、真正面を向いたまま硬直している正人がいる。真っ白なタキシードを着ているからか、まるで蝋人形のようだ。
美葉は一度小さく肩を揺すって力をほどいた。オフショルダーのドレスだから、力が入っていると不細工に見えてしまう。背筋を伸ばしつつ、出来るだけしずしずと歩く。シルクレースの裾が揺れる。美葉にも憧れの花嫁姿があり、それがプリンセスラインで裾の後方が長く伸びるドレスだ。憧れのドレスを着ているのだから、一生涯で最も美しい姿で歩かなければ。
最前列には正人の祖父孝造と、車椅子に乗った父方の祖父母や帯広の叔母、仙台にいる母方の祖父母が感無量の表情で見つめている。
二列目に健太とアキ、猛、その後ろに佳音と錬と大地がいる。波子と瑠璃、その子供達もいた。おしゃれをした子供達の姿がとても可愛い。悠人と桃花もいて、その隣で千紗が玲司の手を引いている。後ろには陽汰とのえる、世史朗と翔がいる。翔は動きたくてウズウズしているように見えた。
今井家や樋口家など、樹々に関わりのある人たちも参列してくれている。嘗て天蓋付きのベッドを注文してくれたまりあは、ドレスの着付けとメイクを、ヤンキー風の友達と一緒に施してくれた。
そして京都からは駒子と克子が駆けつけてくれた。保志の母で茶道家の駒子は、きちんと和服を着て目元にハンカチを当てている。保志の妹克子もまた、感慨深げに微笑んでいた。
これまで自分たちを支えてくれた人々が、小さなチャペルに集まってくれている。そう思うと胸に熱いものが込み上げるのだが、涙が溢れないように目の奥に力を込めた。
正人に見せる花嫁姿は、笑顔一杯でありたい。
正人の元に辿り着くと和夫が後ろに下がり、正人が美葉の腕を取った。肩越しに緊張が伝わり、吹き出しそうになる。
二人の前には白い祭壇がある。そこに、厳かな足取りで牧師がやって来た。引き摺るような黒いキャソックを身につけ、臙脂色のストラを首に掛けている。胸元には、大きな十字架を下げていた。牧師というものを間近に見るのは初めてだと、美葉はそっと顔を上げる。そして、思わず声を上げた。
「や、やっさん!?」
正人の声と綺麗に重なる。そこには、牧師姿でニカーッと笑う保志がいた。ガタガタと歯並びの悪い歯が、むき出しになっている。
「何でやっさんが!?」
再び声が重なる。
「一変やってみたかったんや!」
ガハハ、と保志は笑った。会場の参列者も堪えきれずにといった様子で笑い出す。どうやら皆は最初から知っていたようだ。皆で仕組んだ悪巧みに、美葉は思わず唇を尖らせる。
んん、と保志が咳払いをし、聖書を開く。開いたページの上に紙がぺらっと乗っている。カンペはもう少し上手に隠してほしいものだ。
「新郎ぉ正人、汝は美葉を妻としぃ、病める時もぉ健やかなる時もぉ、死が二人を分かつまで愛することを誓いますかぁ?」
英語風の妙なイントネーションで言う。
正人は肩を震わせた。
「ち、誓います……」
必死で笑いを堪えつつ、美葉の瞳を見つめて答える。
「新婦美葉ぉ、汝は正人を夫としぃ、病める時もぉ健やかなる時もぉ、死が二人を分かつまで愛することを誓いますかぁ?」
「はい、誓います」
無理に笑いを押し殺すと、声が震えた。
「でわぁ、指輪を交換しなさい」
美葉は、肩を一つ揺すって笑いを納めてからレースの手袋を外した。
左手を差し出すと、正人が薬指に銀色の指輪をはめた。手が小刻みに震えている。上目遣いで見上げると、口元が変な形に引き結ばれていた。笑いを堪えているのか、緊張しているのか、両方なのかはよく分からない。
美葉も正人の薬指に指輪をはめた。正人の指は相変わらず細くて長くて、綺麗だ。
「それでわぁ、誓いのキスを!」
一層高らかな保志の声に応じて正人がベールをゆっくりとあげ、素早くおでこにキスをした。
