夫婦の間で起こっていたこと
「肝心なことは伏せたままじゃないですか。正人さんは苦しい思いをして本音を吐き出したのに、まだ自分を擁護するんですか?」
正人の手が、美葉の腕に触れる。その手を握ってから離し、美葉の方が正人の腕にしがみつく。正人の瞳に力は無く、人形のように項垂れている。膿を出そうと切開し、心臓まで傷つけてしまったのでは無いかと怖くなる。ここまで傷つけ、追い詰めておきながらまだ逃げの姿勢をとる父親の存在が、許せない。
「女の人がいたんでしょう? 恋愛感情は無かった。ただの助手だったと言ったけど、彼女が好意を持っていたのは分かっていたんでしょう?」
哲也は背中を力なく背もたれに預けた。怯えるような視線をこちらに向けるが、美葉は牙を剥くように撥ね退ける。
「彼女が世話をしてくれたから、研究を続けることが出来たって、言いましたよね。その彼女は、家に電話をするように、アドバイスしてくれなかったんですか? 彼女が夫婦仲を壊すために敢えて言わなかったんじゃ無いですか? それとも、彼女はそこも手伝ってくれたけど、お父さんが連絡をしなかったんですか?」
詰問するような視線に、哲也が肩を震わせた。青ざめた唇が曖昧に動く。美葉が視線を更に鋭くすると、やっと意味のある言葉を並べ始めた。
「彼女は、沙月に連絡するようにとは言わなかった。留守番電話が入っている事も、教えてくれなかった。それは、意図的な行為だったと思うし……、その事に、気付いてもいた」
のろのろと正人の顔が持ち上がった。虚ろな視線を哲也に向けるが、焦点は合っていないように見えた。
「彼女の好意を、利用したんですよね」
その言葉に救いを見出したように、哲也は急いで言葉を紡いだ。
「沙月と正人の生活を守るためだ。社会人として生きていくのに、サポートが必要だった。彼女のお陰で研究に集中でき、サラリーを稼ぎ、地位を築く事が出来た」
「私だったらそんなの嫌です!」
美葉は正人に絡めている腕に力を込めた。
「もしも正人さんが私以外の女性の力を借りて生活や仕事を成り立たせようとしたら、それは裏切りです! 正人さんを支えるのは私。これは絶対に誰にも譲らない。……正人さんがお父さんと同じ立場になったとしたら、困ったと言って帰ってきて欲しい。自分勝手かも知れないけど、夢を捨ててでも帰ってきて欲しい。誰か他の女性の力を借りるくらいなら。私の所に帰って来てくれたら、どんなに苦労をしても、一緒にやり直します」
美葉の腕に正人が手を添えた。正人の唇が、微かに震えている。
「自分がいなくても大丈夫なお父さんを見て、お母さんは寂しかったと思います。悲しかったと思います。……裏切りに、気付いていたと思います。その行為が、お母さんの病状を悪化させた可能性はありませんか」
ハッと正人が息を飲んだ音が、耳朶を揺する。青ざめたまま視線を落とす哲也を見て、その可能性に気付いていた事を知る。
「……沙月が病んでいる事を、私は知らなかった。彼女が何も言わなかったので……」
「家族のことを気に掛けていれば、察することが出来たでしょう? 研究に没頭して、家族の存在を忘れていたんじゃ無いんですか?」
「……日本に帰ってきた時、沙月の様子に違和感を感じました。でも、それは離婚を決意した為なのだと思っていました」
不明瞭な声で、哲也が弁解を綴る。
「お母さんからのSOSだったんだと思いますよ。気付いて欲しかったんだと思います。でも、結局は見て見ぬ振りをされ、苦しい生活を続けることになった」
その弁解を、即座に切り捨てる。怒りが悲しみに入れ替わるり、人を追い詰める行為に心が疲弊していく。けれど、まだ続けなければならなかった。正人を呪縛から解放するために。
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