唯一自分に出来ること
「雪ん中に置いて来たんか」
問うと、桃花は頼りなく頷いた。
人の窪みがまだ残る雪山に踏入り、ライトを翳して雪をかき分ける。風が運ぶ粉雪で窪みは見る見る姿を失っていった。埋もれた靴を探すことなどたやすいと思っていた。しかし、それは砂浜で落とした指輪を探すのと同じくらい困難なことだと悟る。
保志は嘆息し、片方のブーツを脱いだ。逆さにして中に入っていた雪を振り落とし、桃花の足元に置く。
「履け」
「え……」
桃花が僅かに眉をしかめる。
「この際足が臭いとか要らんことは言うな」
言葉に苛立ちが滲んでしまう。女の子とはやっかいな生き物だ。命が掛かっているのだから、おっさんの靴への嫌悪感はこの際迅速に脇に置くべきだろう。
しばらく桃花は躊躇っていた。だが寒さに根負けしてか「ありがとう」と呟いてブーツに足を入れた。
「あったかい」
「そやろ。屋根に乗っても凍えへん最強の靴や」
頷き、再びライトを翳す。何も見えないが、どちらへ行くのが良い選択なのか思考を巡らせる。答えも手掛かりもない。勘に従うより他に方法は無かった。
「はぐれんように、腕に掴まれ」
左の腕を差し出すと、桃花は素直に従った。
「JCと腕組んだとか、自慢しないでよ。キショいから」
憎まれ口は忘れていないようだ。だがその場違いな空元気は力を与えてくれた。苦笑して、足を踏み出す。氷の中を裸足で歩くような感覚に顔をしかめたが、悟られないように背を伸ばし、正面を睨む。
前へ進む。前へ、前へ。
吹き抜ける風に息を詰め、風の合間に息を吐く。桃花の手が素手であることに気付き、手袋を貸してやった。ついでにネックウォーマーとニット帽も無理矢理被せた。
方角も距離も時間も、何もかもを失う。足先の感覚も無い。隣にある桃花の息遣いが自分を支えている。
だが、桃花の歩は徐々に重くなり、やがて止まった。
「もう、歩けないよ……」
声はか細く震えていた。桃花の身体がガクガクと震えている。
低体温症を起こしかけているのかもしれない。
すぐに身体を温めなければならない。だが、熱を作る物など持ち合わせていない。あるとすれば自分自身の血流だけだ。桃花はその機能すら、失おうとしている。それは、死に直結する。
「負ぶされ」
手に持っていたライトを口に咥え、身体を屈ませる。躊躇う気配の後、桃花の体重が背中に掛かる。あるべき熱は薄い。想定よりも軽い身体を背負うなどたやすいことだった。しかし、このまま進むには余りにも困難な状況だった。
じりじりと牛歩のごとく進んでいたが、思いがけず現われた雪の塊に足を取られた。感覚を失った右足は、言うことを聞かなかった。顔面から雪にダイブする。幸い足を絡め取った雪山は深く、痛みはなかった。身体を起こすと、桃花が雪の上に転がった。抱き起こした身体は冷え、あり得ないほど震えていた。
このままでは、死んでしまう。
保志は眉を寄せ、取るべき行動を逡巡する。そしてすぐに数年前のニュースを思い出した。
桃花の上に覆い被さり、コートで身体を包む。
「何してんの」
桃花が抵抗し、震える身体を捩る。だが、保志は離さなかった。
「ええか。何があっても、俺から離れるな。嵐が止んで、誰かが助けに来るまで、絶対に離れるなや」
何年か前の猛吹雪の後、親子が見つかった。二人は雪に埋もれ意識を失っていた。発見時父親は既に亡くなっていたが、父親の身体の下にいた子供は一命を取り留めた。父親は、身を挺して吹雪から子を守ったのである。
「やっさんだめだよ」
意図を察したのか、桃花が濡れた声で呟く。
「わたしなんて、生きててもしかたないんだよ。やっさん一人なら、助かるよ。靴も、ネックウォーマーも帽子も手袋も、全部返すから一人で行って……」
「阿呆か。五十過ぎたおっさんが未来ある若者を見捨てて行けるわけないやろ。余計な事考えんと、あったかいもん想像しとけ。鍋とか、ストーブとか」
桃花が首を横に振ったのが、胸に伝わる。
この命を、守りたい。深く瞑目する。お門違いの願いだと分かってはいるが、輝季の顔を思い浮かべ、助けてやってくれてとそこへ祈った。
「もしも一人で助かったとしても、罪悪感はもたんでええ。これは、俺の自己満足や……」
こんな事をしても、輝季が赦す訳ではない。そもそもこれは贖罪の行為ではない。純粋に若い命を救いたいのだ。それだけだ。
じっとしていると、体温が急激に奪われていくのが分かった。視界を覆う雪原と意識の境界が曖昧になる。恐怖は次第に消えてゆき、解放されるのだとどこかで安堵する。
思えば、身勝手な事ばかりしてきた。家族に心を傾けることをせず、会社を継ぐという責務を放り出し、流れるまま辿り着いた場所で風来坊のように生きてきた。最期くらい人助けが出来れば、格好がつくのかも知れない。
輝季の恨み言を直接聞けるだろうか。その時は、素直に謝ろう。もしも赦して貰えるのならば、髪を撫で、抱きしめたい。
風の音に、微かな歌声が混じった。
幻聴かと思った。その声に耳を澄ませる。聞き覚えのある声だと分かり、意識が身体に戻ってきた。
「節子ばあちゃんの歌や」
反射的に身体を起こした。背を覆っていた雪が音を立てて落ちる。眼に光が飛び込んで来た。その眩しさに思わず目を閉じ、ゆっくりと眇めて光源を探る。一本の光が遠くから真っ直ぐに伸びている。その光を彩るように、赤や黄や青や緑の光が瞬いている。
進むべき道を、光が示している。
その光は身体に僅かに残る力を鼓舞した。保志は桃花の背に腕を回し、身体を抱き起こした。
「歩け、桃花」
桃花は顔を上げ、頷いた。脇から腕を回して体を支えると、右足を前に出し、続けて左の足を出す。初めて歩く赤子のように拙いが、自分の意思で歩もうとしている。
ソーラン節が、風の音に途切れながらも耳に届く。
「やっさんか?」
突然背後から声がした。振り返ると白い光が見え、すぐに人の姿が駆け寄ってきた。安弘だった。その存在に保志は安堵の息を吐く。
「桃花も一緒か……良かった……」
安弘は桃花の頭に手を置いた。桃花の顔がクシャリと歪む。
「さ、行こう。多分あそこに正人がいる」
安弘は桃花の右側の脇に手を入れ、桃花を支えて歩き出した。
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