「なんや! 口にブチューっとせんかいな!」
保志の声に、大きな笑い声が起こる。正人は顔を真っ赤に染めて、ポリポリと頬を掻いた。
婚姻を祝う鐘が鳴る。六月の青空は光に溢れ、所々刷毛ですっとはいたような雲が浮んでいる。遠く広がっていく鐘の音を、空が両手を広げて受け止めているようだった。
チャペルの階段を降りる二人に、花弁やライスシャワーが降り注ぐ。美葉と正人は腕を組み、屋外のパーティー会場までライスシャワーを浴びながら進んだ。沢山の祝福の声に笑顔で応じながら。正人もまた、晴れやかな笑顔を見せていた。
会場の手前で、美葉は立ち止まる。申し合わせたように参列者がぞろぞろと集まってきて横に並ぶ。不揃いな人垣の中でアキがいる場所を確認してから、美葉はくるりと後ろを向いた。
次は、アキの番だ。
そう思いながら、ブーケを高く空に投げた。ピンクの芍薬を束ねたブーケが、青空に弧を描く。牡丹色のリボンが揺れている。
そこに向かって、何かが跳躍した。
陽汰だ。
おお!と歓声が上がる中陽汰は宙でくるりと一回転し、ブーケをキャッチした。スーツの上着を翻し、片膝をついて着地する。揺れるような歓声が収まるまで陽汰は動かなかった。やがて聴衆の声は固唾をのんで見守る静寂に変わる。
おもむろに陽汰はすくっと立ち上がった。
大切な宝物の様にブーケを胸に抱いて前を向き、歩き出す。その先に、のえるがいる。黄緑色のタイトなミニワンピースを纏ったのえるが、瞳を見開いて立ちすくんでいた。
のえるの周りにいた人々が、波のように後方へ引いていく。
陽汰がのえるの正面に辿り着いた。陽汰はのえるよりも頭三つ分背が低いので、見上げるような形になる。そんなことは意に介さないと言うように、陽汰はまっすぐのえるを見つめた。
そして跪き、芍薬のブーケを差し出した。
のえるが真っ赤な唇を微かに開いた。マスカラに縁取られた瞳が揺れ、唇の端がゆっくりと持ち上がる。
のえるが両手を伸ばし、ブーケを受け取った。
一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が二人を包んだ。防風林から驚いたようにヒバリの群れが空に舞いあがる。その軽やかなさえずりが歓声に華を添えている。
「ほな、皆で写真撮ろか!」
牧師姿の保志が言った。
***
真新しい工房の作業机で、正人は手紙を綴る。封筒には外国の住所を既に書いた。でも、便せんに書く言葉は上手く纏まらず、ゴミ箱には丸めて捨てた紙の山が出来ていた。
美葉が肩越しに覗き込んできた。正人はまた文字をぐしゃぐしゃと消し、便せんを丸めた。
「急ぐ必要はないと思うよ」
美葉はそう言って、自分の事務机に向かう。窓から初夏の日差しが差し込んで、真新しいフローリングが光を反射している。パソコンを広げた美葉の横顔にも光が差し、微笑みを浮かび上がらせていた。
正人は苦笑して、写真を翳した。せめて写真くらい送り、結婚したことを伝えようと思ったが、美葉の言う通り今すぐ知らせる必要は無いのかも知れない。
結婚式の記念写真。何故が真ん中にいるのは美葉と正人ではなくてエセ牧師の保志だ。正人は保志に視線を向け、美葉は身体を折り曲げ、大口を開けて笑っている。取り囲む皆が、大笑いしている。あの日撮った写真は、どれもこれも笑った顔ばかりで、折角晴れ着を着ているのに澄ましている人は一人もいない。普段通りの、飾らない一瞬を切り取ったようだ。
ふと正人に、名案が浮んだ。写真に写る美葉の笑顔を一度しっかりと見つめてから裏返す。そこに、言葉を綴った。
『僕は今、こんな風に生きています』
〈了〉
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