柳にはなれない
ダイニングを出た正人は迷いなく嘗て松の木があった場所へ向かった。切り株に膝をつき、肩を下げる。美葉も横に跪いた。日が暮れた冬の空気は冷たく、時折強く吹く風が皮膚を通り抜けて骨に滲みるようだった。
正人は両手を切り株において、労るようにゆっくりと撫でた。
「……お母さんは、本当は、アメリカに一緒に行ってあの人を支えたかったんでしょうね。でも、心の不調に気付いていたから、残ったんですね。一年なら、何とかなるだろうかと心配しながら待っていて……。一年どころか期間が延びた時、気付いたんでしょう。……自分の代わりに誰かがあの人の傍にいると」
視線を切り株に向けたまま、正人は心に散らばったものをかき集めるように言葉を紡いだ。
「僕が不登校になり、追い詰められたのでしょうか。あの時身を引いて、どうしようと思ったのでしょうね。もう一度違う人生を進もうとしたのか、死んでしまおうと思っていたのか……。もしも離婚が成立し、一度実家に帰っていたら、今でも元気に生きていたかも知れないですね」
「そうだね」
美葉は丁寧にそう言って頷いた。
「だったら、正人さんはアメリカに行ってたのか。アメリカの凄い大学に行って、学者さんになってたかもね。そしたら私たち、どんな出会い方をしたんだろうね」
正人は美葉に視線を移し、首を傾けた。美葉は笑みを返した。
「出会わない筈は無いもん。だって、私たちは赤い糸で結ばれているんだから」
小指を立てて、引っ張るような仕草をすると、正人の唇に微かに笑みが浮んだ。正人は切り株から手を離し、美葉を包むように抱きしめた。
「僕の代わりに怒ってくれて、ありがとうございました……」
正人の声が揺れ、身体が小さく震えた。
「美葉さんと話していて、自分の頭が記憶を捏造していたことに気付いたんです。母の死を受け止めるため、父を悪者にしました。楽しかった記憶を封じ、悪い人間にして憎むことで、心を守ろうとしたんですね。……でも本当は、父親の事がとても好きで、帰ってきてくれるのをずっと待っていました。いつか三人で、札幌にいた頃みたいに仲良く暮らす日が来ると、信じていました。今日も、父の好きなモンブランを買って、仲直りをしようと思っていたんです。……思っていたんですけどね、実際は想像よりも、酷かった」
多分正人は少し笑った。
もっともっと、悪者にしたら良かったのに。全ての責任を父親に被せて被害者になれたら良かったのに。母の死の責任を負う必要はなかったのに。最後まで自己擁護し続けた哲也に怒りを感じた。
ブラウスの布を通り越し、肩が湿っていく。
泣いたらいいんだと思う。沢山泣いて、落とせるだけ悲しみを落として、当別に帰ろう。生きてさえいれば、悲しみは洗い流されて違う思いに変わるはずだ。
そう思い、正人の背に回した腕に力を込める。
美葉の胸に、重いものが沈む。
哲也の隠し事を暴いたりしなければ、正人は願い通り大好きだった父と仲直りをしていただろうか。たとえそれが嘘の上に成り立つものだとしても、知らなければそれで良かったのかも知れない。所詮亡くなった人の想いを全て知ることなど出来はしないのだし。
風が吹いた。
自分はやはり柳のようにしなやかにはなれない。そう、美葉は思った。
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