誰もケーキを食べなかった

「そして、決定的な出来事があったことも話していませんよね。それは、何故ですか? 言わなければバレないと思っているんですか?」

「決定的なこと……」


 正人が掠れた声で呟いた。哲也が項垂れる。ギロチンの前に首を差し出す罪人のようだ。そこに鉄槌を落とすのは、自分の役目なのだと拳を握る。


「……電話が、掛かってきたんでしょう? あの日。その電話を、その女性が受けたんですよね。お母さんはその後すぐに、亡くなった。」


 「嘘だ」。空気そのもののような密度の無い声が、美葉だけに聞こえた。


「最後の救いを求めた電話に、自分の代わりに傍にいる女が出たんですよね。もしもお父さんが電話に出ていたら。それとも、誰も電話に出なかったら、結果は変わっていたかも知れない。少なくとも、最後に背中を押したのは、間違いないです。……それを、黙っていましたよね」

「もう、やめてください……」


 哲也が呻いた。胸が苦しい。喉の奥に石が詰まったように、呼吸が苦しい。美葉は大きく息を吐いた。それでも石はとれず、何度も深い呼吸を繰り返す。


 暫くして少し落ち着いた。美葉はその隙を逃さないように言葉を続ける。


「人が死んだら、遺族にはしなくちゃいけないことが沢山あるのを、知っていますか? 葬儀に関することや埋葬に関すること、相続に関すること、生命保険の請求や銀行口座の名義変更や解約……。色んな煩雑な事を、悲しみに暮れながらでもしなくてはいけないんです。そして、何より大切な事は……」


 美葉は、正人の顔に視線を向けた。それは嘗て正人が教えてくれたことだった。正人は悲哀に満ちた顔で父を見つめていた。


「家族と悲しみを分けあうことです。悲しくて苦しくてやるせない気持ちをお互いにいたわり合って、気遣い合って、何らかの形で胸に納まるまで支え合うことです」


 湯気を立てる鍋とこんもりと大きなドームキャベツ。仏壇を見つめる正人の横顔。小さな花瓶に活けた白いアナベル。それらを思い浮かべてやっと、美葉は息をしていた。


「全部放棄して、さっさとアメリカに帰って、一人で抜け殻になっていたんですよね。それを、彼女が支えていたんでしょう? その間、正人さんは自責の念に駆られて、何度も自ら命を絶とうとし、今でも悪夢を見るんです。あの時、せめて悪者になってから去れば良かったのに。正人さんが背負った罪悪感くらい、引き受けてくれたら良かったのに……」


 これで全部だ。そう思ったら、身体から力が抜けた。


「……申し訳なかった。本当に、すまなかった……」


 テーブルに額を着けて、哲也が謝罪の言葉を口にした。正人はぎゅっと眉をしかめ、父の姿を眺めていた。困惑や、怒りや、侮蔑や、悲しみ。あらゆる感情が交ざることなく渦を巻いているように見える。その感情を持て余し、ただ悄然と父親を眺めている。


 視線を移した先に時計があった。楕円形で、金と銀のフレームがすっきりと縁取っている上品な時計だ。白い文字盤の上で黒い針が、鮮明に時を告げている。しかし、その時計は動いていなかった。横顔越しに見える時計はまるで正人そのもののようだ。このまま正人の心が破綻してしまわないかと不安になる。


 正人の顎が、重力に抗うのをやめたように項垂れた。切れ長の瞳が大きく揺れ、涙が一粒流れ落ちる。ない交ぜになった感情が一方に傾き、そこからにじみ出したような涙は一粒きりで終わり、唇が僅かに動く。


「……お母さんが、可愛そうだ……」


 そう呟いてから、美葉に視線を向けた。そこに不安の色を見付け、美葉は首を横に振った。何に不安を感じたのかは、分からない。でも、自分の事を心配する必要はない。何時だってあなたのことが一番大切で、どんな時も側にいる。その想いを込めて、首を横に振った。


正人の瞳が微かに揺れた。二三秒後、深く長い息を吐き出してから、正人は父に向かって言った。


「頭も、心も混乱して、何を言えば良いのかも、どんな感情を向けたらいいのかも、今は分かりません。……部屋の向こうにいたお母さんが何をどう苦しんでいたのか、ずっと分からなかったけど、その一端を見付けた気がします。……僕は、あなたを、一生許しません」


 正人は立ち上がり、哲也に一瞥すら向けずダイニングを出た。美葉はすぐに追いかけた。部屋を出る前に哲也に視線を向けると、哲也は今朝と同じ姿勢で項垂れていた。誰一人一口も食べなかったケーキと、紅茶と、哲也がダイニングに残される。彼はこの後始末さえできずに途方に暮れるのだろうかと思った。


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